オタクにおける濃さ/薄さの基準について

 拙稿「オタク評価概念における交錯の問題について」において、オタクを評価する諸概念について整理をしておいた。それを踏まえたうえで、オタク評価の本質をなすと思われる「濃さ/薄さ」について、考察を行いたい。
 先のテキストにおいては、「濃さ/薄さ」の内実については意図的に未規定にしておいた。しかし、それは、私がこの内実にかんして特定の立場にコミットしていないことを意味しない。すでに色々な箇所で述べてあるように、私はオタクの本質を、「もえあがり」および「妄想」という観点から定式化することを試みている。以下では、その立場からの議論を展開することになる。
 本稿は既発表の拙稿における考察をまとめつつ発展させたものであるが、いくつかの論点にかんして、かつてのものと主張が異なっている場合がある。その場合は本稿のものが(現時点での)私の最終的な結論であると解していただきたい。

 私はオタク的活動の核を妄想に置く。
 私の定義では、妄想しない人、できない人は、そもそもオタクではない。妄想がなければ、いくら知識があろうといくら消費しようといくらイベントに行って騒ごうと、オタクではない。薄いオタクですらなく、そもそもオタクではないのである。
 それゆえ、オタクの濃さ/薄さは、妄想ないしは妄想能力の濃さ/薄さに置かれることになる。

 「萌える」および「燃える」という事態から論を進めていこう。
 しばしば「萌え」や「燃え」は、たんなるオタクの主観的感情の表明とされる。しかし、私の考えでは、それは間違いである。なんらかのキャラクターについて「これは萌える」という発話がなされる場合や、なんらかのシチュエーションについて「これは燃える」という発話がなされる場合に、「萌え」や「燃え」という言葉だけに引きずられてはならないのである。重要なのは、「萌える」あるいは「燃える」に引き続いて語られる、「どこがどのようにもえるのか」という語りである。ここに着目しなければならない。
 引き続いて展開される「どこがどのようにもえるのか」という語りにどれだけの興味深い内容を盛り込めるかが、オタクの濃さ/薄さを測る基準なのである。

 では、「どこがどのようにもえるのか」の語りの興味深さは、どのような観点に着目して、どのような基準でもって測られるのであろうか。

 まず、着目すべき観点から論じていく。
 私は、ここで着目すべき観点が、妄想に他ならない、と考えている。
 オタクの誰かがあるキャラクターについて、「これは萌える」と言ったとしよう。そのとき、そのオタクは、続けてそのキャラクターについての妄想を語ることができなければならない。語られる妄想が興味深いものであるとき、他のオタクは、彼(女)の「これは萌える」という発言が濃いものである、と認めるであろう。
 また、オタクの誰かがあるシチュエーションについて、「これは燃える」と言ったとしよう。そのとき、そのオタクは、続けてそのシチュエーションについての妄想を語ることができなければならない。語られる妄想が興味深いものであるとき、他のオタクは、彼(女)の「これは燃える」という発言が濃いものである、と認めるであろう。
 妄想の興味深さ、面白さの度合いによって、オタクの濃さ/薄さは測られるのである。
 たとえば、「この作品は出来がいい」という主張であれば、その説得性のために必要となるのは、その主張を根拠づける考証や分析であろう。しかし、「これは萌える」や「これは燃える」を支えるのは、オリジナルの作品そのものについての考証や分析ではない。オタクがオリジナルの作品をもとにして新たに紡ぎ出す妄想の語りの面白さが、「これは萌える」や「これは燃える」を支えるのである。

 続いて、妄想の興味深さがどのような基準で測られるのかを考察せねばならないだろう。
 オタクにおける妄想は、オリジナルの作品をもとにして別の物語を(二次)創作する行為である。萌え妄想であれば、所与のキャラクターを別のシチュエーションに置きいれることが基本となる。燃え妄想であれば、所与のシチュエーションに別のキャラクターを置きいれることが基本となる。では、そのような妄想の興味深さはどのような点に存するのであろうか。
 ただし、状況によって多種多様でありうる興味深さの基準を一義的に規定することは不可能であろう。ここでは、皆に高く評価されるような妄想のもつ外的特徴を一般的に述べておくことで満足すべきであろう。

 もっとも重要な特徴は、以下のものである。
 妄想がオリジナルの作品の既存の読み方を変更させる場合、その妄想は優れている。
 妄想は妄想にすぎないのであるが、優れた妄想は、それを聞いた他のオタクにたいして、オリジナルの作品の読解を変更させることができる。たとえば、あるキャラクターについて、「実は腹黒である、だがそれがいい」というような妄想がなされることがある。この妄想が上手に語られると、その後、そのキャラクターのどんな振る舞いを見ても、腹黒さの現れにしか見えなくなってしまったりする。ほんのちょっとしか登場しないヒロインの母親にたいして「彼女こそ俺の嫁」という妄想がなされると、その後、その母キャラをヒロインズの一人として認知してしまうようになったりする。「こっちの彼が攻めで、あっちの彼が受け」というという妄想についても、同様のことが起きる。その後、当該のキャラクターがなにをしても、イチャついているようにしか見えなくなったりするのである。燃えにかんしても同様である。物語のほんの一部を占めるにすぎない脇キャラの死にあえて着目し、これこそ漢の燃える死にざまだよな、と語る場合などを想起されたい。

 ここで注意すべきは、妄想は、その内容がオリジナルの作品の設定や、展開上の重点の置きかたと明らかに齟齬をきたしているにもかかわらず、他者の読解に影響を与えうる、ということだ。この点は、真理性を要求する考証や分析といった営みとまったく事情が異なる。たとえば、一般向け作品に向けられる腐女子的カップリング妄想において、妄想の対象たちが同性愛を志向していないことは、妄想するオタクも妄想を聞くオタクもよくわかっている。しかし、そうであるにもかかわらず、優れた妄想は「それはアリだな」という反応を我々に引き起こし、実際はそうはならなかったが、もしなひょっとするとそうだったかもしれない可能な展開として受容され、その後の読みやさらなる妄想に影響を与えるのである。
 妄想は、オリジナルの物語からの逸脱、離反、乖離であるにもかかわらず、オリジナルの物語に別の読み方、つまりは、別の楽しみ方を拓くものなのである。

 真理性要求がない、という論点について補足しておこう。
 妄想において、あらゆる逸脱が許容されるわけではない。面白い逸脱のみが許容され、つまらない逸脱は批判されるであろう。ここで強調したいのは、問題となっているのが、当該の妄想がオリジナルの物語に照らして正しいか間違っているかではない、ということだ。ある意味、妄想はすべて間違いであるからして、そのような基準は機能しない。基準は真偽とは別のところに求められねばならない。
 上で挙げた「解釈にたいする生産的な影響力」といったような論点は、そのような別の基準の一例なのである。

 その他にもいくつか特徴を挙げることができる。
 妄想が既存のキャラクターあるいはシチュエーションの読解パターンを変更させる場合、その妄想は優れている。
 属性を考えるのがわかりやすいだろうか。これまでになかった、あるいは、これまでもあったが意識されてはいなかった属性を魅力あるものとして説得的に提示するような妄想は、優れている。たとえば、ヤンデレなキャラクターは昔から存在したのであるが、我々がヤンデレをヤンデレとして認知するようになったのは、あるキャラクターについてヤンデレという観点を軸にした妄想が興味深いかたちでなされ、蓄積されていったからなのである。また、同様に、類型化してしまった属性理解を流動化させるような妄想も優れていると言えるだろう。たとえば、「ああ、こういうヘタレ攻めのあり方もあるんだ」と目から鱗が落ちるような妄想があるわけだが、そういった妄想は優れているとされるのである。
 さらに、優れた妄想は、それに触れた他のオタクたちの欲望のあり方をも変える力をもつ。
 たんにありものの欲望を満たすだけの妄想も喜ばれるであろうが、しかし、それではまだ甘いのだ。新しい欲望のありかたを産出する妄想がさらに上にある。真の「みたいものみせましょう」は、相手のみたいものをみせることを超えて、相手に「自分はこれがみたかったんだ」ということを気づかせるような力をもつのである。このカップリングはないな、とか、私には百合は駄目だな、とか思っていた者が、他のオタクの妄想に触れることで、新たな萌えに目覚めたりする場面を思い浮かべていただきたい。
 また、妄想が妄想するオタク自身の個性を表現している場合も、その妄想は優れているとされるだろう。愛が溢れすぎていてきもちわるい、とか、妄想が芸にまで昇華されている、とかいった感じを思い浮かべていただければいいだろうか。これは、妄想ないしは二次創作のオリジナリティという、一見すると語義矛盾めいた論点につながる。オリジナリティのある妄想は、他のオタクにとっても面白いものになる場合が多い、というわけだ。もちろん他方で、自分色が出すぎていて妄想として駄目だ、とされる場合もそれ以上に多くあったりするのであるが。

 オタクとオリジナリティの関係について、少しだけ補足しておこう。
 「すべてはパクリでオリジナリティはない」というように、一次創作を二次創作に近づけていく方向で語る言説がサブカル周辺には多い。しかし、別のテキストでも指摘したが、私はオタク論において無批判にこの手の議論に飛びつくべきではない、と考えている。このように、二次創作にすらオリジナリティが要求されてしまう文脈すらあるわけだ。「すべてはパクリでオリジナリティはない」と主張するのであれば、同時に「にもかかわらず、我々がある種の作品を、それが二次創作であるときでさえ、オリジナリティがある、と見なすのは、どういうことなのか」を説明しなければならない。そこまで思考することのないオリジナリティ否定論は、それこそ現代思想の一テーゼの表層的なコピーでしかない。

 いくつかの特徴を思いつくままに挙げておいた。
 以上のような諸特徴を、優れているとされる妄想は備えているように思われる。そして、そのような妄想をするオタク、あるいは、そのような妄想をする能力をもっているオタクが、濃い、とされるのである。
 もちろん実際のオタクの現場での言語使用は私の定式化とは異なっているので、上で述べたそのままの仕方で「濃い」あるいは「薄い」という言葉が使われているわけではないが、我々の営みをこのように記述することができるのではないだろうか。

 さて、最後に考察したいのが、このような濃い/薄いの判定が、誰によって何の権限のもとでなされるのか、ということである。
 これまでの考察から容易に理解できるように、判定の主体は、一定の妄想の蓄積を歴史としてもつオタク共同体、ということになる。
 これまでその作品について、どのような妄想がなされてきたのか。妄想の手がかりとしての属性に、どんなものがあり、どのような内実が込められているのか。燃えるシチュエーションということで、どのようなものに言及がなされてきたのか。こういったことがらについて、一定の理解を前提として共有している集団の内部でこそ、濃い/薄いという判定は意味をもつ。逆に、こういった歴史的な蓄積を自らの血肉にしていない者にとっては、濃い/薄いの判定はまったく不可解なものに留まるであろう。
 そもそも趣味というものは、一般的に、それを支える愛好者の共同体を必要とする。そして、当然のことながら、そのことは趣味としてのオタクにかんしても同様なのである。
 また、これは以下のことをも意味するであろう。オタクであるためには、つまり、濃い/薄いという判定の文脈のなかで、それを参照しつつ妄想を行うことができるためには、オタク共同体に参与できるだけの教養、鑑識眼、情熱が必要とされるのである。
 教養の量、鑑識眼の繊細さ、情熱の傾け具合などを私はオタクの本質に置くことはしないが、けっして軽視しているわけではない。もちろん重要なのであるが、妄想の文脈に置かれることなしに独立させてしまうと、その役割は見失われる、と主張しているのである。

 追記。改稿にあたって掲示板でのnoir氏との対話が参考になった。ありがとうございました。

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