後南朝関係の記事




informationお知らせ ここには、社会心理学とは関係なく、私が趣味として関心をもっている「後南朝」(ごなんちょう)について書いた記事を紹介してあります。後南朝とは、一般に、1392(元中9、明徳3)年以降の南朝のことを言います。88代後嵯峨天皇が1272(文永9)年に崩御されたあと、皇位継承を巡って、89代後深草天皇と90代亀山天皇が対立されました。そして、それを契機に、後深草天皇の流れである持明院統(北朝)と亀山天皇の流れである大覚寺統(南朝)の2つの皇統が生まれることになりました。96代後醍醐天皇は、1333(元弘3、正慶2)年にいわゆる建武の新政を樹立されましたが、武士への論功行賞をあまり重視されませんでした。そのため、後醍醐天皇に忠誠を尽くしていた足利尊氏も反旗を翻し、1336(延元元、建武3)年に室町幕府を開きました。これは北朝方の天皇をいただいた幕府でした。

 そして、1392年になると、両統の迭立(てつりつ)(持明院統と大覚寺統の双方から交互に天皇を即位させること)を主な条件とする南北朝の合一が図られました。しかし、北朝側がそれを反故(ほご)にしたため、北朝と南朝との争いは室町時代になっても依然として収まりませんでした。

 結果として、その後は、北朝の世の中になりました。しかし、室町時代中期まで、南朝方の皇子たちが回天を目指していたことは事実で、南朝最後の皇子、あるいは天皇と言えるのが、尊秀王(自天皇:じてんのう)のようです。自天皇は、北朝方の襲撃(長禄の変)によって、1457(長禄元)年、18歳でこの世を去られました。
 知り合いの宇津木氏の倉から、自天皇にまつわると思われる神像が見つかり、また、『見聞諸家紋』という史料の宇津木氏に関する記述に基づいて以下のような記事を書きました。日本史の教科書には何の記述もない、南朝最後の天皇とも言える「自天皇」の存在を多くの方々に知っていただければ幸いです。


 記事の入手が困難な方は、メールにてご一報下さい。

 @もう一つの「太平記」:
南朝最後の天皇「自天皇」のナゾ
月刊『現代』 1991年2月号 pp. 292-307 講談社 
 A青梅地方宇津木会:自天皇と宇津木氏の縁 『歴史と旅』 1994年7月号 pp. 322-325 秋田書店
 B尊義王と山鳴り 『歴史と旅』 1992年6月号 pp. 196-197 秋田書店
 C南帝自天皇陵と河野宮墓 『歴史と旅』 1994年1月号 pp. 320-323 秋田書店


profile





ナビゲーショ