−『満点ママ』−妹の章
『お話し大好き 家族の時間』

麿実、一九八十年(昭和五五年)生まれ。


池田小百合

    最終更新日 2003年5月5日  (This Home Page is made by H. IKEDA.)


      肉食   池田小百合

 「おかあさん、これなんの肉?」
 「豚肉だよ」
 「エエッ! ブタって、あのブタの肉? これが? ウソ!」
 「本当よ。肉にはブタ肉、牛肉、馬肉、魚肉といろいろあるでしょ。みんな殺して皮をはいで、骨を取って」
 「・・・」
 麿実を見ると目が真っ赤だ。泣いている。
 「ブタは食べられるためだけに生きていてかわいそうだね。馬は競馬に出られるのもいる。牛はミルク用の牛がいるから少しはいいけど。魚だって人間に食べられるために生きていてかわいそうだよ。ボクは今日からもう肉は食べない」
 「そんな事を言うのなら、マミちゃんの好きな玉子焼きも、できなくなるじゃないか?
 玉子だってヒヨコになってニワトリになるはずのものなんだから」
 「じゃあ、玉子焼きも、もう食べない。みんなかわいそうだもの」
 「それならニンジンだって、キュウリだってかわいそうじゃないか?
 食べる物が無くなって、マミちゃんだけ死んじゃうよ」
 「うん、それもそうだね。死んじゃうのはやだね。でも、あまりブタなんかは食べないようにする」
 麿実は時々思い出したように、
 「ブタってかわいそうだね」
 「魚ってやだね。ボクは魚じゃなくてよかった」と言う。
 実際には玉子の料理が大好きだ。
 『吉野家』の牛どんは大人と同じ量を、おいしいとたいらげてしまう。スキヤキも刺身もよく食べる。
        (1987年1月記)


        ババロア   池田小百合

 幼稚園でババロア作りがあった。卒園記念行事のひとつである。麿実はババロアが食べられるというのではりきった。
 帰って来て、自分でやってみると言い出した。
 「ピアノ教室が終わるまで、少し待っていてね」
 と言ったのに、しばらくして台所に行くと、もうグチャグチャ。
 ミルクがこぼれている、ゼラチンの粉が飛び散り、卵のからが散乱している。
 足の踏み場もない。できあがったババロアが六個、テ−ブルに並んでいる。
 麿実が指を入れては、
 「まだ固まっていないけど、いいお味」と言ってなめている。
 「玉子は一人に一個使ったよ」  「玉子を六個も!」
 夕食後、いよいよ食べる事になった。
 「マミちゃん、いただきます」
 「へえ、マミちゃんだけで作ったの」
 「おいしいよ。かたさもちょうどいいし、あんまり甘くない」
 麿実はてれ笑いをしていた。
 それからは連日、園から帰るとババロア作りをした。
 三日目と四日目には幼稚園の先生方にも持って行った。先生方が食べた感想を書いてくださった。かわいいクマや、花柄の手紙。飛び出すウサギのカード。よい思い出が残った。
 二週間近く、麿実はババロアを作り続けた。 ババロア作りを教えて下さった先生に、そして意欲に応えて丁寧な返事を下さった先生方に感謝している。台所はこの間、ぐちゃぐちゃになったけれども。
      (1987年2月記)


     交通安全指導/観劇/入学式(略)


       逆上がり      池田小百合

 「幼稚園で、逆上がりができないのは、ボクだけなんだ。いくらやってもできなくて、カードが、逆上がりの所で止まってて、ぜんぜん進まないの。みんなはいいな」
 麿実は、幼稚園に一年間だけ行った。その間ずっと言い続けた。
 「鉄棒は、園に行った時に、先生と麿実でやればいい。できなくてはずかしいのなら、自分で頑張ればいい」
 ところが、一年後の三月になっても、 「まだ、できないよ。先生は、もう少しと言っているけれどできないよ」と言う。
 私は、あせった。小学校に入学して、一人ずつ逆上がりをやらされ麿実だけできないでいるとしたら。ああ! どうしよう。
 「三月から、悠実ちゃんと一緒に、ボクも体操ラブに行くよ。逆上がりを教えてもらうよ」と言い出した。
 これは、学校で算数がわからないから、学校から帰ったら塾の先生に教えてもらいに行くのに似ている。 体操クラブの先生は、 「十秒懸垂ができれば、逆上がりは出来ます。麿実ちゃんは、体がやらかいから、すぐにできますよ。でも鉄棒は、後期の種目なので秋にならいとやりません。だいじょうぶですよ」と言われた。 「できないものがあるという事は、いい事なんだよ」 と夫は、のんきな事を言った。
 春休みに、おじいちゃん、私の父が鉄棒を作ってくれた。小学校に測定に行って、小学校の鉄棒と同じ高さにした。
 麿実にやらせて見ると、前半の、土を蹴って棒にからまる所ができない。 両足が伸びて、すぐバッタリ地面についてしまうのだ。棒にからまるフォームができないのだ。
 麿実は、毎日がんばって何度も挑戦した。そのたびに足が上がって行かなくて、バッタり地面にもどってしまい、だめだった。悠実が、やって見せても、足を持ってあげてもだめだった。
 おじいちゃんも、おばあちゃんも、隣のおばさんまで出て来て
 「手は、肩幅で!」「最初は、逆手で!」「足は、鉄棒の真下で!」「足を思い切って蹴り上げろ!」「手に力を入れろ!」「勢い付けろ!」「やる気を出せ!」と、応援する。
 麿実は「もうやだよ。いくらやっても出来ないよ」と、泣いた。
 その内に、おじいちゃんが三脚を持って来た。
 麿実は、三脚の下から三段目に足をかけて、その段を足で蹴って、鉄棒にからまり、逆上がりをやった。
  次に、下から二段目に足をかけて・・・
 次に、下から一段目に足をかけて・・・
 一週間後、ついに三脚がなくても、地面を蹴って逆上がりができた。
 「ヤッター! ヤッタゾ、バンバンザイ! もう、これで一生困らないね。よかった」
 それからは、見てくれ、見てくれと、何度もやって見せてくれた。
 できてしまえば、何の事はない。自分の頭より高い鉄棒でも、逆上がりが楽々できてしまう。
 「手から血が出た。いたいよオ」
 しばらくして、両手のまめがつぶれて血が出た。手に包帯をして、それでも逆上がりをやって見せた。  よほどうれしいのだろう。
 その後は『足かけ逆上がり』『腕立て前転』など、何でもできるようになってしまった。 「お母さんは、逆上がりしかできない。麿実は、すごいね。よかったね」と言ってあげた。
 麿実は片手をパッと開いて高く上げ、まめのできている方を見せて
 「勝利の手!」と叫んだ。
 逆上がりにはコツがある。
 以前、日本体育大学の先生が逆上がりのコツを教えていたのをテレビで見た事があった。鉄棒の反対側に補助の人が立って、両手指を前で組む。手の中に片足を乗せ、放り上げて、だんだん低くしてやる。逆上がりのフォームができる。誰でも逆上がりができるというものだった。どうしてもダメな時はやってやろうと思っていた。これは試さないで終わってしまった。
 小学校に入学して、二週間後、 「逆上がりのテストがあった。もちろん、ボクは一回で楽々できた。よかった」 と麿実が喜んで帰って来た。
 『クラスだより』には十数人の子が逆上がりができないと書いてあった。
 近所の八百屋さんに麿実の話をすると、「ウチの娘も逆上がりができない」と言ったのに、「それはできるよ」と言う。前半の鉄棒にからまる所はできても、それから後、頭が下になって上がって来ないと言うのだ。
 麿実は後半は最初からできていたので、そんな事は考えてもみなかった。
 私は、逆上がりができないのは、前半のからまる所ができないのが問題だとばかり思っていた。
 八百屋さんの子は、太っているので、腹が邪魔になるのだと言う。
 「オリンピックの柔道の山下は逆上がりができないと思うよ」と、おじさんが大胆な事を言う。
 逆上がりができないのにも色々なタイプがあるのだと思った。
 逆上がりができないで困っている子。どう指導したらよいか分からないでいる先生は多いと思う。研究して発表したらすごいと思う。たかが逆上がりでも、できなければ暗い生活になってしまう。
 それから、十年後、逆上がり補助機『さかあがり君』が新発売になった。
 逆上がりは、多くの子どもの、悩みの種なのだろう。
                                 (1987年4月記)


   散発/帰りの会/アサガオ/おつり/『お』のつく言葉(略)


  食事の支度    池田小百合

 私と、悠実が、音楽会から帰ると、麿実が包帯で、足を、ぐるぐる巻きにして、笑っていた。
 「どうしたの? まるで、ミイラじゃないの!」
 「火傷したの」
 「エッ! 今日は、土曜日だから、五時頃お父さんが帰って来て、二人で外で食事をするはずだったでしょう?」
 「そうなんだよ。その予定だったんだけど、生徒会の仕事が長引いて、帰ったのは八時近かったかな」
 「それまで、麿実は、一人でいたの?」
 「ウン。ボク腹がへって来たから、ご飯炊いて、豆腐の味噌汁作って、焼肉やるように、肉と、野菜を刻んで、ご飯が炊けたから、すぐに食べようとして、よそろうとしたら、おかまが冷蔵庫の上だから、椅子に乗っても、中が見えなくて、おしゃもじから、ご飯がべっちゃり床に落ちて、椅子から降りようとしたら、それを踏んじゃったの。熱かったよ」
 「手当をしたの?」
 「ウン。だれもいないから、水道の水をジャージャー出して冷やして、味噌を塗って、包帯したの」
  味噌の壷は、蓋が開けっ放しだし、薬箱は、ひっくり返っている。中からガーゼやら、カゼ薬が飛び出して、畳に散らかっている。かなりあわてたようだ。
 「もう大丈夫なの?」
 「ウン。もう平気サ」
 「それで、食事は、どうしたのお父さん?」
 「麿実が作ったご飯と、味噌汁を食べて、焼肉をして、ああ! 腹一杯だ。ご飯も、うまく炊けていたよ」
 「お米を磨いで、ちゃんと手を入れて、測って、ここの所まで水を入れてやったんだ」
 足の裏は、少し赤くなっただけだったが、踏んだ時は、そうとう熱かったと思う。
 麿実は、まだ一年生だ。お留守番ごくろうさま。
      (1987年9月記)  



  鬼のような母    池田小百合

 エンピツ・キャップの交換が大流行している。
 麿実の友達が、エンピツ・キャップを沢山持って遊びに来た。麿実も、自分のキャップを出して並べたり、当てっこをしたりした。
 「いいなあ。たくさん持っていて」
 「マミちゃんは、買ってもらわないの?」
 「少しは、買ってくれるけど。だめだって言うもの。鬼なんだよ」
 「へー。鬼なのかア。あんなにやさしそうな顔をしているのにな」
 私に聞こえているのに、二人は、そんな事を言いながら遊んでいる。
           (1987年10月記)


     川原の石       池田小百合

 麿実が、学校から、石を袋一杯持って帰った。川原に、石を拾いに行く授業があったのだ。
 「重たかった」
 夜。その石を積んだりして遊んでいた。最後に一つずつハンカチに包み、それから、風呂敷に包んでしばった。
 大荷物になった。
 「もし、泥棒が、これを持って行って開いて見たら石で、がっかりだろうね」と、にこにこして言う。
 そして、また包みを開いて石を眺めながら言う。
 「これ、めずらしいんだよ。キラキラした砂の入った石。こっちは、ピカピカの、ダイヤが入っているような石なんだよ。ボクの大事な宝物なんだよ。だれにもやらないよ」
 どの石も、宝石になる子ども心を大切にしてやりたい。
     (1987年10月記)


     カタカナのおけいこ お父さんの仕事/風邪をひかない方法/床屋さんにて(略)


   ミイラ    池田小百合

 麿実が小学校一年生の夏休み、
 「お母さんは、大きくなったら何になりたいですか?」と聞いた。
 「ミイラになりたいです」と答えた。
  麿実は、すぐ図書館に行って、ミイラについて調べて来た。
 「エジプトのミイラと、日本のミイラと、どちらのミイラになりたいですか?」
 ノートには、びっしりと、ミイラの造り方が書かれていた。しかも、1、2、3、と番号順の付いた図まで描いてあった。
  「エジプトのミイラになりたいです」 と答えると、詳しく説明をしてくれた。説明は、一時間近くかかった。
  「おかあさんのミイラを見た人が、二千年前の子どものミイラって思ったら、いやだねえ」と言ったりして、真剣に麿実の説明を聞いた。
 この時、調べるために読んだエジプトの本が面白かったので、ピラミッドの謎、不思議な遺跡などの本を読みふけるようになった。
 そして、『エジプトおたく』と言われるようになった。社会科の大好きな大学生になった。
 世界の遺跡、遺産を旅したい夢もある。
 親の一言は大切だ。時には、子どもの将来を決定付けてしまう事もある。
            (1999年10月記)     



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