燃えは萌えに優先する

 昨今オタクを論じる際、萌え系の話だけで済まされてしまうことが多い。
 裏をかえせば、ヒーローは滅びつつある、ということだ。
 しかし、私の心には深く刻まれている。すべてを捨てて、愛と正義と平和のために戦った人々の姿が。
 少なくとも私のオタクの原点は、ここにある。

 例えば皆さん、純愛ものは好きですか。
 私も、嫌いじゃない。でも、どこかに残るのだ、違和感が。

 恋する二人が擦れ違ったりなんかしちゃって、それが物語を織り成す。そこまではよい。
 しかし、純愛ものというジャンルでは、この恋愛がらみの諸々の事件のみが、あたかも世界における唯一の問題であるかのように展開する。漫画でも、ゲームでも、小説でも。
 恋する二人にとって、まさに、「二人のために世界はある」のだ。

 これに深く感情移入できる人もいるだろう。それを否定する気はまったくない。
 しかし、私はそこで、どうしても思ってしまう。
 恋している君たちが、惚れた腫れたの純愛物語を安穏とやっていられるのは、誰のおかげなのか、と。

 本郷猛が、一文字隼人が、命をかけてショッカー、ゲルダムショッカーの野望を打ち砕いてくれたからじゃないか。
 君たちの純愛物語がそもそも成立しているのは、本郷や一文字が決死の覚悟で守り抜いた日常の枠のなかでのことではないのか。
 君たちの恋愛の世界は、君たちの気づかないところで、人知れず血を流している誰かの手で守り抜かれたものなのだ。

 愛だの恋だのを歌っていられる日常は、それほど強固なものではない。それを狙うものは無数にいた。これからもいるだろう。

 ショッカー。ゲルダムショッカー。デストロン。G.O.D.。ゲドン。ガランダー帝国。ブラックサタン。デルザー軍団。まだある。ネオショッカー。ドグマ。ジンドグマ。そして、バダン。

 恋に酔う君たちは気づいていないだろうが、この世界は何度も絶望的な危機に陥ってきたのだ。そして、そのたびに、誰かによって救われてきたのだ。

 いや、君たちを責めるつもりはない。勇者たちは、人知れず戦った。そして、その戦いを皆に知られることを好まなかった。孤独に戦い、孤独に勝利したのだ。それゆえ、君たちが、その激しい戦いの存在を知らないのは、仕方がないことだ。

 でも、私は知っている。風見志郎の孤独を。結城丈二の苦悩を。神敬介の哀しみを。
 そんな私が、どうして「二人のためだけの世界」に素直に感情移入できるだろうか。
 私は忘れない。あの修羅の日々のなかで見た、山本大介の笑顔を。あの絶望の日々を切り裂いた、城茂の口笛を。

 燃えは萌えに優先する。はるかに優先する。
 今や、勇者たちの真の戦いの記憶をもつものは少ない。
 しかし、忘れてはならない。
 大空を駆ける筑波洋の雄姿を。大地を切り裂く沖一也の五つの拳を。鋼鉄の身体のなかで燃える、村雨良の熱い魂を。

 そうだ、語り継ぐのだ。魂のヒーローたちの輝きを。
 そして、もしも我々の番がきたときは……戦おう、全てを賭けて。

 燃えろ。燃えろ。命の限り。

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