幸福と報復

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ダグラス・ケネディ 著/中川聖 訳
カバー装画 浅野隆広
デザイン 新潮社装幀室
新潮文庫
ISBN4-10-213813-7 \857(税別)
ISBN4-10-213814-5 \819(税別)

外ればかりに跳び続ける人生のゲームブック

 母の葬儀のさなか目にした、若い頃はさぞやと思わせる上品な老婦人。だが参列者の誰も、彼女のことは知らない様子。そのときにはあまり気にも止めなかったケイトだったが、それから程なく、サラ・スミスと名乗るそのとき見かけた女性から手紙が届く。「小さい頃のあなたを知っている」と。そしてサラ本人からの「会いたい」という電話も。母の死とその葬儀の席で見せた兄チャーリーの無様な振る舞いに気の立っていたケイトは最初、サラからの申し出を邪険に突っぱね続けていた。サラから届けられた小包の中を見るまでは。その中にはケイトの幼い頃からの写真が納められたアルバムが入っていたのだ。なぜ見ず知らずの老婦人が自分の半生の記録を所持しているのか…

 怒りと当惑に任せてサラの住まいの門をたたいたケイトがサラから聞かされたのは、若くして亡くなった父ジャックと母、そしてサラと彼女の兄エリックにまつわる驚くべき物語だった………。

 「それはやめておけよ」といいたくなるような選択を繰り返し、そのたびにドツボにはまっていく人物を描かせたら天下一品のダグラス・ケネディが描く、終戦直後から"赤狩り"の荒を経て現在に連なる壮大な悲恋物語。たとえば彼の前作「仕事くれ。」なんかでもそうなんだけど、読んでるこっちは「なんでそうするかなー」という選択を登場人物はやらかして、そのたびにどんどん自分を不幸にしていく。「もうあんなことはしない」と堅く心に誓うのに、同じような局面に向かい合うとまた悪い方の選択をしてしまい、お約束通りせっかく前の不幸から立ち直り、なんとか再構築しかけたささやかな幸福を全部棒に振ってしまう、の繰り返し。一応体裁は悲恋小説ってことになると思うんだけど、なんていうかな、登場人物たちが不幸に陥る過程に一種の不条理感すら漂ってくるあたり、ケネディって人はデビュー作の「どんづまり」以来、一貫して人間の愚かな選択が引き寄せるドツボ状態を描こうとしているように思えてしまう。

 そう考えてみると「どんづまり」に登場した、主人公が取り込まれてしまう不可解なオーストラリアのカルトじみたコミュニティってのは、本作ではマッカーシズムの嵐だし、理屈でそうとわかっていながらそれとは別のことをしてしまう主人公(というか今回はそんなヤツのオンパレードなんだけど)ってのも、デビュー作以来連綿と続くケネディ・スタイルって感じ。とにかく「ああもうなんでこうなるかなあ」と思いながら、どんどん不幸になっていく主人公(えーと、一応本作の主人公はケイトではなくサラです。ある意味ケイトが主人公でもいいのだけど)の姿を「あっちゃー」と思いながら読んでいくしかない小説。ヘビーだねえ、こういうのは。

 ただ、これもケネディ作品に共通してるんだけど、度を超した悲劇は喜劇にしか見えない、ってとこもあったり、同じくこの人の作品に共通する会話のうまさなんかもあって、重たい話の割にはさくさくと読んでいけることもまた確か。ついでに、単にドツボ状態でもがき苦しむだけのお話ではなく、その根底にあるのは「赦す」ってテーマなんだと思うわけで、それがあるせいで一応読了時の感想としては、「がんばれよ、おい」ってことにはなるわけで、まずは一安心(なにが)といえるかな。

 ひどいことは誰にだって起きる。それが人生の基本的な法則。だけど、唯一単純な事実も同じ。つまり、進む以外に道はないってこと。あたしは幸せかって?特別そうでもないわ。でも、不幸でもない。

 人生はゲームじゃないんでね。セーブしたポイントまで戻ってやり直し、なんてことはできない。選択した以上はそれに向き合うしかないってことなんですな。

 ………でもジャックってそこまでいい男かなあ、とは思うわけなんですけどねえ(それが恋ってものなんだよ、キミ)。

02/09/07

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