成長のドラマとヒーローの論理

属性の変化とオタク

 「オタク道」でかつて私は以下のように論じておいた。
 オタクの本業は、キャラについての妄想にある。妄想とは、オリジナルの物語のコンテクストを離れ、別のコンテクストに置かれた場合、当該のキャラクターがどのような振る舞いを見せるのか、ということをシミュレートすることである。
 そして、妄想には、キャラ立て読解と私が名づけた特殊な物語の読み方が必要とされる。これは、オリジナルの物語をキャラについての属性の記述と読み替える、という作業を指すのであった。
 さて、ここから、オタクの妄想について、以下の帰結が導かれる。
 オリジナルの物語中で、キャラの属性が変更されてしまう場合には、キャラ立て読解が不可能となり、結果、妄想が不可能となってしまうのだ。オタクは属性の変化を理解できないのである。
 もちろん、どんな属性の変更も許されないわけではない。キャラは複数の属性をもつから、瑣末な属性については当然変わっても大丈夫であろう。しかし、重要かつ本質的な属性については、変更は許容できない。
 重要な属性の変化があるように見えても、それは、あるべくしてあった変化でなければならない。たとえば、悪の組織のメンバーが裏切ってヒーローの側につく場合を考えよう。これは重大な属性の変化のように思える。しかし、実際のところ、裏切る悪役はいつも最初から裏切りそうな奴なのだ。マイケル・ムアコック『ルーンの杖秘録』で悪を裏切り正義の側に立つのは、やはりユイラム・ダヴェルクであり、メリアダス男爵やシェネガール・トロットではないのである。
 最初から期待されていた変化は、属性の変化とは言えないだろう。いわばそれは正体が現れたにすぎない。ストーリーの都合上偽装された、見かけの属性が剥がれただけなのだ。

成長のドラマとオタク

 さて、ここで「成長」という概念に着目してみたい。
 そもそも成長とはなにか。一般的に、成長は、ヘタレた子どもから立派な大人への属性変更、と考えられよう。さて、そうであるとすれば、成長とは、たいていの場合、キャラクターの重要な属性の変更ということなるだろう。
 しかし、オタクの妄想はこれを処理できない。物語においてキャラクターの成長を描くことは、オタクの妄想を阻害するのである。
 単純なことだ。キャラがヘタレから大人に成長したとしよう。このとき、オタクには、そのキャラをヘタレとして妄想したらよいのか、大人として妄想したらよいのか判断がつかなくなる。つまり、成長を描く物語は、キャラクターにかんする妄想を困難にするのである。これでは妄想できない。
 妄想する存在、オタクは、成長のドラマと徹底的に相性が悪いのである。

ヒーローものにおける成長とレベルアップ

 我々の洞察はこうだ。オタクの妄想に適合するキャラに、属性の変化としての成長はそぐわない。
 この原則が最もわかりやすく見てとれるのは、「ヒーローもの」というジャンルにおいてである。
 ヒーローもののヒーローにかんして成長のように見えるものは、すべて「レベルアップ」に過ぎない。クラスチェンジではなくレベルアップである。属性そのものが変更されるのではなく、同じ属性のなかで強力になっていくだけなのだ。
 レベルアップの意味でならば、ヒーローは成長してもよい。というより、レベルアップとしての成長はヒーローのお約束ですらある。苦境に陥り、苦悩した末に、それを打ち破る、という図式は黄金パターンだ。
 しかし、これは本来の意味での成長ではない。先に裏切りについて考察したことを想起されたい。最初から期待されていた変化は、属性の変化と見なすべきではないのだ。ヒーローがまさにヒーローらしく成長することは、ヒーロー属性そのものの表現であり、そこに属性の変化などない。ヒーローとしてのレベルアップしかないのである。
 さて、では、どうしてヒーローにおいて、成長してはならない、という原則がよく見えてくるのか。理由は単純である。一瞬でもヒーローにあるまじき振る舞いをなした人間は、ヒーローとしての資格を永久に失ったと見なされるからである。ヘタレからヒーローになる物語は、ヒーローの燃えとは非常に相性が悪いのだ。
 以下、具体的な作品をいくつか見ていこう。

検証

 『仮面ライダー』を見よ。本郷や一文字は成長しない。最初からヒーローだから、もうこれ以上成長する余地がない。せいぜい特訓してパワーアップするくらいである。しかし、それが正しい。五代雄介も、最初から最後までヒーローな人格である。だから『仮面ライダークウガ』は正しい。
 我々にとっては信じがたいことであるが、オタクじゃない人は『機動戦士ガンダム』を人間として未熟なアムロ・レイの成長ドラマとして読んでしまうことがある。これはオタク的読解ではない。アムロというキャラはそもそもそういう奴なのだ、と認知するのがオタクである。未熟さから条件反射的に成長のドラマを期待してしまうのは、オタク的センスに欠ける証拠である。それ以前に、そもそもオタクにとっての『ガンダム』は、ランバ・ラルでありマ・クベであり、一年戦争そのものであったりする。もう人格形成が終わっちゃった大人のオッサンたちが『ガンダム』において中心的な妄想の対象となるのは、カッコいい云々という理由も当然あるが、成長の余地がないためにキャラがきちんと固まっているから、ということもあるのだ。
 『勇者王ガオガイガー』ならば、こう表現するだろう。勇者は生れ落ちてから息絶えるそのときまで勇者なのだ、と。獅子王ガイは第一話の最初から最終話の最後まで勇者であり、これまた正しい。
 今川版『ジャイアントロボ』は、少年の成長を描こうとしてグダグダに終わった。幻夜や銀鈴や鉄牛といった青年連中の成長を描ききれなかった。しかし、それでもまあ、いいのだ。善であれ悪であれ、ヒーロー役は、戴宗やアルベルト、そしてヒィッツカラルドといった大人のオッサンたちが担っているのだから。
 ヒーローは成長しない、ということは、ヒーローは基本的に大人である、ということを意味する。漫画やアニメばかりに目を取られると、この真理を見失う。『特攻野郎Aチーム』のジョン・ハンニバル・スミスも、『西部警察』の大門啓介も、『子連れ狼』の拝一刀も、みなオッサンではないか。
 つまり、ヒーローが少年少女である場合でも、ヒーローの核となる信念についてはすでに完成形態になっていなければならない。
 ヒーローを描かせたら日本一、長谷川裕一作品を想起されたい。『マップス』のゲンにしろ、『轟世剣ダイソード』の王太にしろ、生れ落ちてのヒーローである。こうでなくては。最近では、和月伸宏の『武装錬金』のカズキなども、このナチュラルボーンヒーローの正統継承者である。斗貴子さんやパピヨンのキャラの立ちに目を奪われてしまいがちだが、脇が輝くのは王道主人公を直球で投げ込んでいるからこそであることを忘れてはならない。
 三浦建太郎『ベルセルク』や、内藤泰弘『トライガン』、荒川弘『鋼の錬金術師』などは、興味深い。どれもヒーローになった過程、覚悟を決めるに至った過程を描いている。しかし、そのすべてが、その成長過程を過去の回想として描いていることに注意されたい。物語の現在では、もう成長しちゃっているのだ。やはりここでも、ヒーローは成長しない、という原則は保持されているわけだ。
 狭義のヒーローものでなくてもよい。『カレイドスター』のそらは、ものすごく成長したように見えて、その実、同一属性内でレベルアップしているだけである。成長しているのは、実は周囲のキャラなのだ。このへんがカレイドスターの面白いところである。
 ちょっと面白いのが『少女革命ウテナ』である。これ、オチは王道の成長のドラマで、学校という閉鎖空間で王子様お姫様ごっこをやっている状態から卒業します、というお話であった。ここで興味深いのは、王子様道を貫いた主人公のはずの天上ウテナがラストを待たずに退場し、成長し卒業した姿を見せたのは姫宮アンシーだった、というところである。こうなると、ヒーローは成長しないというより、成長できない、あるいは、成長したとしても、そのことがヒーロー自身の死亡フラグか物語そのものの終了フラグになってしまう、ということになる。
 さて、そうなると『リベリオン』のジョン・プレストンは厳密には燃えるヒーローには足りないことになる。あるべくしてあった変化とはいえ、彼は劇中で体制の犬からヒーローへと変化するわけだから。そのため、多くのオタクの燃えは、プレストンというキャラにではなく、ガン=カタという武技の設定に向かうのではないか。一方、『沈黙の戦艦』のケイシー・ライバックは、一貫してヒーローということになる。

萌えの場合における属性の変化

 オタクは成長のドラマと相性が悪い、ということは、とくにヒーローものにかんしてよく見てとりうるのだが、妄想一般にかんして成立するものなので、燃えではなく萌えについても確認することができる。
 オタクは属性が変更されてしまう物語を理解しないのであった。このことは、「萌えにおけるラブストーリー要素の排除」という現象にみることができる。
 過去現在ジャンルを問わず、一般人向けの作品にはラブストーリーが多い。しかし、近年のいわゆるオタク的萌え作品には、冒頭からいきなりモテモテラヴラヴ、というようなものが多い。ラブストーリー要素がないのである。
 ラブストーリーは、仲の良くない状態から仲良し状態への(もちろん逆もあろうが)人間関係の変化を描いたもの、と考えられる。これは、属性の変化ではないが、それに近いものであろう。すなわち、ラブストーリーは、オタク的能力の範囲の境界上にある。つまり、仲良くなる過程の面白さは、オタクの興味を惹きにくいのだ。オタクの萌え妄想は仲良くなっちゃったところから始まる。ラブストーリーが終わった後が、オタクの仕事の始まりなのである。
 であれば、最初からモテモテラヴラヴでいいじゃないか。近年の萌え作品の安易設定の根拠はここにある。たしかに、オタク的な価値観を徹底させるならば、ラブストーリー要素などなくしてしまったほうが合理的だ、と言えるかもしれない。しかし、多くの場合、ラブストーリー要素を排除したせいで、キャラの造形が薄っぺらくなってしまっていることには注意したい。よいストーリーはキャラを立てる役割も担っている。これを忘れると、浅薄な萌え狙い糞駄作ができあがってしまうわけだ。
 また、興味深いのは「ツンデレ」という属性である。本来、「ツンデレ」という現象において起こっているのは、「ツンツン」属性から「デレデレ」属性への変化であるはずなのだ。しかし、これが、まさに「ツンデレ」というキャラの一つの属性として統一されて語られているのである。この概念の定着にも、属性が変更されてしまう物語を理解しない、というオタクの特徴が見て取れると思われる。

総括

 ヒーローは成長しない。ヒーローもののドラマは、ヒーローとしての覚悟を決めた後から始まるのであり、覚悟を決めるまでの経緯などは、どうでもいいのである。
 あえて言おう。成長のドラマなど要らぬと。
 ただし、以上の議論が、あくまで燃えオタを対象としたヒーローものというジャンルに限定されたものであることには注意が必要である。本稿は、成長のドラマの価値をそれ自体として否定しているわけではない。もちろん、ヘタレがヒーローに成長するさまを描いた面白いドラマも数多くある。当然のことだ。肝心なのは、もしそのような面白い物語があったとしても、その面白さはヒーローものの燃えの面白さではない、ということであり、また、その物語はどれほど面白かろうがオタクの妄想には相性が悪い、ということである。
 成長を描くドラマは、面白さを引き出す論理が異なるがゆえに、同時にヒーローものとしては成立しえないのである。面白さにはジャンルに応じた種類があるのであり、それを安易に混交させてはならない、ということだ。
 ある作品が面白いとき、その面白さは単純なものではなく、複数の面白さの複合体である場合が多い。普通に妄想オタクライフを楽しむ場合には、これらの面白さを区別する必要はない。本能のままに燃えて萌えればよい。ただ、ちょっと反省して批評でもやろうか、ということになれば、話は別であり、このへんをきちんと腑分けしていかないと駄目であろう。本稿は、そういった作業の一つの試みであった。

ページ上部へ