ベタの正義論

はじめに

 「燃え」については、これまでいくつかの論考で考察を行ってきた。
 「萌えの主観説」や「オタク道補論・妄想の二つの原理」における私見を簡単にまとめるならば、以下のようになる。
 個別エピソードが萌えるものであれば、よりよく萌えることができる。しかし、燃えるためには、個別エピソードが燃えるものであるだけではなく、物語そのものが燃えるものでなければならない。
 そして、物語そのものが燃えるものであるためには、ジャンルごとに存在する「燃えの理念」に合致していることが必要である。
 この二つのテーゼが私の燃え論の基本原則であった。
 さて、これまでの論考において、私は「燃え」のあり方がジャンルごとに異なる、という事実を強調した。ただまあ、だからといって、一般的な話ができないわけではない。ジャンルのスケールを広くとればいいわけだ。
 たとえば、「正義は勝つ」モノ、というところまでジャンルを広くとってみたらどうなるか。「燃えの理念」が端的に「正義」であるとすればどうなるのか。
 本稿では、これを考えてみたい。

なぜ正義なのか

 「正義」と「燃え」とは非常に相性がいい。これは誰しも認めることであろう。「正義」が「燃え」の必要条件とまでは言わない。ダークな「燃え」、クールでドライな「燃え」もあろうから。ただまあ、「正義」の「燃え」が王道であることは否定できまい。
 では、なぜ「正義」と「燃え」は相性がいいのだろうか。
 私の考えはこうだ。
 「燃え」にはヴァイオレンスが不可欠である。
   ただ、無意味な暴力や破壊を無秩序に並べ立てても、あまり燃えてこないだろう。物語のなかの暴力や破壊に何か一本筋が通っていなければ、燃えてこないのである。
 そこで、「正義」の出番である。ヴァイオレンスに「正義」の衣装を着せることによって、我々は心安く暴力や破壊に燃えることができるようになるのである。
 それゆえ、「正義」と「燃え」は協働する。
 こうなっているのではないか。

正義と純愛の違い

 私の考えでは、「正義」は「燃え」の本質を構成しえない。「燃え」の本質をなすのはヴァイオレンスである。「正義」はヴァイオレンスに付属することによって、はじめて機能するのである。
 これは、「純愛」と「萌え」との関係とはまったく異なる。我々は、エロ要素にまったく欠けていたとしても、「純愛」に萌えることができる。「純愛」はエロとペアにならなくとも、単独で「萌え」を生むことができる。
 しかし、「正義」はそうではない。
 「正義」はヴァイオレンスとペアになってはじめて燃えるものとなる。ヴァイオレンスを欠いて「正義」だけを描く場合を想像してみよう。辛気臭い道徳の教本にしかならないだろう。そんなものは面白くもなんともないのである。
 ここから、以下のように結論できる。
 「燃え」の観点からすると、「正義」はヴァイオレンスを燃やすためにのみ存在意義をもつ。

オタク的正義論の位置づけ

 つまるところ、オタク的立場からすれば、「正義」そのものには、リアルな「正義」には、これといって何の価値もないのである。
 「正義」も「悪」も、虚構のなかでヴァイオレンスを面白おかしく弄んで妄想するために要請されるものにすぎない。まあたいへんに有効な手段ではあるが、目的そのものではないのだ。「燃えるかどうか」がすべてなのである。
 これは、「オタク道補論・妄想の二つの原理」で指摘した、「燃え」の理念の多様性という論点と連関している。もちろん、ひとたび「正義」の「燃え」を追求しよう、と決めたのならば、「正義」は理念として絶対の位置に置かれる。しかしながら、そもそも「正義」が唯一の「燃え」の理念というわけではない。この意味で、「燃え」における「正義」の価値は相対的なものにとどまるのである。
 こういうことを言うと、なにやら不道徳なことを主張しているようにとられてしまいがちであるが、そうではない。
 そもそも、「正義」も「悪」もきわめて胡散臭い概念である。現実世界は単純な「正義」や「悪」の二項対立で割り切れるものではない。現実世界で「オレタチは正義だ」「ヤツラは悪だ」とやっているのは、知性か誠実さに欠けている連中ばかりではないか。
 現実世界の物事について、ナイーヴに「正義」だ「悪」だと言い立てるのはヤメロ、「正義」や「悪」は虚構のなかで妄想して遊ぶのにだけ使え、という立場は、実はきわめて道徳的なものなのである。
 例外もある。子どもに善悪を教える場合だ。このときは、単純化して教えざるをえないだろう。「なぜ子どもむけなのか」での議論が成立するのは、このゆえである。

ベタの正義論

 さて、ここから以下のような原則が導かれる。
 燃える「正義」はベタでなければならないのだ。
 なぜか。
 物語中に「正義」やら「悪」やらの表現があったとする。その表現がベタでなかったらどうなるか。我々は「これは本当に正義なのか」「これは本当に悪なのか」と考えてしまうだろう。
 しかし、だ。そもそも「正義」も「悪」も胡散臭い概念なので、真剣に考えれば考えるほど、泥沼にハマって萎えてくる。燃えるどころではなくなってしまうのである。
 勘違いクリエイターが意気込んで「ベタでない正義」を描こうするが、結局は独りよがりの「オレ正義」を説教するだけに終わり、誰の共感もえられずに失敗する、というのはしばしば見られる光景であろう。ありがちなものとしては「悪い人なんて実はいないんだ」とか「戦争はやっぱりいけないんだ」とかいうメッセージを入れ込もうとして、なんだか薄っぺらくグダグダになる、というパターンなどか。
 ということで、燃やすためには、物語のなかの「正義」や「悪」について深く考えさせてはならないのだ。誰でも直観的に「ああ、これは正義だな」とか「ああ、これは悪いや」とか疑問なしに理解できるようなところで話をつくっていかなければならないのである。
 つまるところ、燃える「正義」はベタでなければならないのだ。
 本気で「正義とは何か」「悪とは何か」を考えたければ、倫理学や法哲学の論文か純文学でやればいい。しかし、そういう思索は「燃え」とは両立不可能。まあ、勝手にやってください、頑張ってね、という以外に何もない。

正義と悪のベタな諸規則

 ということで、こと「燃え」の観点からするならば、「正義」や「悪」についてはベタな判別規則を墨守しなければならない、ということになるのだ。
 具体的にはどのような規則か。思いつくままに挙げてみよう。
 「弱いものイジメをする奴は悪い」。
 「ヒーローは弱きを助け強きを挫く」。
 「目的のために手段を選ばない奴は悪い」。
 「ヒーローは勝利のために誰かを犠牲にしない」。
 「自分の快楽や利益のみを優先する奴は悪い」。
 「ヒーローは他人の幸福を守るために戦う」。
 「ヘタレ野郎は優しいがタフではない」。
 「ヒーローは優しいのにタフである」。
 「ヘタレ野郎はピンチになると苦難に背を向ける」。
 「ヒーローはピンチになっても諦めない」。
 どれもベタベタである。しかし、燃やそうとするならば、物語のはしばしにこういうわかりやすい「正義」や「悪」のベタな判別規則を織り込んでいかなければならない。

燃えはクラシックである

 「正義」や「悪」を扱って燃やそうとするかぎり、一定のベタな判別規則を守らなければならない。ここから、「正義」で燃やす「燃え」作品は必然的に一定の形式を共有することになる、ということが導かれる。
 この考察を、燃え作品の解釈論に当てはめるとどうなるか。「『BALDR FORCE EXE』における燃えについて」で提示したテーゼ、「燃えはクラシックである」に帰着するだろう。
 「燃え」作品を批評解釈する場合には、形式の同型性をただ指摘していくだけでは不十分であり、一定の形式を踏まえた上でのアレンジのあり方に着目しなければならない、というわけだ。
 ただし、このような解釈をするためには、作品中のどの要素が形式に当たるのかをきちんと読み取る作業が必要になる。
 『斬魔大聖デモンベイン』を例にとってみよう。『デモンベイン』には、燃やすための「ベタな正義の判別規則」以外にも、「既視感のある要素」がふんだんに盛り込まれている。
 過去のロボットアニメやヒーローものへの「オマージュ」や「パロディ」。
 効果的な演出のための狭義の「パクリ」。
 萌えキャラを立てるための「記号化」や「お約束」。
 そして、「クトゥルー神話体系に則った世界観の共有」。
 たとえばこのようなものが挙げられようか。一口に「既視感のある要素」といっても、いろいろあるわけだ。
 そして、『デモンベイン』をきちんと解釈するためには、賞賛すべき「燃えの形式を遵守した部分」と、批判すべき「工夫が足りずお約束を繰り返してしまった部分」とを、ちゃんと見分けていくことが要求されるのである。そのうえではじめて、アレンジのオリジナリティを論じることが可能となるのだ。

燃えキャラの記号化問題について

 「正義」ということから、「燃え」の形式性を強調した。
 しかし、これはあくまで物語のストーリーについての主張であり、キャラについての主張ではないことに注意していただきたい。
 私は「萌え」における記号化をいくつかの論考で批判しておいた。同様の論点は、「燃え」についても成立する。記号化された萌えキャラに魅力が乏しいのと同様に、記号化された燃えキャラにも魅力はない。
 もっともわかりやすいのはガンダムであろう。いつからか、「新しいガンダム」として出されてくるMSのデザインは、「ガンダムっぽさ」の記号を組み合わせただけのなんとも魅力のないものに成り下がってしまった。うんざりである。もはや、どの「自称ガンダム」も中身空っぽのプラモデルにしか見えないのだ。
 種ガンのシリーズはいろいろな意味でダメのダメダメであるが、問題点の一つは、この記号化にまったく無頓着なところである。
 富野由悠季がなぜターンAのデザインをシド・ミードに、キングゲイナーのデザインを安田朗にもっていったのか、考えてみるべきであろう。ターンA以降に「ガンダムっぽい記号ガンダム」を無批判に出してくるなど、センスの欠如の証明でしかないのである。

おわりに

 燃える「正義」はベタでなければならない。これが本稿の主張であった。
 もちろん作品にオリジナリティは必要である。当たり前の話だ。オリジナルな要素を支えつつ全体として「燃え」を実現させるための骨組みとして、ベタな「正義」が必要になる、ということである。
 ただまあ、作家性独創性を重視せよ、という言説は巷にありふれている。今更強調するまでもない。またその一方で、燃え作品における形式性を短絡的に作家性の欠如と結びつける浅薄な主張も少なくない。
 ここらでベタであることの重要性を確認しておくことが必要ではないか、と考えたわけだ。
 思想家や批評家の真似をして、「正義」の内実について考えてみたりすることはすべきではない。それはオタクの仕事ではない。筋違いの局面で知的なふりをしてみても、失笑を買うだけだ。
 オタクは胸をはってベタな「正義」に妄想し燃えるべきなのである。

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