水燿通信とは |
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102号沢蟹の眼はひかりつつくさむらの 水潜きけり多武峰の山陰前登志夫(『霊異記』1972年刊) |
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沢蟹のいるところであるから、きれいな水の流れているところなのだろう。その水に濡れながら沢蟹の眼が光っている。その眼ははるかの昔からそのように光り、世の転変を見てきたのではないだろうか。そして中世の代にもやはり同じように光りつつ、大和猿楽の参勤の様などをみたのではなかろうか。 |
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この歌の沢蟹に、私はそのような悠久性を感じてならない。それはひとつには、清洌な水を潜いている沢蟹の眼の光りが時間の流れを超越したものを感じさせるからであり、もうひとつには多武峰(とうのみね)の語が用いられているからである。 |
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多武峰は奈良盆地東南部に位置する山であり、山上にある談山神社は、神仏混淆の中世には天台宗の妙楽寺と一体で、神社それ自体も多武峰と呼ばれることが多かった。ここは大和猿楽と深い関わりを持っており、特に観世、宝生両座にとっては、発祥の地といってもいい深い縁のあるところであった。 |
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表章「百々裏話」(「銕仙」153〜161号所収)によれば、この多武峰への参勤は、興福寺薪能、春日若宮祭と共に大和猿楽の三大義務ともいうべき重要なことだったという。ここで演じられる猿楽能は、本物の甲冑を用い生きた馬に乗って演ずるといった、野外劇を思わせる演出をしたり、四座立合(観世、宝生、今春、金剛の猿楽四座の競演)の「翁」を演じるなどの特色を持っており、また、ここは新作能の発表の場としても有名であったという。この四座参勤は中絶・復活を繰り返し、後には二座交代になりながらも、1500年頃まで続いたようである。 |
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多武峰にいだかれた奥深いひそやかな山陰の草々を濡らす小さな流れ、その清冽な水を潜きながら、沢蟹の光る眼は初源の頃の能の姿、四座の参勤の様、興福寺宗徒によるたび重なる襲撃や堂宇焼き討ちなどを、じっと映してきたのではないだろうか。 |
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〈沢蟹の〉の歌に接する度に、私はそのような想いを抱き、沢蟹の光る眼にはるかな時の流れとある懐かしさと、そして一種の畏れを感じるのである。 |
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※「銕仙」(てっせん) |
| 観世銕之丞家を中心とする能の会の公演パンフレット。現在の事情は詳らかでないが、私が能に親しんでいた昭和40年代当時は、毎回充実した内容のものを出していた。尚、作家三島由紀夫氏はあの当時、この会の特別会員(正面の自分で決めた座席を毎回確保されている)で、公演の時何度か夫人と一緒の氏をみかけたことがある。 |
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(1995年7月1日発行) |
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発行人 根本啓子 |