さらなる燃えと萌えのために。もっとイタく、もっときもちわるく。
まず、現状認識を言っておこう。眼鏡っ娘は重大な危機にある。
コンタクトレンズがどうこう、といったような外的な危機ではない。内在的な腐敗の危機にある。
巷のオタク的作品には、眼鏡をかけたキャラが少なからずいるじゃないか。それほどの危機なのだろうか。こう思う方もいるだろう。
しかし、よく見ていただきたい。二流三流の作品に登場するのは、「ただキャラの差別化を図るために眼鏡をかけさせてみました」という眼鏡キャラばかり。そのようなキャラは、眼鏡っ娘萌えにとっては、萌えないどころか不快のかぎり。眼鏡っ娘への冒涜とさえ言えよう。
端的に、近年の眼鏡っ娘には駄キャラが多いのである。
眼鏡っ娘という属性がお約束になりすぎたのだ。広く見られる萌え属性であるがゆえに、安易な低級の眼鏡っ娘が大量生産されているのだ。真の眼鏡っ娘は、ゴミの洪水のなかにときたま見つかるだけ。哀しいことだ。
世間には、そもそも眼鏡っ娘の聖性を理解しない輩がいまだ生息している。奴らはもちろん、敵だ。死ね。
しかし、眼鏡っ娘萌えの真の敵は、眼鏡っ娘内に巣食うエセ眼鏡ダメ眼鏡クズ眼鏡だ、と私は考える。
社会的認知度の低い属性であれば、広く戦線を拡大することが戦略として妥当であろう。しかし、眼鏡っ娘萌えにとっては事情は別。眼鏡っ娘は、オタク的領域において、すでに一定の市民権を獲得しているからだ。このような状況においては、眼鏡っ娘萌えは、より原理主義的な立場を採り、内部粛清と綱紀の純化にこれ努めるべきなのである。
眼鏡っ娘について、よく言われることがある。こうだ。
「眼鏡っ娘というからには、眼鏡をかけている。眼鏡は必要条件である。しかし、眼鏡をかけていれば、即、眼鏡っ娘なのかといえば、そうではない。ただの眼鏡をかけた女は眼鏡っ娘ではない。」
エセ眼鏡っ娘、ダメ眼鏡っ娘が嫌い、というと、以上のような主張をするのか、と思われよう。
違う。私が言いたいことは、これの真逆である。
眼鏡っ娘とは、端的に眼鏡をかけただけの女の子であるべきなのだ。
人は、なぜ眼鏡をかけるのだろうか。難しいことではない。目が悪いから眼鏡をかけているんでしょ、ということである。
つまり、目が悪い、ということ以上には、眼鏡っ娘に必然的に付与されるべき属性はないのである。
ところが。
ここが全然わかっていない作品が多い。眼鏡をかけているから、勉強ができる。眼鏡をかけているから、本が好き。眼鏡をかけているから、ドジっ娘。こういう属性づけを安易にしてしまう。眼鏡、ということから、記号的に連想する属性をくっつけてしまうのだ。これをやってしまうと、キャラ造形が非常に薄っぺらになる。
今日の多くの眼鏡っ娘について、私が不満に思うのは、まさにこの点だ。眼鏡をかけさせたことでキャラづけが終わったと錯覚して、キャラの練り上げを怠っているのだ。二流三流の作品は、全般にキャラが薄っぺらいのだが、その中でも、とくに眼鏡っ娘が悲惨なまでに薄っぺらくなるのはこのためだ。眼鏡をかけたキャラは、眼鏡をかけていないキャラよりも凡庸にされやすいのだ。
しかしまあ、どうしてこうなってしまったのだろうか。
眼鏡っ娘は長い歴史をもつ。長い歴史をもつがゆえに、キャラパターンが固定化されてしまった。この可能性はある。しかし、それだけでは、他のポピュラーな属性との事情の違いが説明できない。もっと考えねばならない。
このような仮説もある。眼鏡っ娘は人数合わせのサブヒロインとして導入されることが多い。真の眼鏡愛好者でない作者による眼鏡っ娘は、容易にお約束に堕してしまう。これももっともらしい。
しかし、それだけではない。
問題は、眼鏡っ娘に萌える我々の側にも存在するのだ。眼鏡をかけているだけでただ満足し、安易なキャラ造形を厳しく批判する作業を怠ったツケこそが、現在の駄眼鏡の氾濫の一因なのである。
思い返すに、眼鏡っ娘萌えという思想は、アンチテーゼから出発していた。女の子の眼鏡をネガティヴなもの、コンプレックスの象徴として扱う愚劣な大衆に対して、「眼鏡なんて気にしない」を超え、「眼鏡だからいいのだ」と叫んだ瞬間、眼鏡っ娘萌えが生まれたのであった。つまり、眼鏡っ娘萌えは、眼鏡を蔑視する愚民への対抗理論として成立したのである。
実は、ここが問題なのだ。この結果、眼鏡っ娘萌えは、眼鏡を理解しない敵に対しての攻撃手段こそ発達させてきたが、内在的な眼鏡の論理の批判的な練り上げに欠けてしまったのではないか。
そもそも対抗理論というものは、政治的な論理に支配される。眼鏡っ娘とはとにかくよいものですよ、という明快で判りやすいスローガンが求められてしまう。それでは足りないのだ。なにが上質の眼鏡っ娘で、なにが粗悪な眼鏡っ娘なのかをも語っていかなければならないのである。
美食家とはなにか。なんでも美味しく食べてしまう人間ではない。それはただの下品な大食漢だ。美食家とは、ほんとうに美味なもの以外は食べることができない人間のことを言う。
眼鏡っ娘萌えも同じだ。眼鏡をかけていさえすれば萌える、という態度は誤りである。真の眼鏡っ娘愛好者とは、最高級の眼鏡っ娘のみを愛し、粗悪品には否を突きつけねばならないのだ。
ところが、我々眼鏡っ娘萌えたちは、この倫理を忘却してはいなかったか。眼鏡をかけているだけで、ただ喜んで、終わり。自分の眼鏡っ娘を鑑定する能力を伸ばそうとはしていなかったのではないか。
眼鏡っ娘のキャラパターンの固定化は、我々の眼鏡っ娘についての審美眼の未熟にも根をもつのである。これに、先に挙げた人数合わせという契機、また、昨今の萌え狙いのエロゲやら漫画やらアニメやらの、安直なキャラづくりの風潮、その他もろもろの要因が拍車をかけているのだろう。
しかし、時代は変わった。ここらで、仕切りなおすべきだ。
ではどうすべきか。私の考えはこうだ。
我々は、眼鏡に萌えているわけではなく、眼鏡っ娘に萌えているのであろう。ここで、「娘」ということに着目すべきだ。
素直に考えれば、「眼鏡っ娘」の実体は「娘」要素が担っているのであって、「眼鏡」要素は補正的付帯性ということになるのではないか。簡単に言えば、眼鏡は眼鏡であり、たんに彼女が顔にかけているものなのだ。ここから再出発すべきである。
いくら眼鏡が好きでも、ただ彼女が眼鏡をかけているというだけで喜んではならない。それは眼鏡っ娘萌えではなく、眼鏡萌えである。
眼鏡っ娘萌えは、論理的な構造としては、以下のような順序で成立しなければならない。
眼鏡とは独立に、しっかりと彼女そのものに向かい、その魅力を把握する。その後に、眼鏡をかけてもらう。この眼鏡着用による、当人そのものの魅力増大に着目する。ここではじめて眼鏡っ娘萌えが成立するのである。
眼鏡そのものに魅力があるのではない。眼鏡とは、素体たる女性の魅力をブーストアップさせる補正器具なのである。
あたりまえのことだが、魅力的な眼鏡っ娘は、たとえ眼鏡を外してもなお魅力的でなければならないのだ。
このような認識のもと、もう一度眼鏡っ娘の論理をより精妙な仕方で練り上げていくことが求められている。
最後に、我々の議論に対して予想される反論に答えておきたい。
我々は、属性として眼鏡っ娘を固定化することを批判した。そして、眼鏡っ娘とは、端的に眼鏡をかけただけの女の子であるべきだ、とした。これは、言ってみれば、眼鏡を副次的なアイテムに格下げしてみよう、という提言である。こうなると、誰もが疑問を抱くだろう。
魅力的な女性であれば、眼鏡をかけていなくてもいいのではないか。
こう問われたら、どう答えればいいのだろうか。
私は、大きな声で、「然り」と答えるべきだ、と考える。
眼鏡をかけているから、君は彼女たちを愛したのか?
そうではなかろう。それでは本末転倒だ。
愛した女性が、たまたまみな眼鏡をかけていただけであり、そしてまた、愛した女性には、いつまでも眼鏡をかけていてほしいだけなのだ。
こう言い切ることが、真の眼鏡萌えの心意気ではないだろうか。