Deleuze & Guattari "Mille Plateaux":ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』

12. 1227年―遊牧論あるいは戦争機械

pp.418~: 概念を創造する

議論―大久保の返答

清水さんへの応答に続き,真鍋さんのコメントについても簡単にコメントさせてもらいます。若干批判的になる面もあるかもしれませんが,それも議論のたたき台と思ってもらえれば幸いです。

真鍋さんの提起されている論点は大きく分けて二つあると思います。すなわち,反復によって形成されるとともに破壊される“境界”の問題と,それに関連した「自己組織化」の問題です。

境界をめぐって

まず,反復によって境界が形成されるとともに破壊されること,あるいはD&Gのタームで言うならば,領土化されるとともに脱領土化されることが,リトルネロ論から遊牧論を貫く一つの糸であるのは間違いないと僕も思います。そして,おそらく次回の範囲ではっきりすると思いますが,領土化・再領土化を行うものとして国家装置があり,それに対して脱領土化を促すものとして戦争機械があるというのも真鍋さんのおっしゃるとおりだと思います。

やや細かい話になりますが,これをドゥルーズの『差異と反復』に結びつけるならば,領土化に第一・第二の反復が対応し,脱領土化に第三の反復が対応するのだと思います。

「近代」の問題がそのまま境界の問題に接続可能か,疑念がありますし(「近代」の問題は,D&Gにおいては領土性の系列ではなく,「ポスト・シニフィアン体制」という記号の体制の系列に関わる気がします),また,サド・マゾ問題については,僕は『マゾッホとサド』を正確に理解しているか自信がないのでコメントを避けておきます。しかし,大まかには真鍋さんの議論に同意します。

ただ,僕が以前から若干違和感を持っていたのは第二の論点,すなわち「自己組織化」の問題です。

自己組織化,予定調和

「自己組織化」を反復による境界形成と捉えるならば特に異論はありません。しかし,その際真鍋さんが出される例は,ピラミッドの形状に収束していくさまざまな砂山,「境界」という問題をめぐって相似関係にある読書会のメンバー,そして,決定的なのは,プラトーが織りなすフラクタル(部分と全体の相似形)です。つまり,真鍋さんは「自己組織化」を,部分が全体を反復するフラクタル構造(わかりやすい例としては,仏教のマンダラ)にあるものと捉えてらっしゃっる気がします(ちなみに,フラクタルの例としてマンダラを持ってくるのは,僕の独創でもなんでもなく,もとネタは中沢新一です。)。

もし今の読解対象がミシェル・セールや,セールの思考の源泉である,ライプニッツならば,何の異論もありません。おっしゃるとおりだと思います。しかし,D&Gをフラクタルのモデルで読んでしまうと,彼らの「可能性の中心」をつかみ損なってしまわないでしょうか?

フラクタルのモデルは,そのままライプニッツのモナド論に翻訳可能です。すなわち,明晰度において異なる無数のモナドが一つの同じ世界を表象する,というモデルです(モナドはとりあえず何らかの知性体だと思ってもらえればよいです)。具体的なイメージに置き換えれば,一つの都市を,解像度の異なるさまざまなカメラで撮影する,ということにでもなるでしょう。確かに撮影された映像はさまざまに異なるでしょうが,写っているのは結局一つの都市であり,したがって映像同士にはある種の相似・類似関係が成り立つわけです。

これは確かに調和の取れた,美しいモデルではあります。しかし,このモデルの保証人として神が要請されていることは無視できないでしょう。つまり,モナドが表象する世界はそもそも神が作ったものであるし,さらに,最も明晰度の高い神がモナド間の調和を保証しているわけです。いわゆる「予定調和」です。

ドゥルーズは,ライプニッツ論である『襞』の最後の部分で,暗にライプニッツを批判しています。「調和」の問題を,音楽における「和音」の問題と結び付けるライプニッツのモデルを抽出した後で,調和=和音を重んじるバロック音楽と,ワーグナーやドビュッシー,ジョン・ケージ,ブーレーズといった,不協和音を内包する現代の音楽とでは問題の条件が変わっていると指摘し,次のようにドゥルーズは言います。

「世界が今や発散する諸セリーから構成されているかぎり(カオスモス),あるいは,骰子一擲〔註・いうまでもなく,マラルメの有名な詩です〕が<充実者>〔註・Plein 神のことでしょうか?〕のゲームに取って代わるかぎり,モナドはもはや,投影によって変容可能な閉じた円のように世界全体を包摂するのではなく,中心からますます離れていく,拡大する軌跡や螺旋へと開かれているのだ」(『襞』最終段落より)

つまり,さまざまなモナドが一つの同じ世界を表象するのではなく,それぞれのモナドがそれぞれ異なる世界を表象するようなモデルをドゥルーズは考えているのだと思います。すなわち,ニーチェ的な「神の死」以後,永劫回帰によってのみ一貫性が保たれうるような,カオスモス(これについては詳しくは『意味の論理学』の...と参照先を書こうとしたら,手元に本がありません。すみません)。あるいは,それぞれ異なる都市を映すカメラ群,あるいはまた,清水さんへの応答に関連付けるならば,全く異なる歴史的文脈にあるさまざまな映画を一つの画へとモンタージュする,ゴダールの『映画史』

したがって,ドゥルーズにおいてはライプニッツよりもスピノザが重視されるわけです。すなわち,神へとさまざまなセリーが収束していくようなモデルではなく,普通なら共存不可能な異なるセリーが,発散しつつも「存立平面」(スピノザにおける「神」)において共存するようなモデルです。具体的にいえば,「境界」という同じ問題を共有するメンバーが集まっているということよりも,普通なら共存しえないメンバーが一つの読書会に集まっているということを重視する方が,D&Gらしいのではないでしょうか?

確かに,D&Gはあらゆる問題を同じモデルで語る傾向があり(これについてはジジェクも批判していました),そういう意味では彼らの本に「フラクタル構造」を見出したくなるのもよく理解できます。しかし,それは彼らの本意ではないでしょうし,先に書きましたように,彼らの「可能性の中心」を取り逃がす気がします。たった一つの本にこれだけさまざまのテーマが共存していることに,われわれはもっと驚くべきではないでしょうか?

以上,長くなりましたが,真鍋さんへのコメントでした。論文作成の上でヒントになることもあるかと思い,やや批判的に書かせてもらいましたが,もちろん悪意はありません(当然ですが)。最初にも書きましたように,議論のたたき台になればよいと思います。

大久保歩

この後の議論

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