水燿通信とは |
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264号『層雲自由律』100号から |
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中沢新一はその著『アースダイバー』(講談社刊)のなかで、次のように述べている。 |
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西欧の橋は、川で隔てられたふたつの堅固な世界のあいだをつないでいる。…ところが日本の橋は…華奢な木造橋がほとんどだったから、橋はすこしも永続する堅固な建造物という印象をもたなかった。洪水がくればたやすく流されるし、戦争でもはじまれば、橋板がはずされてただの棒杭と化してしまう。日本の橋はじつにはかない存在だった。橋を描いた絵を見てみると、橋のこちら側にはたしかに人間の住む世界があるけれど、橋の向こう側となると、雲や霞がたなびいていて、橋はいつしか夢の世界に消え入ってしまうように描かれているではないか。…橋は文字どおり「端」だった。つまり、橋はこの世とあの世との境界にかけられたエッジとして、いつしか無のなかに消え入ってしまうような無常感を漂わせている存在だった。 |
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この俳句に描かれている橋も、きわめて日本的なイメージを持つ橋になっている。作者はわたりきった橋をもう一度戻ることが出来るのだろうか。何か後悔にも似た思いをこめて振り返っている作者が浮かぶ。高齢の作者であろう。 |
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人生にさほどの意味を置いていなくても、生きていく上では避けられないことがいくつもあるものだ。それをいささかシニカルにユーモアをこめて表現している。うまいなあと思う。この作者は、定型の俳人が大部分の同人誌『豈』(あに)の会員でもあるが、そこでは作者の句は川柳に近いものだと思われているらしい。 |
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ミシュレ著『海』(藤原書店刊)によると、鯨はその体内に多くの富を蓄積しており、家族に対する愛情も深いが、母は一頭しか子を持てず、きわめて無防備かつ無害な生物であり、しかもそのわりには敵が多いという。この説明を待つまでもなく、鯨にはその大きさ、豊かさ、やさしさとともに何か独特の悲哀感が漂っているように感じられる。大江健三郎の『洪水はわが魂に及び』のなかでも、鯨はこの世でもっともよきものとしてとらえられていた。 |
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永い夢をみていたが、その夢の中で鯨が鳴いていたというのだ。現実のことというよりも、何か別の世の出来事のような感じがする。鯨の鳴き声もここでは悲痛な感じがする。ひどくせつなく哀しい雰囲気の漂う作品だ。 |
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私はかつて、松本たかしの〈うつし世の月を眞上の踊りかな〉の句を採り上げ「踊る人々も月も見下ろせる視点を感じる。おそらくそれは〈この世以外の視点〉とでもいうべきものだろう」と述べたことがあるが(「水燿通信」69号 1993年9月20日発行)、この句にも同様の視点を感じる。しんとした澄み切った感じの作品だ。 |
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人を待つこともなくなって美しい夕日だ | にぶやけんたり |
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我々の目にものごとがもっとも美しく見えるのは、どんなときなのだろうか。思うに、心の中に様々な雑念があるときには、我々の目にはなにも美しいものは映らないのではないか。また逆に美しいものを見たいという執念があまり強かったりしても、目的とするようなものは案外目に入らないのではないかと思う。かえって何も求めなくなった静謐な心――おそらくそれは老年のあるべき姿を静かに悟った心境とでもいうべきか――になったとき、森羅万象はその一番美しい姿を顕すのではないか……、この句はそんなことを感じさせる。 |
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いずれの句も、自由律俳誌『層雲自由律』100号特大号(2009年4月)の作品自選集から引用した。これらの作品は、全体として何も死のことには触れていないにも拘らず、死が背景に感じられたり、生死の域を超越したような作品になっている。いずれの句も味わいのある作品ばかりで、長く人生を生きてきた高齢者ならではの想い、視点が感じられる。 |
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季語定型俳句の隆盛の一方で、自由律俳句のほうはこの『層雲自由律』も『層雲』も会員の高齢化がすすみ(『海紅』その他の自由律俳句結社の詳細は私には不明)、後継者も育たず悩んでいる。現にこの『層雲自由律』では、主宰者の伊藤完吾氏が奥さんの介護と自らの体力の落ち込みで101号のあとしばらく休刊することになったという。自由律俳句自体に、現在受け入れられにくい理由が内在しているのかどうかについては、私にはわからない。しかしここで採り上げたような作品に接すると、自由律俳句がこのまま衰退していいのか、種田山頭火、尾崎放哉などの名を残したのみの歴史で終わっていいのかと残念に思われてならない。
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〈今月の1句〉 |
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荒廃の風格古寺にきている(放哉ゆかり常高寺) | 小玉石水 |
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福井県小浜市にある常高寺は、尾崎放哉が大正14年5月中旬から7月にかけての2ヶ月足らずのあいだだが寺男として住んだところである。この寺は昭和39年に火災に遭い以来無住寺になっていたが、その荒廃した様を川本三郎の『夢の日だまり』で読んだりしたこともあって、私は単に放哉に対する関心からだけでなく、ぜひこの寺を訪れてみたいとずっと思っていた。15年近く前、ようやくその願いが叶ったが、そのときは新住職が住み始めて寺の再建に非常な努力をされている最中で、庫裏や書院はすでに再建されており、荒廃のイメージは殆どなくなっていた。しかし、放哉が時期的にすでに硬くなっていた筍をとって毎日食べていたという竹やぶはまだ残っており、本堂も建立されておらずその跡地が広がっていたりして、昔を偲ぶよすがはあった。また、新築の書院で現地の放哉研究家(掲句の作者児玉氏に教えていただいた)のお話を伺ったり、書院に隣接された放哉関係の展示室を拝見することもできたりして、ゆたかないい時間を持つことが出来た。そんなこともあって、前掲句は私には見過ごすことの出来ない惹かれる作品となっている。『層雲自由律』100号に収録。(常高寺に関しては「水燿通信」109号で取り上げています) |
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(2009年11月10日発行) |
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発行人 根本啓子 |