さる3月14日、出張で久しぶりに訪問したパリで、同行者が個人的な夕食会に抜けてしまったため、一人の夜をすごす事になった。
丁度イースターのシーズンということでバステイーユのオペラ座でワーグナーの最後の大作「パルシファル」が上演されることを発見し、ホテルのコンセルジェに出先から電話してチケットの手配を依頼したのであるが、5時過ぎにホテルに戻ってみると、コンセルジェの手配ルートでは売り切れだったということ。
ただしそれは1階平土間のS席の話であり、どんな席でもよければバステイーユは大きいから当日券があるだろうということだった。あわてて部屋に荷物を置いて地下鉄に飛び乗りオペラ座にむかうことにした。(「パルシファル」は長大なため開演時間が午後6時なのである。)
結局開演15分前に窓口にたどり着き、3階席右袖バルコニーの最前列席を20ユーロで購入。これで4時間楽しめるのだから安いものだ。席は右壁なので深く座っては舞台が見えないのだが、前に乗り出せば十分鑑賞に耐えるものだった。
この「パルシファル」は3月4日に始まったばかりの新プロダクションで、指揮がハートモント・ヘンヒェン。演出クリストフ・ワリコフスキー。歌手陣はパルシファルがクリストファー・ヴェントリス、アンフォルタスにアレクサンダー・マルコ・ブルメスター、グルネマンツにフランツ・ヨゼフ・シーリング、ティトレルにヴィクター・フォン・ハーレム、クンドリーがアンジェラ・デノーケ、クリングゾルがエウゲニー・ニキチンというもの。
実はこの3月14日の公演だけクンドリーがアンジェラ・デノーケで、他の日はワルトラウト・マイヤーが歌うということだったので、少し残念な気がした。
さて、いよいよ上演開始であるが、これが印象的な始まり方だった。突然客席が暗くなり始めたと思うまもなく、どんどん暗くなっていき、しまいにはオーケストラの譜面台以外の照明が全て消えてしまい指揮台まで真っ暗になってしまった。会場が静まり返ると、静かに蛍のように小さな光が指揮台の真ん中で動き始め、厳粛な「パルシファル」第一幕前奏曲の上昇音階が鳴り始めたのである。客席がざわつく開演前にいつの間にか指揮者は指揮台に上っており、準備をしていたのであろう。
ちなみに真っ暗を演出するためか、オケの団員も全員タキシードではなく黒装束でキメており、真に暗闇の中、指揮棒の先に着いた豆電球の光(ティンカーベルの魔法の杖みないな)に導かれて前奏曲が進んでいく。
舞台にはカーテンはかかっておらず、スクリーンのような紗幕が掛けられていたのであるが、曲が進むにつれそこに巨大な映像が現れ、女性の手が紙の上に大きく「愛(Amor)」と書き、それを消して次に「信仰」と書いてこれも消し(仏語で「信仰」を筆者は知らないが、ワーグナーがルートヴィヒ二世にこの前奏曲について謎かけをして「愛-信仰-希望?」と書いたという知識はあったので演出家の意図は理解できた)、最後に「希望?」と書いたところで画面が切り替わり、聖職者のような男性と瀟洒なベッドに横たわる死体のような老人の映像となり、その死体が頭をもたげるところで前奏曲が終了し紗幕は引き上げられた。
そこは近代的な病院の病室。アンフォルタスはクリングゾルに奪われた聖槍(キリストのわき腹を突いた槍)でキリストと同じ脇腹に決して癒えることのない傷を負っているのだが、それを病院の看護婦が介抱している。アンフォルタスが苦しみのあまり叫びをあげると、聴診器を持った白衣の医者が駆けつけてくるという設定だ。アンフォルタスの傷は罪の傷であり、決して癒されることはなく、しかも死ぬこともできないという苦しみを負っている。「オランダ人」以来ワーグナーの好んだ「永遠に死ねない苦しみ」とそれに対する「救済」というテーマだ。
次のパルシファルの登場の場面では実物大の白鳥を掲げて颯爽と現れるのであるが愚かな若者を良く表現しており(声もどことなく愚鈍な響きを出していたが劇が進むにつれ充実した歌をきかせてくれたので、意図的に歌い分けていたのだろう)、グルネマンツに諭されて反省するところは普通の演出。
それにしてもグルネマンツのシーリングの深々としたバスバリトンの響きは長丁場の公演を支えるに十分な貫禄だ。そして老王ティトウレルが車椅子で現れ、聖杯の儀式の挙行を求める場面となる。このティトゥレル役のフォン・ハーレムの唄は素晴らしかった。バスの深々とした響きが大きなオペラ座の隅々まで響き渡り、心地よい。確かショルティのタンホイザーの録音(70年代)でウォルフラムを歌っていたのがこの人だが、30余年を経てまだ現役で歌っている超ベテランということになる。
ちなみに同じショルティの「パルシファル」録音ではこのティトゥレル役を当時既に70代後半になっていたハンス・ホッターが唄って深々とした味のある声を聞かせていた。
ティトゥレルに促され、しぶしぶ聖杯の儀式を始めるアンフォルタスであるが、松葉杖をついて痛々しい。グルネマンツが持ってくる聖杯を収めた箱は赤い宝箱にようなもので、中から出てくる聖杯はいわゆる杯の形ではなく、ビールのマグのような形をしていた。
そこにイエスの血を模した赤ワインを注ぎ高々と掲げるアンフォルタスは、実に痛々しく、見ているほうも苦しくなってくる。
それにしてもその儀式が行われる聖壇(病院の担架を繋げて白い布を掛けた手術台みたいな)の裏手には半円形の議事堂のような階段状のアリーナに聖杯の騎士団が陣取り、壮麗な男声合唱を歌うのであるが、これは会場を揺るがさんばかり、暴力的なまでに迫力がある声なのである。もともとワーグナーが書いたこの聖杯騎士団の合唱は、聖歌というよりナチスの行進にあわせた軍歌のような旋律なのだが、ここまで強烈な迫力で歌われると非常に脅迫的で、結局癒えない永遠の傷に苦しむアンフォルタスのことなどまったく配慮せず、自分たちの欲求のため「聖杯の儀式」を強要する騎士団の独善性を実に見事に表出していた。
さらに儀式が進むと天井から天恵を表す女性合唱が聞こえ、「共苦して知に至る、穢れなき愚者をまて」との神秘的な神託が歌われるのであるが、これがオペラ座最上階の左右から天使の歌声のようにステレオ効果を伴って響いてくるのである。
バステイーユ・オペラの3階、4階の左右バルコニー席ボックスはなぜか上部に空気抜きのような穴があいており、おそらく扉を出た廊下に合唱団が配置され、このバルコニー席上部の穴から歌声が響いてきているのだろうと理解した。
次に第二幕である。これがまたある意味わかり易い演出だった。
魔術師クリングゾルはツル禿頭に赤と青のシルクの衣装をまとい、いかにも邪悪な魔法使いといういでたち(バットマンに出てきたジョーカーのような雰囲気といえば理解いただけるか)。そしてパルシファルを誘惑する花の乙女たちは、舞台左右に約20人ずつ、パリのキャバレーの踊り子の衣装をまとい、ムーランルージュばりのアールデコのランプの下、椅子に組み足で腰掛け誘惑を始める。
無防備なパルシファルはこの妖艶な女たちに次々と服を脱がされ、最後はズボンまで下げられて下着姿をさらすことになる。そこに深紅のミニワンピースを着たクンドリーが現れ、下着姿のパルシファルをベッドに誘う。
ベッドの上で2人は組んずほぐれるするのだが、クンドリーの長いキスを受けてパルシファルは「知」を獲得し、アンフォルタスの苦痛に共感を覚え、クンドリーを突き放す。この辺のクンドリーの体当たりの演技は見事なものだった。ワルトラルト・マイヤーで見たかった気もするが、アンジェラ・デノーケもヴィジュアル的に素晴らしく色っぽい演技で、テレビで見たザルツブルグの椿姫で見せたアンナ・ネトレプコの体当たりの演技に通じるものがあった。
もちろん歌唱力もこの長丁場を全力で歌いきり、見事なものだった。終演後のカーテンコールでもグルネマンツのシーリングと並んで絶大な声援が贈られていたのも頷けるものである。
幕切れのクリングゾルの魔法の城崩壊のシーンでは、会場が揺らぐくらいの大音響でティンパニとバスドラムが響き、「神々の黄昏」か「アッシャー家の崩壊」が来たかといった迫力だったが、舞台の上ではそれまでの深紅と黒を基調とした怪しげな照明が、突然蛍光灯の「現実の」世界の光となり、体育館のようなシラっとした明かりの中、クリングゾルが倒れて幕切れとなった。
第三幕は再び印象的な開始だった。
指揮者は指揮台にいるのだが、座ってしまい棒を降り始めようとしない。舞台には再び紗幕が張られ、そこにビデオ映像が流れ始めるのだが、白黒の無声映画のような映像で、戦火で崩れた廃墟(レニングラードかベルリンか?)を幼い少年が歩いている。
少年はひとつの建物に入り階段を上っていき、屋上に出て廃墟と化した街を眺める。
次の瞬間、少年は身を投げ一瞬、山と崩れたレンガの上に投げ出された少年の死体が移って映像は途切れるのである。ここまで約数分。途中から客席でブーイングがおき始め、最後のほうでは会場中に野次とブーイングが響き渡っていたが、指揮者が第三幕の前奏曲を開始するとそれもすぐに収まった。
実はこの映像の少年、第一幕から舞台進行とは無関係な登場人物として舞台に現われていたのである。第一幕では聖杯の儀式の助手として、第二幕ではパルシファルとクンドリーのベッドシーンの横でそれを無視して遊ぶ子供として、そして2幕の幕切れではクリングゾルの城が崩れて蛍光灯が点くや、舞台の後ろの(第一幕の騎士団の議事堂の)最上段から、おっていた紙飛行機をクリングゾルに向けて飛ばすのである。
実はこの演出ではもう一人、ワーグナーの原作にはない登場人物が常に舞台に上がっている。最初の映像に出てきた神父の衣装をまとった老人である。
彼も第一幕では聖杯儀式でグルネマンツを手伝い、第二幕では花の乙女のパルシファル誘惑を傍観している。彼らがいったい何を表すか、筆者はずっと考え込んでいた。
さてこうして波乱をもって開始された第三幕であるが、幕があくと舞台前面は草むらとなっていて、左手には黄色い草花と牡丹のようなものが植えられている。少年はこの第三幕を通してその花の手入れをしたり上呂で水をやったりしているのだが、もちろん右手では本来のオペラが進行する。
舞台中手には病院の遺体安置所のような設定でティトゥレルの棺が置かれている。そこにパルシファルがクリングゾルから奪い返した聖槍を持ち帰り、感激したグルネマンツは有名な「聖金曜日の音楽」でパルシファルを洗礼する。
一方アンフォルタスは癒えない傷を呪って聖杯の儀式を拒否、自らの死を願い、ティトゥレルの棺の蓋を荒々しく開けるのだが、その裏では例の騎士団が1幕にも増して暴力的な男声合唱を歌っている。ほとんどやけっぱちのように聞こえるこの合唱は、聖杯の騎士団はが自滅の道を突き進んでいることを表している。
そこに登場したパルシファルがアンフォルタスの傷口に持ち帰った聖やりを当てることで傷口を塞ぐのである。この聖槍がなぜか本演出では朽ちたボートのオールか卒塔婆のようなぼろぼろの木片なのである。とてもキリストの処刑に用いられたとは思えない、武器らしからぬものだ。それに持ち帰ったパルシファルは息も絶え絶えで、アンフォルタスの傷口に聖槍をあてるのもパルシファルが自発的に行うのではなく、クンドリーに促されて彼女に助けてもらって行うのである。
歌唱のほうはここへ来てクライマックスとなり、ヘルデンテノールの劇的な響きを聞かせてくれたが、決して乱れることなく、美しさを維持したままのフォルテであった。
こうして聖なる奇跡が起こり、傷は癒され、天から神秘的な聖歌が聞こえてくる。するとその神秘の合唱が天高くから響く中、はじめから舞台に乗っていた沈黙の神父が聖杯騎士団の議事堂を追う払うように舞台の奥へ奥へと押しやり、彼らは影の中に消え去っていく。
一方花の世話をしていた少年は舞台前面に出てテーブルを用意して聖餐の準備を始め、聖杯にワインを注ぎ、アンフォルタス、パルシファル、クンドリーと少年の4人で乾杯をあげるのである。
一方、グルネマンツはアンフォルタスが開いたティトゥレルの棺の蓋を閉めなおし、その脇に座ってうつむいて動かなくなってしまう。
オーケストラは聖杯の動機を繰り返しながら上へ上へと上昇音階を繰り返していき、聞くものを宗教的な法悦の境地にいざなっていく中、静かに幕が下ろされ、このワーグナーの生涯最後の作品は大団円を迎えた。
筆者の理解では、クンドリーは「愛」を、無言の神父は真の「信仰」を、そしてト書きにない少年は「希望?」を表しているのであろう。
本来、愛と信仰を表すべき聖杯の騎士団が、ここでは既得権としての聖杯の儀式のみを独善的に求める官僚組織ないしは軍事組織として描かれ、唯一聖杯騎士の長老であるグルネマンツだけがかろうじて愛と信仰を維持しているというのがワーグナーのオリジナル台本であるが、この演出では愛と信仰を、より象徴的にト書きにない神父と少年によって表し、グルネマンツも聖杯騎士の一員であり、パルシファルを見出して救済をもたらすことでその役割を終え、ティトゥレルと共に消えていくという設定になっていると解釈できる。
それにしても終演後のブラボーの声を最も集めたのは指揮者のヘンヒェンであったが、オーケストラの演奏は実に素晴らしかった。
ワーグナーの複雑で繊細なスコアを見事に鳴らし、神秘的なパルシファルの世界へいざなってくれた。特にチェロやビオラのような中低音弦楽器の充実した響き、木管楽器群の音色など、さすがフランスのオケという色っぽさだった。
バステイーユのホールの響きは素晴らしく、筆者が20ユーロで聞いた3階バルコニー席でもオケと歌手の歌が見事に溶けあり、充実した響きを聞かせてくれた。6時に開演したこの舞台神聖祝典劇(ワーグナーは「パルシファル」をオペラではなくこう呼んだ)が終演したのは夜中の11時半になろうとしていた。