『九龍妖魔學園紀』の「転校生」論

 私は今井秋芳のファンである。『東京魔人学園剣風帖』も大好きなのだが、とりわけ『九龍妖魔學園紀』を高く評価している。
 その際、評価の核になっているのは「転校生」という道具立てである。
 『剣風帖』も『九龍』も「転校生」モノである。『剣風帖』も悪くはない。しかし、やはり「転校生」モノとしては、『九龍』のほうがはるかに上と言わざるをえない。
 「転校生」の醍醐味はどこにあるのか、これを考えてみたい。

 ちょっと遠回りになるが、まずは「設定」ということについて考える。
 世界観に奥行きを出すためには、作品の背景設定をきちんと立てておくべきである。これは正しい。
 しかし、ただ闇雲に設定を積み重ねればいいというものではない。あくまで設定を重ねるのは物語を面白くするためであることを忘れるべきではない。物語を語ることができず、設定を垂れ流しているようにしか見えない作品には、魅力はない。
 ここまでは一般論である。ここで考えてみたいのは、燃えるヒーローをどのように設定すべきか、ということである。
 私の好みを言えば、ヒーローがヒーローであるためには、作品中の世界設定に嵌りきってしまってはならない。
 だってさ、その世界観のなかで「凄い奴」という位置づけがされている奴が凄いことをやったとしても、それは当たり前のことであって、なんら燃えるところがないじゃないの。ヒーローが燃えるヒーローであるのは、与えられた世界の「お約束事」をブチ壊して超えていくからでなきゃ。ヒーローの存在までもがその「お約束事」に組み込まれてしまっていたら、燃えるものも燃えなくなってしまう。
 だから私はヒーローについて設定過剰な作品が嫌いである。ヒーローの「凄さ」を特定の世界観に依存して規定しようとしている作品がどうしても肌に合わない。たとえば、実は誰々の血を引いていました、とか、実は誰々の生まれ変わりでした、とか、そんな設定は要らん。その世界の秩序や論理では割り切れないからこそ、ヒーローはヒーローなのだ。
 さらに「ベタの正義論」あたりを踏まえて言えば、ヒーローが頼る原理は、究極的には特定の世界観に依存しない普遍的なものであるべきだ。知恵と勇気と努力、そして友情と愛と正義を愛する心、これらの卓越性が、ヒーローを支える第一のものでなければならない。
 ヒーローの「凄さ」を設定の位相で語るな。物語における熱い行為で語れ。簡単に言えば、こうなる。

 以上の話は普遍的な原理というよりはあくまで私の好みである。これに当てはまらないよいヒーローももちろんいる。まあそれはいい。本稿で強調したいのは、次のことだ。
 この好みを共有する者たちにとって、最高のヒーローのフォーマットの一つが、「転校生」なのである。
 「学校」という閉鎖された空間は、一つの小世界をなしている。その小世界のなかで、さまざまな秩序が形成され、維持されていくわけだ。
 「転校生」は、その小世界の秩序の外部から来たる。そして、皆が当然のことと受け止めていた既存の秩序をまったく予想もしなかった仕方で切り崩し破壊していくのだ。そこに「転校生」モノの醍醐味がある。それゆえ、「転校生」の設定は、彼(女)が「転校」する「学校」の設定とは本質的に相容れないものであるべきなのだ。
 「転校生」は徹底的に異邦人でなければならない。「いてはならないはずの存在」がどこからともなく来たるのだ。そして、「そいつさえいなければ起こりえなかった結末」を引き起こすのだ。異邦人であるからこそのヒーロー、それが「転校生」なのだ。
 この異邦人っぷりについては、菊地秀行の『魔界学園』とか『魔校戦記』とかを読んでいれば雰囲気はすぐわかるだろう。
 ちなみに、世界観の内部だけで話を進めようとすると「生徒会」モノになったりするのだが、それはまた別の話になる。

 ここまで論じてくれば、私が『剣風帖』よりも『九龍』を評価する理由もわかっていただけると思う。
 『剣風帖』の緋勇龍麻はたしかに「転校生」である。しかし、彼の「凄さ」は結局は『剣風帖』の世界観のなかに「黄龍」というかたちできっちりとした居場所をもってしまう。つまり、龍麻が真神学園にわざわざ「転校」してきた意味があまりなくなってしまうのだ。「転校」してきた小世界に馴染んでしまう彼の「転校生」度はあまり高くないのである。
 一方、『九龍』の葉佩九龍は徹頭徹尾「転校生」である。彼は舞台となる天香学園の秩序や論理とはまったく異質な存在者として振舞う。魑魅魍魎が跋扈する魔術妖術の世界に、奴はなんと銃とナイフと寿司をもって立ち向かう。一人だけ戦闘能力の論理が異なるのだ。どうしてか。秩序の外から来た「転校生」だから、と言うほかない。
 戦闘能力だけではない。天香学園の秩序や論理は、多種多様な「過去」に支えられている。墓地の迷宮の存在もそうだし、葉佩の前に立ちふさがる《生徒会》のメンバーの行動もそうだ。そして、ポイントは、葉佩九龍はその「過去」のすべてにまったく無関係だということだ。天香学園のさまざまな「過去」の物語にとって、葉佩は完全に部外者である。それにもかかわらず、いや、それだからこそ、葉佩九龍はその「過去」を根こそぎ暴露し、天香学園の秩序や論理を根こそぎ破壊しうるのだ。「秘宝=真実を探し出せッ」とかいう能天気極まりない掛け声でもって。
 なんとも暴力的。しかし、場の空気を読まない異邦人ならではの豪快かつ無慈悲な暴力性にこそあるのだよ、「転校生」の醍醐味ってものは。
 以上の「能天気な暴力性」は、「転校生」だけでなく「宝探し屋」ももつものである。これまた菊地秀行の『エイリアン』シリーズの八頭大あたりを思い浮かべてもらいたい。大ちゃんは「転校生」ではない。しかし、元祖「宝探し屋」として史上最強クラスの「能天気な暴力性」をもっている。葉佩の場合、「転校生」属性と「宝探し屋」属性を兼ね備えることにより、これまた強力な「能天気な暴力性」をもつことに成功したわけだ。
 葉佩九龍は「転校生」中の「転校生」の一人だと私が考えるのは、こういうわけでのことである。

 以上で今井秋芳作品についての話は一段落なのだが、せっかくの機会なので余談を。まずは他の「転校生」について。

 緋勇龍麻や葉佩九龍以上の爽快感溢れる「転校」っぷりを一人称視点で楽しめるのは、古くて申し訳ないが『ファイヤーウーマン纏組』、とりわけ能力値引継ぎの二週目冒頭であろう。
 どこからともなく現れて校門をくぐる謎の「転校生」。それを取り囲む土着のイカレた不良ども。次の瞬間、その不良ども全員が「転校生」の使う謎の絶技(バレエ技だったりする)によって地に倒れ臥しているのだ。
 なんという快感。アレは素晴らしい。『ガンパレード・マーチ』が出たころ、たまに『纏組』が引き合いに出されたりしたことがあった。しかし、私に言わせれば二作品はまったくの別のベクトルを向いている。『GPM』は設定をガチガチベタベタに固めすぎていて息が詰まる。アレは「転校生」モノではまったくない。ことこの点については、『纏組』とは比較にならないのである。

 また、比較的最近の作品では、『処女はお姉さまに恋してる』が良質の「転校生」モノである。
 あれは百合モノではない。もちろん百合要素もあるが、面白さの骨格は、恵泉女学院という小世界の秩序や論理を、異質きわまりない「転校生」である「お姉さま」が掻き乱していく、というところにある。瑞穂お姉さまの縦横無尽のエルダーっぷりの「能天気な暴力性」、素敵すぎる。
 しかし、この作品、「転校生」モノ固有の落とし穴に嵌ってしまってもいる。エンディングで卒業して鏑木瑞穂は「お姉さま」ではなくなるわけだが、その瞬間に「転校生」属性が一気に抜け落ち、彼は凡庸な美形のボンボンに戻ってしまう。一気に神通力がなくなってしまうのだ。このあたり、難しいところである。

 ちなみに、私にとって最強の「転校生」は横山光輝『あばれ天童』の山城天童である。そういえば山口貴由『覚悟のススメ』の葉隠覚悟も「転校生」だったなあ、とか、「転校生」の変種としての「新任教師」モノということで、七月鏡一、藤原芳秀の『JESUS』を読んでみても面白いかもしれないなあ、とか、思うことは他にもあるが、まあこの辺で止めておく。

 「転校生」の魅力を「能天気な暴力性」というところで押さえた。先に述べたように、これは「転校生」固有のものではなく、たとえば「宝探し屋」ももつものである。
 そして、さらに言えば、この「能天気な暴力性」の頂点にスティーヴン・セガールがいる、と私は考えている。
 映画世界について、テロリストがどうの軍がどうのCIAがどうの、とどんな複雑な設定をしようが、セガールがそこに登場した瞬間、すべてがどうでもよくなる。その映画世界のあらゆる秩序や論理をセガール拳が打ち砕いてしまうから。セガールとセガール拳は、どんな映画世界を設定しようが、その外部にある。
 シナリオライターが脳みそを絞って立てたであろう絶体絶命の状況設定が、まさに「能天気に暴力的」なセガール拳によってあっさりとクシャクシャにされていくさま。この爽快感こそがセガールの魅力なのである。苦戦しないからアクション映画としてつまらない、などと言っている奴がよくいるが、まったくセガールの醍醐味をわかっていない。普通なら苦戦するはず、とかいうその映画世界の秩序や論理をセガールがさくっと台無しにするところがいいのである。
 ちょっと話が飛びすぎたので補足しておけば、もちろん、「転校生」固有の面白さというものもある。やはり、「学校」というものがもつ独特の閉鎖性が効果的なのだろう。完結した小宇宙を強調しやすいので、それに対置されて「転校生」における「能天気な暴力性」がよりよく際立つことができるのである。今井秋芳が「ジュヴナイル」を強調するのも、このへんを考えると非常に合理的な態度と言える。
 ここまで話を広げるのならば、渡り鳥モノとか火星モノとかを「転校生」と絡めて語ることもできるかもしれないのだが、大変なので気がつかなかったことにしたい。

 以上、「転校生」について思いつくままに論じてみた。今井秋芳、スティーヴン・セガール、そしてまだ見ぬ「転校生」たちのこれからの活躍を祈りつつ、筆を置くことにしたい。

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