鈴木央『僕と君の間に』の感想

前置き

 「姉萌え憲章」で述べたことであるが、私はお姉さんが好きである。姉萌えであるからには、姉属性が世間一般に認知されることが嬉しくないわけがない。というわけで、きゃんでぃそふとが『姉、ちゃんとしようよっ!』を発表して以降の姉萌えの盛り上がり、これは基本的にはたいへん喜ばしいことだと思っている。

 しかし、あまり手放しで喜んでばかりいても、足元をすくわれる。現在の盛り上がりについて、気になる点を指摘しておこう。

 これは姉属性のみならず属性一般について言えることであるが、属性がポピュラーになるにつれ、それを狙う作品の萌えのレベルは確実に低下する。萌えを語るオタクにおいても、作品を供給するクリエイターにおいても、中途半端な連中が大量に参入してくることになるからである。

 とりわけ危険なのが、十八禁パソコン紙芝居ゲームである。現在の姉萌え文化を支えているのは、たしかにエロゲーである。しかし、拙稿「エロゲーは本当にオタク文化なのか」で指摘したように、エロゲーは属性をステロタイプな記号に堕落させる傾向をもつ。これは危険である。姉萌えの本質を弁えないクリエイターが、粗悪極まりない姉作品をつくる。姉萌えの本質を弁えない萌えオタが、そんな駄作に萌え萌え騒ぎ立てる。その結果、駄姉偽姉が大量生産される。正直なところを言えば、姉エロゲーが濫発される現状に、すでにその傾向が見てとれる、と私は思う。

 というわけで、先に拙稿「現代眼鏡っ娘考」で眼鏡っ娘にそくして指摘したことを、ここでも繰り返しておこう。美食家とはなにか。なんでも美味しく食べてしまう人間ではない。それはただの下品な大食漢だ。美食家とは、ほんとうに美味なもの以外は食べることができない人間のことを言う。姉萌えも同じなのだ。「姉」と呼ばれていさえすれば萌える、という態度は誤りである。真の姉萌えは、本当のお姉ちゃんのみを愛し、粗悪な偽者には怒りの鉄槌を振り下ろさねばならないのだ。姉萌え文化を正しい方向に導くことも、弟の役目なのである。

 ともあれ、幸いなことに、姉萌えの時代は今ここに始まったばかりである。できるかぎり姉萌えの水準を下げないで戦線を拡張していくことを心がけねばなるまい。では、具体的にはどうすればよいのか。近道はない。良作を賞賛し駄作を非難する、地道な活動を続けるしかないだろう。というわけで、本題に入りたい。

鈴木央『僕と君の間に』

 鈴木央の作品としては、『ライジングインパクト』がもっとも有名であろうか。トテトテプニプニなショタ漫画家として語られることが多かったような気がするが、ショタにはお姉さんがつきもの。当時から、きちんとよいお姉さんを描いていた。(付け加えるならば、目の覚めるような眼鏡っ娘も描いていた。眼鏡っ娘もなかなかに上手い。)

 この鈴木央の最新の単行本が『僕と君の間に』第一巻であるのだが、これがなかなかによくできたSF冒険ファンタジーになっている。閉鎖された共同体で育った少年が、ふとしたことで、広い外部の世界へと投げ出される。そこは、文明がいびつに崩壊した未来の世界。そこを、運命が巡り合わせた年上のお姉さんと旅していくのである。このあらすじでわかるように、話はとにかく王道でわかりやすく、背後の設定はしっかり一ひねり、というあたりの計算されたバランス感覚がまず心地よい。そして、今更言うまでもない圧倒的な画力がこれに加わる。滑りだしは上々の娯楽漫画である。このあたりの鈴木央の職人芸的な漫画づくりの巧さはいくら強調してもし足りない。(そのわりに打ち切られやすいのは、職人系の巧さは地味さに繋がるからなのであろうか。)

 さて、ここで注目したいのは、この作品が、SF冒険ファンタジー漫画としてだけではなく、姉漫画としてもよくできている、ということである。一般的な姉の萌えポイントについては、「姉萌え憲章」で述べておいた。ヒロインのダリアは、私の考える姉萌えの肝をいい感じに押さえた造形になっている。

 このダリア、ひょんなことからショタ少年ホーク君の保護者となるわけだが、母親的な保護をするわけではない、しようと思ってもできない、というところがまず注目点である。いかにも姉的な気まぐれな保護をするのである。いじめる、コキ使う、喧嘩する、その一方で、弟を放っておけない姉心ゆえに夜は添い寝、というわけだ。このあたりのピンポイントでの姉らしさの表現は実によいものである。

 さらには、ダリアが「姉もやっぱり女の子」という要素を色濃くもつところもよい。事故でちゅーしてドキドキ。風呂を見られてビックリ。定番中の定番の展開であるが、これまた姉モノに必要不可欠な要素であり、なかなかによいものである。

 そして、私が強調したいのは、弟分たるホークがヘタレ坊主ではない、ということだ。プニプニショタショタしているが、ちゃんと知恵と勇気、そして自分の信念をもっている。よい姉にはよい弟。やはりこうでなくては。あんまり悪口は言いたくないが、冬目景の『羊のうた』みたいにヘタレ姉とヘタレ弟がヘタレスパイラルに陥ってダメダメになっていく、といった、読んでいて苦笑いが出てしまうような方向には行っていない。このあたりは、私の好みによく合っている。

 褒めすぎたようなので、バランスをとっておけば、まだ一巻しか出ていないので、本当の作品のポテンシャルを語るには少々早かったかもしれない。作品としての真価が試されるのは、これから。私の高評価も、多分に先物買いの要素を含む。しかし、まあ、かなり期待できることは間違いないのではないか。

 最後にもう一つ付け加えておこう。ダリアを姉として論じてきたが、『僕と君の間に』の序章、「Departure」にはもう一人の姉的な女性セルマが登場する。このセルマが少年の旅立ちの最終的なきっかけをつくるのであるが、これがまた心に沁みる上質の姉エピソードである。弟は姉離れすることで一歩大人になり、そこから物語が始まる、というのも、姉モノの一つの定跡であろう。やはりこの作品は姉属性を一つの軸としているのである。

追記

 『君と僕の間に』が完結したので、簡単に感想を書いておく。

 狭い世界で育った少年が年上の女性に誘われて広い世界へ向かう……というように纏めると、松本零士『銀河鉄道999』になってしまうわけだが、残念ながら、そこまでの域には届かなかった。

 やはりこういう物語は、旅する「世界の広さ」とか「そこで出会う人々の多様さ」とかをどれだけ魅力的に描けるかにかかっていると思うのだ。ところが、どうもこれが上手くいかなかったようだ。旅もそこそこにSF的大風呂敷のまとめに入ってしまい、そのまま終わってしまった。そのため、全体として頭でっかちで詩情が不足している感じがどうしても拭えない。たぶん連載期間の事情などもあったとは思うのであるが、それにしてもいささかもったいなかった。

 私の直観だが、この手の「旅モノ」は「寓話」として描かないと上手くいかない気がする。「世界の広さ」とか「人々の多様さ」とかを、すべて作者が自分の頭で練り上げようとしても、どこかで無理がくる。ネタが続かなくなる。現実の世界の広さや現実の人間の多様さを横目で眺めつつ、それを反映させながらネタ出しをしないと、広さや多様さ、深さや奥行きがなかなか出てこないのではないか。これはすなわち、物語を寓話として描け、ということと同じことになるだろう。たとえば、先に挙げた『銀河鉄道999』などは、まさにそういうつくりの寓話になっていると思うのだ。

 どうもこの作品は、このへんのところを十分に消化しきれないままに進んでしまったために、着地がいまひとつだったような気がする。

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