
沢辺館 さわべたて
1200年頃に二階堂常信によって三迫川右岸の丘陵上に築かれた城で、以後は沢辺氏を称してここが代々の居城となるが、葛西領と大崎領の境目争いで一時この城を離れている。伊達氏の所領になってからは小野寺氏が置かれた。▼遺構や見所
■ 本丸 ■
城内の最も高い場所が本丸とされるが、郭の内部は狭くて建物があったようには見えない為、櫓台か城の守護神を祀る場所だったと思われる。現在は古峰神社等の祠があり、画像のように本丸に登る場所に鳥居が建てられている。
■ 二の丸 ■
城内で最も広い郭で、北側に大きめの腰郭が付随している。郭のやや北寄りの場所に土塁のようなものがあるが、実は土塁ではなく経塚である。現在は南側に大きな給水ポンプがある他は臥牛館公園として整備されている。
■ 土塁 ■
本丸の北側から二の丸と三の丸を隔てるような土塁が伸びており、城内では唯一明確な土塁である。
■ 井戸? ■
春夏は草に覆われて非常に分かりづらいが、本丸と二の丸の間に常に水が溜まっている穴がある。水堀にしては小さすぎるので井戸などの水の手と思われるが、ここについて言及した資料が無い為真偽は不明。
■ 三の丸 ■
本丸より北の低い場所に三の丸があるが、現在は雑木林で特にこれといったものは確認出来なかった。三の丸からさらに北には腰郭がある。
■ 大手道 ■
城の北西部が大手口とされ、そこから城内に入る大手道があるが、今はあまり人が通っている形跡が無い。道の途中には不動明王を祀った祠がある。
■ 堀切跡 ■
記録によれば城の南側には二条の堀切があったらしいが、学校のグラウンドを造る際に破壊されてしまったという。今はその学校も無くなり、堀切を潰して作られたグランドは畑になっていた。
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 1200年頃二階堂常信は葛西清重に仕えて胆沢郡の衣川村から栗原郡の沢辺村へと移り住み、以後は沢辺氏を称して城を築いて居城とした。二階堂常信
- 15世紀前半栗原郡沢辺村が大崎領になった為、葛西氏の家臣である沢辺氏は磐井郡の黒沢村へと移り、霞館に住んだという。沢辺某
- 1576年「葛西大崎合戦」の結果、栗原郡沢辺村は再び葛西領となった為、沢辺氏は大崎領との境目を固める為に再びこの城に戻ることになった。沢辺重光
- 1590年「奥州仕置」で葛西氏が没落した為、沢辺氏もこの時に所領を失った。以後、沢辺新左衛門は伊達家に仕え、一族の一部は帰農した。沢辺新左衛門
- 1590年?旧葛西氏家臣で伊達家に仕えた小野寺道行が沢辺に移され、沢辺館に住んだという。小野寺道行
- 17世紀頃?小野寺道貞以降の記録が無い為、廃城となったと思われる。小野寺道貞
▼詳細情報
最終訪城日 | 2017年4月24日 |
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別名 | 臥牛館 |
前身 | - |
普請開始 | 12世紀末頃? |
築城完了 | 12世紀末頃? |
築城者 (設計者) | 二階堂常信 |
分類 | 中世丘城 |
規模 | 東西250m×南北300m |
標高 | 標高:51.4m、比高:約35m |
文化財指定 | - |
現存建造物 | - |
復元建造物 | - |
模擬・復興建造物 | - |
遺構 | 土塁、井戸?、郭跡 |
標柱・説明板 | 二の丸跡に説明板あり |
現状 | 臥牛館公園、雑木林 |
イベント | - |
注意事項 | - |
場所 | 宮城県栗原市金成沢辺館下 |