水燿通信とは |
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332号関裕二著『大和路の謎を解く 古代史巡礼の旅』を読む |
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ある日、書店の棚を眺めていた私は、1冊の本の背表紙に目がいった。 |
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『大和路の謎を解く 古代史巡礼の旅』。魅力的なタイトルなので早速買い求め、読んでみた。 |
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著者関裕二は、若い時分から仏教美術に関心があって奈良に通いつめているうちに、日本古代史を研究することになったとのことで、幾冊もの著書を有する歴史作家である。 |
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本著の語り口はところどころにちょっとしたおしゃべりなどが入ったりして、結構軽い。しかし大きなお寺や有名な仏像でも、著者がいいと思えないと感じたら、率直にそう書く。また歴史上の常識、定説なるものも、自分が納得できないことはなぜそうなのかよく調べ、実証的に――そして時には何度も通いつめた自らの感性を信じて――自説を主張する(つまり従来の説をはっきり否定する)。率直で正直で「いかなる権威も目じゃない」といった著者の真摯さが文全体から伝わってくるから、読者にはとても小気味よい。何よりも、ヤマトが好きでたまらないという著者の熱い想いが本全体に溢れているのがいい。 |
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のっけから、ヤマトに日本人は特別な意味を見出していて、懐かしくて仕方のない場所、帰りたくて帰りたくてたまらないところ、古き良き時代の日本そのものだった、というヤマト賛美から始まる。そして日本人の心の故郷を自分の足で歩いてみよう、大和路の聖地、霊地を訪ねてみようと語りかける。ただし、ヤマトならどこでもいいというわけではなく、古代人が強い郷愁を覚えていた盆地南部、明日香一帯のヤマトだ、という条件付きで。 |
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そしてこの視点から、大和路の謎が解き明かされてゆく。 |
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古代史を解き明かすコツは、藤原不比等の政権下でまとめられた『日本書紀』の記事を鵜呑みにせず「蘇我入鹿は大悪人だ」という考えも捨て、「改革派の親蘇我派」と「反動勢力としての反蘇我派」という視点で見つめ直すことだと語る。 |
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また、古代の勢力争いによってどれほどの血が流されたかを語り、その争いの中で翻弄された様々な人間像を浮かびあがらせている。たとえば光明皇后。本著における皇后は、父藤原不比等をはじめとした彼女を取り巻く身近な人間同士の政争の中で苦悩し、聖武天皇共々、藤原氏の悪行を当事者のように感じ、たえず“何かに怯え、「善行を積みますから罪をお許し下さい」と唱え続けていた”として、東大寺建立の真の意味はこのことにあったのだと述べる。新鮮な視点だ。 |
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東大寺に加え、法隆寺、唐招提寺、薬師寺、興福寺、元興寺などの寺を取り上げて、寺相互間の関連を念頭に置きながら、それらの寺の建立の意味(策謀を練って権力を手に入れた側が、負かした相手の祟りを怖れ、その恨みを鎮魂するために建てた寺のなんと多いことか)やその後の今日に至る歴史を考え、各寺の現在の在り方を率直に評価する。元興寺は知名度の低い寺だが、この寺は歴史的に大変重要な意味を有しているとのこと。また平城京遷都後、飛鳥を懐かしむ人びとによって、この寺の境内だった「ならまち」が、平城の明日香(ならのあすか)と呼ばれ愛されたことを、この地に対する愛惜を込めて、しみじみと綴っている。 |
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山辺の道は、今では単なる田舎道という感じだが、ここは古代の大動脈であり、ヤマト黎明期の中心であったところだ。だから自分の足でまめに歩けば、日本を代表する聖地など色々なものに出会えるし、何よりも山の美しさを感じることができる、“大和路の本当の「味」を知る”と著者は語る。 |
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酷道と呼びたくなるような恐ろしい国道のある葛城も然り。謎の豪族・葛城氏や、謎めく神々が鎮座し、神話の舞台にもなっているところであるが、著者は“大和路でもっとも景色の良い場所は……二上山から葛城古道にかけての一帯ではないだろうか”と、賛辞を惜しまない。また、かつて巨大な勢力が存在していた葛城が七世紀以降零落し、反骨の土地に変化(「へんげ」とわざわざルビを振っている)していく様に触れたあたりは、千数百年保たれた集落ごとの遺恨が、未だに脈々と残っている実例を示したりもして、語り口を一層面白くしている。 |
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本著の最終章の最後に設けた小見出し「天皇とは何かをまじめに考える」「ヤマトで育まれた神としての天皇」で、著者は“日本人はヤマト建国以来、王(天皇)はどのようにあるべきかを、模索し続けてきたのだ。また王家も、迷い続け、変化し続けてきた。……ヤマトを旅することによって、ようやくこのような「歴史を動かしてきた原理」に気付かされたのだ。……日本の歴史、日本人の信仰の根本は、すべて大和路に眠っているのだ”と結んでいる。いささか駆け足的な記述ながら(著者にはこれに関して厖大な蓄積があるから、短くまとめるのは大変だったのだろう)、重要な内容を含んでいるところである。 |
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全体として、古代の人たちが今の私たちと同じように、嘆いたり悲しんだり苦しんだり、また策を弄して人を蹴落とし権力を握ったり、それ故に陥れられたものの祟りを怖れたり、逆に敗れた側は恨みを秘かに肥らせながら生きていた人間たちだったことを、巧みに浮かび上がらせている。特にヤマトの山々に棲みつく、恨みを抱き悲しみ嘆く魑魅魍魎に深い心寄せを示し、彼らを祀り拝み慰めれば、彼らは必ずやヤマトの雄大な景色を見せてくれると語る。 |
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読者の中には、寺や仏像・人物などに対する著者の評価や見方に、必ずしも同意できない部分もあるかもしれない。しかし本著を読んだら、きっとヤマトに興味を抱き、そして好きになることだろう。 |
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ところで私は奈良に移住してきて日が浅いが、仏像を見ることは若い時分から好きだったこともあって、この本には個人的な思い入れや共感を抱いたりする個所も少なからずあった。それらについて少し述べてみたい。 |
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たとえば薬師寺の再建に関して。私は高校の修学旅行でここを訪れ東塔の冷たいスッキリした感じが気に入り、大学時代に再訪してますますこの寺が好きになった。ところが最近、半世紀ぶりにこの寺を訪れてみて、まるで様相が違っているのに驚いてしまった。かつて東塔がありその外は松の木(と記憶していたのだが)が一本と西塔の礎石があるだけでがらんとしていたのに(それがなんともよかった)、今の薬師寺は鮮やかな朱色に塗られた金堂、西塔が出来、回廊も整備され、しかもあの東塔は再建中で工事中のカバーで覆われていた。何もかも新しくあまりにもキラキラしすぎていて、今から数百年後ならいざ知らず、今の薬師寺はどうにもいただけない。“「歴史の重み」を考えるとき、「なにもない」ことにも、意味が隠されているように思えてならない”という著者の言に、心から共感する。 |
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興福寺の国宝館は魅力的な作品がたくさんあって私のよく訪れるところだ。著者は、この国宝館に所蔵展示されている山田寺仏頭がなぜ首だけ残って興福寺にあるのかについて、興福寺の僧兵が山田寺の本尊を奪って興福寺に持ち去ったことやその後のこの像のたどった無惨な歴史を説明し、“興福寺のホームぺージには、山田寺の仏頭は、「迎えられた」と書かれ、興福寺の貫首は雑誌の中で、「移された」と述べ、「盗んできた事実」を否定し、何の反省もしていない”と厳しく批判している。私自身、国宝館の売店で扱っている興福寺の仏像を紹介する本などで、この仏頭のことはあまり大きく取り上げたくないといった雰囲気のあるのが感じられ、気になっている。しかし歴史をひもとけば山田寺から強奪したものであることはすぐわかるのだし、この作品が国宝館の魅力を大きくしていることも事実である。いっそ奪ったことを明らかにしたほうが潔いのではと、私は思っている。 |
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そして元興寺。この寺のある「ならまち」は私の住まいから目と鼻の距離にあり、私にとって身近な寺だ。現在の元興寺境内の奥には2500体ほどの石仏や地蔵仏がさり気なく置かれている。形の崩れかかったもの、一部欠けているもの、倒れかかっているものなどもあり、草木に半ば埋もれているものもあるが、桔梗や萩の季節にはそれらの花に覆われて、なかなか風情がある。私にとっての元興寺はそういう寺だった。著者はこの元興寺について、寺は10ー11世紀以降次第に廃れ、昭和に入って建造物の修理が行なわれたりしたが、長く「鬼の寺」と呼ばれ、“今から四十年近く前、私が最初に訪れたときも、築地塀は崩れかかり、夕暮れ時ともなると、それこそ魑魅魍魎が現れそうな、妖気が漂っていた”と回想している。この部分を読んで、妖気の漂う元興寺も是非知りたかったなあと、残念に思った。 |
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「ならまち」は第二次世界大戦での空襲を受けることもなく古い民家が残っていた地域だが、町並みを保存する運動も始まって格子戸の家が多く、今ではしゃれたお店も出来て、散策するのに愉しい場所となっている。一帯には石仏龕のある十輪院(7月半ばに訪れた時は、池に大輪の見事な蓮が咲いていた)や、祟ることで有名な祭神のいる御霊神社などもある。 |
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※『大和路の謎を解く 古代史巡礼の旅』(2014年3月ポプラ社刊 780円+税) |
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(2014年11月10日発行) |
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発行人 根本啓子 |