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池田小百合 なっとく童謡・唱歌 
弘田龍太郎作曲の童謡2
  あした         お家わすれて    お山のお猿    金魚の晝寢   
  靴が鳴る   鯉のぼり    雀の學校     濱千鳥      春よ來い
 弘田龍太郎略歴   鹿島鳴秋略歴  清水かつら略歴
 相馬御風略歴     童謡曲譜集『お山のお猿』
童謡・唱歌 事典 (編集中)







あした

作詞 清水かつら
作曲 弘田龍太郎

池田小百合なっとく童謡・唱歌
2008年8月12日/2010年10月13日



池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より

 【初出】
 雑誌『少女号』(小学新報社)大正九年(1920年)六月一日発行(第五年第六號)、詩と楽譜同時掲載。(大阪府立中央図書館 国際児童文学館所蔵)。

▲表紙 「田植」本田庄太郎筆 (少女のまつ毛に特長がある)
▲目次 あした(新作童謡)と書いてあります。

 【詩の解釈】
 「赤いお船」は、大漁旗を立てて帰ってくる船を想定している。=上笙一郎・別府明雄編、海沼実解説『清水かつら童謡集 靴が鳴る』(ネット武蔵野、2008年3月発行)による。
 (註)「詩の解釈(大漁旗・・・)は、清水かつらの姪・清水惠子さんからの情報です。惠子さんは、かつらの弟・清水昇氏から聞いたと言っていましたが、かつら自身が言っていたことではないと思います」(2011年2月20日別府明雄さんからの手紙による)。

 【歌唱の考察】
 『少女号』掲載楽譜冒頭に(あつさりと)という指示があります。この楽譜を見ると「おかあさま」の「ま」にフェルマータが付いているが、付点二分音符(三拍のばす)にフェルマータが付いているので、長すぎないように心持ち伸ばすような感じで歌うのがよいでしょう。「ま」の声の出し方で、いっきょに哀愁をおびた歌になります。この歌を名曲にした重要な部分です。作曲の弘田龍太郎は、哀調をもって歌われるのを望んだのです。日本人は、このような歌が大好き。

 また、中田喜直・湯山昭・藤田圭雄・阪田寛夫監修『日本童謡唱歌体系I』(東京書籍、平成九年発行)掲載楽譜のように「あっさりと 四分音符=120」と記されたものがあります。 これでは余りにも速く、詩の情緒が伝わりません。
 

 弘田の孫の声楽家・豊田偕子によると「弘田龍太郎は、テンポにはこだわらず、歌い手が歌いやすいように気を使っており、曲によっては色々なテンポの楽譜を用意していた。「あした」は、四分音符=76〜100、一般に四分音符=84〜88くらいが適当であるが、歌手の好みで良いとのことであった。声楽家・豊田偕子の場合、演奏会では三番のみ特にゆっくり歌ったそうである」(別府明雄・著『あしたに 童謡詩人 清水かつら』(郁朋社)平成十七年発行より抜粋)。

 【詩の考察】
 詩について、『清水かつら童謡集 靴が鳴る』(ネット武蔵野、2008年)で、上笙一郎氏は「父が旅路にある家の女の子の父恋いの歌」であるから、「母が女の子に“泣かずにねんね いたしましょ”と言い聞かせているはずなのである」と解釈しています。その結果、「“泣かずにねんね いたします”でなくてはならない」と判断していますが、この解釈は原詩から離れすぎでしょう。詩をそのまま読めば、この詩は父恋いの歌ではなく、「女の子が母親を慰めている歌」です。さびしがっている母親を気づかって、元気づけようとしているけなげな女の子の心を歌っているのです。挿絵画家もそう解釈していることが絵を見るとわかります。母親が目を閉じているのに女の子が目を開いて母親を見つめている姿は、どう考えても原詩の少女の様子です。少女が母親に「泣かずにねんね いたしましょ」と声をかけているのです。
 詩を見ると「お母さま―」の「ま」の後に「―」が書いてあります。清水かつらの童謡詩には、『赤ちゃんの顔』など数編にこのような書き方が見られます。これは余韻を残すための表現でしょう。
あした 少女号 あした 楽譜
▲初出の雑誌『少女号』(小学新報社)大正九年(1920年)六月一日発行(第五年第六號)楽譜。
冒頭には、(あつさりと)だけ記されている。

 【楽譜に書き込みがあります】
 大阪府立中央図書館 国際児童文学館所蔵の『少女号』の楽譜(cis moll)には、書き込みがありました。
 四小節目、五小節目。伴奏左手部分に×の書き込みがあります。この音は経過音なのですが、音楽の素養のある読者が余分な音だと判断して×を書き込んだのでしょう。
 しかし、音楽記号では、×はダブルシャープを表すものなのです。弾いてみればわかることですが、元々Fisなのに、×でダブルシャープ(Fisis)にしたらかえって変になります。もちろん、後の出版楽譜には、このような×記号はありませんし、この経過音も除かれていません。図書館の利用者はこのような「いたずら書き」等をしないようにお願いしたいものです。ここにしかない貴重な資料だからです。

 ●与田凖一編『日本童謡集』(岩波文庫)昭和三十二年発行掲載の詩は、「お母さま」となっていて「―」が書いてありません。これは間違い。「お母さま―」が正しい。

 ●足羽章編『日本童謡唱歌全集』(ドレミ楽譜出版)1984年発行に「大正9年6月に「少女号」で詩が発表され、9月に作曲されました」となっている「9月に作曲」は間違い。『少女号』は、詩と曲を同時に掲載しているので、作曲は『少女号』大正九年六月号以前になります。

  【「少女小曲集 濱千鳥」に収録】
 「少女小曲集 濱千鳥」の奥付には次のように書いてあります。
  ・大正十年十一月二十五日発行、大正十一年四月一日再版発行、大正十一年九月十五日三版発行。
  ・著作者 弘田龍太郎、清水桂。 ・発行者 鹿島佐太郎。
  ・発行所 小学新報社
  ・歌詞についている挿絵は、女の子が寝ている。『少女号』の挿絵の続きになっている。本田庄太郎 畫。
 本田庄太郎は、明治二十六年、静岡県敷知郡浜松町平田(なめだ)(現・浜松市中区平田町)に生まれる。昭和十四年逝去。享年四十六歳。 「美術学校を出ていないため、他から軽く見られ、酒びたりになって道で倒れ、早く逝ってしまったのが残念です」。これは、挿絵や雑誌 映画のポスターのコレクター遠藤憲昭の言葉。
  ・内容曲目   楽譜の右下に作曲年月日が書いてある。
    「濱千鳥」   大正八年十一月廿四日作曲。
    「叱られて」  大正九年二月十九日作曲。
    「桐の雨」   大正九年三月廿三日作曲。
    「唖雲雀」   大正九年一月作曲。
    「あした」   
大正九年四月廿五日作曲
    「親なし鳥」  大正八年八月廿二日作曲。

 ●小松耕輔編『世界音楽全集11 日本童謡曲集』(春秋社)昭和五年発行に掲載の「一九二〇年六月作」は間違い。
 これは、掲載された『少女号』大正九年六月号のこと。「あした」は、大正九年四月二十五日作曲です。 この『少女小曲集 濱千鳥』の楽譜集を、今まで、だれも確認していなかった。
 資料の重要性を感じます。


 ▲歌詞 挿絵は女の子が寝ている。『少女号』の挿絵の続きになっている。本田庄太郎 畫。


  ▲楽譜は初出と同じ。冒頭にはやはり「あっさりと」という指示が書いてあります。
 嬰ハ短調(cis moll)、四分の四拍子、ピアノ伴奏部分の両手にもフェルマータ(延長記号)が付いています。


著者より引用及び著作権についてお願い】    ≪著者・池田小百合≫

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靴が鳴る

作詞 清水かつら
作曲 弘田龍太郎

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2009/11/11)

池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より

 【はずむ心の音】 
 この歌を聞いたり歌ったりしたことのない人は、一人もいないはずです。
 靴を履いて歩いた時の、嬉しいはずむ心の音を歌ったものです。作詞者の清水 かつらが、「靴が鳴る」という表現を見つけた時、この歌のヒットが決まりました。なぜなら、繰り返される「靴が鳴る」は、作者やみんなの心であり、歌う人の楽しい気持ちだからです。
 手をつなげば、かわいい小鳥になり、摘んだ花を頭にさすと、もううさぎになってしまいます。幼児の想像力を借りて、歌の世界が大きく広がって行きます。

 【どこの風景か】
 『靴が鳴る』は、どこの風景でしょうか。それは、東京の郊外を歌ったものだということを、かつら自身が書いています。
 「『靴が鳴る』は、仲よく皆さんが野あそびにゆく、可愛い姿をうたったものですが、それはまた昔の、私の姿でもあります。
 東京に生れて育つた私にも、野あそびの樂しみがありました。私の子供の頃は、東京もまだずっとせまく、郊外の近かったことが、なつかしく思い出されます。小さな足でも歩いてゆける町はづれには、小川がさらさらながれて、茅(かや)ぶきのお百姓家の、そこにはもう田や畑が、ひろびろと眺められました。水車の唄もきかれました。そのけしきがうれしく、私たちはみんなで、よくあそびにいつたものです」 (「日本童謡全集3」昭和12年、日本蓄音器商会より)。

第四年第十一号『少女号』小学新報社
大正八年十一月一日発行 
大阪国際児童文学館所蔵
  【作曲の時期について】
 かつらは、できあがった『靴が鳴る』の詩を作曲家の弘田龍太郎に渡し、作曲を依頼しました。弘田龍太郎の言葉が残っています。この言葉は、『少女号』の編集の様子や、その時代について知る事ができる重要な言葉です。
 “「靴が鳴る」が皆に歌われると云うのは何の理由か私には解らない。
 この曲は鹿島鳴秋君が編輯していた「少女号」と云う雑誌に大正八年九月十九日発表していたものである。私は、この雑誌に毎号発表していたもので、歌詞は同君と当時この雑誌の編集部員であった、清水かつら君とが書いていた。この時分には、まだレコードと云うものが余り多く発売せられず、又ラジオが始まらなかった時であった。
 大正八年九月十九日の二、三日前に、この歌が廻って来た。編輯の〆切はせまっていた。私は、この歌詞を机の上に置いて、二日計り考えていたが、十九日の朝、一気に書き下してしまった。”

 【作曲する時の計画について】
 作曲をした時の事も、弘田龍太郎の言葉が残っています。
 “先ず五声音階を用い、上行して行こうと考えた。さて実際に作曲にかかってみると、直ぐに頂点に達し、直ちに下行せねばならなくなった―それには音域の関係もあった下行してみると、丁度初めの出発点に戻ったから、類似の四小節を作り、二回目はラに終わったのである。このラに終る即ち次中音に終わる事が、当時私の常に考えていたことなのである之で先ず半分は出来たのであるが、その後はどうするか困ったのである。歌詞を見ると「歌をうたえば」と、この童謡の中心をなす所にある。そこで初めの音を上の主音に置いて、次第に下げていった。そして「晴れたお空に」(もとは晴れたみ空に)でも、同一旋律を用い「靴が鳴る」と終らしめたのである。”
 以上、弘田龍太郎の言葉は、昭和二十五年『教育音楽』十月号に掲載されたものです。

 【楽譜の検討】
 それでは、楽譜をくわしく見ましょう。
  ・曲は、ニ長調、四分の四拍子で、ファとシを抜いた五音音階で作られています。二部形式の曲です。楽譜の冒頭には、爽快に(行進曲の拍子にて)という発想標語が書いてあります。強弱記号などは、何も書いてありません。
  ・前奏は一小節で、すぐ歌になります。
 ・最初の四小節は、「オテーテ ツナイデ」と上行し、「ノミーチヲー ユケーバ」と、すぐ下行している。これは歌う音域を考えての事です。
  ・次に類似の四小節が来ます。「ミンーナ カハーイ コトリニー ナツテ」。「ナツテ」の「テ」は、(ラ)Yの和音で終っています。これは、弘田龍太郎がとても気に入っていたようです。
  ・「ウタヲ ウターへバ」が、この歌の中心部分です。「ウタヲ」の「ウ」の音は、上の主音(ド)にし、次第に下がる旋律になっています。
  ・「ハレタ ミソーラ二」は「ウタヲ ウターへバ」と同一旋律を使っている。この歌の山である「ウタヲ」「ハレタ」のところは、強く、のびのびと歌います。
  ・そして「クツーガナ ル」で終止している。
  ・この伴奏は単純で、だれにでも簡単に弾く事ができます。これもヒットした理由の一つです。

 【『少女号』に掲載】
 大正八年『少女号』(小学新報社)十一月号の一ページ目に清水かつらの詩が、二、三ページ目に弘田龍太郎の曲が同時に掲載されています。挿絵は今関甫召。



 【重要な「かあーい」】
 『少女号』掲載の詩を、よく見てみましょう。それに よると、詩の「可愛い」には、「(かあー)い」と仮名がふってあります。この特 殊な仮名のふり方は、編集者のかつらが、出版前に楽譜を見て歌った事がうかが えます。このようなことは、異例のことです。かつらが、いかに童謡を愛し、童 謡を楽しんで作っていたかがうかがえます。

 楽譜は「カハーイ」となっています。実際には、「かー わあ いー」と歌い ます。
 (註)「可愛」=古くは、(かあい)と読まれ発音されていたようですが、書く時は(かはい)としていました。
 資料は大正八年『少女号』十一月号より

 【歌の成立のまとめ】
  ・大正八年九月に清水かつらが作詩。
  ・大正八年九月十九日に弘田龍太郎が作曲。
  ・大正八年『少女号』十一月号の〆切は大正八年九月十九日。
  ・大正八年『少女号』(小学新報社)十一月号に詩と曲同時掲載。
  ・童謡曲譜集『朝の雪道』弘田龍太郎作曲(小学新報社)大正十一年五月一日発行に収録。

 【弘田龍太郎曲譜集に収録】 鹿島鳴秋・清水かつら詩。弘田龍太郎作曲。
 童謡曲譜集『朝の雪道』(小学新報社)大正十一年発行に収録。
 収録曲は「朝の雪道」「人さらひ」「靴が鳴る」「落葉の踊」「雀の学校」「村祭り」の六曲。

▲『朝の雪道』表紙          ▲目次
▲歌詞 「みんな可愛(かあい)い」となっているのに注目
 同時掲載の楽譜は「かはーい」で初出と同じ
▲挿絵 白黒複写なので、靴の色がわかりません。
複写は、カラーにしてほしいです。(国立音楽大学附属図書館・所蔵)

 【春秋社版では】
 小松耕輔編『世界音楽全集 第十一巻 日本童謡曲集』(春秋社)昭和五年発行の楽譜を見ましょう。
  『少女号』掲載の楽譜の冒頭には、「爽快に(行進曲の拍子にて)」という発想標語が書いてありましたが、(行進曲の拍子にて)が省かれ、「爽快に」だけが書いてあります。
 楽譜には強弱記号が書いてあります。歌い出しの「おてーて」はメゾフォルテ、「うたを」と「はれた」はフォルテで強く歌うように記号が書き込まれています。これは、編集者の小松耕輔が手を加えたのでしょう。


 『少女号』と同じ「かはーい」となっている事が確認できます。

  【歌う時、注意すること】
  ・「おてーて つないで」を「おててを つないで」と間違った歌詞で歌わないこと。
  ・「みんな」及び「つんでは」の「ん」を正確に歌うこと。 「みんーな」を「みーんな」、「つんでは」を「つーんでは」と、いいかげんに歌わないこと。
  ・「唄を」の「う」は強く歌い始めた方がよい。
  ・全曲行進曲の心持ちで歌い、かつ伴奏を弾く。
 (小松耕輔編『世界音楽全集 第十一巻 日本童謡曲集』(春秋社)昭和五年発行の解説による)

  

▲小松耕輔編『世界音楽全集 第十一巻 日本童謡曲集』(春秋社)昭和五年発行の楽譜
                        
▼昭和十二年(1937年)講談社発行『童謡画集』の川上四郎の挿画

▲講談社『エホン文庫 童謡画集 第1号』1946年より 安 泰画

▲講談社の絵本『童謡画集(2)』1960年より 武田将美 画


  【レコードに追加詞】
 発表当時は、二番まででしたが、昭和になって原作の一番と二番の間に、新作の「蝶ちょ」の歌詞を入れました。二種類あります。
 ◆ニットーレコード(大阪にあった燕印の日東蓄音器株式会社)が清水かつら作詞、弘田龍太郎作曲の『靴が鳴る』と『雀の学校』の二曲を宮下晴子の独唱で再吹込みした時、以下のようなメッセージとともに「蝶ちょ」の歌詞を追加しています。これにより、なぜ「蝶ちょ」の歌詞を入れたかがわかります。
 「・・・私はこのニットー・レコード吹き込みのため特に歌詞を一つづつ新作追加いたしてみました(『雀の学校』も二番の歌詞が追加されている)。もとより原詩には変更はございませんが、これはニットーファンの皆さんに捧げるお贈物で、また童謡愛好の皆さんへの感謝の微意に他なりませぬ。御評いただければ嬉しゅうございます。ではどうぞおうたひくださいまし。」

    草に そよそよ
    小風が 吹けば
    みんな 可愛い
    蝶ちょに なって
    丘を 越えれば
    靴が鳴る
    晴れた み空に
    靴が鳴る

 ※郡修彦著『親子で読んで楽しむ日本の童謡』(KKベストセラーズ)によると、 「一九三四年(昭和九年)に宮下晴子の独唱によりニットーレコードから発売された詞」と書いてあります。
 ※北海道在住のレコードコレクター北島治夫さんによると、
  ・オリジナルはニットー6225。
  ・再発ニットーS1028。
  ・北島さん所有の盤は、タイヘイT13(「夕焼小焼」の裏)戦後タイヘイ音響から出たも の。
 宮下晴子の独唱は、「草にそよそよ 小風が吹けば みんな可愛い 蝶ちょに なって〜」の歌詞。 

 ◆昭和十二年に日本蓄音器商会(コロムビアレコードの発売元)が出したレコード「日本童謡全集」Bの解説に、清水かつらは、次のような事を書いています。ここでも、なぜ「蝶ちょ」の歌詞を入れたかがわかります。
 「お母さまから皆さまへ。さうして、これからもなほ、ながくうたひつがれてゆくでありませう「靴が鳴る」のレコードは多分、皆さんのおうちにも、もうべつのがおありかも知れません。それで、こんどの日本童謡全集には、もとの歌のなかに新らしく、草のそよ風にひらひら舞ふ蝶の姿を、うたひそへておきました。どうでせう、レコードいっぱいに、うたつておどつて、野道をゆく小鳥と、蝶と、兎と、それは、ほんたうに樂しい、空にうつるトーキーではないでせうか」。

   草のそよ風
   足なみ かるく
   みんな
     可愛い 蝶ちょになつて
   丘を越えれば  
     靴が鳴る
   リれたみ空に  
     靴が鳴る


  曲名『靴が鳴る』
  編曲 佐々木すぐる
  歌手 東京府女子師範附属小学校児童
  伴奏 日本コロムビア管絃楽団
  レコード番号 コロムビア S127-A(M203011-2
  録音年月日 1937年4月30日
  発売年月日 1937年7月20日 (8月新譜:予約頒布)
  備考 日本童謡全集、第三回頒布分

 以上は郡修彦著『親子で読んで楽しむ日本の童謡』(KKベストセラーズ)による。

 ●出版物の中には、レコードの記述で、「日東蓄音器株式会社」と「日本蓄音器商会」とを混同しているものが沢山あります。これは違う会社です。

  しかし、「蝶ちょ」の歌詞は、流行りませんでした。発表以来二十年近くの間、「小鳥」と「うさぎ」の歌詞で愛唱されていたためです。
 『靴が鳴る』が、子供たちにどんなに愛唱されたかは、「おーてーてんぷら つないでこちゃん〜」、「おーてーてんぷら 食いすぎて あちゃこ先生に みてもらい ああ ああ もうだめだ 神経衰弱 脳膜炎〜」などの替え歌が作られ、歌い親しまれたことでもわかります。

 【レコード情報】
 以下のレコードは北島治夫さん所蔵です。
 ◆シャーリー・テンプル盤POLYDOR 2049は、『靴が鳴る』『夕焼小焼』『玩具のマーチ』『雀の学校』の四曲入り。シャーリー・テンプルは原譜に忠実に歌っていて、その日本語は、とても上手です。
 戦前の名子役でアイドルだったシャーリー・テンプルが日本語で歌うレコードは、アメリカ全土で知られていたようで、終戦から間もない日、清水かつらの埼玉県和光市の家に、「靴が鳴る」のファンだというアメリカ進駐軍の将校がジープに乗って訪ねて来て、酒を酌み交したという話は有名です。
 ◆ニットーレコード(マイクロフォンの使用による電気吹込)3660-A 歌・石井龜次郎。(伴奏 長谷山峻彦)は、歌詞カードには「みんなかはいゝ」と書いてありますが、「かー わあ いー」と原譜通り歌っています。
 裏面は『雀の学校』。
 ◆コロムビアC15 歌・香取みほ子 高橋祐子 狩谷和子(仁木他喜雄 編曲)。(歌のおけいこになっています)
 香取「みなさん、広い野原に かわいい小鳥が おもしろそうに遊んでいるで しょう。その小鳥になったつもりで、元気に歌いましょうね。 先生が一回歌います」(一番を歌う)
  「次は狩谷さん。もう一度一番ね」(狩谷和子一番を歌う)
  「大変おじょうずにできました。では、今度は、うさちゃんになってね。 はい、高橋さん」(高橋祐子 二番を歌う)。(三人で二番を歌う)。
 ◆コロムビアレコードCP-73 歌・松島トモ子。(堀江貞一 編曲)
  ・CPナンバーは8インチ盤の童謡・唱歌の「コロちゃんレコード」
  ・最後まで、八分音符二つ(タタ)の所を、(タッカ)のリズムで歌っている。

 ▲歌詞カード 振付 矢野信宏/北島治夫さん提供


会社 番号 歌手 備考
1 ニットー 3660 石井亀次郎 靴が鳴る
2 オリエント 2792 井上ます子 靴が鳴る
3 コロムビア C154 渡邉百合子 くつが鳴る
4 コロムビア C15 香取みほ子、高橋祐子
狩谷和子
靴が鳴る
5 リーガル 66249 福田信子 靴が鳴る
6 ポリドール 2409 シャーリー・テンプル Kutsu ga naru(靴が鳴る)
7 キング A3-1 渡辺典子 くつがなる
8 キング A3-1 椎木玲子 靴が鳴る 
「青い目の人形」参照
9 ポリドール 359 辻 由子 靴が鳴る
10 テイチク K-5 西尾四季子 靴が鳴る
11 タイヘイ T-13 宮下晴子 靴が鳴る
12 タイヘイ 3531 武井富美子 靴が鳴る
13 ポリドール F201 ポリドール児童合唱団 靴が鳴る
14 ツル 5263 中山桂子 靴が鳴る
15 コロムビア CP73 松島トモ子 靴が鳴る
16 テイチク T-19 西尾四季子 靴が鳴る K-5と別録音
7,8の同番号のレコードは「青い目の人形」のページにあります
10、16の西尾四季子は「夕焼小焼」の裏面で、これも「夕焼小焼」
のページにあるように、前者は10インチ(1・2番2回歌っている)、
後者は9インチ(2回目は1番のみ。2分28秒)
後者が再録でわずかに遅い(ゆっくり歌っている) 同じ編曲の伴奏
▲『靴が鳴る』 北島治夫さんSPレコード所蔵分
当時のレコード会社情報


▲A3-1 キング 「くつがなる」と表記      ▲C154 コロムビア 「くつが鳴る」と表記




 【昭和二十二年版の教科書での改作について】
 ところで、この歌を「の道を いけば」「みんな かわいい」「はれた お空に」と歌った記憶があるという人があります。それは、昭和二十二年の音楽教科書『二ねんせいのおんがく』に掲載の時、文部省が改作したためです。

  ・曲名は、ひらがなで「くつが なる」としました。

  ・原詩の「行(ゆ)けば」を「いけば」に、「可愛(かあー)い」を「かわいい(実際には「かー わあ いい」と歌う)」に、「み空」を「お空」に変えました。

  ・楽譜は二長調だったものがハ長調になっています。階名(ドードレミー)で歌いやすくしました。 いずれも、小学二年生にわかりやすいようにとの文部省の配慮でした。

 これにより、詩人の文学的感性は削除され、平凡な詩に変えられてしまいました。また、作曲者が意図した調性が違うと、声の張り上げ方が違ってくるので、曲としての印象が変わってしまいます。

 現在、二種類の楽譜が出版されているのはこのためです。




                              ▼昭和22年版『二ねんせいのおんがく』楽譜

 【昭和三十年版の教科書では】
 『一ねんせいのおんがく』(教育芸術社、昭和28年文部省検定、昭和30年発行)の楽譜を見ると、タイトルは「くつがなる」で、ハ長調。「いけーば」「かわーいい」「おそーら」になっています。

 
            ▲昭和30年版『一ねんせいのおんがく』楽譜

 【「み空」が「お空」になった事について作者は】
大正九年六月に、『み空の鏡』(弘田龍太郎 作曲)を雑誌『少女号』に発表している清水かつらにとっては、「み空」という言葉は重要な意味を持った大切な言葉だったのではないでしょうか。 一方、「み空」が「お空」に変えられて教科書に載った事について、弘田龍太郎は、昭和二十五年の『教育音楽』十月号の論文(前記参照)から、すでに了承していた事がうかがえます。

 【ヒットにはレコードの力】
 この曲のヒットにはレコードの力が大きく、日本のレコードの海外進出の先駆けにもなったほどです。「み空」で歌ったレコードが普及していたため、文部省が改作して歌わせた「お空」の方は定着しませんでした。現在は「み空」で歌われています。

 また、大正や昭和初期の子供たちにとって、「靴」が憧れの対象であったことも見過ごせません。私の両親(大正生まれや昭和初期)の世代の子供時代の履物は、下駄だったからです。鼻緒が切れると下駄を手に持ち、はだしで歩いて帰ることもしばしばだったそうです。田舎ではワラで草履を編んではくこともよくありました。昭和二十年代まで、そんな生活が普通だったのです。
 「靴が鳴る」音の浮き立つリズムのイメージと、憧れの靴のイメージは一緒になって、子供たちの想像力を刺激したことでしょう。

 【心の手つなぎ】
 かつらは、龍太郎と一緒に曲を作ったことについて次のように書いています。 「お手々つないで。それはまた、心をつなぐことであります。力をあはせることでもあります。『靴が鳴る』が、大正童謡を代表するほどの名曲になつたのも、弘田先生との手つなぎがよく、この童謡を生かしたのだと、私は信じます。・・・」
(「日本童謡全集3」、昭和12年、日本蓄音器商会より)。

 (註)清水かつらの研究者の別府明雄さんは、“弘田先生との手つなぎ・・・”について、「清水かつらが、少年時代から竹貫少年図書館に通い鹿島鳴秋と出会い、児童文学者の大井冷光宅を訪ねていたころ、弘田龍太郎は東京音楽学校在学中から竹貫少年図書館の隣の早蕨幼稚園の教室を使って開かれていた回字会に参加(久留島武彦が明治四十三年頃創設した回字会(口演童話と雄弁術の勉強会)から発展した「話方研究会」(昭和十三年)に名を連ねている)、弘田龍太郎も回字会の大井冷光宅を訪ねるなど、鹿島鳴秋を含め三人が古くから親しい間柄であったことを指していると思います」(2011年2月20日書簡)。
 ・・・弘田龍太郎の家は、向ヶ岡弥生町(現在・文京区弥生二丁目)にあり、本郷に住んでいた清水かつらはしばしば訪れていた。
 以上の事は、別府明雄著『あしたに 童謡詩人 清水かつら』(郁朋社)に詳しく書いてあります。

 【重要な言葉】
 「リれたみ空に 靴が鳴る」は、重要な言葉です。かつらが、残した次の言葉から、その事がわかります。  
 「・・・これからもなほ私は、この心で作曲の諸先生とよい童謡をたくさんに、うたひあげたいと思ひます。皆さんも、お手々つないで行きませう。皆さんが足なみそろえてゆく道は明るく、コドモニッポンの空は、いつも空です。さあ、お手々つないで進みませう。けふも、仲よくあしたも」(「日本童謡全集3」、昭和12年、日本蓄音器商会より)。
  『靴が鳴る』は、かつらの願いどおりみんなの心をつなぎ、時代を越えて歌われています。
 清水かつら・弘田龍太郎のコンビでは、ほかに『叱られて』『あした』『雀の学校』などがあります。いずれもみんなの愛唱歌です。
 酒好きだった二人は、深夜まで杯を酌み交わすことも多かったようです。童謡の事などを話し合ったのでしょうか。

  【平凡な替歌を発表】
 「幼倶遠足会の歌」は、雑誌『幼年倶楽部』昭和十一年七月号に発表しています。「靴が鳴る」のメロディーで歌うようになっています。しかし、「靴が鳴る」のようなヒットにつながる言葉がありません。心に響くものがない平凡な替歌を発表してしまいました。この詩には良い所がありません。

    幼倶遠足会の歌   作詞 清水かつら

  お手手つないで 仲よし小よし
  きょうは幼倶の 遠足会よ
  晴れてうれしい 野に山に
  おいでおいでと 鳥がなく

 【清水かつら略歴
  ・明治三十一年(1898年)七月一日、東京市深川区(現・江東区)の士族の家に長男として生まれました。本名は、桂(かつら)です。二歳の時、弟が生れますが、二年後に亡くなってしまい、母(たけ)は精神面での治療が必要になり、かつらが四歳の時、実家に帰されました。この時から母の愛のない孤独な少年時代を過ごしました。
  ・明治三十八年(1905年)、一家は本郷区本郷元町二丁目三十二番地(現・文京区本郷二丁目十五番)から、本郷区春木町一丁目三十五番地(現・文京区本郷三丁目十七番辺り)に転居。四月、私立習性尋常高等小学校(本郷)に入学しました。
  ・明治四十年(1907年) 雑誌『少年世界』『少年』などを愛読。この頃から竹貫少年図書館(現・渋谷区神宮前)に参加。竹貫佳水・久留島武彦・巌谷小波・鹿島鳴秋などと出会う。
  ・明治四十三年(1910年)、かつらが小学校六年生の時に新しい母(あさ)を迎えました。あさの実家は、埼玉県北足立郡新倉村(現・埼玉県和光市新倉)の農家でした。
  ・明治四十四年(1911年)、三月、私立習性尋常高等小学校尋常科卒業。四月、私立京華商業学校予科(本郷)入学。
  ・大正二年(1913年)、三月、私立京華商業学校予科(現・京華商業高等学校)を修了したかつらは、四月、青年会館英語学校(現・千代田区神田美土代町)に入学。

▲『あした』の改訂版(2005年)。

  ・大正五年(1916年)、九月、青年会館英語学校中退。東京市神田区表神田二番地(現・千代田区神田小川町三丁目三番)にあった玩具と書籍の合資会社、中西屋書店出版部に就職しました。中西屋は丸善の洋書専門店として設立され、革命的な絵本の発行で知られていました。少年少女向けの雑誌に目を向けた中西屋書店は、雑誌を刊行するために鹿島鳴秋が編集長兼発行人の「小学新報社」を創設しました。その「小学新報社」で、鹿島鳴秋や山手樹一郎と雑誌『少女号(大正五年創刊)』はじめ、『幼女号(大正七年創刊)』『小学画報(大正九年創刊)』などを発行し、編集に携わりました。当時は、作家に原稿を依頼するだけでなく、編集者も原稿を書いていたので、鳴秋やかつらは、毎号のように新作の童謡や童話、小説を発表していました。かつらは、今でも歌われている『靴が鳴る(大正八年十一月「少女号」に発表)』『叱られて(大正九年四月「少女号」に発表)』『あした(大正九年六月「少女号」に発表)』『雀の学校(大正十一年二月「少女号」に発表)』などの作品を次々『少女号』に発表しました。鹿島鳴秋は、『濱千鳥』『金魚の昼寝』『お山のお猿』『お家忘れて』などの作品で知られています。
  ・「小学新報社」は、『少女号』創刊の頃、東京府豊多摩郡渋谷町中渋谷三百九番地にあったが、大正九年(1920年)十一月に神田駿河台南甲賀町(現・千代田区駿河台三丁目)に移転。
  ・大正十二年(1923年)三月、「郊外社」で『郊外』の編集を担当。五月、父親に先立たれた上、九月の関東大震災で家屋・家財を全て焼失しました。母と幼い弟六人を抱えて埼玉県北足立郡新倉村(現・和光市新倉)に避難しました。二十五歳のかつらには重い負担でした。大正十二年九月に七男(四歳)、大正十三年五月に三男(小学五年生)が死亡。
  ・大正十四年(1925年)、埼玉県北足立郡白子村九二二番地(現・和光市白子三丁目十九番)に移転。
  ・大正十五年(1926年)、「小学新報社」が「新報社」に改称。すでに大正十三年に鹿島鳴秋退社。大正十四年に山手樹一郎退社。
  ・昭和二年(1927年)、かつらも「新報社」退社。「郊外社」退社。
  ・昭和三年(1928年)、財団法人社会教育協会編集主事に就任。大日本連合女子青年団機関紙「処女の友」を編集。
  ・昭和八年(1933年)四月、私立花岡学院講師に就任。
  ・昭和十二年(1937年)、埼玉県北足立郡白子村九〇八番地(現・和光市白子二丁目二十一番)に移転。十二月、日本音響株式会社音盤部に入社。ビクター・レコードの専属作詞家となり、レコード童謡や歌謡曲の作詞も行った。
  ・昭和二十六年(1951年)七月四日、脳溢血のため五十三歳で亡くなりました。
 東京都文京区本駒込のかつらの菩提寺・吉祥寺の墓前には、「清水かつらここに眠る」と記された碑があります。
 亡くなるまでの約三十年間を和光市で過ごし、詩作活動に努め、約二百篇に及ぶ作品を残しました。
 以上は、別府明雄編『あしたに』(郁朋社、2005年。2002年『あした』の改訂版)と、石井昭示著『文京ゆかりの作詞・作曲家―唱歌・童謡―』(文京区教育委員会発行)を参考にしました。ともに、すぐれた文献です。

 【弘田龍太郎の略歴】 別記しました。


著者より引用及び著作権についてお願い】   ≪著者・池田小百合≫

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濱千鳥

作詞 鹿島鳴秋  
作曲 弘田龍太郎

池田小百合なっとく童謡唱歌
(2009/09/29)

池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より

 【千鳥は鳴秋の姿】
 夜啼く千鳥の声は、親のない子が月夜に親を求めて探しているのだという昔からの言い伝えがあります。
 作詞者の鹿島鳴秋は六歳の時に両親と生き別れ(父は行方不明、母は再婚)、祖父母に引き取られて育ちました。幼い日々、鳴秋の親を慕う気持ちは消えることがありませんでした。鳴秋が、千鳥の鳴く寒い冬の晩の情景を、「親をさがして 鳴く鳥が」「親をたづねて 海こえて」と、自分の生い立ちと重ね合わせて書いた詩です。
 作詩をしたとされる大正八年六月頃の鹿島鳴秋は、雑誌『少女号』の編集長兼発行人として充実した日々を過ごしていました。家庭も円満でした。新潟県柏崎に旅行する余裕もでき、海岸で過去の悲しみから開放されてできた詩がこの「濱千鳥」です。

 【千鳥は冬の季語】
 俳句では、千鳥は冬の季語として定着していますので、この歌を夏に放送したラジオ局に苦情が殺到したと聞いた事があります。
 浜千鳥の他に、磯千鳥、島千鳥、川千鳥、郡千鳥、遠千鳥、夕千鳥など三文字の季語や、小夜千鳥、夕波千鳥、月夜千鳥など四文字の季語もあります。 俳句を作る人は、これらの季語にイメージをかきたてられ一句詠んでみたい気もちになるのでしょう。芭蕉や蕪村、一茶も優れた句を残しています。  

    星崎の闇を見よとや啼千鳥   芭蕉
     磯千鳥足をぬらして遊びけり   蕪村
    声々や子どもの交じる浜千鳥  一茶

 もっとも、千鳥はチドリ科の鳥の総称で、イカルチドリ、シロチドリは留鳥で、コチドリは主として夏鳥として飛来し、その一部は日本で越冬します。メナイチドリ、ダイゼン、ムナグロなどは旅鳥です。つまり、チドリは、どの季節でも見ることができるのです。

 【ロマンチックな曲】
 鹿島鳴秋が書いた七・五調の詩を、弘田龍太郎が日本に昔からあるファとシを抜いた五音音階で、当時としては珍しい三拍子のワルツの曲として仕上げたので注目を集めました。
 「あーお いーつ きーよ のー」とわかりやすいリズムの繰り返しなので、誰にでも覚えられます。 また、分散和音の伴奏は、波のうねりを表現していて、青い月夜の浜辺をさまよう、千鳥のさびしい美しさがあふれています。このロマンチックな歌は、当時の女学生に人気の高い歌でした。

 【発表時期】
 「濱千鳥」の発表時期は、いつでしょうか。
  ・「大正八(一九一九)年の『少女号』十二月号に発表された詩に、大正九(一九二〇)年四月、弘田龍太郎が作曲した」(海沼実著『童謡 心に残る歌とその時代』NHK出版による)。
  ・「大正八年に鹿島鳴秋が発表した詩に、翌九年になって弘田竜太郎が曲をつけたもの」(毎日新聞学芸部著『歌をたずねて』(音楽之友社)による)。
  ・「大正九(一九二〇)年、雑誌『少女号』の新年号で発表された」(『NHK日本のうた ふるさとのうた100曲』講談社による)とするものなどさまざまです。

 それで、調べてみる事にしました。 まず、大正八年の『少女号』(小学新報社)十二月号と、大正九年の一月号を所蔵している図書館を探しましたが、いずれも見つけることができませんでした。しかし、「靴が鳴る」と同様に『少女号』という雑誌は、まず詩を掲載し、次の見開きに楽譜を掲載するのが通例でした。つまり、詩と楽譜はたいてい同時に発表されています。

 ◎『あしたに』の著者・別府明雄さんから、雑誌『少女号』大正九年二月号(日本近代文学館所蔵)の78ページ編集後記に、『濱千鳥』(新年號掲載)と記されていることを教えていただきました(2004年12月6日)。
 これで、発表は雑誌『少女号』大正九年一月号(新年号)と判明しました。
 掲載月と作曲月が同じ記録(大正九年一月)になっているものがあるのは、便宜上そうしたようです。これでは、だれが見ても混乱します。しっかりした記録を残してほしいものです。

              ▼雑誌『少女号』大正九年二月号(日本近代文学館所蔵)の78ページ編集後記

   ▲「鹿島先生の『濱千鳥』(新年號掲載)」と記されている。別府明雄さん提供

  【『少女小曲集 濱千鳥』に収録】
  『少女小曲集 濱千鳥』の奥付には次のように書いてあります。
  ・大正十年十一月二十五日発行、大正十一年四月一日再版発行、大正十一年九月十五日三版発行。
  ・著作者 弘田龍太郎、清水桂。
  ・発行者 鹿島佐太郎。 ・発行所 小学新報社
  ・本田庄太郎 畫。この「濱千鳥」の挿絵は有名。

▲表紙 本田庄太郎 畫、まつ毛に特長がある。
▲目次 本田庄太郎 畫、鳥の羽の先に特長がある。
▲扉   本田庄太郎 畫
▲挿絵 本田庄太郎 畫

  本田庄太郎は、明治二十六年、静岡県敷知郡浜松町平田(なめだ)(現・浜松市中区平田町)に生まれる。昭和十四年逝去。享年四十六歳。 「美術学校を出ていないため、他から軽く見られ、酒びたりになって道で倒れ、早く逝ってしまったのが残念です」これは、挿絵や雑誌 映画のポスターのコレクター遠藤憲昭の言葉。
  ・内容曲目  楽譜の右下に作曲年月日が書いてある。
   「濱千鳥」  大正八年十一月廿四日作曲
   「叱られて」 大正九年二月十九日作曲。
   「桐の雨」  大正九年三月廿三日作曲。
   「唖雲雀」  大正九年一月作曲。
   「あした」  大正九年四月廿五日作曲。
   「親なし鳥」 大正八年八月廿二日作曲。
  この楽譜集を、今まで、だれも確認していなかった。資料の重要性をつくづく感じます。

  ≪まとめ≫
  ・大正八年六月頃、鹿島鳴秋が柏崎の海岸で作詩。
  ・弘田龍太郎が作曲。●便宜上(大正九年一月)となっているのは間違い。 大正八年十一月二十四日作曲。
  ・雑誌『少女号』大正九年一月号(新年號掲載)。
  ・弘田龍太郎作曲『少女小曲集 濱千鳥』(小学新報社)大正十年十一月二十五日発行に収録。

  (註)鹿島鳴秋自筆のメモには、「浜千鳥 弘田 大正9年1月」と書いてあります。
  これは、『少女号』大正9年1月号に掲載の意味でしょう。


  【鹿島鳴秋の略歴
  「濱千鳥」の美しい詩とは対照的に、作詞者の鹿島鳴秋の生涯は不幸の連続でした。
  ・鹿島鳴秋は、明治二十四年(一八九一年)五月九日、東京市深川区東大工町(現・東京都江東区白河二丁目)で生まれました。本籍は江東区深川白河町二一二番地。本名を佐太郎といいます。
  ・六歳の時、父が家出をし、母は再婚し他家に嫁いだので、祖父母に育てられました。やがて祖父が他界し、祖母も二十一歳の時、世を去りました。
  ・苦学して夜間の商業学校を卒業。外国商社に勤めたこともある。
  ・明治四十三年、処女作童話「塔の姫」が「毎日電報」(現在の毎日新聞の前身)に当選し、その選者であった巌谷小波に師事して児童文学にすすんだ。
  「俳句をよくし鳴雪の一字をとって筆名にしたという」(鮎川哲也著『唱歌のふるさと旅愁』(音楽之友社)による)。
  「鳴秋という筆名は、正岡子規門下の俳人の内藤鳴雪の一字をとったといわれています。俳句にも親しんでいました」(国文学第49巻3号『日本の童謡』(學燈社)「浜千鳥」の解説・鑑賞ページ 植山俊宏による)。
 (註)清水かつらの研究者の別府明雄さんによると、「鹿島鳴秋と内藤鳴雪の関係を探しましたが、わかりませんでした。ただ、鹿島鳴秋も清水かつらも俳句が好きであったことは確かです。特に、かつらは岡野知十の門下生で同人誌『半面』の編集もしていました」(2011年2月20日書簡)。
  ・丸善に勤務していたが、大正五年(一九一六年)、中西屋書店で新たに小学新報社を設立し少女雑誌『少女号』を発行することになったので、編集長兼発行人として迎えられた。そこで童謡作家の清水かつら(『靴が鳴る』の作詞者)と共に後世に残る仕事をします。
 『少女号』の創刊は、雑誌『赤い鳥』(赤い鳥社)より早く大正五年十一月です。小学新報社では『少女号』のほか、『幼女号』『小学画報』『タカラノクニ』『少女文芸』などを発行した。
  ・大正八年六月頃、鹿島鳴秋が新潟県柏崎で「濱千鳥」を作詩。仕事が充実し、旅行もできるほど余裕ができた時です。この頃、浮間村(現・北区浮間)に家を新築し、鹿島一家が一番幸せな時代だった。
  ・大正十五年頃、小学新報社を退社。六文館を創立。自身の児童雑誌『少女界』を発行しましたが、不振により浮間の自宅を売却するまでになりました。
  ・昭和五年頃、長男が誕生するが、事業の失敗から妻と長男とは別居している。
  ・娘の昌子が肺結核であったため、保養の目的で千葉県の和田浦に移るが、昭和六年、ここで昌子は十九歳の生涯を閉じた(註・満年齢と数え歳があるため、二十歳で死去と書いてあるものもある)。
  ・浮間の自宅を売却したので、和田浦で知り合った安田耕一の家の居候になりました。
 ★安田耕一によると「やがて羽振りのいい友人をたよって満洲にわたった。当初は妻子に送金するのも困難なようでしたが・・・」(鮎川哲也著『唱歌のふるさと旅愁』(音楽之友社)による)。
 ★別府明雄著『あしたに 童謡詩人 清水かつら』(郁朋社)ほか多くの出版物では「新聞社の招きで満洲に渡り」と書いてある。
 ★★事実はどうだったのでしょう。
  ・昭和十一年、再起を期して単身満州に渡り、「満州日日新聞」文芸部に勤め童話や童謡を書き安定した収入を得ました。大連で、「ハナ」と再婚。
  ・昭和二十二年、敗戦で帰国してみると先妻と一人息子が戦災で亡くなっていました。外地で書いた作品が講談社から出版されて、生まれて初めてという高額の印税が入りましたが、悪い仲間に誘われ賭け事をして一夜にして失くしました。
  ・その後、埼玉県浦和市(現・さいたま市浦和区前地)に住んで、コロムビア専属となって、童話、童謡、少女詩劇の創作に従事していたが、貧しい生活だったようです。
  ・晩年は、後妻「ハナ」とともに埼玉県北足立郡白子村(現・和光市白子)の清水かつらの家の二階に滞在していました。滞在中、胃を患い目黒区五本木二丁目の安田病院で手術を受けましたが、胃に大きな孔があいていて、手遅れだったそうです。
  (註)安田病院は、和田浦で知り合った安田耕一の病院。安田耕一は後に千葉県和田町(現・南房総市和田町)の花園海岸に歌碑を建てた時の中心人物「建碑の言葉」を書いた。
  ・昭和二十九年六月七日、六十三歳で亡くなりました。葬式の費用に事欠きましたが、友人や出版社の香典で盛大な葬式を出すことができました。葬式の席で、川田正子・孝子姉妹が「濱千鳥」を歌って送りました。 清水かつらとは、同郷で似たような境遇との事で酒をくみかわし、大変気が合う仲だったようです。
 鹿島鳴秋については、詳細が明らかになっていません。
 以上は、別府明雄著『あしたに 童謡詩人 清水かつら』(郁朋社)と、鮎川哲也著『唱歌のふるさと旅愁』(音楽之友社)を参考にしました。いずれも、文献としてすぐれています。

  【私の愛唱歌・川田正子】 
 鹿島先生は海沼先生と親交があり、葬儀に参列しました。この時、御遺族のたっての希望で「浜千鳥」を歌いました。鹿島先生が一番好まれていた作品だったということでした。・・・歌いながら泣けてきて、胸がいっぱいで声が出なくなりました。以来、私にとっては特別な一曲となっています(川田正子著『童謡は心のふるさと』(東京新聞出版局)より抜粋)。

  【弘田龍太郎の略歴】 作曲者の弘田龍太郎は、鹿島鳴秋とのコンビで「お山のお猿」「お家忘れて」「金魚の昼寝」なども作っています。
  ・明治二十五年(1892年)六月三十日、高知県安芸郡土居村(現・安芸市土居)で生まれました。
  ・明治三十一年(1898年)、父弘田正郎の千葉県師範学校校長就任により同附属小学校へ入学。
  ・明治三十五年(1902年)十一月、父の三重県立第一中学校校長(現・津高等学校)転任により津市へ転居。
  ・明治三十八年(1905年)四月、三重県立第一中学校に入学。在学中より音楽的才能を認められる。
  ・明治四十三年(1910年)三月、同校を卒業。四月、東京音楽学校(現・東京藝術大学)予科に入学。
  ・大正三年(1914年)三月、東京音楽学校本科器楽部ピアノ科を卒業。研究科に進む。
  ・大正五年(1916年)三月、同校研究科器楽部修了。四月、同校授業補助となり、さらに文部省邦楽調査委員を委嘱される。
  ・大正八年(1919年)三月、東京音楽学校研究科作曲部修了。四月、同校講師となる。本格的に作曲活動を開始。鈴木三重吉、北原白秋を中心とした雑誌『赤い鳥』にも参加。
  ・昭和三年(1928年)二月、文部省在外研究員として家族とともにドイツ・ベルリン大学に留学、ピアノと作曲を学びました。
  ・昭和四年(1929年)六月、ドイツより家族とともに帰国。七月、東京音楽学校の教授になりましたが、二ヶ月で辞任し作曲に専念。
  ・昭和十四年(1939年)、日本大学江古田校舎の芸術科において教鞭をとる。
 作曲活動のかたわらNHKラジオの子供番組の指導や児童合唱団の指揮、指導に当たる。
  ・昭和二十一年(1946年)十二月、日本音楽著作権協会監事に就任。
  ・昭和二十二年(1947年)三月、長女・妙子夫妻が開いた「ゆかり文化幼稚園」(世田谷区砧)の初代園長に就任。この後、幼児教育にたずさわり、放送講習会、リズム遊びの指導にあたる。
  ・昭和二十五年(1950年)三月、名古屋女学院短期大学音楽主任、東京・宝仙学園短期大学教授音楽主任に就任。
  ・昭和二十七年(1952年)十一月十七日、病のため東京本郷弥生町の自宅で、六十歳で亡くなりました。

▲はまちどり/絵は上河辺(かみこうべ)美知子。「童謡画集(5)」1958年6月30日刊,講談社より


▲昭和35年12月 講談社の絵本『童謡画集(4)』より 蕗谷虹児画


 【歌碑について】
  『浜千鳥』の歌碑は各地にあります。
 ◆昭和三十六年七月、柏崎海岸公園((現・アクアパーク駐車場)に記念の歌碑が建てられました。現在は「みなとまち海浜公園」内に移設されている。観光協会が中心になって作ったもので、鳴秋の自筆が四枚の銅版になってはめ込まれている。句読点はない。

   青い月夜の
   濱べには
   親をさがして
   鳴く鳥が

   波の國から
   生れ出る
   濡れた翼の
   銀のいろ

   夜鳴く鳥の
   悲しさは
   親をたづねて
   海越えて

   月夜の國へ
   消えて行く
   銀の翼の
   濱千鳥

  「濱千鳥」は、次のようにしてできたようです。
 「桑山太市さんは大体次のような話をして下さった。・・・それは大正八年六月頃の話であった。桑山さんと文学友達で雑誌『少女号』の編集局長をしていた鹿島鳴秋氏が柏崎の桑山さんのところへブラリと遊びにやってきた。越後タイムス社の中村葉月さんも一緒であった。若い三人は裏浜から番神海岸をあてどもなく歩いた。貝がらを拾ったり海藻をとったりして遊んだ。きれいに晴れわたってはいるが、どこかメランコリックな日本海の色は、若い鹿島氏の詩情をかきたてた。番神海岸で彼はポケットから小さな手帖を取り出しエンピツでしきりに何か書きつけていた。桑山さんは『何か出来たら見せて下さい』とせがんだ。すると書き終わった鹿島さんが笑いながら『こんな童謡ができたよ』と手帖をみせてくれた。それには『青い月夜の浜辺には・・・』というあの浜千鳥の詩が書かれていた。・・・鹿島氏は数年して又柏崎の桑山さんを訪ねて来た。その時はすでに浜千鳥の歌が一世を風靡していた。この詩を一メートル半ぐらいの紙に書いた。そこへ桑山さんが波と千鳥の絵を書き込んだ合作を桑山さんの手もとへ残して行った。桑山さんはそれを数年前に柏崎市中通り中学の音楽教師、須田七郎さんにゆずったというのである。私は早速須田先生の家を訪ねて、鹿島さんの直筆の詩を見せてもらい写真を撮った。桑山さんが書いたという波の絵はすでに数十年の歳月によって消されていた。・・・」(越後タイムス掲載 川崎吉近著「浜千鳥のふる里(上)」昭和35年8月7日より)。以上の文章は、文献としてあらゆる出版物に使われていますが、これは桑山太市さんから直接聞いた話を、新潟日報柏崎支局長・川崎吉近が物語風に書いたもので、その場にいたわけではない。
 このいきさつは碑建立のきっかけにもなった。歌碑を柏崎浜に建立しようという運動は、柏崎観光協会が主体となり建設委員会が結成された。歌碑の文字は鹿島鳴秋の直筆。昭和三十六年(1961年)七月二十二日に鳴秋未亡人を招いて除幕式を行った。

 ≪桑山太市と鹿島鳴秋との関係≫ 昭和41年2月20日越後タイムス「千客万来」に桑山太市自身が「鹿島鳴秋さん」という文章を寄せている。それによると、「鹿島鳴秋と知り合いになったのは、大正のごく初めごろ、俳句を作っていた頃。下谷、三の輪の梅林寺喜谷六花のお寺で、毎月開かれていた河東碧悟桐を中心とする日本派の句会で知り合ったのだという。当時、鹿島鳴秋は、駿河台下中西屋書店の裏手「小学館」に勤務。少年少女の雑誌「少女号」「幼女号」を編集しておられた。鹿島鳴秋に童話の原稿を買って貰い(原稿は一枚二十銭だったようです)、酒代にあてていた」という。
 ●文中の「小学館」は間違い。「小学新報社」が正しい。  そんな関係から、桑山太市が夏休みに国もとに帰って来た時、鳴秋も二、三度、柏崎に遊びに来て、太市宅に泊まった。そして「浜千鳥」の歌ができた。  

 ≪カモメの群れがいた≫ 「・・・むろん、番神浜に千鳥はいない。カモメの群れがいたが、詩人の想像力は銀の翼の浜千鳥の世界に遊んだのだろう―桑山太市氏はこう話している」(昭和35年5月29日越後タイムス"浜千鳥"の番神浜より)。

 ◆昭和四十一年三月二十日、鹿島鳴秋が一時期妻子と共に暮らした千葉県和田町の花園海岸にも町の有志により記念の歌碑が建てられました。鹿島鳴秋の自筆一番のみ。句読点はない。「生まれ出る」と「ま」の字を入れた新かなづかいを用いている。
 娘の昌子は、肺結核と診断され和田浦に転地して療養生活を送ったが、この地で亡くなっています。

     歌碑    (表)

   青い月夜の
   濱べには
   親をさがして
   鳴く鳥が
   波の国から
   生まれ出る
   濡れた翼の
   銀のいろ   
      鹿島鳴秋

 昭和四十年十二月、安田耕一が書いた「建碑の言葉」歌碑(裏)は次のようです。

    建碑の言葉
  土用波が荒れる頃
  磯辺の千鳥が月に消えて
  海がめが卵を生みにくる
  此の土地は
  鳴秋が人情の素朴を愛した
  たった一人の娘 昌子さんが
  若くして和田浦で逝った
  それ以来 彼の切々たる
  傷心から「浜ちどり」や
  「夜の貝」等の歌詩が
  此の海岸の街で生れた
  父と娘だけのつながりの
  世界に 此の碑を建立して
  霊を慰めたい。
   終わりに多くの人々の心からの
   喜捨を感謝  合掌
  昭和四十年十二月  安田誌
                   世話人代表
                    那須辰造
                    小村三千三
                    川村純子
                    平田亀一郎
                    安田耕一
                花園区代表
                    安田稔  

 上記「建碑の言葉」は、松尾健司著『うたのいしぶみ―歌曲集1』昭和52年4月発行より。
 歌碑には昭和四十年十二月とありますが、実際に除幕式が行なわれたのは翌四十一年三月二十日の事でした。

 ≪「建碑の言葉」を書いた安田耕一≫ 和田浦の出身、東京都目黒区五本木二丁目に開業した医者で、鹿島鳴秋を誰よりもよく知る人です。安田と鹿島一家の関係は次のようです。

 「大正時代の和田浦に鳴秋夫婦が漁師の家のひと間を借りて避暑にくるようになっていた。丸顔の目のくりっとした昌子さんと、近所に住む安田少年は仲よしになり、ついでに夫妻とも知り合った。当時の鳴秋は、『少女界』や『小学生新聞』を発行、それが軌道に乗っていた頃で、一家は幸福そのものだった。浮間村(現・北区浮間)に家を新築している。しかし、その幸福は長続きせず、昌子が肺結核と診断され、和田浦に転地して療養に努めたが、その甲斐なく亡くなってしまった」。(鮎川哲也著『唱歌のふるさと旅愁』(音楽之友社)より抜粋)。
 ★昌子が亡くなったのは昭和六年、享年十九歳。「濱千鳥」の発表は雑誌『少女号』大正九年一月号(新年号)ですから、安田耕一が書いた「建碑の言葉」は奇妙です。この建碑の言葉からは、千鳥に託した愛娘への切々たる哀情から「濱千鳥」が生まれたととれる。
  ・鹿島鳴秋は「体の弱かった一人娘を亡くした悲しみをテーマに作詞した」と自身でも言っていたようなので、それをふまえて安田耕一は書いたのでしょうか。この鹿島鳴秋の言葉は、晩年、鹿島鳴秋自身が事実を混同して語っていたといわれる。
  ・前記の鮎川哲也著『唱歌のふるさと旅愁』の和田浦での文を読むと、「昌子に対する安田少年の思いが入ったのではないか」とも思えます。
  ・それとも、安田耕一は本当に≪濱千鳥≫が『少女号』に発表されたのが大正九年と承知していなかったのでしょうか。
 ★『唱歌のふるさと旅愁』(音楽之友社)の著者鮎川哲也は、安田耕一に直接会ってインタビューをしています。しかし、「建碑の言葉」については、なにも質問していません。この時だったら話を聞けたのですが残念です。本当の事を聞いてほしかった。
 ●鮎川哲也著『唱歌のふるさと旅愁』72ページに(「赤い鳥」に発表されたのは大正九年のこと)と書いてあるのは間違いで、『少女号』に発表が正しい。
 ●『NHK日本のうた ふるさとのうた100曲』(講談社)の「昭和五(一九三〇)年に一人娘の昌子を亡くし」は間違い。昌子が亡くなったのは昭和六年です。
 ●『別冊太陽 子どもの昭和史 童謡・唱歌・童画100』の「昭和四十八年に和田町が建てたもの」は間違い。和田町の歌碑は昭和四十一年三月二十日、町の有志により記念の歌碑が建てられた。 さらに、「『浜千鳥』の上品な、しかし、もの悲しさの漂う歌詞は、体の弱かった一人娘に先立たれた鳴秋自身の親こころを盛り込んだ作品であるという」とある。これも間違い。

 ◆作曲者の弘田龍太郎の故郷、高知県安芸市下山の大山岬に波を模ったユニークな歌碑があります。  大山岬の歌碑→
 
  『弘田龍太郎ふる里の心をうたう』という旧冊子には「昭和54年4月設置」と書いてある。
  『童謡の里安芸 弘田龍太郎』という新冊子には「昭和53年6月建立」と書いてある。●どちらかが間違っている。
 多くの出版物やCDの解説には「昭和54年4月設置」が使われています。

 ◆弘田龍太郎が少年期を過ごした三重県の津高校校庭にも歌碑があります。

 ◆山口県熊毛郡田布施町の「ふるさと詩情公園」にもみんなの愛唱歌としての歌碑があります。


著者より引用及び著作権についてお願い】   ≪著者・池田小百合≫

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金魚の晝寢

作詞 鹿島 鳴秋 
作曲 弘田龍太郎

池田小百合なっとく童謡・唱歌
2010/12/13


 夏になると童謡の会で、リクエストのある童謡です。夏の昼下がり「金魚の晝寢」を歌うと、のんびりした時間が過ぎて行きます。

 【歌詞について】
 昼寝をしている金魚に呼びかけた、かわいい歌です。
  一番の「赤いべべ着た」の「べべ」は、室町時代から使われていた幼児語です。「お眼(めゝ)」も幼児語です。 二番の「あぶく」は泡のことです。うとうと昼寝をしていて夢を見ていた金魚ですが、「あぶくを一つ」して、きっと目がさめたのでしょう。
 単純な歌詞です。幼児童謡は大人の思惑が入っていないものほど優れていると思います。この歌が愛唱される理由の一つでしょう。

 【曲について】
  ・へ長調 四分の二拍子、一部形式で、歌いやすい旋律です。
  ・リズムは大部分が八分音符の連続ですが、「かわーいい」と「するーぞ」の二ヶ所にある十六分音符のリズムの変化が、この曲を、いっそう可愛らしい感じにしています。

 【初出】
 この歌の初出はいつでしょうか?
 高橋かおる・安達万里子(まめ工房)編集『ふるさとの歌がきこえる 「わらべの歌」てるてる坊主てる坊主』(ピエ・ブックス。2004年2月13日発行。小原直写真) には次のように書いてあります。
 ●“大正8年『赤い鳥』掲載。鹿島鳴秋は大正5年に創刊された『少女号』の編集長、弘田龍太郎も同じく『少女号』に多くの曲を寄せています。作詞作曲ともにライバル誌の看板作家というのは興味深いことです”
 ここに記されたように、初出は、大正8年『赤い鳥』なのでしょうか? 調べてみました。

 【『少女号』に掲載された名曲】
 まず現存している『少女号』に掲載された、鹿島鳴秋作詞・弘田龍太郎作曲の名曲を見ましょう。
  ・「お山のお猿」『少女号』大正八年九月号
  ・「濱千鳥」『少女号』大正九年新年号
  ・「お家わすれて」『少女号』大正十一年四月号

 【掲載誌は『赤い鳥』ではない】
 「金魚の晝寢」は、大正八年『赤い鳥』には掲載されていません。ピエ・ブックス本の記述をよく見ると、“大正8年『赤い鳥』掲載”と書いてあるだけで、何月号に掲載されたのか書いてありません。これでは「金魚の晝寢」の解説とはいえません。
 次に、『赤い鳥 鈴木三重吉追悼號(第十二巻第三號)』昭和十一年十月一日発行第六十九號(赤い鳥社)の付録「赤い鳥」総目次を見ても、「赤い鳥」に鹿島鳴秋の作品はありません。『少女号』の主筆、鹿島鳴秋が、ライバル誌『赤い鳥』に作品を出すはずがありませんから、当然です。
 一方、弘田龍太郎は、『赤い鳥』でも成田為三、近衛秀麿、草川信らと作品を発表して活躍しています。北原白秋に気に入られていたのでしょう。
 弘田龍太郎には「赤い鳥』掲載の童謡名曲があります。
  ・「こんこん小山の」北原白秋作詞『赤い鳥』大正十年八月号
  ・「うさうさ兎」北原白秋作詞『赤い鳥』大正十二年一月号
  ・「子どもの村」北原白秋作詞『赤い鳥』大正十三年二月号

 【『赤い鳥』掲載の「金魚」】
 では、いったいなぜ「赤い鳥」に掲載されたという記述が通用していたのでしょうか。
 大正八年の『赤い鳥』を、調べてみました。すると、大正八年六月号『赤い鳥』(赤い鳥社)に、北原白秋の創作童謡「金魚」が掲載されていました。この童謡はミステリーにも使われたことのある有名なものです。
 タイトルだけで、「金魚」と「金魚の晝寢」を間違えた可能性があります。右は『赤い鳥』大正八年六月号表紙。


▲北原白秋の創作童謡「金魚」

 
 【作曲は大正八年七月】
 「金魚の晝寢」は、弘田龍太郎 童謡曲譜集『お山のお猿』(小学新報社)大正十年(1921年)十一月二十五日発行に収録されています(国立音楽大学附属図書館所蔵1925年3月25日4版)。

▲楽譜の下には(一九一九年七月作曲)と書いてあります

▲二匹の金魚の挿絵は本田庄太郎
【金魚の色は「赤」だった】 清水かつらの研究者の別府明雄さん所有の童謡曲譜集『お山のお猿』弘田龍太郎作曲(小学新報社)大正十年十一月二十五日発行(初版)を、全ページコピーさせていただきました(2011年2月16日)。ありがとうございました。
童謡曲譜集『お山のお猿』全
▲「金魚の晝寢」鹿島鳴秋作 本田庄太郎絵 カラーでコピーすると、「黒のシルエット」と思っていた二匹の金魚は、実際には「赤い金魚」だった。さらに、大きい金魚には「あぶく」が七つ、小さい金魚には「あぶく」が四つ描いてある。 国立音楽大学附属図書館から複写していただいた資料は白黒だったので,そこまでわかりませんでした。国立音楽大学附属図書館も、カラーコピー機を導入して頂けたらと思います。

 【作曲は本当に大正八年七月なのか?】
 童謠曲譜集『お山のお猿』弘田龍太郎作曲(小学新報社。大正十年十一月二十五日発行)には、全八曲が収録。
 「金魚の晝寢」の他、「お山のお猿」も収録してあります。
  ・「金魚の晝寢」の楽譜の下には(一九一九年七月作曲)と書いてある。
  ・「お山のお猿」の楽譜の下には(一九一九年九月作曲)と書いてある。
 他の曲には、作曲の日にちまで書いてあるのに、この二曲には書いてありません。なぜでしょうか?

 <「お山のお猿」の作曲時期の考察>
  「お山のお猿」の楽譜の下には(一九一九年九月作曲)と書いてありますが、実際に雑誌『少女号』に掲載されたのは大正八年(1919年)九月号です。掲載号と同じ月に作曲されたことになっていて、これは、おかしな記述です。初出雑誌掲載年月と作曲年月が同じ(大正八年九月)なのは、便宜上そうしたようです。他の作品は『少女号』掲載の二ヶ月前に作曲されているので、「作曲は大正八年七月」頃と推測できます。

 <『少女号』掲載の二ヶ月前に作曲されている他の作品>
  ・清水かつら作詞・弘田龍太郎作曲「靴が鳴る」
   大正八年九月十九日作曲→『少女号』大正八年十一月号掲載
  ・鹿島鳴秋作詞・弘田龍太郎作曲「濱千鳥」
   大正八年十一月二十四日作曲→『少女号』大正九年一月号掲載
  ・清水かつら作詞・弘田龍太郎作曲「あした」
   大正九年四月二十五日作曲→『少女号』大正九年六月号掲載
 ・鹿島鳴秋作詞・弘田龍太郎作曲「落葉の踊」
   大正九年十月二十八日作曲→『少女号』大正九年十二月号掲載

  <「金魚の晝寢」の考察>
  以上<「お山のお猿」の作曲時期の考察>をふまえて「金魚の晝寢」の作曲年月は「大正八年五月」頃で、『少女号』掲載年月は「大正八年七月号」と推測されます。本当はどうなのかは確定できませんが。

 【初出誌は未確認です】
 「金魚の晝寢」は、『少女号』の大正八年七月号に掲載されているかもしれませんが、七月号の雑誌自体が発見されていません。もしどこかに現存しているのなら見たいものです。未確認です。

 【鹿島鳴秋自筆メモの解読】
 平成十七年五月十五日、清水かつらの研究家の別府明雄さんから送っていただいた鹿島鳴秋自筆メモには、「金魚のひるね 弘田 大正8年9月」と書いてあります。これは、なんでしょうか?
  @ 「浜千鳥 弘田 大正9年1月」と書いてあります。これは、『少女号』大正9年1月号掲載ということでしょう。「濱千鳥」参照。
  A ●「金魚のひるね 弘田 大正8年9月」は書き間違えです。
  B ●「お山のおさる 弘田 大正8年7月」は書き間違えです。
   「金魚のひるね 弘田 大正8年7月」と書くべきでした。
    「お山のおさる 弘田 大正8年9月」と書くべきでした。
  つまり、「金魚の晝寢」=『少女号』大正8年7月号掲載ということでしょう。『少女号』大正8年7月号は発見されていません。見たいものです。未確認。
   「お山のお猿」=『少女号』大正8年9月号掲載。確認。
  C では、●「おちばのおどり 弘田 大正8年11月」は、どうでしょうか?これも書き間違えです。
    「おちばのおどり 弘田 大正9年12月」と書くべきでした。
    「落葉の踊」=『少女号』大正9年12月号掲載。確認。
   「落葉の踊」大正九年十月二十八日、弘田龍太郎作曲。
 これは、小松耕輔編『世界音楽全集 第十一巻 日本童謡曲集』(春秋社版)昭和五年発行で確認できます。この本は、研究者は必見です。
  (註)他の曲、昭和に入ってからの鹿島鳴秋の自筆メモの年月日は、レコードの吹き込み日、または発売日でしょう。


▲きんぎょのひるね/絵は渡辺三郎。「童謡画集(3)」1958年3月25日刊,講談社より


▲講談社の絵本『童謡画集(2)』1960年より 武井武雄 画

  【金魚は昼寝をするか】
  “「金魚の昼寝」は、魚の睡眠のことを詩であつかっている。魚はいったい眠るのだろうか・・・これは多くの方々にとってたしかに疑問の一つだと思う。魚は、どの魚も眠るといってさしつかえないと思う。
 ただし魚のうちには、フグ、ペラ、イサキなどのように昼に活動して夜ねむる魚と、ウナギ、ハモ、ウツボなどのように、夜に活動して昼ねむる魚がある。
  コイや金魚はこの前者に属するが、この詩にもあるように、金魚が昼寝をすることも間違いない事実だといえる。魚は瞼(まぶた)がないので、目こそつぶらないが金魚の場合では水草に身を寄せたり、または水面にぽっかり浮かんでじっとしていることがある。あれが金魚の昼寝で、夏の暑い午後など水槽の中で、金魚のこういった姿を見かけることが時々あることは皆さまもご存知と思う。”(「お魚博士」の末広恭雄著『魚のうた』(音楽之友社)より抜粋)

 【かはいらしく歌う】
 小松耕輔編『世界音楽全集 第十一巻 日本童謡曲集』(春秋社)昭和五年発行の解説には、次のように書いてあります。
  “一九一九年七月作。かはいらしく、やはらかに、表情をつけて歌ふ。伴奏はなるべく切らぬやうに奏する。最後の小節は少し遅くする方がよい”
 この本は研究者は必見です。この本を見ずして童謡は語れません。

 【歌碑】
 弘田龍太郎の故郷、安芸市江ノ川上公園には「金魚のひるね」の歌碑があります。二番までの歌詞、メロディー楽譜、金魚が二匹描かれた立派な歌碑です。

著者より引用及び著作権についてお願い】   ≪著者・池田小百合≫

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お山のお猿

作詞 鹿島 鳴秋 
作曲 弘田龍太郎

池田小百合なっとく童謡・唱歌
2010/12/14

池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より

 【歌詞について】
 一見、「かわいい猿が鞠をついて踊っているようすを想像して歌ったもの」のように解釈されやすいですが、もっと歌詞をよく見ましょう。
 一番には、「鞠つきや」とあります。鞠が好きな猿に、だれかが鞠をついて見せると踊り出すのです。
 二番では、「鞠つけば」となっています。その猿が今度は自分で鞠をつくと、それを見た「お山の月が笑うだろ」と想像した詩です。

 【弘田龍太郎の名曲】
 三つのフレーズでできています。八分音符を使った二拍子のリズムが、いかにも鞠をついているようです。一拍目に軽くアクセントを付けて軽快に歌います。弘田龍太郎の曲が優れています。簡単なメロディーで覚えやすい。大正期の童謡の決定版です。この曲を歌いながら踊った人も多いことでしょう。

 【初出】
 雑誌『少女号』大正八年九月号に掲載されました。


 【収録】
 童謠曲譜集『お山のお猿』弘田龍太郎作曲(小学新報社)大正十年十一月二十五日発行に収録。全八曲収録。「お山のお猿」の他、「金魚の晝寢」も収録してあります。
  (註)大正十四年三月二十五日四版発行・国立音楽大学附属図書館所蔵。現在、この図書館のコピーは白黒です。カラーコピーにしてほしいものです。


▲ 童謠曲譜集『お山のお猿』弘田龍太郎作曲(小学新報社)表紙
絵の中央に管理タグが貼ってあります。なんと不粋な!

▲目次

▲奥付
▲童謠曲譜集『お山のお猿』弘田龍太郎作曲(小学新報社)表紙
本田庄太郎・画(カラーだと、こんなにきれい)

        

▲楽譜の下には(一九一九年九月作曲)と書いてある

▲挿絵 本田庄太郎

目次―内容及作曲年表―


書かれている年月は作曲年月ではなく、『少女号』掲載年月のようです。
 便宜上、発表年月と作曲年月を同じにしたようです。
 当時だったら作曲年月日がわかっていたはずなので、きちんとしたデータを残してほしかった。










奥付
清水かつらの研究者の別府明雄さん所有の童謡曲譜集『お山のお猿』弘田龍太郎作曲(小学新報社)大正十年十一月二十五日発行(初版)を、全ページコピーさせていただきました(2011年2月16日)。ありがとうございました。
童謡曲譜集『お山のお猿』全
 国立音楽大学附属図書館所蔵の『お山のお猿』は大正十四年三月二十五日発行(四版)です。表紙絵や中表紙の絵が変えてあります。楽譜や歌詞、挿絵は同じです。
 ただ、国立音楽大学附属図書館から送られて来た複写は白黒だったので、私も、私の童謡の会員も大きい方は「黒い影」と思い込んだが、実際は「赤」い毬でした。貴重な資料を貸して下さった別府明雄さんに感謝です。国立音楽大学附属図書館は、カラーコピー機を導入してほしいものです。


 <この挿絵はなに?>
 池田小百合が主宰している童謡の会の会員、坂東美恵さん(岐阜県出身)から「これは岐阜の“さるぼぼ”ではないか」というご指摘がありました。
 “さるぼぼ”は、飛騨高山など岐阜県飛騨地方で昔から作られている人形で、飛騨弁では赤ちゃんの事を“ぼぼ”といい、“さるぼぼ”は猿の赤ちゃんという意味です。 “さるぼぼ”には、いろいろな種類があり、飛騨国分寺の“つるしさるぼぼ”や、京都の八坂庚申堂の“くくり猿”などがあります。

△飛騨の猿ぼぼ

▽京都

くくり猿

▲くくり猿はお猿さんが手足をくくられて動けない姿を表しています。
欲のまま行動する猿を人間の中の欲望にたとえ、それが動かないように
庚申さんによってくくりつけられているのです。

 【作曲時期の考察】
  「お山のお猿」の楽譜の下には(一九一九年九月作曲)と書いてありますが、実際に雑誌『少女号』に掲載されたのは大正八年(1919年)九月号です。掲載号と同じ月に作曲されたことになっていて、これは、おかしな記述です。初出雑誌掲載年月と作曲年月が同じ(大正八年九月)なのは、便宜上そうしたようです。他の作品は『少女号』掲載の二ヶ月前に作曲されているので、「作曲は大正八年七月」頃と推測できます。

  <『少女号』掲載の二ヶ月前に作曲されている他の作品>
   ・清水かつら作詞・弘田龍太郎作曲「靴が鳴る」
    大正八年九月十九日作曲→『少女号』大正八年十一月号掲載
   ・鹿島鳴秋作詞・弘田龍太郎作曲「濱千鳥」
    大正八年十一月二十四日作曲→『少女号』大正九年一月号掲載
   ・清水かつら作詞・弘田龍太郎作曲「あした」
    大正九年四月二十五日作曲→『少女号』大正九年六月号掲載
   ・鹿島鳴秋作詞・弘田龍太郎作曲「落葉の踊」
    大正九年十月二十八日作曲→『少女号』大正九年十二月号掲載

 【鹿島鳴秋自筆メモの解読】
 平成十七年五月十五日、清水かつらの研究家の別府明雄さんから送っていただいた鹿島鳴秋自筆メモには、「お山のおさる 弘田 大正8年7月」と書いてあります。これは、なんでしょうか?
  @ 「浜千鳥 弘田 大正9年1月」と書いてあります。これは、『少女号』大正9年1月号掲載ということでしょう。「濱千鳥」参照。
  A ●「金魚のひるね 弘田 大正8年9月」は書き間違えです。
  B ●「お山のおさる 弘田 大正8年7月」は書き間違えです。
   「金魚のひるね 弘田 大正8年7月」と書くべきでした。
    「お山のおさる 弘田 大正8年9月」と書くべきでした。
  つまり、「金魚の晝寢」=『少女号』大正8年7月号掲載ということでしょう。『少女号』大正8年7月号は発見されていません。見たいものです。未確認。
   「お山のお猿」=『少女号』大正8年9月号掲載。確認。
  C では、●「おちばのおどり 弘田 大正8年11月」は、どうでしょうか?これも書き間違えです。
    「おちばのおどり 弘田 大正9年12月」と書くべきでした。
    「落葉の踊」=『少女号』大正9年12月号掲載。確認。
   「落葉の踊」大正九年十月二十八日、弘田龍太郎作曲。
 これは、小松耕輔編『世界音楽全集 第十一巻 日本童謡曲集』(春秋社版)昭和五年発行で確認できます。この本は、研究者は必見です。
  (註)他の曲、昭和に入ってからの鹿島鳴秋の自筆メモの年月日は、レコードの吹き込み日、または発売日でしょう。

 【歌い方について】
 「おしやれ」をひとまとまりの言葉として「おしやれー」と歌いましょう。ここは、間違えて歌う人が多い所です。
 小松耕輔編『世界音楽全集 第十一巻 日本童謡曲集』(春秋社版)昭和五年発行の解説には、次のように書いてあります。
  “第一拍に軽いアクセントをつけて、出来るだけ軽快に歌ふ。よく重く歌ふのを聴くことがあるが、あれは作曲者の心持ちではない。 最も不愉快なのは『おしやれ』を『おーしやれ』と歌ふ者のあることだ。かかる人は是非此の譜をよく見てもらひたい。 第一節の歌で『とんとん』の『とん』『ほんに』の『ほ』にアクセントをつけた方が歌詞が生きる。但し同じ場所でも第二節の歌詞の時には特にアクセントをつけてはならない”。
 では、楽譜をよく見て歌いましょう。いかがですか?






▼昭和十二年(1937年)講談社発行『童謡画集』の川上四郎の挿画





 【歌碑】
 弘田龍太郎の故郷、安芸市 黒鳥浄貞寺山門前にあります。猿が二匹、鞠と遊んでいる絵です。

著者より引用及び著作権についてお願い】   ≪著者・池田小百合≫

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雀の學校

作詞 清水かつら
作曲 弘田龍太郎

池田小百合なっとく童謡・唱歌
2010/12/20

安芸市教育委員会「弘田龍太郎 ふる里の心をうたう」より


 【「チイチイパツパ」でヒット】
 大正・昭和と時代をこえて愛唱された歌です。雀の鳴き声は一般的に「チュンチュン」です。清水かつらが「チイチイパツパ」それに続く言葉「チイパツパ」を思いついた時、この歌のヒットが決まりました。
 旋律は、上のドレミソと下のソの五音だけで作られています。同じ形の動きが繰り返されています。「チイチイパツパ チイパツパ」の「ドドソソ ドソソ」の動きが印象的です。弘田龍太郎の曲は、どれも覚えやすくて歌いやすいのが特徴です。

 【雀の登場】
 清水かつら研究家の別府明雄著『あしたに』(郁朋社)には、次のような興味深い研究成果が掲載されています。
 “かつらが師事した竹貫佳水の邸宅“雀のお宿”によるものか、白子や赤塚田圃の雀に興味を持ったのか、あるいは「少女号」の編集室から見た雀が興味を引いたのか不明であるが、かつらの詩には雀が頻繁に登場する。約一割に当たる二十六編の詩に雀が登場する”。


 【作曲時期】
 大正十年十二月七日に弘田龍太郎が作曲しました。作曲時期は、童謡曲譜集『朝の雪道』弘田龍太郎作曲(小学新報社)大正十一年五月一日発行掲載の楽譜の右下で確認できます。

 【発表】
 雑誌『少女号』(小学新報社)大正十一年二月号に、歌詞と楽譜が同時に掲載されました。板橋区立郷土資料館所蔵。コピーは清水かつらの研究者の別府明雄さん提供(平成十八年七月二日)。
  ●与田凖一編『日本童謡集』(岩波文庫)の「雀の学校」には、―「少女号」大10・12と書いてある。これは間違い。―「少女号」大11・2が正しい。この間違いは、その後あらゆる出版物に使われてしまいました。
  ●上笙一郎編『日本童謡事典』(東京堂出版)は、与田凖一編『日本童謡集』(岩波文庫)を使ったので「詩章の発表は雑誌「少女号」の一九二一<大10>年十二月号」と書いてあり間違っています。正しくは「詩と曲の発表は雑誌「少女号」の一九二二<大11>年二月号」です。




 
▲楽譜
 ・手書きで「Moderato. 拍子よく」と書いてある。
 ・甲乙に分かれて歌うように書いてある。

 ・楽譜の右下には「合唱のときは甲乙わけてうたつて下さい。
  甲は先生乙は生徒」と書いてあります。 

 【収録】
 童謡曲譜集『朝の雪道』弘田龍太郎作曲(小学新報社)大正十一年五月一日発行。収録曲は「朝の雪道」「人さらひ」「靴が鳴る」「落葉の踊」「雀の学校」「村祭り」の六曲。
  (註)大正十一年七月五日再版発行・国立音楽大学附属図書館所蔵。この図書館は白黒複写です。カラーコピーにしてほしいものです。


▲童謡曲譜集『朝の雪道』弘田龍太郎作曲(小学新報社)
大正十一年五月一日発行。表紙
▲目次

▼奥付 

 この下に子供が
二人描かれて
いるようですが、
よくわかりません。
▲楽譜・『少女号』の楽譜と同じ。
   ・「Moderato. 拍子よく」
   ・甲乙に分かれて歌うように書いてある。
   ・楽譜の右下に(大正十年十二月七日作曲)と書いてある。

▼挿絵 白黒複写  (国立音楽大学附属図書館・所蔵)


 【『背くらべ』に「すずめ」登場】
 清水かつら作『背くらべ』には、「ラジオだ すずめも 體操(たいそう)よ」と書いてあります。曲はついていないようです。新母性雜誌『樂園』四月・第四號(東京・兒童文化社)昭和十一年四月十五日発行に『背くらべ』が掲載されている。清水かつらの研究者の別府明雄さんからコピーを送っていただきました(2011年2月16日)。ありがとうございました。
▲清水かつら作『背くらべ』三連目に「すずめも」とある。 ▲表紙 
  (註)「花岡學院」について 「花岡學院」は、文部省令による寄宿制尋常小学校。
保健養護教育常設林間學校。入学随時。東京市板橋区練馬土支田町一丁目三六八にあった。
日本最初の私立の林間学校で、男女共学、生徒数が二十名前後の寺子屋式だった。
 清水かつらは、昭和八年四月、私立花岡学院の講師に就任し、虚弱児童並びに特異児童の
芸能教育(作文・詩の指導)を担任する。この間、児童文化社を創立し、雑誌「楽園」を刊行、母子共楽の野外教育を提唱する。
  
 【歌い方】
 楽譜には「合唱のときは甲乙わけてうたつて下さい。甲は先生乙は生徒」と書いてありますので、甲と乙に分かれて歌ってみましょう。
 調子よく、歯切れよく歌いましょう。「チイチイパツパ」「チイパツパ」と切って明るく歌います。「パツパー」では歯切れが悪い。

 小松耕輔編『世界音楽全集 第十一巻 日本童謡曲集』(春秋社版)昭和五年発行には次のように書いてあります。
 “拍子よく、かはいらしく歌ふ。『チイチイパツパチイパツパ』の初めの『パッパ』で切るほうがよい。之を二つともつづけて、『チイチイパツパーチイパツパ』は歯切れが悪く聞こえる。伴奏のスタカトは強くなく、鋭い方がよい。其の他なめらかに弾く。そしてスタカツトとのよい對照を作る。
 此の譜には甲乙に分かれて歌ふやうになつて居る。甲は一人でよいが、乙は多い方がよい。一般にはかう云ふやうに分かれては歌はないが、之を試みては如何であらう”。
 (註)二回出てくる“スタカト”、“スタカツト”は原文のまま。

 【追加された二番】
 ニットーレコードA面「靴が鳴る」、B面「雀の学校」(歌 宮下晴子)で二番が追加されました。しかし、追加された二番は現在歌われていません。

  ◆ニットーレコード(大阪にあった燕印の日東蓄音器株式会社)が清水かつら作詞、弘田龍太郎作曲の『靴が鳴る』と『雀の学校』の二曲を宮下晴子の独唱で再吹込みした時、清水かつらは、以下のようなメッセージとともに歌詞を追加しています。
 「・・・私はこのニットー・レコード吹き込みのため特に歌詞を一つづつ新作追加いたしてみました。もとより原詩には変更はございませんが、これはニットーファンの皆さんに捧げるお贈物で、また童謡愛好の皆さんへの感謝の微意に他なりませぬ。御評いただければ嬉しゅうございます。ではどうぞおうたひくださいまし。」
  ※郡修彦著『親子で読んで楽しむ日本の童謡』(KKベストセラーズ)によると、「一九三四年(昭和九年)に宮下晴子の独唱によりニットーレコードから発売された」と書いてあります。
 ※北海道在住のレコードコレクター北島治夫さんによると、 ・オリジナルはニットー6225。 ・再発ニットーS1028。
 ●出版物の中には、レコードの記述で、「日東蓄音器株式会社」と「日本蓄音器商会」とを混同しているものが沢山あります。これは違う会社です。

 【レコードC115】
 日本童謡名曲集(第2集)歌詞カード レコードには、歌詞カードが付いていました。歌詞カードには、歌詞の他に楽譜、解説、踊りの振付が付いていました。歌手のかわいい写真は、みんなの憧れでした。頭に大きなリボンを付けるのが流行りました。振付は、学校の運動会や学芸会で使われました。現在、中古のレコードに歌詞カードが付いているのはまれで大変貴重です。
  
         ▼清水かつら作詞 弘田龍太郎作曲 山口保治編曲 歌 小宮山幸子 コロムビアひばり兒童合唱團 コロムビアオーケストラ
         ▼解説 鹿島鳴秋    ▼振付    ▼楽譜

 【レコード情報】
 以下のレコードは北海道のレコードコレクー北島治夫さん所有です。
  ◆シャーリー・テンプル盤POLYDOR 2049は、『靴が鳴る』『夕焼小焼』『玩具のマーチ』『雀の学校』の四曲入り。シャーリー・テンプルは原譜に忠実に歌っていて、その日本語は、とても上手です。
 戦前の名子役でアイドルだったシャーリー・テンプルが日本語で歌うレコードは、アメリカ全土で知られていたようで、終戦から間もない日、清水かつらの埼玉県和光市の家に、「靴が鳴る」のファンだというアメリカ進駐軍の将校がジープに乗って訪ねて来て、酒を酌み交したという話は有名です。
  ◆ニットーレコード(マイクロフォンの使用による電気吹込)3660 歌・石井龜次郎。伴奏 長谷山峻彦。A面は「靴が鳴る」、B面は『雀の学校』。
  ◆コロムビアレコードCP-92 A面は「どんぐりころころ」歌・岡田孝 コロムビアオーケストラ。B面は「すずめの学校」歌・藤崎典子 コロムビアゆりかご会 コロムビアオーケストラ。

 【お魚博士から見た「雀の学校」】
 末広恭雄は、お魚博士で『秋の子』(作詞・サトウハチロー)の作曲者。その末広恭雄著『魚のうた』(音楽之友社)の「魚と音楽 歌に出てくる魚たち」で、「めだかの学校」に関連して「雀の学校」が取り上げられています。とても興味深い文です。以下は抜粋。
 “童謡「雀の学校」もスズメの群を学校にみたてたところが「めだかの学校」とよく似ているが、このほうはスズメの鳴き声をじょうずに表現した点や、とがったクチバシを動かすスズメの動作を先生のムチにたとえたところなどはなかなかおもしろいし、よくできているが、「めだかの学校」にくらべ「雀の学校」のほうは詩の内容がさっぱり科学的ではない。”

 【ムチは指揮棒】
 別府明雄(絵と文)『清水かつら 絵葉書集』第1集(平成二十八年十月発行)には次のように書いてあります。
  “本郷の家には6人の弟たちがいました。清水かつらは学校兄(あん)ちゃんと呼ばれ、弟たちと歌ったり踊ったりしていました。ムチは指揮棒のことでした”。

▼昭和十一年(1936年)婦人倶楽部新年号附録「童謡・唱歌・流行歌全集」 
   


▼昭和十二年(1937年)講談社発行『童謡画集』の川上四郎の挿画


▲講談社『エホン文庫 童謡画集 第1号』1946年より 安泰 画



 【歌碑】
 弘田龍太郎の故郷、安芸市の土居橋に歌碑があります。




著者より引用及び著作権についてお願い】   

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≪著者 池田小百合≫




お家わすれて

作詞 鹿島鳴秋  
作曲 弘田龍太郎

池田小百合なっとく童謡・唱歌
2010/12/23

池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より


 鹿島鳴秋・弘田龍太郎コンビの名作です。広く歌い親しまれてきた童謡です。私は、小学生の時、麦畑のあぜ道でヒバリの卵を見たことがあります。上空では親鳥がけたたましく鳴いていました。晴れた六月頃の事と記憶しています。神奈川県足柄上郡開成町の酒匂川の河川敷では、毎年初夏にヒバリの鳴き声を聞くことができます。見上げれば青い空の上空でヒバリが鳴きながら羽ばたいています。私は、この清々しい自然が、いつまでも続くことを願っています。

 【初出】
 雑誌『少女号』(小学新報社)大正十一年四月号掲載。詩と曲は同時掲載。この号には以下の四曲が掲載されている。
  ・「お家忘れて」(童謡)鹿島鳴秋詩・弘田龍太郎曲
  ・「春の唄」(童謡)野口 雨情詩・草川 信曲
  ・「林檎の嘆き」(少女小曲)鹿島 鳴秋詩・江澤清太郎曲
  ・「人形の行方」(童謡対話)清水かつら詩・弘田龍太郎曲

 【目次のタイトル】
 『少女号』(小学新報社)大正十一年四月号の目次のタイトルは「お家忘れて」と「忘れて」が漢字で書いてあります。
  (註)『少女号』の目次、歌詞、楽譜は、清水かつらの研究家の別府明雄さんから送っていただきました(平成十七年五月十五日)。



 【詩のタイトル】
 『少女号』(小学新報社)大正十一年四月号の詩(二 三ページ)のタイトルは「お家わすれて」と「わすれて」が平仮名です。詩の一行目も「お家わすれた」と平仮名です。一連と二連からなる詩です。
  (註)池田小百合 編著『読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞(改訂七版)』(夢工房)は、この詩を掲載しています。したがって、タイトルは「お家わすれて」です。



 【楽譜のタイトル】
 『少女号』(小学新報社)大正十一年四月号の楽譜(四 五ページ)のタイトルは「お家忘れて」と「忘れて」が漢字で書いてあります。


 【ヒバリのさえずり】
 楽譜を詳しく見ましょう。
  ・ピアノ前奏二小節は「雲雀」の鳴き声を模しています。続いて歌になりますが、ピアノ部分は左手でメロディーを、右手は雲雀のさえずりを模しています。
  ・旋律は、変ロ長調(ファとシを使わないヨナ抜き長音階)、四分の三拍子、二部形式で作られています。
  ・三つ目のフレーズがこの曲の山です。「母さんたづねて ないたけど」は、気持ちを込めて歌いましょう。
  ・歌唱譜は、「タタタンタン」のリズムでできています。当時流行ったリズムです。

 【作曲年月日】 
 大正十一年二月二十一日、弘田龍太郎が作曲しました。
  ・弘田龍太郎作曲『童謡小曲選集第10集★鹿島鳴秋作歌 お家忘れて』(京文社)昭和四年(1929年)発行収録。
  ・『鹿島鳴秋童謡小曲集』(京文社)昭和四年発行収録。

 【尋常小学唱歌「雲雀」
 『尋常小学唱歌』第二学年用(文部省)明治四十四年発行に「雲雀」が掲載されています。作詞作曲者は不詳です。これも人気の愛唱歌でした。今でも歌える人が多い曲です。▼『新訂 尋常小学唱歌』第二学年用(文部省)昭和七年発行掲載「雲雀」歌詞と楽譜


  ・言葉のアクセントや感じから、自然に生まれた、流れるような旋律です。特に、「ぴいぴい」の雲雀の鳴き声に付けられた抑揚が、この曲全体を引き締めています。
  ・二部形式とか三部形式とかでなく、通作形式でつくられている旋律です。

▲ひばり/絵は安泰。「童謡画集(3)」1958年3月25日刊、講談社


            ▲「講談社の絵本ゴールド版 童謡画集」3 昭和35年 講談社 「ひばり」安泰(やすたい)・絵

  「お家忘れて」「雲雀」、いずれも味わい深い名曲です。歌わなければ消えてしまいます。

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