Deleuze & Guattari "Mille Plateaux":ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』

12. 1227年―遊牧論あるいは戦争機械

pp.418~: 概念を創造する

『千のプラトー』解題へ

報告1: 2005/05/05

報告を簡単に。

当初場所が取れずにどうなることかと思っていましたが,吉田さんのご好意により,早稲田の新しい学生会館の部屋を確保することができ,今までよりもむしろ快適な環境で会を行うことができました。

たまたま部屋にあったホワイト・ボードを使って真鍋さんにロマネスク建築とゴシック建築の違いを説明してもらうという豪華なおまけ付きでした。しかし,新しい学生会館にセブン・イレブンが入っているのを見て,「大学も競争時代に入ったんだなぁ」という感慨を改めて持ちました。

つまり,学生=顧客であり,授業・施設=サービスである時代です。過度の資本主義化は困りますが,今までが非効率的過ぎたわけで,そういう意味ではこれで少しは「健全」になるのかもしれませんね。と,読書会の内容と全然関係ない感想でした...。 ――大久保

報告2―概念を創造する

二つの反復

戦争機械と国家装置は,「境界線」をめぐる二つの反復の問題と考えられます。

もともと境界線は内と外を分かつとともに,その両者のいずれにも帰属する両義的な位相です。境界線を確定して領土を形成する装置と,境界線それ自体にゆらぎを与え続ける機械は,無限の境界として世界を支えていた神が死んだ後に訪れた,近代に固有の問題構成,境界の内に留まるのではなく,境界それ自体を問うという自意識(モダニズム),だと考えられます。

マゾッホとサド

「二つの反復」と言えば『マゾッホとサド』を思い浮かべますが,境界確定する者としてのファルスと同一化するサドと,境界線の揺らぎに固有の決定不可能性に「宙吊り」になるマゾッホ,あるいは問題=境界を問い(拷問)によって解を量産するサドと,問題=境界それ自体の不確定性に付きまとう問い=幽霊=ゆらぎ=リズムによって責め立てられる受苦としてのマゾッホです。外があることを知りつつ外を否定するイロニ-としてのサドと,境界確定するファルスを欲望するものの内と外の両義性に留まり,確定した内を否認するユーモアとしてのマゾッホとも言えるかもしれません。

鏡像段階における境界に対する不安と,確たる境界を自身によって持ちえない欠如が人間を言語という他者の世界へと参入させるラカンの体系が晩年,象徴界と現実界の両義的な思考に展開していくのと並行しているとも考えられます。

丸・円

このとき,フッサールを持ち出すドゥルーズが言おうとしているのは,「丸」は境界(理念的なもの)を囲い込むことで意味を切り出す(現働化)機械であり,「円」は境界をあたかも所与のものとして複写する装置(可能なものの実在)であると考えられます。

このように考えたのは,なぜ紀元前の建造物であるピラミッドの底辺と高さが黄金比なのかという問いです。複雑系で「自己組織化の臨界」と言われる現象があり,砂を床にこぼしつづけると,ある一定量を超えたとき,量を問わず相似の形状に砂山が落ち着くと言うもので,言い換えれば崩壊と安定がちょうど均衡が取れた形に形態が収束するという現象です。このときの砂山がまさにピラミッドの形状と相似の関係にあり,事後的に黄金比が見出されたと考えられます。このように力の差異的境位として形態,境界線が形成されると言うのが「丸」であり,「丸」の持つ潜勢力ならば,「円」は砂山やピラミッドも含めた大小さまざまな相似形としての複写です。ちなみにラカン派の新宮一成[公式ホームページ]が黄金比は対象aであると論じているのも興味深いです。

そして境界へ

『千のプラトー』という著作自体がプラトーという近傍に系を収束させるとともに,新たな系へと常に横断していく書物=機械であり,同時にその個々のプラトーの内容も境界をめぐる二つの反復の変奏である,というフラクタル(全体の構成表現と書かれている内容との,全体と部分の相似形)が確認できます。内包と展開の「リズム」をあらゆるプラトーにおいて論じるとともに,論じる書物自体がそのような構成を目指していると言えます。

東京(n-1)公演「画の描写」このとき読書会に集う面々が,全員「境界」についての問いを自身のものとして抱えていることに気付かされます。絵のフレーム(境界)によって囲い込まれる風景とフレーム自体への侵犯のドラマである『画の描写』,有機的な切片が自己触媒的であれ何であれシークエンス(境界)を形成する糖鎖子午線のツェラーン,境界がゆらいで系が遷移する中間休止,主体と対象との境界の機能不全に治療行為の照準を合わせる精神医療,そしてニーチェ。建築もまた,ミースのガラステラーニのフレームロースの着衣=襞といった夥しい境界の実践でもあります。

ドゥルーズが『差異と反復』において明確に「存在の一義性」への問いしかないと語り,『意味の論理学』において表層つまり言葉と物の境界を問うのも,政治も科学も芸術もこうした境界への問いをめぐる夥しい声がそれらの歴史そのものであったからだと言えるかもしれません。

ただし,「境界」は常に対象をシニフィアンのような抽象に還元することで成り立つ側面もあるので,そうした抽象に陥ることなく,力あるいは身体の次元でドゥルーズの哲学をさらに考えることで,「境界」への問いを耕していければと考えています。

過程の中で境界を発生させること,あるいは過程の中で境界にゆらぎを与えること,それこそが「概念を創造する」ことと同義なのかもしれません。

ちなみにアンゲロプロスの新作『エレニの旅』も境界をめぐるテーマとして観ました。

真鍋

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