Deleuze & Guattari "Mille Plateaux":ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』

12. 1227年―遊牧論あるいは戦争機械

pp.418~: 概念を創造する

議論―林の返答

境界線のゆらぎといえば

ツェラーンの詩で重要な概念のひとつに「氷河」があるのですが,氷河はある意味でまさに,「差異と反復」の構造を持った自然現象です。ツェラーンの詩では,氷河の生じる寒い場所が,日常言語から詩の言語へときりかわるユートピアとして表現されます。中期の詩でツェラーンは,まだニュートラルな学術専門用語などが,暴力や権力となる言葉から限りなく遠い言葉として探求されていくのですが,後期に至っては更に,日常言語から逃れられない詩の言葉の運命をより強く意識されるようになり,ユートピアに関する思考にも,多少変化がみられるようになります。

フラクタル構造とマンダラ

大久保さんはフラクタル構造のわかりやすい例として,仏教のマンダラを挙げられていましたが,その例え自体に,私はとても興味を持ちました,まるでその考えに至ったことがなかったので。

仏教はある種の多神教ですので,マンダラのそれぞれの仏が部分で,例えば胎蔵界にある12の曼荼羅が,同時にマンダラの全体を表すととらえるのはその通りだと思います。まさに部分と全体の相似です。

あと,部分が全体を反復するということも言えて,例えばチベット仏教には今でも,砂マンダラがありますが,砂マンダラは作っては壊されるもので,その都度,異なる僧がつくるマンダラ世界は,同じ法力を修めた僧でも,決して同一の仏ではないという意味で(多神教ゆえ),僧のひとりひとりが形作る蓮華(世界)は,同じ手続きをとって形成されるマンダラ(蓮華)でも,厳密にはそれぞれ異なる蓮華だともいえます。

この営みのイメージは「差異と反復」のモデルに似ていると思います。モナドが神の保証したモデルであると同様,ひとつひとつのマンダラは,それぞれの仏がそれぞれの役割分担(=知性体としてのモナド)を持ち,それぞれの役割として保証する悟りや慈悲の力,因を法を保証しています。マンダラの部分が仏の教えで,マンダラ全体がひとつの世界であるということ,そして大久保さんが例にあげておられた,都市の写真が異なる条件で取られた写真にも,結局は同じ都市として写るのだというイメージは,すごく似ているように思います・・・

ただ,私が「部分と全体の相似」や,ライプニッツ,スピノザをそれぞれちゃんと理解しているのか,という疑念は拭えません,マンダラが胎蔵界・金剛界それぞれでひとつの機能を持っているという側面も無視できないし,もっとちゃんと考えないとだめですね。

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