−『満点ママ』−姉の章
『お話し大好き 家族の時間』

 姉・悠実。1978年(昭和53年)生れ。


池田小百合

    最終更新日 2003年5月5日  (This Home Page is made by H. IKEDA.)


      中耳炎   池田小百合

 悠実は保育園に入学するとすぐに風邪をひいて、高熱を出した。それまでは、家にいたので、風邪は、クシャミ程度で直っていた。
 子どもは、時々病気をして、免疫を作っておく事が大切だと、あとで思った。
 風邪が治ってしばらくすると、うしろから声をかけても返事をしない。耳が聞こえないのだ。私は真っ青になった。
 D病院の耳鼻科に行くと、待合室で二時間ぐらい待たされた。近所のお母さんも子どもを連れて来ていた。そのお母さんに話しかけられた。保育園の先生の事や、友だちの子どもの事、自分の子どもの事などなど。
 待合室は、ごったがえしていた。泣く子、鼻水をたらす子、セキをする子、なぐりあいの喧嘩をする子。
 医者も忙しく、イラ立っていた。質問もできないほど不機嫌だった。診察は、三分で済んだ。急性中耳炎と診断された。治療をしてもらった。
 耳はすぐに聞えるようになった。
 中耳炎がどんな病気か、まったく知識がなかった。
 わからない病気の事は、わかるまで、医師に説明を求めるべきだと、あとで思った。
 何よりも、初めて行った耳鼻科の待合室に、うんざりした。
 この日、一回耳鼻科に行っただけで、治療をやめてしまった。
 夫が「医者がいいと言うまで通うんだよ。素人判断は禁物」と言っていたにもかかわらず。
 完治しないと、くり返し、中耳炎は起こるものだった。そのたびに、D病院で、鼓膜切開をすることになった。鼓膜切開は、中耳炎の古い治療方法だという事が、あとでわかった。今では、坑生物質で治療する。鼓膜切開は、ほとんどしない。
 鼓膜切開をしたのに、そのまま保育園に送って行った。入園したばかりだったので、休ませたくなかった。病気の時は、ゆっくり休ませるべきだったと、あとで思った。
 頻繁に鼓膜切開をしている内に、悠実の耳は全く聞こえなくなってしまった。顔色は薬のため白く、ぼんやりしていて、元気がなかった。薬は、ピンク色に着色された粉薬だった。六時間おきに飲むように言われた。変な時間から飲みはじめたので、真夜中に起きて飲まなければならなかった。睡眠時間がなく、ますます、ぼんやりして元気がなかった。
 電車でシルバーシートの男の人が「かわりましょう」と席を譲ってくれたこともあった。ああ、誰からも障害児に見えるのだなと思った。
 耳がこのままダメになったらどうしよう。
 朝早く、夫に順番を取ってもらい、ほとんど毎日のように耳鼻科に通った。同じ年齢の子ども達が元気に太陽の下で遊び回っていた時、悠実は、耳鼻科の待合室で、本を読んでいた。耳鼻科に来ている子ども達は、はつらつとした顔が無かった。
 保育園では、走るといつもビリだった。薬を飲んでいて食欲がない。睡眠不足。立っているのがやっとなのに、走れるわけがない。  保育園では、速く走れる子と遅い子に分けて、速く走れる子のグループに、遅い子を入れて、グループで競わせた。
 悠実のグループは、いつもビリだった。
 耳が聞こえない悠実には、「よーい、どん」も聞こえない。みんながスタートしてから走りはじめる。これでは、速いわけがない。
 子どもの世界は、きびしい。悠実をあからさまに罵った。
   「ばか!」「まぬけ!」「のろま!」「もっと速く走れないのかよ!」
 保育園の先生は、いらだっていた。自分の指導の成果が上がらないからだ。若い保母には、人生は、自分のペースで歩めばいいのだと言うことがわかっていなかった。若くて経験不足だった。
 私は、自分の都合で、保育園に入園させた事を後悔した。捜し回って見つけた保育園だった。
 リトミック、リズムに合わせて体を動かす指導を保育の柱にしていると聞いた保育園だったが、リトミックを指導できる先生は、いなかった。ピアノに合わせて、子どもたちが、どたばた、ぐるぐる走り回るだけの時間が、延々と続いた。リトミックの指導は、先生に力がないと続かない。だから、どこの保育園や幼稚園でも、やっていなかったのだ。  中耳炎は慢性化し、とうとう浸出性中耳炎に進行した。急性中耳炎を、しっかり治さなかった事を、後悔し続けたが、あとの祭りだった。一回目から、気長に構えて治療する心構えが必要だった。
 アレルギー性鼻炎や、アデノイドが大きいなども原因である事が、あとでわかった。悠実は、この症状も、持ち合わせていたのだった。
 保育園から幼稚園に転園した。悠実は、また、ビリだった。みんなは、走り終わって並んでいるのに、悠実だけがまだ走っている。
 お母さんたちが、口々に  「悠実ちゃん、しっかり! がんばって!」  と、手をたたいて、応援してくれた。その応援も、悠実には聞こえていなかった。
 この時の聴力は、正常の子のずっと下、はるか下だった。まったく聞こえていなかった。その事を、幼稚園の友だちも、その母親も、知らなかった。
 悠実を抱きしめて泣いた。
 もうすぐ、小学校に入学するという時、夫は、
 「今は、性能のいい補聴器もあるし、特殊学級もある」
 と、のんきに言った。

 小学校は、普通学級の一年生に入学した。
 外見は普通の子どもだったが、聴力はほとんどなかった。難聴のことをお願いしたはずの、たよりにしていた担任の先生は、出産の為、十二月で退職してしまい、一月から代わりの先生が来た。
 悠実の耳の事は、引き継ぎがされていなかった事が、あとでわかった。
 ペーパーテストはできても、口頭でのテストは、できなかった。山や川という簡単な漢字も、2+3のような簡単な計算も、口頭で出されれば、当然、聞こえないのでできなかった。
 小学校の二年生の夏休み。
 朝、D病院の順番を取りに行って驚いた。一三六番だった。午前中の診察は、それ以上の人数だ。
 別のE病院に行くことにした。
 この時は、熱も、痛みも、耳だれもなかった。 「中耳に、浸出液がたまって、聴力が落ちています。浸出液を排除する手術をします。よろしいですか?」 「はい。お願いします」  浸出液を排除する手術は、すぐ開始された。
 診察台の悠実を、両側から看護婦さんが押えつけた。足を私が押えた。 「鼓膜に穴を開けて出します。ちょっとでも動いたら、二度と聞こえなくなってしまいます。しっかり押えていて下さい」 「はい」
 大きな注射機で、ウミを、吸い出した。シャーレに、いっぱいのそれは、ゼリーのようだった。
 悠実は、我慢強かった。
 とたんに悠実の耳は聞こえるようになった。
 若い耳鼻科の先生に感謝した。
 急にスポーツも、勉強も、元気いっぱいできるようになった。
 中学になると、クラス対抗リレーの第一走者や、アンカーになった。
 勉強も、どんどん伸びていった。
 その頃には、だれも、聴力がなかった時期があったことなど忘れてしまった。
 私は、時々、また聞こえていないのではないかと心配になる。
                 (1987年4月記)


   福 耳/なわ跳び/十文字言葉/文字の書きかた/(略)


      お誕生会     池田小百合

 悠実が初めてお友だちから、お誕生会に呼ばれた。まだ先の事なのに、プレゼントは何にしようか、どのスカートをはいて行こうかなど、考えるのが楽しいようだ。
 自分の誕生会の時の招待状を画用紙で作った。『ぜったいに来てね』と書いた。カードはどんどんふえて、クラスのほとんどの子になった。
 「呼ばない子は、なぜ呼ばないの。悠実が呼ばれない子の方だったら、どうかな。悲しいよ、きっと」
 「全員呼びたいけど、大変だし、呼ばない子は、あまり話しをした事がない子だよ」
 「呼ぶのは十人ぐらいにしたら。プレゼントを買う方も大変だし」
 「それもそうだね。でも、だれを呼んで、だれを呼ばないか。困ったな。呼ばないと、かわいそうだし」
 他の家では、いったいどうやって、呼ぶ子と呼ばない子を決めているのだろうか。
 初めてのお誕生会の日。
 悠実はお年玉で、三千五百円のぬいぐるみのウサギを買った。白いワンピースを着て、ネックレスを付けて、黒いエナメルの靴をはき、頭に、ピンクのリボンを付けて出かけた。絵本に出てくるバースデーパーティーを考えていたのだ。絵本の中では、ケーキにロシアンティーが出て、ハッピーバースデーの歌を歌うことになっていた。  ところが、現実の食べ物はスパゲッティに、マカロニサラダ。コカコーラが出た。遊んだのは『おいかけ鬼』。これは悠実のきらいな物ばかりだった。 帰宅した悠実は、 「お誕生会はつまらなかった。ボクの時は、やらなくていいよ」と言った。
 友だちの誕生会に行くのに一番困るのは、プレゼントを何にするかだ。
 悠実は、そのたびにデパートに行く。バックやエンピツケース。ピノキオのあやつり人形。ぬいぐるみ。ミッキーの壁掛け、オルゴールなど。
 玩具屋に行くと、プレゼントを買いに来ている親子に出会う。
 「何にするの? 早くしなさい! そんな物、あの子がほしいと言ってたの? 自分が欲しいのじゃだめだよ。それは、高すぎる! もっと安いのないの?」
 イライラしたお母さんの声が聞こえる。実際、千円ぐらいでは、思うような物が買えない。
 ある時、ピアノ教室に来た生徒が、思いがけない事を言った。
 「昨日は、私の誕生日で、みんなを呼んだの」
 「良かったね。プレゼントたくさんもらえたでしょう」
 「でも、お母さんに取られちゃって、つまんなかった」
 「あなたがもらったのに、なぜかな?」
 「次に、だれかから誕生会に呼ばれたら、それを別の紙に包んで持って行くの」
 そんな事があるのだろうか?
 私は、招く方をやった事がないけれど、家中の掃除やら食事の支度、お返しを買ったりと、いろいろ、大変だろうと思う。
 悠実のように、行ってもつまらなかったと言う場合や、氷入りのジュースにポテトチップスを食べて、おなかをこわしたりした場合は、せっかくのパーティーに悪い印象が残ってしまう。
 それほど、親子で力を入れてやっていたお誕生会も、四年生以上になると、やらなくなってしまう。
 三歳の子よりも、十歳の子のほうが、事故死も病死もせず、長く生きられたのだから、みんなで祝うべきなのに、お誕生会なんて、子どもっぽいとか、勉強が忙しくて、それどころではないなどの理由で、やらなくなってしまう。
 ウチでは、家族だけで誕生会を開く。
 ケーキの上のローソクに火を付けて、ハッピー・バースデーの歌を歌う。
 口々に、おめでとうを言って、おばあちゃんが作ったお寿司を食べる。
 私が死んでいった最初の子の話をし、それぞれの出産の時の事や、小さかった時の話をする。そして、悠実も麿実も、今がんばっている事やこれから何がしたいかなどの夢を話す。トランプをしたり、歌を歌ったり。このささやかな幸福が、ずっと続くようにと願う。
 「今の時代に生きていて良かったと思う?」と悠実が聞く。
 「もちろん。今がいいさ」と麿実が答える。
 「ここんちに生まれて来て良かったと思う?」
  「ウン。ほかの家は、しつけがきびしそうだもの。ここの家で良かったと、ボクは、思うよ」
  「ボクもだよ」
 テレビで、映画評論家・淀川長治氏について、作詞家・永六輔さんが語っていた。
 「僕と淀川さんとは、誕生日が同じです。ある年の誕生日に、一緒に食事でもしませんかと、声をかけると、『一年の内で、この日だけは、もう決まっているんです。家で、母と一緒に食事をし、話をするのです。すみません』と、言われた。僕は思いました。なんてあたたかな人なんだ。なんてすばらしい誕生日の迎えかたなのだろう。自分を生んでくれたお母さんに感謝する日だと言うのですね。お母さんと過ごす静かな誕生日。淀川さんらしいですね。僕は、まだまだ、淀川学校から、卒業できません」と。
 生まれて来てよかった。今が幸福。未来に夢がいっぱい。そんな事の語りあえる誕生会にしたい。
    (1987年6月記)


  宿 題 /ドッジボール/ひとりで乗り換え(略)


      自 慢    池田小百合

 悠実が成人した。
 「娘が、二十歳になったんですよ。虫歯が一本もないんですよ」
 と言っても、だれも驚かない。
 これは、とてもすごい事なのに。  (1999年1月15日記)   



トップ アイコン
トップ
   目次
      娘たちに贈る前書き/五歳まで
      姉妹の章
     姉の章
      妹の章
      私の章
      夫の章
      あとがき