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童謡・唱歌 事典 (編集中) |
今でも歌い継がれている文部省唱歌に「鯉のぼり」があります。 『尋常小学唱歌』第五学年用(文部省)大正二年(1913年)五月二十八日発行に掲載されました。同じ第五学年用には、「みがかずば」「加藤清正」「入営を送る」「三才女」「斎藤実盛」「水師営の会見」「海」「冬景色」など全二十一曲が掲載されていました。 ●『原典による 近代唱歌集成』(ビクター)の解説に、「明治期唱歌の傑作中の傑作」と書いてあるのは間違い。「鯉のぼり」は、『尋常小学唱歌』大正二年発行に掲載されました。「明治期唱歌」ではありません。 ▼「鯉のぼり」歌詞 楽譜
![]() 合議制で作られたので、作詞・作曲不詳とされていますが、弘田龍太郎が東京音楽学校ピアノ科在学中(大正二年二十一歳の時)に作曲したといわれています。故郷、高知県安芸市溝ノ辺公園には、楽譜と三番までの歌詞が刻まれた歌碑が建てられています。(平成二年十月設置・「童謡の里安芸 弘田龍太郎」パンフレットによる)。右の写真は高知県安芸市溝ノ辺公園の「鯉のぼり」の歌碑。 金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌〔中〕』(講談社文庫)には、次のように書いてあります。 “弘田竜太郎が音楽学校の二年生のときに勧められて作ったものということを、弘田自身がサトウ・ハチロー氏に語ったことがあり、竜太郎未亡人は著作権協会へ申し入れてみたが、まだ学生時代の作品ということで、著作権の対象外ということだったという” ![]() 【歌詞の意味】 ・「甍の波」=瓦(かわら)ぶきの屋根が波のように見えることです。「甍・いらか」は、「いろこ」即ち「鱗・うろこ」という語からきていますが、これを知らずに歌っている人も多いようです。 ・「雲の波」=白雲が波のようになっているのを形容した語。 ・「中空」=甍と雲の中間に見える空。 ・「橘」=みかんの仲間。5・6月頃に白い花が咲く。 ・「舟をも呑まん様見えて」=船まで呑み込んでしまうような元気なようすを見せて。 ・「物に動ぜぬ」=少しくらいのことで、びくともしない。 ・「百瀬の瀧を登りなば」=中国の故事、「鯉が龍門の瀧を登ると龍に化する」というものによった。立派に成人することの喩(たと)え。「龍門」とは、中国の黄河中流の支流にある峡谷のこと。非常に急流なので、魚もなかなかこれを登りきれない。その龍門を登り切った鯉がいたならば、龍になるという言い伝えから、人の立身出世や成功への関門を「登龍門」というようになったと伝えられている。 ・「百瀬」=たくさんの流れの速い所。 ・「なりぬべき」=なるだろう。 ・「わが身に似よや」=私のようになってほしい。 ・「男子と」=男の子たちよとよびかけて。 三番には、中国の「鯉の瀧登り」を喩えに、元気で立派に成長してほしいというメッセージが込められています。 【歌い方について】 曲はヘ長調。四小節ずつ四つのフレーズでまとまっています。a(4) a´(4)B(8)。Bが混合型になった二部形式です。六音音階(シが無い)。 「タッカ タッカ」のリズムで、元気な男の子を讃える歌になっています。 「朝風に」の「あーさあ」と、「鯉のぼり」の「こーいい」部分は、「タン タタ」の同じリズムです。「タン タッカ」にならないように注意して歌いましょう。 「高く」の所は、力強く歌います。この歌で一番魅力的な部分です。 「橘かをる朝風に、」はヘ長調の平行調である二短調に転調しています。この部分があることで「高く泳ぐや、」が堂々と生きてきます。日本人は、このような曲が大好きです。 【教科書での扱い】 ・『尋常小学唱歌』第五学年用(文部省)大正二年(1913年)五月二十八日発行に掲載されました。タイトルは「鯉のぼり」。一番から三番まで掲載。 ・『新訂 尋常小学唱歌』第五学年用(文部省)昭和七年十二月十日発行にも掲載されました。二番の歌詞は「振るふ」になっています。 ・『初等科音楽 三』国民学校芸能科音楽第五学年用(文部省)昭和十七年十二月三十一日発行(昭和十八年一月六日文部省検査済)には掲載されていません。 (註)『初等科音楽一』国民学校初等科第三学年用(文部省)昭和十七年二月二十四日発行(昭和十七年三月二日文部省検査済)に掲載の「鯉のぼり」は違う曲です。 ・『五年生の音楽』(文部省)昭和二十二年六月五日発行(昭和二十二年五月二十七日検査済)では、「こいのぼり」のタイトルで一番と三番が掲載されました。二番が削除された理由は不明。 ●足羽章編『日本童謡唱歌全集』(ドレミ楽譜出版)の記載、“戦後「四年生の音楽」では再び採用されました。”は間違い。「五年生の音楽」が正しい。「四年生の音楽」には掲載されていません。この本には、多くの事実誤認があります。 ●2006年5月発行の藍川由美=校訂・編『日本の唱歌【決定版】』(音楽之友社)楽曲解説の“昭和22年版の教科書で調が下げられ”は間違い。昭和22年版の教科書でも調は初出と同じヘ長調のままです。この歌は、これより調を下げると、「高く泳ぐや」の部分で、声を張り上げられなくなってしまいます。 1997年6月発行の藍川由美=校訂・編『原典ピアノ伴奏譜による日本の唱歌』(音楽之友社)には、“昭和22年版の教科書で調が下げられ”の記載はなかったのに、【決定版】で間違った加筆をしたことにより、残念なことに【決定版】でなくなってしまいました。藍川由美の本にも単純な事実誤認が多いのです。 ・昭和三十三年に共通教材が開設され第五学年用として「こいのぼり」「海」「冬げしき」が選ばれました。昭和四十三年も同じ。 ▼昭和35年12月25日発行『小学生の音楽5』(音楽之友社)掲載の「こいのぼり」。 二番が削除され、三番が二番として掲載されている。
・しかし、昭和五十二年の文部省の指導要領改訂により「かたつむり」「月」「雪」「村祭」「茶摘」「村の鍛冶屋」「海」「われは海の子」と共に、共通教材から削除されました。歌詞に、「甍の波」「物に動ぜぬ」など小学生には、難解なことばが使われていたためです。また、この曲は、五月の節句の日にしか歌うことがないと言う理由もありました。 ・平成元年からは、「かたつむり」「われは海の子」と共に再び共通教材となりました。 ・平成二十一年二月十日発行『新編 新しい音楽5』(東京書籍)には「こいのぼり」のタイトルで、一番から三番までが掲載されています。へ長調。 『音楽のおくりもの5』(教育出版)、『小学生の音楽5』(教育芸術社)も同じ。 【その他の鯉のぼり T ≪人気だった「鯉のぼり」≫】 あれほど歌われ人気だったのに、すでに一般的には歌われていない「鯉のぼり」の歌があります。 『初等科音楽一』国民学校初等科第三学年用(文部省)昭和十七年二月二十四日発行(昭和十七年三月二日文部省検査済)に掲載されました。タイトルは「鯉のぼり」。三番までありました。 四小節ずつ四つのフレーズで一つにまとまっています。ハ長調、四分音符と四分休符だけのはっきりしたリズムになっています。ト音記号の次に2と書いてあるのは四分の二拍子のことです。 鯉のぼり 作詞不詳 作曲 井上武士 一、お日さまのぼる、 もえたつみどり。 まごひがおよぐ、 ひごひがおよぐ。 二、のぼりを立てて、 みんながいはふ。 よい子になあれ、 おほきくなあれ。 三、のぼりを立てて、 をとこの子ども、 おほきくなって、 にっぽんだんじ。 【三番は省いて歌う】 作られた当時は第二次大戦中で、この曲のテーマである三番は、子供たちを励まし、愛国心を養う内容でした。 ![]() 一番の歌詞の「まごひ」は、黒い鯉。鯉のぼりの中で一番大きい鯉です。「ひごい」は、赤い色の鯉です。二番の歌詞の「よい子になあれ、おほきくなあれ。」の部分は、現在も感動を持って歌われます。みんなの願いだからです。 【「のぼり」について】 旗のように布などを竿に付けて高くかかげる物を「のぼり」といいます。「こいのぼり」は、男子が元気に育つようにと願って立てられた「のぼり」です。今から二百年ぐらい前に、「こいのぼり」を立てる習わしが始まったと言われています。「こいのぼり」と一緒に立てられた「幟旗・のぼりばた」には勇ましい武者絵や、城、男子の名前が書かれていた(→)。 【教科書での扱い】 ・手持ちの教師用の二年生用教科書掲載(★出版社・発行年月日・不明調査中)の「こいのぼり」。ト音記号の次に2と書いてあるので、戦後すぐの教科書のようです。三番は削除され、一番、二番だけが掲載されています。ハ長調なので、ソソドドシラソと階名で歌うようになっています。木琴やハーモニカでも演奏して楽しんだ曲です。井上武士作曲と書いてある。挿絵には、「大きい黒いこい」と「小さい赤いこい」の二匹が描かれています。 ▼教師用の二年生用教科書掲載の「こいのぼり」。
・昭和三十三年十二月十五日発行『改訂版しょうがくせいのおんがく2』(音楽之友社)掲載の「こいのぼり」には、四分の二拍子の説明が書いてあります。一番、二番だけが掲載。挿絵は「オレンジのこい」と「グリーンのこい」の二匹が描かれています。これでは、「まごい」と「ひごい」の説明になっていません。 ●「井上武士 作詞、文部省唱歌」と書いてあります。井上武士は作曲家なので、「井上武士 作曲」の間違いです。奥付には編集参与 東京藝術大学講師 井上武士の名前があります。自分で間違いに気がつかなかったのでしょうか? ▼昭和三十三年発行掲載の「こいのぼり」
・昭和三十五年十二月二十五日発行『総合しょうがくせいのおんがく2』(音楽之友社)掲載の「こいのぼり」には、四分音符と四分休符の説明が書いてあります。一番、二番だけが掲載。作詞者不明 井上武士作曲と正しく書いてあります。監修・編集に井上武士の名前がありません。削除されています。挿絵には、「大きい赤いこい」と「小さい黒いこい」の二匹が描かれています。「赤いこい」の方が大きく描かれています。 ▼昭和35年発行掲載の「こいのぼり」
【その他の鯉のぼりU ≪「鯉幟」≫】 『新訂 高等小学唱歌』第一学年用 男子用(文部省)昭和十年三月三十一日発行には「鯉幟」のタイトルで掲載されています。 時代を反映して男子を祝うこいのぼりの元気なようすを歌っています。戦後は歌われていません。 ▼『新訂 高等小学唱歌』伴奏附 第一学年用(文部省)昭和十年四月十五日発行。男子用と女子用の曲が掲載されている。 これは教師用書。
【その他の鯉のぼりV ≪サトウハチロー作「こいのぼり」≫】
サトウハチローらしい可愛い歌詞の「こいのぼり」の歌です。一年生の教科書に掲載され歌われたようです (★出版社・出版年月日・不明調査中)。 こいのぼり 作詞 サトウハチロー 作曲 下總皖一 一、からりとはれた あおぞらに およいでいます こいのぼり つばめがそばから こんにちは 二 あかるいあさの そよかぜに およいでいます こいのぼり すずめがやねから こんにちは 【その他の鯉のぼりW ≪林柳波作歌「鯉のぼり」≫】 『世界音樂全集17日本唱歌集』本居長世編(春秋社)昭和五年十一月十五日発行に掲載の「鯉のぼり」。作曲は本居長世。自分が編集する本の出版にあたり、林柳波に作詞を依頼したのでしょう。 「勢いよく、活発に唄はれたし、特に小学校二三年の男子向教材」というコメントが付いています。三番は、時代を反映した歌詞になっています。 鯉のぼり 作詞 林柳波 作曲 本居長世 一、 さわさわさわさわ鯉のぼり 風に吹かれて竿のさき 今日の大空五月晴れ 幾つも幾つも泳いでる 二、 くるくるくるくる風車 五色になびく吹流し 高く吹いてる朝風に まつてるまつてる吹かれてる 三、 五月青空鯉のぼり 僕は日本の男の子 今にのぼるぞ大空に 見てゐろ見てゐろ鯉のぼり
時代の要求に応えて「ふじの山」同様、沢山の「鯉のぼり」の歌が作られ、子供たちが歌いました。 歌も、強い日本を作るために大きな力となりました。 【著者より引用及び著作権についてお願い】 ![]() ≪著者 池田小百合≫ |
【発表誌】 詩は、雑誌『赤い鳥』(赤い鳥社)大正七年(1918年)九月号に掲載されました。子どもの生活感情を大切にする姿勢から生まれた白秋童謡の代表作です。 【そのころの白秋は】 大正七年三月に妻・章子(あやこ)の腹膜炎の療養をかねて小田原に来た白秋と章子は、御幸の浜にある養生館に仮寓して、 四月に御花畑(現・小田原市南町)に暮らした。俗に「お花畑」と言う。海が近い。住所は相州小田原十字四丁目九百十。 【詩の改訂】 初出の詩は「紅緒(べにを)のお下駄(げた)」でした。 北原白秋の童謡集『トンボの眼玉』(アルス)大正八年発行に収録の際、 「お下駄(げた)」では言葉の響きが汚いので「木履(かつこ)」にしました。かわいい女の子のイメージにぴったりです。 「紅緒」は、下駄の紅色の紐。「木履」と「下駄」は同じ。「木履(かつこ)」は、からころ、という音に派生した幼児語。 【二種類の詩】 以上でわかるように、<雑誌「赤い鳥」大正七年九月号>として『雨』の詩を扱う場合は、「紅緒のお下駄も緒が切れた。」の詩を掲載するのが正しい。 今歌われているのは、北原白秋の<童謡集『トンボの眼玉』(アルス)大正八年発行>に収録の「紅緒の木履も緒が切れた。」に改作された詩です。
【作曲年月日】 「大正十年八月五日に弘田龍太郎が作曲」=河内紀 小島美子・共著『日本童謡集』(音楽之友社)一九八〇年発行による。 ★『白秋全童謡集X』復刻版(岩波書店)一九九三年発行には、“大正5(?)年8月5日作曲。『弘田龍太郎作品集1』に収録〔『作品集』には大正5年となっているが、白秋の「雨」は「赤い鳥」大正7年9月号が初出〕”と書いてあり、大正5年を疑っている。 ★藤田圭雄・編『白秋愛唱歌集』(岩波文庫)一九九五年発行でも、“弘田龍太郎の曲は、『弘田龍太郎作品集1』には「大正五年八月五日作」となっているが、白秋の童謡は大正七年九月号に載っているのだから、作曲「大正五年八月五日」というのは少し変だ。”と、大正五年作曲を疑っている。 そもそも、作曲年月日が、詩の発表の二年も前というのは、おかしい。さらに、歌詞は「木履(かつこ)」で作曲したので、作曲は詩を改訂して収録した『トンボの眼玉』大正八年発行以降でないとおかしい。したがって「大正五年八月五日作曲」は間違い。この間違いは、すでに多くの出版物で使われてしまっています。 ★安芸市教育委員会生涯学習課・提供の旧資料『弘田龍太郎ふる里の心をうたう』では「大正五年八月五日作曲」、新資料『童謡の里・安芸 弘田龍太郎』では「大正七年八月五日作曲」と変更になっている。 まず、旧資料は前記の「大正五年」をそのまま信用して使った。しかし、1995年10月に再版された『弘田龍太郎作品集1』を見ると「大正7年8月5日」になっているので、新資料では「大正七年」に変更したのでしょう。 ●弘田龍太郎の他の作品についても、正確な作曲年月日ではなく、『少女号』発刊年月を記したものなどもあり、『弘田龍太郎作品集』を全面的に信用することは難しいと言わざるを得ないと思います(清水かつらの研究者の別府明雄さんの書簡2011年3月14日)。
【歌詞と歌唱の考察】 一日中、静かに降り続く雨の様子が目に浮ぶような優れた作品です。ほぼ七音五音、または八音五音の定型詩にまとめてあるため、曲が付けやすくなっています。成田為三や佐々木すぐる等、たくさんの作曲家が曲を付けましたが、最もよく歌われてきたのが、弘田龍太郎のこの曲です。 <弘田龍太郎の楽譜> 雨の日の寂しさにぴったりなハ短調の曲です。二小節の前奏の後すぐ歌い出します。かわいらしい気持で歌いましょう。あまり悲しそうに暗くならないように歌います。 一番の「行きたし」は「ゆきたし」と歌います。これは、童謡の一般的な歌い方ですが、楽譜の中には、「いきたし」と誤って印刷され、そう歌われることもあります。しかし、曲の中で一番高い音を「いきたし」と歌うには無理があります。また、「いきたし」では、「生きたし」「活きたし」「逝きたし」など他の意味にとられかねません。三番の「寂しかろ」は、「さびしかろ」と歌います。 ピアノ伴奏の低音部は雨の落ちるリズムです。いつまでも続きます。後奏、ピアノ伴奏の終わりにつけられているcalando(カランド)は、だんだん遅く、弱く演奏する意味です。最後はハ長調の主和音(ドミソド)で明るく終わります。雨がやみました。・・・・弘田龍太郎は、このように詩を解釈して作曲しました。 テレビを観ていると、ある音大教授は「雨が降っていて外で遊べなくてがっかりしているように、暗く歌ってください。いつまでも、いつまでも雨は続きますよ。はい暗く、暗く、そうです暗く!」と指示。そういう解釈のひともいます。 <白秋の詩> 白秋の詩については川本三郎の解釈が、参考になる。 “白秋の童謡は、詩として読んでも豊かな味わいがある。「雨」という「ア」音が頭韻になっていて、繰返されることで降り続く雨の様子をよくあらわしている。「雨がふります」の「ます」と「雨がふる」の「ふる」の使い分けでも効果的で、大雨というより細雨の静けさが伝わってくる。雨のために外に出られない子供は寂しいものだろうが、それでも、この女の子は、千代紙を折ったり、人形と遊んだり、雨の日ならではのひっそりとした遊びを楽しんでいる。ちょうど、子供時代の白秋が柳河の生家の蔵のなかで遊んだように。大正十四年の「雨ふり」で、母親が蛇の目傘を持って迎えに来てくれたのでうれしくなって雨のなかを「ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン」と元気に歩く男の子と対照的である。白秋は子供の静と動の二つの面をわかっていたといえるだろう。 第三連で、室内から一気に外の世界が開ける展開もみごと。千代紙を折っていた女の子が外の小雉子の啼き声に気がつき、「小雉子も寒かろ、寂しかろ」と感情移入する。雨が、女の子と小雉子を結びつけている。小さなアニミズムの世界。 そして再び、室内に戻り、人形遊びを終えようとする女の子をとらえる。人形を寝かせた子供はやがて自分も寝入るのだろう。最後、ちょうどカメラが横移動してゆくように、視点は子供を離れ、窓から外へと広がってゆく。ここでの「雨が降ります。雨がふる。」は、ただ子供の家に落ちてくる雨ではなく、より広がりを持った、いわば宇宙とつながってゆく雨になっている。みごとな詩といわなくてはならない”(川本三郎『白秋望景』新書館より。赤字は池田小百合による)。 この「遠近法を使った詩」は、白秋の『この道』でも見られる。 <雨の日には小雉子は啼かない> 2014年、松田山に河津桜が咲いた二月中旬、いつものようにキジが来た。「ケンケン」と御殿場線の線路むこうの田んぼで大きな声で啼くので、犬が「ワンワン」と反応する。朝、六時前から「ケンケン」「ワンワン」大騒ぎだ。その内、犬はあきらめたようで、啼かなくなった。 三月二十九日は晴れて、キジは「ケンケン」と元気に啼いた。翌日は朝から雨が降った。雨は一日中降り続き、三時頃やんだ。雨が降っている間は啼かなかったキジが、雨があがるのを待っていたかのように啼きだした。夕方まで啼いていた。 【「寂しかろ」について】 『雨』では、「さびしかろ」と書いてありますから、そのように歌います。 奈良時代の歌集・万葉集には「さぶし」という言葉が出てきます。それが平安時代に「さびしい」となり、さらに、「さみしい」と変化しました。 バ行とマ行の音は入れ替わりやすい性質があります。「煙・けむり」も昔は「けぶり」でした。「目をつぶる」は「つむる」とも言います。 江戸時代には「さびし」「さみし」は、どちらも使われていました。今も「さびしい」「さみしい」両方とも使われますが、歴史の古い「さびし(い)」が、どちらかというと標準とされています。 音の変化により、二通りに分かれた言い方なので、もともと意味の違いはありません。 (註)以上は、2010年10月15日、読売新聞掲載『なぜなに日本語』用語委員会・関根健一を参考にしました。 【謎の文章を発見★】 若い女性を中心に大人気の川浦良枝・著「しばわんこ」シリーズ。『しばわんこと童謡を歌おう』(白泉社)平成十七年三月発行・楽曲解説 八塚慎一郎。一曲目は『雨』。解説冒頭一行目の文章は、何回読んでもへんです。「昔は部屋の奥まった所に板を置き、数多くの童謡詩を残した北原白秋の作品で雨と言えば・・・『アメフリ』があまりにも有名」。これは、おかしい。問い合わせましたが、出版社からは返事がいただけませんでした(平成十七年四月三日)。 平成二十年七月七日、プレゼント用に注文で、またこの本を買いました。それは平成十八年三月二十日 第三刷発行で、「昔は部屋の奥まった所に板を置き、」は省かれていました。返事が無かった事が残念です。改訂版を知らなければ、謎の文章のまま語り継がれてしまいます。「しばわんこ」へのファンレターは、大切にしていただきたい。心を和ませてくれる「しばわんこ」は、みんなが大好き。
【まず成田為三が作曲】 現在まで、弘田龍太郎作曲の「雨」が歌い継がれていますが、 最初に白秋の詩に曲を付けたのは成田為三でした。 ・雑誌『赤い鳥』(赤い鳥社)大正八年六月号に (「赤い鳥」曲譜その二) として発表。 ▲鈴木三重吉主幹『赤い鳥』(赤い鳥社)大正八年六月号 表紙絵「しゃぼん玉」清水良雄
▲雨 (「赤い鳥」曲譜その二) 歌詞は「紅緒のお下駄も緒が切れた。」となっています。
▲雨 (「赤い鳥」曲譜その二) 楽譜は「ベニヲノ オゲタモ ヲガキレ タ」となっています。 【『赤い鳥童謠』(赤い鳥社)第一集に収録】
【レコード情報】 以下は、北海道在住のレコードコレクター北島治夫さん所有。 ≪成田為三作曲の「雨」≫ 大正9年(1920年)発売の童謠レコード第一号。 ・ニッポノホン3978「かなりや」、3979「雨」「りすりす小りす」。 歌は赤い鳥社少女唱歌会会員/ピアノは成田為三/定価1円80銭。 このころのニッポノホンは片面ごとに番号がついている。 それまでは唱歌ばかり。大正8年(1919年)に、お伽歌劇「茶目子の一日」(ニツ ポノホン3657.3658)があった。童謡ではない。 ・キリンK552/歌手 中山桂子。 ≪弘田龍太郎作曲の「雨」≫ ・キングA3-2/歌手 近藤圭子。タイトルは「雨が降ります」。 ・コロムビアC63/歌手 川田孝子、青島絢子。 ・テイチクT517/歌手 田端さとみ。
【著者より引用及び著作権についてお願い】 ≪著者・池田小百合≫ ![]() |
【春に呼びかける歌】 雪深い北国では春が待ち遠しい。冷たい雪の中でも、植物は春の準備をしています。雪解け水が流れ、新芽が芽吹く春を待ちわびる気持ちは、子供も大人も変わりません。 この歌は、大人が子供に寄りそってリズムを取り、互いに心弾ませ歌う事ができる愛唱歌です。小さい頃、親や身近な大人に歌ってもらったり、大人になってからは、子供や孫に歌ってやったりした思い出が甦るのではないでしょうか。 作詞者の相馬御風は、雪国の新潟県糸魚川の出身です。この「春よ來い」は、まだ春が来ない季節に、くり返し「春よ來い はやく來い」と呼びかける歌です。冬、雪の降らない地方でも、春が近くなると歌いたくなる楽しい歌です。 【幼児語の歌詞】 ≪一番の歌詞について≫ 冬の間に部屋の中で歩けるようになったばかりの幼い「みいちゃん」が、親に買ってもらった「赤い鼻緒のジョジョ」をはいて、雪解けの外へ飛び出したいと待ちわびる気持ちを歌っています。小さな子どもが春を待ち望んでいるという希望の歌です。 「春よ來い はやく來い」という呼びかけは、小さな「みいちゃん」の願いであるばかりではありません。子供は、すくすくと成長してほしいという親の願いでもあります。 楽譜を見ると、「春よ來い はやく來い」は、言葉に重きを置いた特別なリズムになっています。他の部分は、タタタタのリズムで、情景説明のリズムになっているので、この歌い出しの特異さはきわだっています。したがって、最初の「はー るよ こい」は、春に呼びかけるように「こい」は短く詰めて、はきはきと歌います。 この歌の最大の特徴は、たいへん開放的な気持ちで歌う事ができることです。歌っている人があまり意識していない母音に特徴があります。それは、なぜこれほど開放的な気持ちで歌うことができるかということと関係があります。母音を意識して歌ってみればわかります。「はアー るよ こい はアー やく こい」と、歌い出しの母音が「ア」ですから、口を大きくあけて明るい声で歌うことができるのです。 また、「みいちゃん」という女の子の名前と、「ジョジョ=草履(ぞうり)」や「おんも=家の外。おもて。おも(面)の変化した言葉」といった幼児語が、歌全体をかわいらしくしています。 「赤い鼻緒」は、美しい色合いをそえています。このような表現は当時としては非常に珍しかったことです。 ≪二番の歌詞について≫ 自然に目を向けています。桃の花は、まだ蕾です。蕾は幼児のイメージですから、二番も一番と同様に幼い子どもの印象を重ねて描いています。温かく優しい表現です。三月三日は桃の節句といわれる雛祭りです。「桃の木」は春の季語。「はよ=早く」も幼児語です。 最後の「まっ てい る」のリズムも、「はー るよ こい」のリズムと同じに書かれています。ここも、重要な部分なのです。「まっ」は音を詰めて、短くはっきり歌いおさめます。 【親の願望】 このように、子供の視点により作られたように見えますが、実際には子供の向うにいる親の願望が描かれているものと、とらえることができます。「あるきはじめた」子供には、次に「おんもへ出たい」「はよ咲きたい」と早く元気に大きくなって欲しいという切実な親心がうかがえます。したがって、一番も二番も最後は気持ちを高めて歌います。 【自分の名前で歌う】 人気の愛唱歌であるもう一つの理由は、子供が自分の名前を、「みいちゃん」と置き換えて歌うことができるということです。このような歌は、これ以前にはありませんでした。 【モデルは文子さん】 「みいちゃん」には、モデルがありました。それは、作詞者・相馬御風の長女の文子(あやこ)さんで、大正十年二月二十日に生まれました。「春よ來い」はその二年後、大正十二年三月に発表されています。 文子さんは、平成二年八月二日発行の雑誌『サライ特集唱歌15』(小学館)のインタビューで次のように語っています。 ![]() 「歌詞では、"赤い鼻緒のぢょぢょ"になっていますが、私が見た草履は全体が赤い正絹でした。大きさは6〜7センチくらいで、かかとに紐がついていたと記憶しています。母に尋ねたら"それは、おまえに初めて買ってあげた草履だよ"と言われました。そのことがあってから、あの童謡のモデルは自分なんだと思うようになりました」。 文子さんが小学校一年生の頃、自宅の下駄箱の隅で見たという赤い草履は、昭和三年八月の火事で灰になってしまいました。相馬邸は建て直され、現在は新潟県指定文化財として一般公開されています。 「かかとに紐がついていた」という証言が印象的です。昔の子供たちは皆、親にそうしてもらって履いていました。私、池田小百合も同様でした。懐かしいです。
【子どもの名前が「あやちゃん」ではなく「みいちゃん」なのは】 「最近、モデルだといわれてもあまりピンとこなくなりました。あれは、あくまでも父の創作ですからね。暗黙のうちに父娘で了解しあったことなんだと思っています」(『サライ特集唱歌15』文子さん当時68歳)。 以上は、68歳の時のインタビューの文子さんの話ですが、神奈川県に暮らす85歳になった文子さんは当時の事情を次のように語っています。 「あの歌の歌詞は最初、"あるきはじめた あやちゃん"となっていたと聞いています。それが作曲をしてくださった弘田龍太郎さんが、あやちゃんでは歌いにくいから、みいちゃんに変えようと提案なさったそうです」 糸魚川の自宅の前には、歌詞そのままに桃の木もあったという。また、「女の子は私ひとりだけでしたから、とても厳しく躾けられました」(『サライ平成18年13号特別付録 もう一度口ずさみたい唱歌』文子さん当時85歳)。 御風の子供たち五男一女のなかで、長男(昌徳・まさのり)、四男(元雄・もとお)は、文子さんが生まれる前に亡くなっていますし、昭和五年に生まれた五男(茂・つとむ)は、生後二ヶ月もせずに亡くなっています。初めての女の子の誕生で、さぞ嬉しかったことでしょう。「あこ」と呼んでかわいがりました。 そんな事実を考えながらこの歌を見直すと、たった一人の女の子の成長を喜ぶ、父親としての愛情がしっとりと伝わってきます。「春よ來い」は、まるで文子さんの満二歳の誕生日を祝う歌のようです。 春に限らず、この歌は歌う人それぞれの希望や夢を託して歌うことができます。私たちも、相馬御風と弘田龍太郎の二人が作ってくれたかわいい童謡「春よ來い」を口ずさんで、それぞれの希望の春を待ちたいものです。 【御風の子供たち】 相馬御風は全部で五男一女をもうけました。 長男:昌徳(まさのり) 明治43年2月8日生〜明治44年5月20日没。 次男: 昌允(まさのぶ) 明治44年11月1日生〜昭和52年12月31日没。 三男: 晧(あきら) 大正3年6月19日生〜昭和54年2月12日没。 四男: 元雄(もとお) 大正4年9月10日生〜大正8年8月13日没。 長女:文子(あやこ) 大正10年2月20日〜 五男:茂(つとむ) 昭和5年5月30日生〜昭和5年7月18日没。 「長男と四男、それに五男が亡くなったので、いろいろな文献で兄が二人とか、四人というように、情報が錯綜しているのだと思います。」 (以上は、『相馬御風記念館』より教えていただきました。平成15年12月17日) (註)長女:文子さんは平成二十一年(2009年)に亡くなられました。 【発表について】 詩の発表はいつでしょうか。 ・大正十二年一月二十日、御風の詩に弘田龍太郎が作曲しました。 ・曲と詩が一緒に大正十二年三月一日発行の仏教童話雑誌『金の鳥』(金の鳥社)三月号で発表されました。 ・相馬御風著『相馬御風歌謡集』(厚生閣)昭和十二年五月発行の「童謡の部」に収録。 ・戦後は毎年春になるとラジオで放送されたので全国に広まりました。 ・ビクターレコードの吉井章子の歌声は『甦える童謡歌手大全集』(コロムビアファミリークラブ)で聴く事ができます。
【おや? 「はよ吹きたい」】 『金の鳥』掲載の詩は「はよ吹きたいと」となっています。「芽吹き」という事からこのように書いたのでしょう。とても凝った文学的表現です。この表現は他にはありません。 ★当時の原稿を調べる必要があります。 『相馬御風歌謡集』収録の詩は「はよ咲きたいと」と、今歌われているように変えてあります。さらに、初出の『金の鳥』では、一行目が「春よ來い」だったのが、収録の『相馬御風歌謡集』では「春よこい」と平仮名になっています。他の出版物でも漢字を平仮名に変えることは、よくあることです。 【タイトルは「春よ來い」】 ・『金の鳥』(金の鳥社)大正十二年三月号のタイトルは「春よ來い」と発表。 ・御風作詞の集大成『相馬御風歌謡集』(厚生閣)昭和十二年五月発行にも「春よ來い」と記載されている。したがって、「春よ來い」が正しいものです。 (以上は、『相馬御風記念館』より教えていただきました。『相馬御風歌謡集』より「春よ來い」の歌詞コピーも送っていただきました。平成15年12月17日) 【『木かげ』に発表は間違い】 ●秋山正美の解説 『別冊太陽子どもの昭和史 童謡・唱歌・童画100』(平凡社)には「一九二三(大正十二)年、御風が組織していた木蔭会の歌の雑誌「木かげ」の一月号に初めて発表された作品」と書いてあります。 ●足羽章編『日本童謡唱歌全集』(ドレミ楽譜出版)にも「大正十二年の「木かげ」で発表」と書いてあります。この大正十二年「木かげ」に発表の誤った記載は、どの出版物でも見られます。 理由があります。それは、研究者が絶対の信頼を寄せている藤田圭雄著『日本童謡史T』(あかね書房)にそう書いてあるからです。しかし、これは誤りです。 ●藤田圭雄著『日本童謡史T』(あかね書房)には次のように書いてあります。 「御風の童謡で、今日なお歌われているのは、大正十二年、『木かげ』に発表された「春よ来い」である。弘田龍太郎のメロディーによって、テレビやラジオは、春先になると、馬鹿の一つ覚えのように、この歌を流す。 悪い歌ではない。しかし「じょじょはいて」などという幼児語によってあらわされているように、古風な、前時代的な童謡だ」。 ≪大正時代に「木かげ」は存在しない≫ ・御風が大正五年糸魚川に帰郷。 ・大正五年六月、松野恭助ら故郷の有志や知人が集まり、「木蔭会」という短歌会を組織しました。 ・昭和三年、「木蔭会」が短歌結社を起こし、短歌の発表機関誌として昭和三年四月に「木蔭歌集」を創刊。 ・雑誌「木蔭歌集」が発刊五周年を迎えた時、巻を新たにして第5巻第1輯(第6年第5月号、通巻第46輯)とし、名前も「木かげ」と改題し、編集の内容も若干刷新して再出発しました。したがって、雑誌「木かげ」は、大正時代には存在しません。 詩の初出が「木かげ」は間違いで、初出は大正十二年三月一日発行の雑誌『金の鳥』三月号と当館では認識しています。 (以上は、『相馬御風記念館』より教えていただきました。平成15年12月17日) ●藤田圭雄著『日本童謡史T』(あかね書房)の前記と同じ452ページには、次のように書いてあります。 「昭和三年、御風を中心に「木蔭会」が作られ『木かげ』を創刊。五年十月には個人雑誌『野を歩む者』を創刊。『木かげ』は十七年廃刊になったが、『野を歩む者』は、二十五年五月八日、六十八歳で死去する前月まで発行された」事実と多少異なりますが、ともかく雑誌「木かげ」は、大正時代には存在しないと書いています。藤田圭雄は雑誌「木かげ」の事を知っていたにもかかわらず、なぜ「大正十二年、『木かげ』に発表」と書いてしまったのでしょう。本当は、「大正十二年、『金の鳥』に発表」と書くべき所を間違えてしまったのです。そのため、この間違った記述が次々出版物に使われてしまったのです。 後の出版物の著者たちは、自分で調べれば、すぐわかる事でした。 【『銀の鈴』に発表も間違い】 相馬御風著『銀の鈴』(春陽堂)は、雑誌『金の鳥』などに発表した童謡をまとめて、大正十二年五月に出版した童謡集ですが、「春よ來い」は収録されていません。 (以上は、『相馬御風記念館』より教えていただきました。平成15年12月17日) ●与田凖一編『日本童謡集』(岩波文庫)には、「春よ来い」の詩に続いて「―『銀の鈴』大12・4」と紹介されています。しかし、これも間違いです。さらに、この本の「まえがき」のラスト(昭和五十八年一月改訂にあたり加筆)には「相馬御風「春よ来い」の初出は童謡集『銀の鈴』と判明」と、二重に間違いが書いてあります。そのためこの間違った記述も多くの出版物に使われてしまいました。正しくは「―『金の鳥』大12・3」です。 なぜ、御風は『金の鳥』に書いた童謡の過半を集めた童謡集『銀の鈴』に「春よ來い」を入れなかったのでしょう。大正十二年三月、雑誌『金の鳥』に発表した「春よ來い」は、大正十二年四月刊行の相馬御風著『銀の鈴』(春陽堂)の収録に間に合わなかったのだと思います。与田凖一は、「春よ来い」は当然この童謡集に収録されているものと思い込み『銀の鈴』と書いたのでしょう。 後年出版した相馬御風著『相馬御風歌謡集』(厚生閣)昭和十二年五月発行の「童謡の部」に収録しました。 ●したがって、『私の心の歌―春 おぼろ月夜』(学習研究社)の「大正十二年『銀の鈴』に発表」は間違い。 ●平成二年八月二日発行の雑誌『サライ特集唱歌15』(小学館)には「大正11年1月に発表された」と書いてあります。これも間違い。糸魚川まで行って取材・文を書いた坂田貞雄は、「どこに発表されたか」を書いていない。この時だったら、相馬文子さんに直接、発表年月日と発表雑誌または発表著書について聞く事ができたはずです。 【「御風」という号について】 文才は幼時より秀で、組合立糸魚川小学校時代には「窓竹(そうちく)」と号していて、高田中学校在学時代、十七歳頃から「御風」という号を使い始め、すでに短歌を詠んでいました。佐佐木信綱の短歌結社竹柏会(「心の花」は会の歌誌)に入会し、地元高田新聞の選者を務めるなど活躍していた。 このめずらしい号は、北宋の文豪、蘇東坡(そとうば)の「赤壁賦(せきへきのふ)」中の「馮虚御風而不知其所止」から採ったものです。 (以上は、『相馬御風記念館』より教えていただきました。『相馬御風記念館』からは、納得がいく回答を沢山いただくことができました。他の記念館や資料館も同様にお願いしたいと思います。一般の人からの質問には、専門の学芸員や指導の主任主事を置いて、対応してほしいと思います。みんなの勉強に正しく答えてほしいと思います。平成15年12月17日)
【相馬御風の略歴】
・明治三十四年、旧制高田中学卒業(現・上越市の高田高等学校)、小川未明とは同級生。中学卒業と同時に与謝野鉄幹の「新詩社」に入会し、『明星』の同人にまでなります。 ・明治三十五年、早稲田大学英文科に進学しました。 ・明治三十六年、「新詩社」を脱退し、岩野泡鳴(いわのほうめい)らと、「東京純文社」を結成し、雑誌「白百合(しらゆり)」を創刊。浪漫主義文芸の進展と詩歌の革新を呼びかける。 ・明治三十八年、早稲田大学を卒業する一年前、早くも最初の歌集『睡蓮』を東京純文社から出版しました。 ・明治三十九年、早稲田大学卒業後は「早稲田文学社」に入社し、島村抱月の下で『早稲田文学』の編集に従事しました。当時の流行りであった自然主義文芸運動の先鋒として文芸評論の面で活躍しました。 ・明治四十年、三木露風、人見東明、野口雨情らとともに「早稲田詩社」を結成。口語自由詩推進の中心となり『御風詩集』(四十一年)を刊行しました。また、早稲田大学創立二十五周年に際し、校歌「都の西北」(東儀鉄笛・作曲)を作詞しました。二十四歳の時でした。 ・明治四十四年から早稲田大学講師となり、欧州近代文芸思潮を講義。 ・大正三年に島村抱月との合作で発表した「カチューシャの唄」(中山晋平・作曲)が大流行しました。歌ったのは松井須磨子。 ・・・東京で過ごした青年時代は、文学批判や人間関係などで波乱に満ちた十四年間でした。 ・大正五年以降は故郷の糸魚川に帰り(三十三歳の時)、活動の拠点をここに移し、終生上京することはありませんでした。五年後、文子さんが誕生し、二年後、「春よ來い」を発表しています。 ・晩年は禅僧で歌人の良寛(りょうかん)の研究に没頭した。御風は故郷へ帰る列車の中で、偶然、早稲田大学の同級の会津八一に出会った。八一は、歌人、書家。当時まだ評価の定まっていなかった良寛の芸術を認めていた知識人として知られている。その後、故郷で良寛をモデルにしながら、理想とした生活を生き抜いた。良寛研究代表作『大愚良寛』(大正七年)刊行。子供向きの『良寛さま』『西行さま』『一茶さん』を著し、『日のさす方へ』という童話集も出版しています。 ・昭和二十五年(一九五〇年)五月七日、突然脳溢血で倒れ、翌八日六十六歳で亡くなりました。文学上でも、人間関係でも争いを好まず、故郷を愛し、おのれの文学と向き合う孤独な人生でした。詩人、歌人、評論家として活躍。作品は『相馬御風著作集』全十巻(一九八一年・名著刊行会)にまとめられています。 (註) 新潟県西頸城(にしくびき)郡糸魚川(いといがわ)町大字大町(現・糸魚川市大町二丁目)について 昭和29年に市町村合併があり、糸魚川市が誕生しました。糸魚川町は、現在の寺町・大町・新屋・七間・横町・新田・鉄砲・押上・一の宮・蓮台寺・上刈・寺島を指します。 (以上は、『相馬御風記念館』より教えていただきました。平成15年12月17日) 【弘田龍太郎の略歴】 別記 【これからも歌い継がれるように】 私は、この歌が大好きです。この歌を歌うと、小さい頃の自分が甦ります。文化庁編『親子で歌いつごう日本の歌百選』には選ばれていません。 【著者より引用及び著作権についてお願い】 ≪著者・池田小百合≫ ![]() |
清水かつらの研究者の別府明雄さん所有の童謡曲譜集『お山のお猿』弘田龍太郎作曲を全ページコピーさせていただきました(2011年2月16日)。この本は大正十年十一月二十五日発行(初版)です。国立音楽大学附属図書館所蔵の『お山のお猿』は大正十四年三月二十五日発行(四版)です。表紙絵や中表紙の絵が変えてあります。楽譜や歌詞、挿絵は同じです。
【著者より引用及び著作権についてお願い】 ≪著者・池田小百合≫ ![]() |
【著者より著作権についてのお願い】 文章を使用する場合は、<ウェッブ『池田小百合なっとく童謡・唱歌』による>と書き添えてください。 |
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