仕事とサイトの管理に追われる親愛なる岡本大兄へ:
3月2日木曜日、シカゴの領事館に更新パスポートを取りに行くついでに、同日夜のシカゴ交響楽団の定期演奏会に行ってきました。(羨ましがらせるわけではないですが・・というのはウソ。これを見て貴兄が羨まないはずはない・・・。)
同夜のプログラムはモーツァルトのピアノ協奏曲25番とマーラーの大作、交響曲第五番。指揮は目下シカゴの首席指揮者のダニアエウ・バレンボイムで、モーツァルトのピアノも彼が指揮と一人二役で弾くというもの。
まずは軽くモーツァルトから始まったコンサートですが、曲が終わると同時にスタンディングオベーションが出るくらい、シカゴの観客は熱狂してバレンボイムに賞賛を送っていました。でも小生には若干平板で訴えるものに欠ける演奏に思えました。そもそも、指揮をしながらピアノを弾くということのために、反射板を完全に取り除いたピアノを、指揮者が客席に背中を向けて弾けるように、鍵盤を客席に向けて配置しているというのに無理があったように思います。
ピアノという楽器はヨーロッパの宮廷や館の室内で弾いてちょうど良いくらいにデザインされており、2千人近い聴衆が入る巨大なコンサートホールで弾くようには設計されていないわけです。それでもスタインウェイのフルコンサートグランドなどは、極限的にサイズを大きくし、反響板をつけたり弦を重ねて張るなどして、極力大音響をだせるように工夫されているわけです。それを反響板をはずしてステージの天井に向かって音を発散させているわけですから、これでは巨大なシカゴシンフォニーホールの客席に十分響く訳が無い。
確かにバレンボイムも右手でピアノを引きながら左手で指揮をするなど、曲芸のような真似をしてパフォーマンスしていましたが、これくらい優秀なオケなら、指揮者が拍子なんて振らなくてもモーツァルトは弾けるわけですね。弦のプルト数をかなり減らして室内楽のようにしていたからなおさらです。叙情楽章の真ん中で突然木管楽器が転調して信号音を発するところなんかはちょっと聞かせていましたが、終楽章のリズムなどもちょっと重く、ピアノの音が天井に抜けてぼけていることもあって、あのモーツァルト特有の天衣無縫な闊達な音楽にはなっていなかったのが惜しまれます。
さて、前座はこのくらいにして、いよいよマーラーの5番。これは言わずと知れた(という表現が結構オタクですが)シカゴ交響楽団の十八番です。世界最高のブラスを持つと言われるこの楽団の実力がもっとも発揮される交響曲の一つなのは間違い無いでしょう。小生は残念ながら実演では聴いていませんが、ゲオルグ・ショルティがシカゴの常任指揮者だった時、東京文化会館でこの曲を指揮して、会場中が地響きを立てて揺るぐほどの大音響で客席を圧倒したという話は有名です。
さて昨晩の演奏ですが、結論から言うと、すばらしく感動する演奏で満足しました。客席も大音響で最後の音が鳴るのと同時に総立ちでブラボーの合唱。強烈にエキサイティングしていました。確かに凄い迫力で、興奮させられました。
それにバレンボイムですが、最近ワーグナーを振る機会が多いのと関係があるかどうかしりませんが、大変ダイナミックでロマンチックな指揮でした。何しろ(彼の指揮すがたを見るのは初めてでしたが)、小澤とバーンスタインと小林研一郎の指揮を足して3で割って、お腹を2倍に膨らませたっていう感じで、とにかく新体操のようによく動く。汗をふきふき棒を振り、弦の前の方の人には汗の雨が降り注ぐっていう感じでした。
解釈も第一楽章の葬送行進曲から、かなり粘るテンポで緩急の変化を付けて、まあフルトヴェングラーかメンゲルベルグかっていう濃厚な表情の演奏でした(もっともフルトヴェングラーにはマーラーはほとんどなかったでしたね。「さすらう若人の歌」くらいでしたっけ?)。冒頭の弦の主題が静かに入ってくるところで、思いっきり溜めが入って物々しさを醸し出していましたし、有名な4楽章の弦楽アダージョでは変幻自在にテンポをゆらしていて、ピアノのところでは非常にテンポを落として静謐な雰囲気、盛り上がってくるとどんどんテンポを上げて一気に頂点に持っていくといった演奏でした。まるでトリスタンの前奏曲の様な感じで・・。
面白かったのは2楽章のホルンのソロが続いたあと、静かな中から弦楽がピッチカートで(オーストリアの田舎のレントラー風?)ワルツを奏でるところで、ビオラと第二ヴァイオリンにウィーンフィルばりの跳躍リズム(「ブン・チャッ・チャッ」のチャッ・チャッの部分をちょっとつんのめって弾く)を求めていたところです。でもアメリカのオケではなかなかこれが合わないんだな。趣旨は非常に良く分かったのだけど。
あと、最後の盛り上げはすごかったです。終楽章のコーダで2楽章の終わりにもでてきたトランペットの輝かしいファンファーレが最強奏でもどってくるあたりの、テンポのたたみ込み方といい、シカゴの世界一の金管のパワーを全開にしてぶつけてくるところといい、凄いものがありました。ただこの曲、最後の終わり方が急にプレストにテンポを上げて、チャカチャカって軽くなって、あっというまに終わるっていう感じで、ちょっとオーケストレーションに無理があるわけです。その点、最後の小節の音響が薄くなってしまう第一交響曲「巨人」の終わり方と同じで、なぜかマーラーの特徴でもあるようです。(彼は根っからの悲観主義者でしたから、もしかしたらこうした完全な歓喜や勝利の音楽は無意識的に回避していたのかもしれませんね。あの前代未聞の大編成の8番「千人の交響曲」ですら、合唱が終わってからあとの最後の部分はなぜか薄くなってしまうのですからね。)
バレンボイムは、その点昨晩、大太鼓やティンパニなどの「鳴り物」を最大音で総動員してパンチを効かせる事で、5番の最後の音が軽くなるのを避けていました。(まあ、ベートーヴェンの第九の終わりと同じ処理ですな。)