『Fate/ stay night』を精読する

はじめに

 『Fate / hollow ataraxia』が出る前に決着をつけておこう。Type Moonの『Fate/ stay night』、やっぱりよくできていて、面白い。ただ、面白いのであるが、穴もこれまた多い。
 熱狂的な賛辞を贈るのは若い子たちに任せて、私は、穴の在り処を示し、また、その穴が開いた原因を探究するすることを試みたい。
 ちなみに、私の読み方は、他の拙稿と同じく、純粋オタク的批評、すなわち、ただただ「どうすればもっと燃えるか」に着目したものになっている。
 以下、完全にネタバレで論じていくので、未プレイの方は注意していただきたい。
 ところで、くどいので作品名である『Fate/ stay night』を『Fate』と省略してある。ただし、『Fate』の一シナリオ、いわゆるセイバールートも「Fate」である。括弧の違いだけなのでまぎらわしいので、ここも注意。

1 問題提起

 「長いクドい辻褄合ってない」とかは、もう私が指摘するまでもないだろう。
 『Fate』にたいする批判のうち、重要なのは以下の二つではないか。
 第一に「衛宮士郎がへたれ野郎に思えてしまう」。
 第二に「「Heavens Feel」の展開がどうも釈然としない」。
 人気作だけあって叩きまがいの批判も多い。しかし、このような感想がそこここで繰り返し出てしまうことには、やはりそれなりの原因がある。
 「どうすれば燃えるのか」を原理にまで立ち返って考えることにより、これを明らかにしてみたい。

2 「成長」および「正義」

 最初に私の道具立てを明らかにしておこう。
 重要な論点は三つある。そのうちの二つをまず挙げる。
 ヒーローものにおける「成長」と「正義」である。
 第一に、「成長」について。
 「成長のドラマとヒーローの論理」で、ヒーローは成長してはならない、というテーゼを述べておいた。ヒーローはヒーローであるかぎり、一瞬たりともヒーローでない状態にあってはならない。ヘタレからヒーローになる物語は、ヒーローの燃えとは相性が非常に悪い。
 ヒーローものにおいては、「成長のドラマ」を描いてはならないのだ。
 第二に、「正義」について。
 「ベタの正義論」で、「正義」について真面目に考察することは「燃え」と相性が非常に悪い、と述べておいた。ベタな「正義」描写を否定することも、ヒーローの燃えを高い確率で阻害するのだ。
 ヒーローものにおいては、とにかくベタに「正義」を描くべきなのである。

3 「ゲーム的バトルもの」と「ルールブレイカー」

 もう一つの論点は、本稿ではじめて提示するものである。
 『Fate』は「ゲーム的バトルもの」に分類できる。
 普通のバトルものにおいては、ルールは存在しない。あるとすれば、それは当人が自らに信念として課すルールか、その場その場で戦う当事者が合意によって取り決めるルールだけである。
 しかし、「ゲーム的バトルもの」という特殊なジャンルがある。第三者が決めたルールに支配されてバトルが進行する、というものだ。
 この手の作品の原初は、私の知る限りでは、山田風太郎『甲賀忍法帖』である。漫画版のせがわまさき『バジリスク』のほうを想起してもらってもよい。また、最近では雷句誠『金色のガッシュ!!』などがこれである。
 『Fate』もまた、この「ゲーム的バトルもの」であることは明白であろう。
 さて、この「ゲーム的バトルもの」には絶対に守らなければならないお約束がある。
 物語のどこかに「第三者が押しつけたルールそのものを打破する」瞬間がなければならないのである。
 当たり前の話である。最初から最後までルールをきちんと守って勝ち負けを決めるのは、スポーツや将棋や麻雀など、正真正銘のゲームのやることである。しかし、それでは決して「愛と勇気と正義を賭けた、燃えるバトルもの」にはならない。たんなる「スポーツもの」もしくは「ゲームもの」にしかならないのだ。
 どこかで「ルールを破壊してゲームの外に脱出する」ことがなければ、「バトルものの燃え」は成立しないのである。
 『ガッシュ』はまだ完結していないので、措こう。やはり『甲賀忍法帖』が素晴らしい。この作品においては、最後の最後で、ささやかだけれども決定的に「プレイヤー」が「ルール」を破壊する。そのカタルシスが『甲賀忍法帖』を名作たらしめているわけだ。
 そして、『Fate』も「ゲーム的バトルもの」であるかぎり、必ず「第三者が押しつけたルールそのものを打破する」瞬間をもたなければならないのである。
 さらに付け加えるならば、「ルールを打破するのは誰か」も重要である。当然のことながら、ヒーローこそが「ルールブレイカー」の役割を担うのでなければならない。
 これは、「『九龍妖魔學園紀』の「転校生」論」で扱った、「転校生」概念とも呼応する論点である。「転校生」においては、与えられた世界の「お約束事」をブチ壊して超えていくとき燃えは最高潮に達する。「ルールブレイカー」においては、「ゲームのルール」を破壊することにより燃えが産まれる仕掛けになっている。両者は似たような仕方でヒーローの行為が生むカタルシスを強化させているわけだ。
 「ゲーム的バトルもの」における「ルール破壊」、これが三つ目の論点ということになる。
 さて、以上で道具立てが揃った。「Fate」「Unlimited Blade Works」「Heavens Feel」の三つのシナリオを順に読んでいくことにしよう。

4 「Fate」解析

 「Fate」はよくできている。
 まず「ルール破壊」について考えてみよう。
 「Fate」においては、最後の最後でささやかにルールが破壊される。『甲賀忍法帖』と似たタイプと言えよう。ルールに則って戦っていった末に、衛宮士郎とセイバーのペアが勝ち残る。ここまではルールどおり。しかし、最後の最後で二人は「聖杯」を拒否して、ゲームの外部に脱出するわけだ。
 「Fate」はきちんと「ルールの破壊」を行っている。
 ちなみに、「Fate」になぜグッドエンドがないのかもここから理解できる。「Fate」では、ラストのギリギリまでゲームのルールは保存されねばならない。だからセイバーのグッドは必ず「Unlimited Blade Works」以降に回されることになる。
 では、「成長」および「正義」について考えるとどうなるか。
 「Fate」は、一見、士郎が「正義」について問い直し「成長」する物語に見える。しかし、それは錯覚である。この方向での解釈は少なくないが、私に言わせればそれは誤りだ。
 たしかに「正義の味方」について問題点が提示されたように思える。しかし、「Fate」の士郎はそれらの問題点をすべて「それでも俺は正義の味方でありたいんだ」と叫んで根こそぎ吹き飛ばしてしまうのである。なにも議論は進んでいない。
 つまり、「ベタな正義観」はそのまま保存されているわけだ。
 また、そのような士郎は、結局最初から最後まで「正義の味方」を貫くことになるわけで、ここには「成長」をとくに読み込む必要はない。より正確に言えば、燃えオタクが「成長」の要素を切り捨てて読むことが可能な構成になっている。士郎がグダグダ悩む描写もあるが、それはドラマのスパイスとして解釈しうる。
 むしろ、「Fate」で「変わる」のは、士郎と共に戦ったセイバーである。ヒーローである士郎は「成長」せず、むしろセイバーを「成長」させることにより、運命から開放するのである。
 このように「Fate」は、「ヒーローの成長を描くな」、「正義について真面目に考察するな」、「ゲームのルールをヒーローが破壊しろ」、という、私が提示した三つの論点を一応すべてクリアしている。
 こういうわけで、「Fate」は評価できる。

5 「Unlimited Blade Works」解析

 「Unlimited Blade Works」は、まあよくできているのだが、いくつか看過しえない欠陥をもつ。
 「ルール破壊」から考えよう。
 「Unlimited Blade Works」は、「クライマックスでルールが破壊される」という、「ゲーム的バトルもの」の王道といってもよいタイプである。
 クライマックスまでは、ルールに則ってバトルは展開される。しかし、ラストの二連戦で、バトルのゲーム性は完全に打破される。まず、士郎vsアーチャー戦は「聖杯」無視の「信念」を巡る勝負ということで、ゲームのルールを破壊している。そして、士郎vsギルガメッシュ戦は、「生身の人間が最強のサーヴァントを打ち破る」という、ルールどころか世界観すら引っくり返すような大花火を打ち上げているわけだ。
 これは燃える。素晴らしい。
 ただし、こう考えてみると、このシナリオの一つめの欠陥も見えてくる。葛木宗一郎の存在である。クライマックスを盛り上げるためには、衛宮士郎が最初の「サーヴァントを倒すマスター」にならなければならなかった。「ルールブレイカー」の役割を担うのは、ヒーローでなければならない。ヒーローより先にルールを打破してしまう葛木先生の活躍は、クライマックスの燃えに水を注してしまうのである。
 「成長」および「正義」については、ほぼ「Fate」と同じである。
 ここにおいても、「ベタな正義観」は保存されている。アーチャーの突きつける問題をすべて非本質的なものとして切り捨て、士郎は「それでも俺は正義の味方でありたいんだ」という信念を貫きとおす。
 それゆえ、士郎は「成長」していない、というのも「Fate」と同じ。彼は最初から最後までヒーローである。言うまでもなく、ラストで「変わる」もしくは「変えられる」のは、士郎ではなくアーチャーのほうである。
 「Unlimited Blade Works」もまた、「ヒーローの成長を描くな」、「正義について真面目に考察するな」、「ゲームのルールをヒーローが破壊しろ」、をきちんと守っているわけだ。
 ただし、問題が他にないわけではない。
 間桐慎二のキャラ設定に欠陥があるのだ。
 当たり前のことだが、「正義の味方」であるためには、正義を理解しているだけでは駄目だ。正義を実践しなければならない。士郎とアーチャーが戦って、両者めでたく正義を覚悟しました、では済まない。それは脳内正義ごっこ、自慰でしかない。アーチャーは士郎の分身なのだからなおさらだ。おまえらだけで納得しあってどうすんの。
 つまり、実際に他の誰かを救わばならないのである。
 さらに言えば、エンターテイメントとして面白くあるためには、少なくとも一人は「立ち絵のあるキャラ」を救っていなければならないだろう。
 角度を変えて言えば、「正義の味方のために救われてあげるキャラ」が非常に重要になってくるのである。
 問題は、『Fate』において、この「救われる役」は各々のシナリオの聖杯役が担うことになっている、という点にある。
 「Fate」はいい。士郎とセイバーはイリヤスフィール・フォン・アインツベルンを救う。不幸で孤独な無垢なる少女を救うのだ。「正義の実践」として申し分ない。「Heavens Feel」で救われる間桐桜もまあいいだろう。
 しかし、「Unlimited Blade Works」の間桐慎二は、明白に役に合っていない。「Heavens Feel」での彼の行為を読み合わせるならば、彼を救うことは「ベタな正義の実践」とは言いがたいものと受け取られてしまう。
 これでは燃えはいまひとつ阻害されてしまうだろう。
 「Unlimited Blade Works」の聖杯は別のキャラであるべきではなかったか。
 または、間桐桜を傷つける役目は間桐臓硯にすべて譲って、そこそこ善良な、救いたくなるようなお兄ちゃんに設定しておくべきではなかったか。
 ドラマのなかでアーチャーによって士郎の「ベタな正義観」がぶれることがあっても、ラストで正義の実践が成ればめでたしめでたし、となるわけだ。間桐慎二の造形は、このような物語の締めを担う核となるものである。
 このシナリオは、「正義の味方のために救われてあげるキャラ」の重要性を捉え損なっているように思える。

6 「Heavens Feel」解析

 「Fate」、そして「Unlimited Blade Works」と読んできた。
 いかに「Heavens Feel」が特殊なことをやってしまっているか、もうだいたい見えてきただろう。これまでの二つのシナリオとはまったく異なる明後日の方向へすっ飛んでしまっている。
 第一の論点、「ルール破壊」はどうか。
 「Heavens Feel」においては、かなり初期の段階から聖杯戦争というゲームのルールが崩される。それはいい。問題は、ルールを壊すのが、衛宮士郎ではなく、間桐臓硯である、という点にある。
 これはまずい。「ルールブレイカー」はヒーローが担うべき役割である。いくら蟲おじいさんが暗躍して「ルール破壊」をしたとしても、そこにカタルシスなんぞは一つも生まれない。
 さらに困ってしまうのは、「ルール破壊」をした後に、「Heavens Feel」が延々「隠された設定」を語りだしてしまうことだ。
 「ルールブレイカー」には問題はあるが、せっかくゲームのルールが壊されたのだ、さあ、信念のみに基づく熱いバトルが展開されるのか、と期待するわけだ。ところが、「Heavens Feel」は裏設定を語りだすことで、いわば、「別の思惑に支配された別種のゲームのルール」を再度提示してしまう。主人公たちは、これに再び取り込まれてしまうのだ。これでは最初にルールを壊した意味がない。
 このように、「ルール破壊」という論点を「Heavens Feel」は取りこぼしてしまっている。
 次いで第二の「成長」という論点に移行しよう。
 ここでも、「Heavens Feel」、これまでの二つのシナリオとはまったく異なることをやっている。
 「Heavens Feel」において、衛宮士郎は、「全体を救うのが正義である」という少年の頃からの信念を廃棄し、「愛した一人の女を救うべきだ」という新しい信念をもつに至る。
 これは、まさに少年から大人への「成長」である。しかし、これは駄目だ。
 「愛した一人の女を救うべきだ」という信念が間違っているからではない。どちらが正しいか、ということなどどうでもいい。
 問題は、ヒーローが自分の正義についての信念を変更してしまった、という点にある。正義についての信念は、そのヒーローの本質をなす属性である。どのような理由があれ、これを変えてしまう、というのは、その時点でヒーロー失格である。燃えない。
 さらに、とりわけ、先立つ二つのシナリオにおいて、変更前の信念がラストまで貫かれているから事情はより悪い。信念がシナリオによってまったく異なってしまうのでは、衛宮士郎がどのようなヒーローなのか、ゲームをやっている人間にさっぱりわからなくなってしまう。
 「Fate」および「Unlimited Blade Works」の士郎と、「Heavens Feel」の士郎とは、ヒーローのタイプからして異なる、まったくの別人としか思えない。つまり、『Fate』全体を通覧すると、衛宮士郎のキャラが壊れてしまうのだ。シナリオによって主題が変わるのは別に構わない。しかし、主人公の本質的な属性が変わってしまうのは行きすぎだ。
 他の非本質的な属性における成長や変化であれば、もしくは、士郎がヒーローでなければ、まだよかった。しかし、ヒーローの「正義観」だけはコロコロ変えてはならない。それはヒーローのキャラ立ちを決定的に損ない、燃えを壊してしまう。シナリオの都合で変更可能な信念など、貫いてもただの我侭にしか思えず、燃えないのである。衛宮士郎がどこかヒーローとしての魅力に欠けるのは、主にこのゆえである。
 第三の論点「正義」についても、「Heavens Feel」はおかしい。
 先に述べた「全体を救うべきか」もしくは「愛した一人の女を救うべきか」という正義の内実にかかわるディレンマを、真面目にグダグダ考えたあげく、結論を出してしまっているのだ。
 しかし、こんなことはやるべきではない。「一人か全体か」という問題は倫理学上のトピックとして深刻なものであり、どのような結論を出したとしても、どこか納得しがたいところが残ってしまう。そして、その「納得できない感」は、燃えを損なってしまうのである。好意的な読み手ならば、この「納得できなさ」を「深い問題提起をしている」と受け取るのかもしれないが、これを万人に要求するのは虫が良すぎる。少なくとも燃えオタには無理である。
 では、このディレンマはどう処理すればよかったのか。簡単である。ディレンマそのものを破壊して、両立させてしまえばいい。たとえば、「和月伸宏『武装錬金』にみる「ヒーローとはなにか」」にあるように、「どっちも!オレはどっちも守りたい!!」と問いそのものを拒否し、それを貫いてしまえばいいのだ。「Heavens Feel」は、このくらい「ベタ」な道を行ってもよかった。
 別の角度からも考えてみよう。
 ここで再び「ルール破壊」という論点に立ち戻ってみる。
 「Heavens Feel」は、せっかく聖杯戦争のルールを壊したのに、新しいルールをまた立ててしまう、と述べた。その新しいルールのうち、もっとも重大なものこそが、「一人か全体かどちらかしか選べない」というものである。
 さて、『Fate』の他のシナリオは、「ルール破壊」のカタルシスを追求するものであった。
 もしも衛宮士郎がヒーローであるならば、ここでも「ルールブレイカー」でなければならないだろう。
 つまり、「一人か全体かどちらかしか選べない」というルールそのものを破壊することこそ、「Heavens Feel」がやるべきことだったのだ。そうでなければ、『Fate』という作品全体のコンセプトの統一が崩れてしまうのである。
 一個のシナリオの燃えという観点でも、作品全体の統一性という観点でも、「Heavens Feel」は「ベタな正義描写」を遵守すべきではなかったか。
 まとめよう。
 このように、少なくとも私が提示したすべての論点にかんして、「Heavens Feel」はやるべきではないことをやってしまっている。
 「ヒーローの成長を描き」、「正義について真面目に考察し」、「ゲームのルールをヒーローが破壊しない」。
 私の理論からすると、これで燃えるシナリオを書くのは不可能ではないがかなり難しい。
 さらには、「Fate」、「Unlimited Blade Works」が以上の三論点について真逆の態度を採っているわけであり、いくらシナリオによって主題を変えたのだ、といっても、これでは『Fate』という作品全体の統一、調和が崩れてしまうのである。
 まあ、これだけ危ない橋を渡っているわりには面白く仕上がっていて、流石Type Moonだ、とも言えるかもしれない。
 しかし、やはり問題点が完全に解消されるまでには至っていない。このため、「Heavens Feel」の展開は、どこか我々に釈然としない想いを残してしまうのである。
 間桐桜というヒロインの抱えるテーマは興味深いものかもしれない。しかし、それを燃えるドラマに乗せて描くことに成功しているとは言えないのだ。

おわりに

 冒頭で提示した二つの問題についての私の回答は、以上である。
 本稿の議論は、あくまで「どうすればもっと燃えるか」に特化したものである。他の観点からすれば、別の解釈、別の評価も可能であろう。しかし、『Fate/ stay night』が燃える伝奇ヒーローものであるかぎり、以上は重要な論点をなすものであるはずだ。
 論調としては少々辛口に傾斜した感もある。
 しかし、これは愛ゆえの鞭である。
 私はType Moonにはいずれ菊地秀行を超えてもらいたいと思っている。そのためには、この程度の出来で満足してもらっては困る。
 そういう将来を見据えての辛口である。ご理解いただきたい。

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