『仮面ライダーW』を読む

はじめに

 『仮面ライダーW』、なかなか楽しませてもらいました。評判もいいようで、嬉しいかぎりである。せっかくなので、なるほどよくできているなあ、と、私が感心した点をいくつか指摘しておきたい。前もって言っておけば、私の解釈では、この作品の鍵となるキャラクターはシュラウドである。

 テキストの性格上、TV本編および映画版二本にかんして普通にネタバレして書くので注意されたい。

仮面ライダーWについて

 この作品の核心が「二人で一人の仮面ライダー」という発想にあることは言うまでもないだろう。まず、この点にかんして確認しておきたい。

 そもそもヒーローはヒーローとして完全無欠でなければならない。しかし、ヒーローが完全無欠にすぎると物語を面白くしにくい。この問題をどうするかが、ヒーローものが企画の段階で乗り越えるべき最初で最大の壁である。そして、少なからぬ作品が、ヒーローとして未熟な主人公をあえてヒーローとして立てることで、この問題に対処しようとした。ヒーローに隙があれば物語を転がしやすいだろう、と考えたわけだ。

 しかし、そのような試みは、多くの場合、失敗する。ヒーローに欠点をつくるということは、とても難しいことである。ヒーローとして欠格な存在がヒーローを名乗ることは、世界征服や人類抹殺の試みよりもなお悪い、正義の僭称および冒涜の大罪であるからだ。欠格にならないかぎりで未熟にする、という繊細な匙加減を決めるセンスがないと、上手くいかないのである。

 では、そこで『仮面ライダーW』はどうしたか。もはや言うまでもないだろう。完璧なヒーローを二つに分割したのである。仮面ライダーの魂の象徴としての、左翔太郎。仮面ライダーの力の象徴としての、フィリップ。一人一人を単独で取り出すと、どちらもヒーローには足りない。左翔太郎には力が足りない。フィリップには正義の心が足りない。しかし、二人が一人、一つになると完璧、完全無欠。このような仕方で『仮面ライダーW』は、ヒーローは完全無欠でなければならないが、完全無欠にすぎると物語が面白くならない、という二律背反を処理しようとしたのだ。なんという奇手。

 ところが、実は、この奇手を使ったのは『仮面ライダーW』が最初ではない。先立つ『仮面ライダー電王』が同じようなことをすでにやっている。仮面ライダーの魂の象徴としての、無力な野上良太郎。仮面ライダーの力の象徴としての、正義を知らぬイマジンたち。発想の出発点はかなり近い。ただし、この発想は、『仮面ライダー電王』ではまだ萌芽的な段階にとどまっていて、その魅力は十全に引き出されてはいなかった。良太郎はイマジンに憑依されてしまうのだから、「二人で一人」にきちんとなってはいないのだ。左の黒と右の緑がきちんと半分半分の『仮面ライダーW』こそが、はじめてこの構図の本質を理解したうえで自覚的に採用し、その潜在性をあますところなく引き出した、と評価してよいだろう。

 さらにもう一点、私が評価したいのは、この作品が真のヒーローにしか「仮面ライダー」という名を名乗ることを許さなかったことである。称号としての仮面ライダー、という私の以前からの主張に完全に添っている。嬉しいかぎりだ。

* 「称号としての仮面ライダー」という論点については、拙稿「称号としての仮面ライダー」を参照。

左翔太郎/仮面ライダージョーカーについて

 仮面ライダーWは二人で一人、左翔太郎もフィリップもどちらも単独ではヒーローとしては半人前である。しかし、ここで強調したいのは、左翔太郎は半人前であっても半端者ではない、ということだ。左翔太郎とフィリップとで、仮面ライダーのどの要素を担当するか、という役割分担がはっきりしていること、ここを見落としてはならない。左翔太郎は、一人だけでは無力であり、仮面ライダーとして完全ではない。しかし、仮面ライダーの魂としては、彼はもうすでに完璧なのである。

 さて、改めて考えてみよう。ヒーローにとって本質をなすのは魂と力のどちらなのだろうか。言うまでもない。魂、正義の魂こそが本質である。そのため、左翔太郎は、力において欠けるところをもちつつも、すでに完成したヒーローである。つまり、成長すべき存在とは見なされていない。それにたいして、後に述べるように、フィリップは正義の魂を欠くがゆえに、不完全なヒーロー、成長すべき存在として描かれていく。ここには鮮烈な対比がある。

 ここは強調しておきたいのだが、本編の物語中で、左翔太郎の魂は成長していない。成長する余地もなく、第一話の段階から完璧だからだ。彼の魂のヒーローとしての成長は、『ビギンズナイト』において鳴海荘吉を失った時点で完遂している。ハードボイルドになりきれず、苦悩しつつ戦う心優しいハーフボイルド、これが左翔太郎の正義の魂である。ここになにかを足す必要もないし、ここからなにかを引く必要もない。これが左翔太郎なのだ。そして、物語中、どんな苦境に陥っても、彼は必ず自分の足で立ちあがり、この信念にしたがって、自らの為すべきことを為す。ここに、なにひとつ揺らぎはない。そんな左翔太郎によって、魂の成長を促されるのは、フィリップであり、また、照井竜なのである。

 左翔太郎が、ある意味での成長をみせたのは、仮面ライダーの力にかんしてである。物語中ずっと、左翔太郎の戦うための力は、基本的にフィリップによって与えられたものであった。しかし、『運命のガイアメモリ』や本編最終数話の段階では、左翔太郎は単身生身で敵アジトを破壊するまでの力を、そして、仮面ライダージョーカーに変身するまでの力を獲得している。この時点をもって、ついに左翔太郎は、単独で仮面ライダーの力と魂を兼ね備えた存在になったのである。これは成長と言えば成長である。しかし、これはあくまで力の成長、すなわち、クラスチェンジではなくレベルアップである。左翔太郎にかんして、ヒーローの本質たる魂における成長はない、という点は揺るがない。

* ヒーローは成長しない、という論点については、拙稿「成長のドラマとヒーローの論理」を参照。

 もう一点、左翔太郎が『仮面ライダーW』のドラマの外部に位置する存在である、という点についても注意すべきであろう。私はすでに、ヒーローは基本的に状況の外部から来て首を突っ込む存在である、と主張しておいた。この理論どおりに、左翔太郎はつねに状況の外部に位置し、依頼によってのみ事件に関わる。きちんと探偵型ヒーローの定式を押さえているわけだ。ここも、とても「よくわかっている」のである。

* ヒーローは物語の外部の存在者である、という論点については、拙稿「「ヒーローもの」の形式とその展開」を参照。

フィリップ/園咲来人について

 フィリップは、仮面ライダーの力を完璧に担う存在である。物語のなかで、フィリップの力の最強性は揺らぐことはない。仮面ライダーは最強だからだ。その一方で、フィリップには仮面ライダーの魂が決定的に欠けている。『ビギンズナイト』において、フィリップは、自らに欠落した正義の魂を補ってくれる存在、左翔太郎を手に入れた。それ以降ずっと、フィリップは、魂については左翔太郎に完全に依存したまま戦っていくことになる。

 『仮面ライダーW』は、そんなフィリップが仮面ライダーの魂を手に入れるまでの成長と彷徨の物語である。そして、物語のクライマックス、第48話のあの最後の変身の瞬間に、フィリップもまた、仮面ライダーの魂を手に入れる。描写こそなかったが、最終話以降のフィリップは、ロストドライバーを使えば単独で仮面ライダーサイクロンあるいは仮面ライダーファングに変身できると思われる。すでに彼は、仮面ライダーの力に加えて、魂をも手に入れているからだ。

 さて、このように考えると、本編最終話のフィリップの復活についての理解も進む。この展開について、ご都合主義的である、とする感想をしばしば見かける。まあ言いたいことはわかるが、私の考えは違う。ラストの仮面ライダーWの再登場には意味がある。物語の締めに、これまでとはまったく異なる「二人で一人の仮面ライダー」を見せているのだ。

 すでに述べたように「二人で一人の仮面ライダー」の基本的な意味は、半人前の二人が共闘することで完全なヒーローとなる、というところにあった。しかし、ラストでの「二人で一人の仮面ライダー」は違う。力を得て、一人でも戦える左翔太郎が、それでもなお、フィリップを相棒として選ぶのである。また、魂を得て、一人でも戦えるフィリップが、それでもなお、左翔太郎を相棒として選ぶのである。『ビギンズナイト』とは異なるかたちで、相棒の誓いの新たな結び直しが行われているのだ。旧約仮面ライダーWは半人前どうしが結んだ相棒の誓いに基づいていたが、新約仮面ライダーWは一人前どうしが結んだ相棒の誓いに基づいている。新約仮面ライダーWは、本郷猛と一文字隼人を範型とする、文字どおりのWライダー、ダブルライダーとして理解されるべきであろう。

 フィリップの復活にかんしてついでに言えば、第48話が終わった時点では、園崎若菜がまだ「自分の罪を数え」ていなかったところもポイントであろう。身を捨てて弟を救うことで、パズルのようにきっちりと彼女の罪業に応じた贖罪が成立する。 物語上の収支がきちんと計算されていることにも注意が必要である。

シュラウド/園咲文音について

 主人公たちの次に重要なキャラクターは、シュラウドである。『仮面ライダーW』の形式上のボス敵はもちろん園咲琉兵衛なのであるが、実質的にはシュラウドこそが敵なのである。ここが面白いところだ。

 園咲琉兵衛はボスであるがゆえに、主人公たちの前になかなか姿を現さない。左翔太郎にとってミュージアムの正体は物語終盤まで不明のままだ。しかし、シュラウドは真の敵、園咲琉兵衛を知っている。そして、シュラウドは、左翔太郎の力量を、園咲琉兵衛との比較において、つねに疑問視しつづける。つまり、左翔太郎は、実際の園咲琉兵衛と戦うまえに、ずっとシュラウドのイメージする園咲琉兵衛と戦い続けているのである。まず、この意味において、シュラウドこそが敵である、と言える。

 さらに重要なのが、シュラウドが仮面ライダーの魂を否定しようと試みる存在である、ということだ。もちろん、シュラウドは仮面ライダーWと物理的に敵対するわけではない。しかし、シュラウドは、誘惑の言葉をもって仮面ライダーWを追い詰める。今のままでは園咲琉兵衛には勝てない、という言葉をもって、仮面ライダーの魂たる左翔太郎の排除を試み、フィリップを正義の魂なき力の行使へと誘惑する。さらには、照井竜を正義の魂なき復讐へと誘惑する。シュラウドは、「正義のヒーロー」という理念、「仮面ライダー」という理念そのものにたいする敵対者なのであり、それゆえに、左翔太郎の最大最強の敵なのである。

 そういうわけで、シュラウドが左翔太郎を切り札すなわちジョーカーとして認めた時点で、ほぼ物語における戦いは決着がついた、と言ってもいいのだ。あとはおまけにすぎない。左翔太郎が真の仮面ライダーであることが、最大最強の敵に認められたのである。もはや、テラー・ドーパントやユートピア・ドーパントがいかに強大な力を誇っていようが、敵ではない。仮面ライダーは仮面ライダーであるかぎり無敵なのだから。こういった事情を勘案すれば、シュラウドこそが実質上のボス敵である、とさえ言えるだろう。

園咲冴子について

 主人公並みの活躍を見せたことにも理由がある。ボス敵たる園咲琉兵衛と主人公たちを軽々しく絡ませるわけにはいかない。そのために、左翔太郎とフィリップにはシュラウドという敵が用意されたわけだ。しかし、それだけでは、園咲琉兵衛の描写が足りず、ボス敵として魅力を欠いたものになってしまう。そこで、園咲琉兵衛を描くために、彼をもっとも愛しまたもっとも憎む存在として用意されたのが、園咲冴子というキャラクターなのだろう。つまり、真の敵との対抗者、という意味で、左翔太郎の代行者の位置を務めているわけだ。そういうこともあり、彼女の視点から語りなおしても一本物語ができてしまうくらいに活躍したのである。

 園咲霧彦、井坂深紅郎、加頭順、このあたりは、園咲琉兵衛をいかに描くか、という課題のために導入されたキャラクターである。園咲霧彦は園咲琉兵衛の残忍さを引きだし、井坂深紅郎は園咲琉兵衛の力の強大さを引きだした。どちらも園咲冴子に導かれてのことである。そしてまた、加頭順は、父から園咲家のプライドを引き継いで妹を守る園咲冴子の姿をつうじて、園咲琉兵衛の人間としての深みを引きだしたわけだ。

 このように、園咲冴子のエレクトラ・コンプレックスは物語上の要請に由来している。本来のエレクトラ・コンプレックスのもう一つの要素、母殺しのニュアンスが薄いのはそのためであろう。この流れでいけば、母である園咲文音の追放には彼女の意志も咬んでいるはずなのだが、そのあたりは明確に描かれることはなかった。もちろん、子ども向け特撮にそこまでのドロドロを求めはしないが。

照井竜/仮面ライダーアクセルについて

 こぶしの効いた「変、身!」の掛け声が素晴らしかった。本来主役ライダーがやるはずの「無茶苦茶な特訓によるパワーアップ」エピソードもこなし、存在感十分の追加ライダーであったのではないか。

 照井竜にかんしては、井坂深紅郎を倒して以降の役割が重要である。すでに指摘したように、シュラウドは左翔太郎の価値を否定しようとする存在なのだが、この要素は、強調されすぎるとヒーローものとしてのケレン味を打ち消してしまう、危険なものである。そこで、そのシュラウドにたいして、左翔太郎の価値を揺らぐことなく確信している存在として、照井竜が配置されているのだ。ここは非常に上手いところである。井坂深紅郎を倒した時点で、照井竜の物語はある意味で終わっている。一足先に自分の役割を終えて物語の外部に出たがゆえに、照井竜は視聴者すなわち「ブラウン管の前のみんな」と同じ立場で物語を俯瞰することができるようになっている。それゆえ、彼は、ヒーローの真贋を見分ける権威ある判定者の役割を果たすことになったわけだ。そして、照井竜の左翔太郎への信頼は、根本的なところでは、まったく揺らぐことがない。シュラウドの物語への撹乱が行き過ぎないようにするための重しが、照井竜なのである。

* ヒーローの判定者、という論点については、拙稿「『WILD ARMS 2nd Ignition』における英雄論を批判する」を参照。

おわりに

 あとは物語の大筋にかかわらない論点をいくつか。

 園咲若菜について。

 物語の構造上の位置としては、もう一人のフィリップ、ということになる。特撮なので飛鳥凛が演じて、それはそれでよかったのだれども、たとえばアニメで企画を立てたとしたら、若菜と来人は双生児で顔かたちがうり二つ、というようなデザインになっていそうである。そうすると、ラストのフィリップ復活における、姉さんに身体をもらった、のくだりも別の感じになっただろう。妄想であるが。

 鳴海亜樹子について。

 山本ひかるはとても上手だった。ヒロインではないな。新世代の立花藤兵衛だな。この役柄を申し分ないレベルでこなしていた。

 園咲琉兵衛について。

 あの存在感は文句なしであった。TV本編中に「あんまり予算がないのかなあ」と思わせるような演出上の苦しいところが見えるたびに、寺田農の出演料が高かったんじゃないのか、とか勘ぐってしまったが、もしそうだとしても、十二分に元はとれている。

 鳴海荘吉/仮面ライダースカルについて。

 石ノ森章太郎『スカルマン』については、いろいろな企画が自分なりの解釈を加えて展開を試みているのだが、ついに決定版が出たかな、という感じだ。吉川晃司、文句なしにかっこよかった。「プロトタイプ仮面ライダー」というところを目いっぱい強調すると、こうなるのだろう。

 風都という街について。

 風都は、現実には存在しない、どこでもない街である。どこにでもない街であるからこそ、我々が住んでいるこの街であるかもしれず、また、いつか我々が住むかもしれないあの街であるかもしれない。左翔太郎とフィリップは、君の街に住んでいるのかもしれない。いや、君が本当に困ったときには、必ず助けにきてくれるはずだ。つまりは、そういうことなのである。

* どこでもない街、という論点については、拙稿「私家版オタク辞典」における「どこでもない街」の項を参照。

 とりあえず語りたいところはこんなものだろうか。これでいちおう満足したので、『仮面ライダーOOO』に集中することにしたい。『OOO』、とりあえずの出だしは悪くなかったので、期待しています。

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