水燿通信とは
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341号

初夏の談山(たんざん)神社

白い蛍袋と半夏生(はんげしょう)と

 奈良に移住したとき、まっ先に行ってみたいと思ったのは談山神社だった。奈良県桜井市の多武峰(とうのみね)にあるこの神社は、神社自体も多武峰と呼ばれており、大和猿楽と深い関わりを持っているところである。学生時代、能楽に関心のあった私にとって、この談山神社とはどのような処か若い時分から大変興味のある場所だった。
 昨年の6月下旬、秘仏談峯(だんぽう)如意輪観音像が特別公開中とのことで、雨の降る気配もなかったし、この談山神社を訪れた。JRまほろば線で奈良から桜井まで行き、そこから1時間から2時間の間隔でしか走らないバスに乗って終点まで行くということで、たどり着くだけでも大変だろうと覚悟して出掛けた。だが実際は、電車の到着時間にバスの時間をある程度合わせているらしく、さして待つこともなくバスは動き出した。山中の道をひたすら上へ上へと走って20分余り、海抜490bの山また山の中にある談山神社に到着した。拍子抜けするくらい楽だった(バス降り場から神社までは少し歩かされたが)。さすがに空気は涼しく、姿は見えないがごく近いところでしきりに鶯が鳴いていた。
 ところが、入口でもらった案内パンフレットをみると、中大兄皇子と藤原鎌足が蘇我入鹿を討つ秘策をここ多武峰の山中の談い山(かたらいやま)で練り、この談合によって大化の改新という偉業が成し遂げられた、という内容が大半で、大和猿楽のことは「権殿(ごんでん)という建物内では室町時代より延年舞や能が演じられ…」とわずかに触れられているだけ、受付の人に訊ねても「サルガク?」と首を傾げるばかりだった。
 そこで能楽に関することは諦めて、蘇我入鹿殺害の謀略が行なわれたという談い山に登ってみることにした。数年前の怪我以来、歩くのに苦労している体なのだが、そこを見ておかないと後で悔しくなるような気がして、何とか行ってみたかったのだ。登り径は木で出来た階段で柵はなかったがわりあいしっかりしており、歩きにくいことはなかった。しかし径は樹々にかこまれていて細く通る人も見かけず、独りだったこともあって「こんなところで転倒したり誰かに襲われたりしても、なかなか発見されないだろうな」などと想像して、結構こわかった。携帯電話は持っていたのだが、私は使う習慣がほとんどなく、それを利用するという発想は浮かばなかった。ともかく、休み休み、15分ほどかかっただろうか、海抜566bの談い山に何とか到達できた。
 談合が行なわれたという場所には「ご相談所」と彫られた縦長で何の細工も施していない自然の石を立てた感じの碑と、談山の説明をした看板があるだけで、ほんの数人坐っただけでいっぱいになるような狭い平地だった。「中大兄皇子と藤原鎌足は、藪を掻き分けてここまで登ったのだろうか、さぞかし難儀しただろうなあ」などと思わず考えてしまった(パンフレットにあった「多武峰山中での談合[本殿裏山]」という絵図によると、彼らは家来共々烏帽子を付けふっくらと膨らんだ当時の袴をはいているのだが)。気持ちのいい風が頬を撫でた。
 径を降りるのは柵がないだけに細心の注意が必要で、ゆっくりゆっくり降りた。ようやく木々の間に神社の建物が見え隠れするところまで来た時、全山にチェロを演奏する音が聞えた。鬱蒼とした山の中に響く大音量のチェロの音は、音響設備の整った演奏会場で聴くものとはまた違った独特の味わいがあり、径の途中でしばし耳を傾けた。下に降り、その音の発生するところを探して(確か本殿だった)そこに興味本位でのこのこ入っていって演奏を聴いたりしたが、だれにも咎められることはなかった。後で知ったのだが、梅雨の時期、奈良県のあちこちの寺社などを会場に様々なジャンルの音楽を聴かせる音楽祭「ムジークフェストなら」の練習風景のひとつだったようだ。
 帰途、門前のみやげ物店でそうめん麩(?)とかいうお汁の具にするものを買ったが、その袋にはなんと「関西の日光談山神社」と印刷されていた。ここの本殿は日光東照宮造営の際のお手本になったことで有名とパンフレットにあったが、軒を貸して母屋をのっとられたようなこの命名には、何かしらほろ苦いおかしさとあわれさを感じた。
 談山神社は紅葉の名所としても知られているようだが、私が訪れた時はその季節ではないせいか観光客もほとんどなく、山全体が閑散としていた。紫陽花でも有名とのことだったが、記憶に残っていない。それよりも、バスの窓から眺めた半夏生や蛍袋の花の白さ(白いのがあるとは知らなかった)が深い緑の山の中でとても印象的だった。
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 ところで私たちは小中高校を通して、「蘇我入鹿の暴政を憂えた中大兄皇子と藤原鎌足が蘇我入鹿を討って、大化の改新の偉業を成し遂げた」というように教えられたように思うが、これは『日本書紀』に記されていることが史実として理解され、教育現場でもそのまま受け容れられているからだ。ところが歴史作家の関裕二は、藤原氏が自分たちに都合のいいように歴史を改竄して著したのが『日本書紀』なので、信じるに値しない個所が多いとみていて、それに関わる著作もいくつも出しており、蘇我入鹿は大悪人という説を一貫して否定している。以下、関裕二の説の簡単な説明をしておこう。
 蘇我氏は、「律令制度を導入し国家体制を刷新しなければ、流動化する東アジア情勢についていくことはできないと考えた」(関裕二著『大和路の謎を解く』、以下の引用も同じ)改革派だった。だが、広大な領土を保有していた物部氏にとってこの制度はありがたくないもので、巨大な閨閥関係にあった蘇我氏ともいっときは争ったりしたが、最後の最後に、国の発展のため律令制度導入を受け容れた。それを「『日本書紀』は「〈仏教を受け入れるかどうか〉という、少し違った争点にして描いた」というのだ。そして、関はそれにかかわる興味深い逸話を『大和路の謎を解く』で紹介している。
 蘇我入鹿の首塚には、飛鳥の人たちによって今でも常に野の花が手向けられている、蘇我馬子の墓といわれている石舞台にも、やはりさり気なく花が供えられている、また橿原市小綱(しょうこ)には入鹿神社があり、この小綱の人びとは「真剣に蘇我入鹿を尊敬し祀りあげている」という。しかも「小綱や近隣の曽我の集落の人たちは多武峰と仲が悪く、古来婚姻関係を結んでこなかった」ことや、橿原市のある「小学校の遠足で多武峰に行くとなると、子どもに談山神社は参拝させないという父兄がいる…それが、この地域の伝統だからだ」と語る。つまり、千数百年保たれた遺恨は、今に至るまで脈々と残っているというのだ。
 日本人は、嫌なことは何でも簡単に忘れる、忘れてすぐに眼前の事象に気を奪われるという傾向が強く、したがって歴史からは何も学ばない民族だと、私は思っていた。だがそんな日本人の中に、このように納得できないこと、理不尽に悪者にされた遺恨を決して忘れず、千数百年もの間、その悔しい想いを抱き続けている人たちがいるとは、なんとも頼もしく痛快な話ではないか。
『大和路の謎を解く』は332号で取り上げています。
102号では、吉野で歌を作っていた前登志夫の次の作品を鑑賞しています。
沢蟹の眼はひかりつつくさむらの水潜きけり多武峰の山陰
※多武峰は「たむ」、山陰は「やまほと」と読む。
(2015年7月10日発行)

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発行人 根本啓子