処女属性をめぐって

はじめに

 主題が主題なので、いささか下品なテキストとなっている。注意されたい。
 今回の騒ぎもまあ沈静化したかな、と思うので、処女属性を偏執的に愛好する立場について、私見を述べておきたい。最初に言っておけば、私は擁護派である。
 物語のキャラクターについて処女であることを過激なまでに要求するオタクがいる、とされている。これを「処女厨」と呼んでおこう。そして、そのような態度について、多くの批判、罵倒、嘲笑がなされている。しかし、私はそのような批判の多くが的外れなものであると考えている。処女厨問題の核は別のところにあるのだ。
 本題に入るまえにいくつか注意をしておこう。
 そもそも上のような処女厨が存在するのかどうか、存在するとしても、問題になるほどに大量に勢力を伴って存在しているのかどうかには、実のところ疑問が残る。また、処女厨的な態度も、それへの批判も、ネタとしての要素を多分に含み、どこまで真面目に取るべきか難しいところがある。しかし、これらの問題には本稿では立ち入らない。
 処女厨的なるものについて、オタクではない論者が語ることがあるが、これは無視する。多くが浅薄でつまらないものだからだ。同じオタク的な立場からの処女厨批判のみを考える。また、本稿ではオタクの本質を妄想に置いている。別の立場もありうるが、さしあたり考えない。
 また、私自身は処女属性にかんして格別の思い入れをもたないので、その細部を把握し損ねているところがあるかもしれない。なにかあったらご指摘いただければ幸いである。

処女厨のなにが問題なのか

 処女厨とはどのような存在なのであろうか。そして、そのどこが問題なのであろうか。さまざまな言説を私なりに整理、検討してみるに、以下の三つほどの論点が有力なものとしてあるように思われる。これらの論点を混同してはならない。
 一、自分の妄想に過剰に没入していることが問題である。
 二、処女属性に執着していることが問題である。
 三、妄想の内容が稚拙であることが問題である。
 この三つの論点のそれぞれについて、順に検討していきたい。

妄想とその提示の過激さについて

 「物語の展開が自分の好みに合わなかったからといって騒ぐのはおかしい」と主張するタイプの批判がある。しかし、私からすれば、基本的にこの類の批判は的外れである。
 すでにいくつかの拙稿で主張したことであるが、私はオタクの本質の一つを妄想に置く。オタクであれば、オリジナルの物語とは異なった妄想をして当然なのである。オタク的態度全般を拒否するならともかく、この一点のみをとって処女厨を非難するのはおかしいだろう。眼鏡っ娘好きはキャラクターが眼鏡を外せば怒り、ポニーテール好きはキャラクターが髪をほどけば怒るのだ、物語の流れなど無視して。ここに違いはない。オタクとは総じてそういうものなのであり、それは今に始まったことではない。物語の構成に配慮したり作者の意図を酌んだりといった小賢しい優等生的な読みを超えるところから萌えオタは始まるのである。
 違いがあるとすれば、妄想の提示の仕方に見てとるしかない。私はかつて「オタク道補論・オタクにおける「二年生病」の研究」において「オタク性中二病」という独特のオタクの態度を検討した。そこではオタクは自らの妄想に嵌りこんでしまい、自らの置かれた立場を見失ったような振る舞いをしてしまうのであった。ここに処女厨の振る舞いの問題性を位置づけることはできる。それは確かだ。しかし、このような態度は処女属性にかんしてのみ特化して現れるものではない。
 もちろん、処女属性に愛着をもつオタクが「オタク性中二病」に罹患しやすい、という可能性はある。これは一考に値する仮説である。しかし、もしこの仮説が正しかったとしても、ここで批判の対象とすべきはあくまで態度における暴走にかんしてのみであり、処女属性を愛好することそのものにかんしてではない、ということは注意しておかねばならない。

処女属性そのものに内在する問題について

 「処女属性にこだわることそのものがおかしい」と主張するタイプの批判が、いくつかのヴァリエーションを伴って存在する。しかし、この批判もまた、多くの場合に的外れであると思われる。
 第一に、虚構のキャラクターの処女性にこだわるのはキモイ、ということであれば、これに説得力はない。他の属性にかんしてこだわることも、負けず劣らずキモイからである。処女属性にこだわることと同じく、淫乱やら寝取られやら貧乳やら黒ストッキングやらにこだわることもキモくて下品でどうしようもないのだ。性にかかわる属性全般に当てはまるキモさを、処女性にかんしてのみ強調するのはおかしい。つまり、とくに処女属性のみを取り上げて、「なぜこのオタクは処女属性をこんなにも好むのだろうか」と問う眼目などないのだ。その他にも、それなりに広く支持され、かつ、珍妙であるような属性嗜好は無数に存在するのだから。
 第二に、虚構のキャラクターの処女性にこだわるということは、現実においても処女性にこだわるということであり、そのような態度はジェンダーにかんする固定観念に囚われた差別的なものであって、倫理的に許されない、という方向の批判もある。しかし、これもまた、現実と虚構の区別云々の話を脇に置くとしてもなお、あまり説得的とは言えない。
 現代の現実社会の価値観としては、処女性の尊重などという態度は端的に古臭いものであり、いまさら一部のオタクが虚構のキャラクターについてどうこう喚いたところで、あまりたいした倫理的問題を引き起こすとは思えないのである。
 現実社会における性差別を真面目に考えたいのであれば、今なお我々自身が当たり前と思ってしまっている歪んだ価値観を問い直すか、もしくは、なんらかの権力と結びついている価値観を問い直すか、まずはどちらかに向かうべきであろう。処女厨問題の場合、そのどちらにも当てはまらない。処女性にこだわることを多くの人が今や当たり前に下らないことと考えている。あまりにも馬鹿馬鹿しすぎて問題にする必要すらないのだ。また、たとえば政治家やマスコミなどが「処女性は大事だ」などと発言したならば、これは問題であるが、そういう場面でもないのである。もちろん、先のような態度が差別的ではない、と言っているのではない。一私人の妄言のレベルの問題であり、制度や権力にかかわる差別と比べれば周辺的なものにとどまる、と言いたいのだ。
 こういった事情があるので、先に挙げたような処女厨批判には説得力が欠けてしまう。倫理をダシにして処女厨を攻撃したいだけなのではないか、言うほどほどきちんと性差別の問題を理解してはいないのではないか、という疑念が生じてしまうのである。

妄想内容の面白さについて

 「処女属性にこだわった妄想の多くが稚拙なものである」という方向での批判がありうる。
 処女厨的な言説として問題にされるものの多くは、自らの不満を感情的に騒ぎ立てるだけのものである。その台詞も決まりきったものが多く、そこに独創性はあまり感じられない。加えて、ポジティヴに処女性を称揚するというよりは、非処女性を嫌悪するというネガティヴな態度が目立つ。このような語り口は、オタクとしてレベルが高いとは言えないものである。「オタク評価概念における交錯の問題について」において提案した概念を使うならば、処女厨的な振る舞いは、「アツく」「ヘヴィ」ではあるのかもしれないが、その一方で、どうにも「薄い」と評さざるをえないものなのである。
 私は「オタクにおける濃さ/薄さの基準について」において、オタクにとって目指すべき価値の一つとして、妄想の濃さを挙げておいた。処女属性にかんしても事情は同じである。その属性を布教する場合でも、意に沿わぬ原作の展開を嘆く場合でも、ともあれ「これっていいよね」ないしは「こうだったらよかったのに」という濃い妄想とともに語らなければならないわけだ。
 では、その妄想はどのようなものでありうるか。たとえば以下のような方向性が考えられる。一般的に、「はじめての出来事」はドラマの主題として王道をなす。
 孤独な独裁者が「はじめて」真の友情を知った、とか、エリートお坊ちゃんが「はじめて」挫折を味わった、とか、金の亡者が「はじめて」愛に目覚めた、とかいった筋書きの古典をいくつも思い浮かべることができるだろう。「はじめてドラマ」は一つの有効なテンプレートなのである。処女属性を強調する振る舞いは、たとえばこういった「はじめてドラマ」的な妄想に組み込まれることによって、はじめて他のオタクたちにとっても興味深いものになる。属性愛は、妄想なしにただ振り回されても、あまり面白いものではないのだ。この点では、たしかに処女厨的な態度には問題があるだろう。
 注意しておけば、ここで問題となっているのはオタクとしての未熟さであり、処女属性を愛好することそのものではない。ただし、処女属性を愛好することが、オタクとして「ヘヴィ」であるが「薄い」ことと特別に親和的であるとするならば、話は別である。これまた一考に値する仮説と言えよう。

なぜ処女厨はそれほど恐れられるのか

 まとめればこうなる。処女厨に問題があるとすれば、それは中二病の度合いが過ぎること、オタクとして妄想が薄いこと、これくらいしかない。粗暴で未熟であるだけで、たいして他のオタクと変わらないのである。しかし、そうであるにもかかわらず、多くの他のオタクたちが、処女厨についてあたかもそれが重大な問題を引き起こしているかのように語る。実際は「活きのいい若いのがまたやってるよ、可愛いなあ」程度の話なのであり、苦笑して眺めていればそれでいいのに。これは、いささか奇妙なことではないだろうか。
 ここで、我々は新しい問題に到達する。
 たいして自分と変わらないにもかかわらず、なぜ多くの他のオタクたちは処女厨をこれほどまでに批判したり罵倒したり嘲笑したりするのであろうか。過剰反応を見せているのは、作品にたいする処女厨ではなく、処女厨にたいする他のオタクなのではないだろうか。問うべきは、叩かれる側ではなく、叩く側のありようなのである。
 一つの可能な説明を提示しておこう。
 オタクを現実の恋愛願望や性愛願望の代償として位置づける言説がある。私はこのような言説に批判的なのであるが、現状としては、それなりに流通してしまっている。そして、処女厨を分析する場合にも、こういった説明が引き合いにだされることが多いように思われる。処女性にこだわるようなヤツらは現実で満たされていないに違いない、というように。
 しかし、実情は違うのではないか。処女厨を批判するオタクたちの心中にこそ、こういった言説にたいする過剰な意識が隠れているのではないか。処女厨を批判するオタクたちこそ、「お前らはモテないからオタクなんだろう」と叩かれるのが嫌なのではないか、あるいは、恐いのではないか。
 処女厨は違う。処女厨は粗暴さと未熟さをもつ、と先に述べた。粗暴さと未熟さは、ある観点からすれば、強さに繋がる。処女厨は、誰からどう評されるかなどお構いなしに、空気も読まずに、自分の愛するキャラクターの処女性の重要性をキモくイタく喚き散らす。これはすなわち、周囲からのバッシングにたいして鈍感である、つまりは、耐性があるということだ。実際に代償行為でオタクをしているかどうかはさておき、そう詰られることにたいする抵抗力をたしかに処女厨はもっているのである。これはすなわち、批判者たちよりも処女厨のほうがオタクとして腰が据わっているということである。
 人は、自らが懼れるものを懼れないものをより懼れるものだ。
 処女厨を批判するオタクたちは、処女厨のこの野蛮なまでの強靭さが眩しいのではないか。しかし、それを認めることは、自らの心中にある弱さを認めることに繋がる。これは辛いことだ。そのため、「自分はあいつらとは違う」「自分はあいつらよりもマシだ」と、あまり根拠のない上から目線を取ろうとしてしまうのだ。そして「自分たちではなく、あいつらこそがモテないからオタクしている奴らなのだ」としてしまうのだ。しかし、これはまさしく「オタク道補論・オタクにおける「二年生病」の研究」における「オタク性大二病」的な態度であり、あまり好ましいものではない。
 もちろんすべてがそうとは言わないが、一部の処女厨批判の言説に、私は以上のような屈折の臭いを感じるのである。

おわりに

 本稿冒頭で、私自身は処女属性にかんして格別の思い入れをもたない、と書いた。たとえば、私としては、「わりと遊んでいる娘がはじめて真実の愛を知ってメロメロになる展開」が好きだったりするのである。
 ただし、よく考えてみれば、これもまた上に指摘しておいた「はじめてドラマ」の一種類である。そうすると、私と処女厨は、遠く離れているように見えて、実のところは親戚みたいなものなのかもしれない。少なくともキモチワルさは負けていないつもりだ。だから擁護しているというわけでもないのだが。

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