水燿通信とは
目次

109号

浪音淋しく

小浜常高寺を訪う

 自由律俳句の作家尾崎放哉がわずか2ヶ月足らずの短い期間とはいえ寺男として住んだ福井県小浜市の常高寺は、私がいつか訪れてみたいと長い間思い続けてきたところだ。殊の外暑さの厳しかった今年の夏がすぎさわやかな秋になると、この思いは又頭をもたげてきた。そして遂に、10月はじめ、長年の夢が実現することになった。
 東京から東海道新幹線、北陸本線、小浜線と乗り継いで小浜駅についたのは、午後3時少し前、あいにくの雨の天気だったが、駅を出てすぐ私の目に映ったのはこぎれいで感じの良い町並みだった。小浜市には寺が多く、周辺地域を含めると貴重な文化財などを有する名刹、古刹も数多くあるらしい。だが私の関心はもっぱら常高寺であり、それ以外には海を近くで眺められれば十分というものであった。
 ホテルに荷物を置くと、早速常高寺に向かった。時間的に余裕があったので、寺に直行するのではなく、地図を頼りに遠回りになるが海沿いの道を通って行くことにした。町のメイン・ストリートともいうべき道を海に向かって歩いた。道路は両側にアーケードの付いた歩道を備えてあり、こざっぱりとした商店が軒を連ねている。魚屋の多いのが目につく。どのお店も申し合わせたように店頭に小鯛やイカなどを下げて干している。他には若狭塗りやめのう細工、土産物店も結構ある。だがシーズン・オフのせいか人通りはいたって少ない。物音もしない。有線放送や宣伝マイクの類もないし、客を呼び込む店の人の声などもない。町全体がしんとしている。通りと時々交叉する横道を覗くと格子戸の古い家が続く落ち着いた町並みが垣間見られるが、ここにも人影は殆どない。
 15分も歩くともう海だ。道路よりも一段高くなった海沿いの散歩道を歩く。ゆったり歩ける広さのきれいな道だ。小浜市の花は椿なのだろうか、ところどころに様々な種類の椿のレリーフがあり歩道を飾っている。
 しばらく歩いたところで左に曲がる。その道を突き当たったところが常高寺だ。地図で見るとそれなりの距離がありそうなのに、散歩道から寺の石段と山門がはっきり見える。地方都市の規模は意外に小さい。
 荻原井泉水著『放哉という男』(大法輪閣)では、放哉がはじめて常高寺を訪れた時の様子を次のように描写している。
 禅宗の大寺らしい、ちょっと厳めしい山門があって、急な石段がついている。──「かなり山の上だな」と放哉は感じながら上って行った。その石段の中段を汽車のレールが横断している。そこで一休みして、またエンヤラヤと上るのだ。寺の用事に、毎日この石段を上り下りするのかと思うと、いささかまいりそうにも思われたが、人里離れているらしいことと、海に近いということが第一に放哉の気に入った。
 石段の上の門からは、小浜一帯の海がひろびろと眺められた。彼が神戸で見ていた内海とはちがう、日本海らしい奥行と深さをもった海だった。
 ところが実際に行ってみると、短い石段があり(数えてみたら38段あった)登りきったところに小浜線が走っていて、それを越えると直ぐ山門になっていた。そして海は、境内から寺の前の家々の間にわずかに見え隠れしているだけだ(おそらく放哉の居た頃よりは家が多くなっているだろうが)。その海にしても小浜湾内の岬が左右から幾重にも突き出している海で、地平線がはるばると広がっているような外海ではない。
 井泉水は実際は常高寺を訪れていないのではないか。大正4年の小浜町誌の原稿では当時の常高寺を「山門高ク聳エテ海ニ面シ前門ニ呑海関ノ扁額ヲ掲ゲ…、山腹ニ登レバ眺望亦絶佳ニシテ…」と伝えているが、そのあたりを参考にし想像も交えながら書いたのではないか。そうとでも考えなければ説明のつかない、実際と異なる記述である。放哉の俳句の師で晩年の放哉の経済的支援者でもあり、放哉のことを最もよく知る人といわれている井泉水にしてこんな有様だから驚く。
 さて、山門を潜ってみるとすぐ右手に放哉句碑があり常高寺に間違いないと思われた。しかし、石段をはじめ色々なものがイメージしていたものとあまりにも違うたたずまいなので、戸惑いを禁じ得なかった。あるいはもっと上の方に行けば本当の常高寺があるのではとも思いさらに上に登ってみると、国道を挟んで同寺墓所に至ってしまった。ここには常高寺を建立した常高院(信長の妹お市の方の次女。淀君の妹でもあり、小浜藩主京極高次の妻となった)が祠られている。雨に濡れて滑り易くなった石段を何段も登ると、4メートルもあろうかという立派な宝篋印塔があり、その墓所からは小浜の海がよく見えた。 再び境内に戻り、雨の中をしばらく散策した。私たちが寺にいる間、訪れる人はひとりもいなかった。
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 今回の旅行では、常高寺を訪れる他になんとか実現したいと思っていたことがもう一つあった。放哉研究家小玉石水氏に“小浜を訪れたなら是非この人に会うといい”と教えられていた伊藤一樹(一円)氏に会うことである。
 伊藤氏は長野県出身。昭和20年転勤で当地にやって来、同55年定年退職、その後常高寺住職の隠居所である翠巌軒に住み、〈背を汽車通る草ひく顔をあげず 放哉〉の句そのままの生活を25年間も続けたという。その間に尾崎放哉という俳人のことを知って句碑を建てたいと強く願うようになり、また荒れ放題の寺をなんとかしたいとも思い続けてきた。縁あって平成2年に同寺に住むことになった新住職は、寺の再建に向けて大変な努力をされ、最近書院の再建が実現、さらに本堂再建に向けて運動中という。つまり常高寺は現在は無住寺でなくなった訳である。
 山門脇の句碑は、伊藤氏の長年の願いと努力が実って平成4年建立が実現した。氏ははじめ〈背を汽車通る草ひく顔をあげず〉の句にしたいと思ったが放哉の直筆が無いということで断念、小浜で作られた句のうち〈浪音淋しく三味やめさせて居る〉の直筆が放哉の故郷鳥取市の図書館に所蔵されていることを聞いて同館長にそのコピーを依頼し、ようやく完成したという。
 この句は放哉の名句として取り上げられることは殆どないが、それは三丁町(柳町、漁師町、寺町の三つから成る小浜の旧遊郭)を知らないからであって、三丁町を知る者には味わい深い名句と感じられると伊藤氏は語る。三丁町にある料亭のおかみさんの話によると、放哉はその料亭のおじいさんと仲良くなってよく遊びに行った。場所柄三味線の音が聞こえて来た。その時ザザーと波の音が聞こえてき、それに耳を傾けたくなった放哉は三味線を止めてもらった……、ということらしい。
 以前「遠くへ行きたい」というテレビ番組があった。そのシリーズの取材で自由律俳句の研究家上田都史氏が俳優の渡辺文雄氏と常高寺を訪れたことがあったが、上田氏はその著書『放哉・転々漂泊』の中で、小浜を訪れ千本格子の町に立ってみて、それまで顧ることのなかった〈浪音〉の句に対する理解や認識がかわったと述べている。
 〈浪音〉の句碑は、三角形の上部と向かって左側の下部を少し切った形をしている自然石で作られている。横から見るとあまり厚みがなく、特に上の方は薄く先端がやや前面に湾曲している。また現在は消えてしまったが建立した当時は斜めに何本か白い線が入っていた。それは意図したものではなかったのだが波をかたどったように見え、関係者はその偶然におおいに喜んだという。
 昭和39年に山門が半焼した事件に関しては、伊藤氏はその時現場に居合わせていたとのこと。山門を入って右側にある建物の階下の2疂間に住んでいた92歳のおばあさんのあんかの失火から火災になり、気がついた時にはもう火の海でおばあさんを助けようにも助ける術もなく焼死させてしまった、その火で山門も焼けたという生々しい話も伺った。
 放哉の作品に〈二階から下りて来てひるめしにする〉というのがあって、この二階とは寺の何処か研究者の間で色々な説があるが、伊藤氏の考えでは庫裏に続く二階建ての建物と思われるとのこと。戦後ここには戦争で住む所を無くした3世帯が住んでいた由。
 また、最近放哉から西田天香(一燈園の創設者。通信107号参照)に宛てた大正13年1月10日付の手紙が発見され、放哉が小浜に来る前に舞鶴に居た(4ヶ月以内)事実が判明したこと(このことを調べるために伊藤氏は舞鶴まで出向かれたという)、放哉終焉の地となった小豆島の南郷庵跡地に、平成4年同庵を復元した放哉記念館ができたこと、など、放哉に関する最新の情報も聞かせてもらえた。
 書院の隣の展示室には伊藤氏が苦労して集められた放哉関係の資料もあり、その説明もしていただいた。短冊や色紙類は放哉の句として有名なものが多かったが、中に〈波打つや山は遥に今年哉〉という凡庸な句の色紙があったのがおかしかった。定型の句を作っていた時代の作品だろうが、私には初見の句であった(一昨年出版された伊藤完吾・小玉石水編『決定版 尾崎放哉全句集』にも収録されていない)。
 現在は放哉の居た頃とは比べものにならないわずかな広さになってしまったが、竹藪のある場所(当時寺には収入が無かったので、放哉は毎日々々固くなった竹の子を食べていた)なども教えていただいた。
 そうこうしているうちに、短い秋の日も暮れてきた。寺を辞する頃合かと思い始めた時、伊藤氏が「放哉関係のものであげたいものがあるから家に寄って貰えないか」と言われ、寺の近くにある後瀬書房(後瀬山は常高寺の背後にある山の名)という郷土史誌販売店を兼ねるご自宅に寄せてもらった。色々な放哉関係の資料を見たり小豆島の放哉を歌にした「春の山のうしろから」というテープを聴いたりした。「小浜・常高寺その他 俳人尾崎放哉──と、その最近情報」と題された冊子をいただいて伊藤氏のお宅を退出した時は7時も回っていた。地方都市の町並みは暗く足元が覚束ない程だったが、私の心の中は満足感で満たされていた。
(1995年11月15日発行)

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発行人 根本啓子