なぜ子ども向けなのか

0 はじめに

 オタクが重要なマーケットを形成している、とよく言われる。それは、世の中にオタク向けの作品が多く送り出されている、ということを意味しよう。
 しかし。不思議なことに、それが良作の増加にまったく繋がっていない。オタクに向けてつくられた作品は駄作ばかりなのだ。オタクというマーケットの存在が、作品レベルを下げているのである。
 これは、なぜか。考察してみたい。

1 オタクと子ども向けについての旧来の言説

 かつて、オタクは子ども向けのジャンルを好む連中だと思われていた。このような理解が誤りであることは、もはや論じるにも値しないことであろう。
 まずもって、私見では、オタクをジャンルで定義づけるのは誤りである。(拙稿「オタク道」参照。)
 さらに、漫画やらアニメやらゲームやらが子ども向けのジャンルである、というのも明らかな事実誤認である。というよりも、そもそも、表現のジャンルに大人向けとか子ども向けとかの種類がある、という発想そのものが、いかにも教養に欠けたものである。

2 大人向け/オタク向けの貧困

 というわけで、今日において、大人向けの漫画、アニメ、ゲームなどが多く存在している。とりたてて十八禁を考えなくとも、主なターゲットを、子どもにではなく、中高生からそれ以上のオタク連中に据えた作品は多い。
 ところが。オタク向け作品には駄作が多い。
 オタク向け作品には、時間のムダのような腐った愚作が溢れている。まあ、オタク向けによい作品がないわけではないし、子どもをターゲットにした作品に駄作がないわけではない。しかし、一定の水準をクリアした作品に出会う確率は、子ども向けのほうがはるかに高いのである。
 これは、なぜか。考えてみたい。
 もっとも簡単な答えは、オタクの大人の購買力を狙った志の低い作品が多いから、という、経済的な観点からのものであろう。
 しかし、このような外部的要因だけではないのではないか。オタク向け、大人向け、ということそのものに、本質的に問題があるのではないか。本稿の狙いはこれを明らかにすることにある。
 ところで、萌えを狙った駄作については、すでに「妄想の弁証法」で一定の考察を行った。そこで、本稿においては、燃え要素を中心に論を進めていく。

3 大人向け作品の惨状

 なんかね、深夜にいくつかロボットアニメをやったりしてたんですよ。これらがほぼ全滅。劇中で登場人物は吼えたり叫んだりしているようだが、まったくこちらの心に響かない。オタクを狙ったスーパーロボットアニメは、どうしてこんなにダメなのだろうか。一方で、たとえば『絶対無敵ライジンオー』を見よ。子ども向けをきっちり貫いた作品の、なんと燃えることか。
 平成に入ってクウガより後の仮面ライダーが、大人が見てリアルなドラマ性やら、大人が見て好感を覚える俳優のツラ揃えやらを狙うことで、どんどんダメになっていったこと、これも思い出してもらいたい。ここでは、オタク向け、というより、大人向け、ということの問題点となろうか。観るの完全に止めたので最近はどうなのかよく知らないが。子どもの視点を忘れない東映戦隊シリーズが、出来不出来はあるにせよ、まあ一定の水準をクリアしたものを毎年つくっていることと対比されたい。この差異はどこに由来するのか。
 もう少し細かい論点を。古い話で恐縮だが。勇者シリーズという子ども向けの枠で、『勇者王ガオガイガー』はたいへんに我々を燃やしてくれた。しかし、深夜枠の『ベターマン』は、ほぼスタッフを同じくしながらも、今ひとつ散漫な出来に終わった。ガオガイガーのOVAも今ひとつ。これはなぜか。『宇宙海賊ミトの大冒険』は、まさに子どもにも見せたい燃えっぷりを評価された。しかし、前作を支持してくれた人たち、すなわち、深夜枠のアニメを視聴できる大人たちに向けて改めて制作された『ミト2』は、まったくの凡作に終わった。これはなぜか。
 色々他にも原因はあるのだろうが、ここで、次のような仮説が立てられるのではないか。
 子ども向けという視点を忘れると、オタクの燃えは減衰する。

4 燃えるための必要条件

 オタクが燃えるためには、そこに燃えの理念がなければならない。「オタク道補論・妄想の二つの原理」において、このように論じておいた。これを前提にして考えたい。
 そこでは、燃えの理念が作品ジャンルによって様々に異なる、という点を強調した。しかし、一方で、燃えるために一般的かつ必然的に必要とされる契機がある、ということも言えるのではないか。諸々の燃えの理念を、より根底で基礎づけるものがあるのではないか。
 それは、燃えるヒロイン/ヒーローを描こうとするのであれば、必ず前提としなければならない、以下の思想である。
 すなわち、正義、勇気、友情、努力、優しさ、高潔さ、知恵、等々には価値がある、これである。
 この思想が貫徹されていなければ、燃えもなにもない。

5 子ども向けはなぜ燃えるのか

 さて、ここで、子ども向け、ということを考えてみよう。
 子ども向け作品とは、まさに先に挙げた諸価値を子どもに教えるためのものである。それゆえ、子どものほうをきちんと向いた作品は、オタクにとって、こよなく燃えるものとなりうるのだ。
 大人向け作品は、現実のリアルな描写を求めがちである。そのため、先の思想を作中で貫徹することに、しばしば失敗する。その結果、まったく燃えなくなる。燃えを阻害するリアルさに意味などない。まったくもって馬鹿馬鹿しい。
 オタク向け作品は、メカのデザインとか、戦闘の演出とか、台詞回しとか、とにかく枝葉末節の演出にのみ頼って、燃えを産み出そうとする。こんなことが成功するはずもない。奥に流れる燃えの理念がなければ、表層だけを取り繕っても仕方がない。
 その一方、子ども向け作品を、まさに子ども向け作品として誠実につくろうとするならば、これが正義だ、これが勇気だ、これが友情だ、ということを、直球で描くことから逃げることはできないだろう。描かれる正義が、現実にはありえないような純粋なものであってもかまわない。いや、むしろそのほうがよい。子どもに教えるべきは、現実がどうあるかという事実ではなく、現実がどうあるべきかという規範、理想なのだから。
 もうお気づきだろう。子どもに教えるべきこの理想が、同時に、オタクにとっての燃えを成り立たしめるものでもあるのだ。
 そして考えるに、子ども向けという縛りなくしては、この理想を率直に語ることはなかなかに難しいのではないか。子ども向けという視点をオタクの燃えが必要とするのは、このためなのである。
 理屈はこれくらいでいいだろう。雷句誠『金色のガッシュ!!』を読んでみたまえ。少年漫画でしか描きえない燃えがここにある。この燃えの味は、青年誌やオタク専門誌ではどうしても出せないものなのである。

6 おわりに

 オタクは、子どもっぽい大人ではない。子どもは、小さなオタクではない。
 オタクと子どもの物語の読み方は、まったく異なるものである。
 子どもは単純に、劇中のカッコいいキャラクターを観て、「こーなりてー」と思うだけである。もちろん、現実にはそうなれはしない。しかし、それでいいのだ。なにが現実において目指すべき理想なのかを学ぶことが大切なのだから。
 一方、オタクは、その理想が現実にはけっして成立しえないものだ、ということをわかっている。わかっているからこそ、純粋な正義の、純粋な勇気の、純粋な友情の顕現に燃え上がり、血を滾らせるのである。
 オタクと子どもは、かくも根本的に異なる存在者である。しかしながら、それにもかかわらず、オタクと子どもは、現実には存在しない理想的な価値を必要とする、という一点で交錯しているのである。
 もちろん、子ども向けの説教臭い駄作もある。ハリウッドチックな正義の押し売りも真っ平だ。文科省の「心のノート」みたいな糞のような洗脳ドートク教育に加担する気も毛ほどもない。
 また、子どもにゃまだ早い複雑な燃えもあるだろう。復讐の燃え、どん底から這い上がる燃え、しがらみに絡めとられつつも信念を貫く燃えなどなど。こういうものは、子ども向けではありえない。
 他にもいくらでもツッコミどころは挙げられよう。しかし、一つの原則として、以下のように言えるのではないか。
 オタクを燃えさせたければ、その作品があたかも子ども向け作品であるかのようにつくれ。
 これが本稿の結論である。

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