オタク評価概念における交錯の問題について

はじめに

 オタクについて、そのあり方の優劣を評価する場合がある。
 そのさい、多くの場合に対にされる概念は「濃い」と「ヌルい」であると思われる。「濃いオタク」と「ヌルいオタク」が対比されるのである。
 しかし、これは奇妙である。「濃い」に対応するのは「薄い」であるはずだ。そして、「ヌルい」に対応するのは「アツい」であるはずだ。概念対が交錯してしまっているのである。
 さらに、「ヌルいオタク」だけでなく「ライトなオタク」という語も使用されることがある。「ヘヴィ」であるか「ライト」であるかという概念対までもが交錯しているわけだ。
 この事態はなにを意味するのだろうか。そして、これをどう整理したらよいのだろうか。これを考えてみたい。

1 「濃い/薄い」の含意

 我々の日常的な言語感覚になるべく則ったかたちで、「濃い/薄い」の含意を確認しておこう。
 これらの語は、あるオタクが実際に保持しているオタク的能力の度合いを評価するものと考えられる。
 オタク的能力の本質がなにかについては諸説があるが、ここでは問わない。オタクの本質をなんと捉えるにせよ、その能力の現時点での度合いが問題になる。
 たとえば、私であれば、オタクの本質を妄想に置くわけだからして、以下のようになる。独創的な妄想を語れるオタクは「濃い」。テンプレの妄想しか語れないオタクは「薄い」。
 さらに付け加えるならば、その本質をまったく欠いた人は、そもそもオタクではない、ということになるだろう。オタクにおいて妄想が本質をなすとすれば、妄想なしに消費だけする人、妄想なしにイベントに行って騒ぐだけの人は、「薄い」というよりは、「そもそもオタクではない」のである。こういった、そもそもオタクではない人がオタクを自称したり、オタクと呼ばれたりする事態は、「ヌルオタ論」とは別の問題として考えるべきだろう。ここで問題なのは、たんなる言葉の不適切な使用でしかないのだから。

2 「アツい/ヌルい」の含意

 次いで、「アツい/ヌルい」の含意を確認しておきたい。
 この語は、あるオタクがオタク的営みを行うさいの純粋さの度合いを評価するものと考えられる。「アツい/ヌルい」は、なぜオタクするのか、という動機にかかわる、と理解していただければいいだろうか。
 オタク的営みにたいして純粋な態度をとっているオタク、つまり、オタクしたいがためにオタクであるオタクは「アツい」。オタク的営みにたいして不純な態度をとるオタク、つまり、なんらか別の動機でオタクしているオタクは「ヌルい」。このようになるだろうか。
 つまり、「アツい/ヌルい」は、オタクへ向かう態度のありようを表す。オタクが目的そのものであれば「アツい」、オタクが手段でしなかければ「ヌルい」、というわけだ。
 「アツい」ということが、ただたんにオタクに労力を傾けているということではないことに注意されたい。それは後述の「ヘヴィ/ライト」で評価される。「アツい/ヌルい」はあくまで純粋さにかかわる。ボランティア活動を例に取ろう。ボランティアにたいして「アツい」人とは、まさに奉仕の心に動かされて活動している人である。それにたいして、自分の世評を上げるために活動している人は、どれほど時間を割こうとも、ボランティアにたいして「ヌルい」かかわりしかしていないとされるだろう。それと同じことだ。

3 「ヘヴィ/ライト」の含意

 最後に、「ヘヴィ/ライト」の含意を確認しておきたい。
 この語は、あるオタクにとってオタク的営みが人生に占める重要性の度合いを評価するものと考えられる。
 オタク的営みが人生の目的のかなりの部分を占めている者は、「ヘヴィなオタク」である。オタク的営みをたんなる一時的な気晴らしとして行っているだけの者は、「ライトなオタク」ということになる。
 「ヘヴィ/ライト」はオタクへの依存性のありようを示すわけだ。

4 諸対比軸の交錯の論理

 流通している言葉遣いと少々異なる部分もあるが、敲き台ということでご容赦いただきたい。さて、このように整理してみると、オタクのあり方について、さまざまな可能性があることになる。
 「濃くて」「アツくて」「ヘヴィ」であるか、もしくは、「薄くて」「ヌルくて」「ライト」であるのが普通だと我々は思い込んでしまいがちなのだが、ちょっと考えてみれば、そうとはかぎらないことに気づく。

  1. 濃いがヌルいオタクが存在する。
  2. オタク的な能力が十分にあったとしても、ときに我々はオタクとして不純な態度で振舞ってしまうことがある。たとえば私が「オタク道補論・オタクにおける「二年生病」の研究」で論じた「オタク性二年生病」は、オタク的能力の濃淡にかかわらず、罹患すればオタクの本道に不誠実であるとしか言いようのない行為に我々を仕向ける。上から目線で作品や他のオタクにたいして「辛口批評」という名の要らぬ粗探しをする、といった事態を思い浮かべていただきたい。このときは我々は、オタクという営みを、歪んで肥大した自己意識を満足させるための道具にしてしまっている。これは「ヌルい」態度なのである。(「「二年生病」の研究」では、オタクの不適切な態度を「イタい」ものとして特徴づけた。本稿ではそれをそのまま「ヌルさ」に読み替えて論を進める。「イタさ」と「ヌルさ」の関係は問題になりうるが、本稿では扱わない。)

  3. 濃いがライトなオタクが存在する。
  4. 社会人になれば仕事が忙しくなることがある。さらに結婚したりすれば、そして、子どもが生まれたりすれば、家族を介護しなければならなくなれば、そうそうオタクに時間や労力を割くことができなくなってくる。その人の人生にとってのオタクの占める割合は、「ライト」なものになっていくだろう。しかし、そのことは、彼女や彼のオタク的な能力の濃淡とは関係がないことだ。多忙な状況のなかで、たとえそれが「ライト」なものであってもオタクとの繋がりを断たないでいる連中は、たいがいとてつもなく「濃い」のである。

  5. アツいが薄いオタクが存在する。
  6. 真面目にオタク修業している最中のオタクを考えればよい。いまだオタク的能力は低くとも、オタクの道に純粋な仕方でさまざまな作品とそこから引き出した妄想を楽しんでいる存在は、「アツいが薄い」状態にあると言えるだろう。

  7. アツいがライトなオタクが存在する。
  8. 「濃いがライトなオタクが存在する」のと同様に、「アツいがライト」なオタクもまた存在するだろう。時間や労力はそれほど割けないが、純粋にオタクしている場合である。

  9. ヘヴィだが薄いオタクが存在する。
  10. その人の人生にとってオタク的な営みが非常に重い位置を占めているにもかかわらず、オタク的な能力が低い場合がある。たとえば現実でモテないことの代償として二次元に手を出した人がいるとしよう。その人にとって、オタク的な営みは実存にかかわるものであろう。しかし、だからといって、その彼女ないしは彼のオタク的能力がすぐに発達するわけではない。オタク的な能力は経験と対話と反省を積み重ねることによってのみ涵養されるものだからだ。「ヘヴィだが薄い」オタクはここに生まれる。

  11. ヘヴィだがヌルいオタクが存在する。
  12. 「ヘヴィだが薄いオタク」のところで例にとった、現実でモテないことの代償として二次元に手を出す場合をもう一度考えてみる。この場合、オタク的な営みは、実存的な鬱屈を解消するためのたんなる手段として選択されただけである。このとき、オタク的な営みの本質や規範は見失われがちである。かくして、趣味としてのオタクの深さにたいして敬意を抱くことなしにオタクに没頭する、という奇妙な事態が生じる。「ヘヴィだがヌルい」オタクの誕生である。たとえば、声は大きいのだが脊髄反射で萌え萌え言っているだけのオタクがいるとすれば、それは「ヘヴィだがヌルい」オタクになるだろう。このあたりは拙稿「本田透『萌える男』を読む」を参照されたい。

5 「ヌルオタ論」における混乱

 なにかある作品やシステムが爆発的に流行したり、なにかあるイベントでトラブルが起きたり、ダイエットおじさんが小銭稼ぎの新書を出したりすると、だいたいその後に「ヌルオタ論」が雨後の筍状態になる。しかし、それらの多くが説得力を欠いたもので終ってしまう。俗流若者論のテンプレートを反復しているだけのものは論外としても、「ヌルオタ論」が上手くいかないのには、それなりの理由がある。
 「薄さ」「ヌルさ」「ライトさ」の区別をしていない、また、「濃さ」「アツさ」「ヘヴィさ」との交錯の可能性も認識していない場合には、たいがい「ヌルオタ論」は俗流若者論化してしまい、失敗する。すでに指摘したように、これらの概念は、一見交換可能のように思えるが、その実、まったく含意が異なるのである。このあたりを丁寧に押さえずに、一律に「ヌルオタ」を断罪しようとする態度は、一見明快に見えるが、実はあまり意味がないのではないか。
 私もかつていくつかこの主題を扱ったテキストを書いたが、そのほとんどが「薄さ」「ヌルさ」「ライトさ」の微妙な違いに鈍感なものであった。どうも私はずっとオタクのあり方の多様性を捉えきれていなかったようだ。この点については、反省しなければならないだろう。

おわりに

 一応の整理を試みたが、結果として、我々が普段使っている言葉と少々意味がズレてしまった感がある。難しいところだ。
 ところで、本稿では扱わなかったが、あと二つ、オタクのあり方の優劣を評価する重要な概念がある。「イタい」と「キモい」である。議論が過度に複雑化することを避けるため、これらについては無視したが、もしかしたら関連づけることでなにか生産的な知見が得られるかもしれない。ただし、それは本稿の扱いうる範囲を超える問題であるので、指摘のみにとどめたい。

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