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さらなる燃えと萌えのために。もっとイタく、もっときもちわるく。
大仰なタイトルではあるが、たいした話ではない。全面改稿する以前の「ハーレムの論理」の自己批判である。
オチから言ってしまえば、クリエイターが萌えを追求しようとすると、かえって萌えなくなるということになる。弁証法…まあいいや。
「ハーレムの論理」という文章を書いた。
何度か大幅な改訂を施しているのだが、その最初期の版の結論は、まとめれば次のようなことであった。
萌え狙い駄作は多い。萌えを狙っているが、萌えやしないし、面白くもない。しかし、これを「萌えを狙っているからダメだ」と批判してしまえば、これはオタクの自己否定になってしまうのではないか。クリエイターが萌えを狙うことそのものは評価しなければならないのではないか。
この主張を、最も露骨な萌え狙いを例に展開してみたわけである。
書いた当初は、これで正しい、と思っていた。
ところが、どうも私は少々甘かったようだ。
私は、「萌えの主観説」の立場をもっと原理主義的に守るべきであった。
ここから核となる論点を引用してみよう。
「萌えとは、オタクが行う能動的行為である。作品ないしキャラクターのもつ性質ではない。ソレに萌えるオタクの存在なくして、萌えキャラ、萌え作品などは存在しない。逆に言えば、どのような造形のキャラ、どのようなジャンルの作品であろうと、そこに萌えるオタクがある限り、萌えは成立する。
萌えは主観的なものである。客観的な萌えなど存在しないのだ。」
「萌えとは本来、主観的かつ能動的なものである。これは、何に萌えを見出し、何に見出さないかが、そのオタクの個性と能力を示すということを意味する。」
つまり、原理的には、萌えは、作品を創作するクリエイターの論理ではなく、作品を読解し妄想するオタクの論理なのである。
萌えは、クリエイターの論理ではない。では、クリエイターが萌えを狙うことにより、いかなる害悪が生じてしまうのか。
私の仮説は、こうだ。
萌えは、物語のキャラクターに着目することにより成立する。キャラがきちんと立っているかどうかが、その作品が萌えられるものであるかどうかを規定する。萌えはキャラを志向する。
これはオタクの論理である。ここに矛盾は何もない。しかし。この論理をクリエイターに適用したとたん、異常が起きる。
クリエイターが萌えを狙う、ということは、そもそもどういう事態を指すのか。萌えはキャラを志向する、ということからすると、作品を制作するにあたり、キャラ造形から入り、それだけを重視するという態度に帰着すると思われる。
では、テーマやらストーリーやらの練り上げを怠って、とにかく萌えそうなキャラだけ造形する、ということは、どうすれば可能なのか。
そう、結局のところ、陳腐な記号的属性の寄せ集めでキャラをつくる以外なくなってしまうのである。
そして、このキャラの記号化現象こそ、よい萌えの最大の阻害要因であった。手垢にまみれた属性をただ組み合わせただけの奥行きのないキャラには、下等な萌えしか成立しない。そんなものに引っかかるのはヒヨコオタクだけである。
こういうわけで、萌えを狙うことにより、キャラは浅薄になっていく。そして、錬度の高いオタクには耐え難い作品ができあがる、ということになる。
かくして、冒頭の結論が導かれる。クリエイターが萌えを追求しようとすると、かえって萌えなくなるのである。
とはいえ、別に、萌えを狙うことが悪い、とまでは言わない。
萌え要素を抜いてもなお面白い作品にしか、レベルの高い萌えキャラは存在しない、ということである。
燃えでも、泣きでも、笑いでも、ほのぼのでも、ラヴでも、なんでもいい。萌えの他に何か語るものをもっている作品のみ、萌えを狙うことが許される。燃えなり泣きなりは、物語のテーマやストーリー、個々のエピソードなどに奥行きがなければ成立しない。そして、奥行きのあるストーリーなりエピソードなりは、記号的属性を超えて、キャラを立たせていくだろう。
しかし、キャラ萌えのみを単独で狙っても、萌えさせることはできない。
たとえキャラ造形から出発するとしても、けっして物語のその他の要素の練り上げを怠ってはならないのである。
昔の私は、少々単純素朴に過ぎたようである。