水燿通信とは
目次

69号

うつし世の月を真上の踊りかな

松本たかし

 「魚が出てきた日」という映画がある。事故で核弾頭がスペイン沖に落ちる。その探索調査をする一行が、観光客を装って落下地点近くの島に上陸する。ところが一行の奇抜な服装が人目を引いて、島は一躍有名な観光地と化し、観光客がわんさと押しかけてくる。彼らは連日馬鹿騒ぎをくり返し、調査隊の行動にも好奇の目を向け、ために探索調査は困難を極める。そうこうしているうちに、漁に出てくだんの放射能を封じ込んだ物体を拾ってきた猟師は、その処置に困り、島の水源地にそれを投げ込む。そしてある日、大量の魚が死んで浮かび上がる。島の人々に確実に迫りつつある死。だが人々は何も知らず踊り狂い、渇きを癒すために水を飲む。カメラはこれらの人々を頭上から冷徹に映し出し、やがてその景は徐々に遠ざかり、点となり、そしてついには消えてしまう――それは実に恐ろしいラストシーンであった。
 冒頭の句に初めて接したとき、私はとっさにこのシーンを思い出し、ある怖さを感じた。おそらく作者は踊る人々の真近に居て、月を見上げながらこの句を作ったのだろう。だが実際はどうであれ、私はこの句に、踊る人々も月も見下ろせる視点を感じてならない。それはおそらく「この世以外の視点」とでもいうべきものだろう。そしてこれはもちろん〈うつし世〉という用語に起因している。この語ゆえに、一見ごく普通の写生句といった感じの句が、現在の時空を超越した広がりを持つ、一種の凄みを備えた味わい深い作品に変貌する。
 松本たかしの作品には、このようにこの世以外のものを感じさせてくれるような句がいくつもある。彼のこういった傾向は、彼が夢・死の世界を現実の世界以上にいきいきと描いてみせる能の世界に深く接した(たかしの父松本長は宝生流の能楽師であった)ということが関わっていると私は思っている。
 ところで朝日新聞朝刊に、詩人大岡信による「折々のうた」という詩歌鑑賞の欄が毎日連載されているが、去る8月14日の分は、前掲の文で述べたのと類似の視点で俳句を味わったものであった。以下にその全体を紹介しておこう。
手をあげて此世の友は来りけり  三橋敏雄
 『長濤』(平五)所収。「此世の友」という表現は異様に印象的である。反射的に「あの世」の語を思い出させるから。実際、作者はここで、「あの世」の友らのことを思っているのである。それはたとえば「立ち目つむる戦亡の友よ夏の空」という句に現れる友人だろう。彼らを深く心に思っている時、「やあ」と手をあげて目の前に友人が立つ。はっと我に還って思う、ああここに「此世の友が」と。
(1993年9月20日発行)

※無断転載・複製・引用お断りします。
発行人 根本啓子