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D&G(ドゥルーズ&ガタリ)研究会は,早稲田近辺で開催する読書会を活動の中心とした,てんでんばらばらの参加者による,自由気ままな集まりです。

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G. ドゥルーズ&F. ガタリ『千のプラトー』読書会

△ 総目次

ようこそ

Mille Plateaux Mille Plateaux

発起人――大久保 歩

『千のプラトー(Mille Plateaux)』は,1980年フランスで,哲学者ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze)と,精神科医であると同時に苛烈な運動家でもあったフェリックス・ガタリ(Félix Guattrari)によって,同じく『資本主義と分裂症(Capitalisme et Schizophrénie)』という副題を持つ『アンチ・オイディプス(L'anti-Oedipe)』の続編として書かれた。

1980年,ずいぶん昔の話だ。もしこれを読むあなたが大学生だとしたら,この年にはまだ生まれていなかったかもしれない。「TOKIO」というYMOのヴォコーダー・ボイスが響きわたり,「ジャパン・アズ・ナンバーワン」なんて言葉も囁かれ始めていた,そんな時代。ドゥルーズ&ガタリを大々的に導入した浅田彰の『構造と力』がベストセラーになり,アカデミックな言説さえ「ポスト・モダン」として消費されてしまうようになるのは,これより少し後のことだ。

「不況」という言葉が暗い影を落としている21世紀の今,なぜそんな20年以上も昔の明るい時代の本を読まなくてはならないのか。そんな声が聞こえてきそうだ。

では,今のわたしたちの周りを見回してみよう。

そこにはどんな理論家がいるだろうか。そうすると,やはり突出してみえるのは,一方では,何十年と倦むことなくラディカルに思考しつづけるジャック・デリダ,そしてもう一方では,ヒッチコックの映画を散りばめながらあらゆる事を華麗に説明してみせるスラヴォイ・ジジェク,この二人だろう。他に見えるのは,ただただ理論の砂漠ばかり。この20年間,理論的になんの進歩もなかったようにさえ見える。そして,今とりあげた二人でさえわたしたちを満足させてはくれないだろう。デリダは,確かにそのラディカルさは敬服に値するが,その徹底性ゆえにある種の貧困に陥っているように見えるし,ジジェクはといえば,最初こそその華麗さに幻惑されたとしても,読み進めるうちに,ひとは「対象a」を中心とする図式の単純さに厭き厭きしてくるだろう。

わたしたちの生きている世界は,本当に,こんなに貧しかったり,単純だったりするのだろうか。

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ためしに分厚く重い『千のプラトー』を手に取ってみよう。

パラパラとページを捲ってみれば(それさえもひと苦労だが),取り上げられている題材の豊富さに驚かされるだろう。試みに挙げてみれば,精神分析,生物学,言語学,歴史,文化人類学,文学,戦争,国家,音楽,美術,等々。まだまだ挙げていくことも可能だ。

この本の分厚さは伊達ではない。けれども,それは図式の単純さと裏腹なのではないか。いや,ひとはこの本を読むとき,ひとつひとつの問題についてそのつど新たな理論が練り上げられていくのに立ち会うことになるだろう。おそらくあなたも少しは耳にしたことのある新奇な概念が,わたしたちを新たな時空間へと誘う。リゾーム,ノマド,リトゥルネロ,戦争機械。

そう,この『千のプラトー』は,わたしたちの住む世界と同じように,豊穣で複雑なのだ。より正確に言うならば,押し広げるべき襞に満ちた豊かなものとして世界を見る術を,この本はわたしたちに教えてくれるのだ。

よく言われるように,『千のプラトー』が出版されてからおよそ10年後,1989年を境に世界は動き出した。2001年9月11日の事件はその動きをさらに加速させた。この混乱した激動の世界を生き抜くための武器を,きっと『千のプラトー』は与えてくれる。

こんな分厚い本を読み通せやしない?

それなら気になるプラトー(いわゆる「章」のことを,この本では「高原」を意味する「プラトー」という言葉で呼んでいる)だけでも読んでみたらどうだろう。どんな人でもこの本から自分の関心のあることについて何かしら引き出すことができるはずだ。そして,この読書会はそんな気軽な気持ちで参加してくれる人を待っている。途中で会から抜けることももちろん可能だ。あなたの参加で是非この読書会を,『千のプラトー』と同じように,豊かで楽しいものにしてほしい。

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