詩人・栗原貞子の平和思想 Page.4

2006.04.29

Ⅳ 日本及び国際の平和を考える上での広島の位置

−なぜ被爆体験が国民的思想化と結びつかないのか−

①平和憲法は原爆投下との密接な思想的関連性(Ⅱ2(2)参照)が忘れられていること

②天皇・天皇制の桎梏(タブー)(Ⅱ1(2)(ロ)⑤及びⅢ1(2)①参照)

③押さえ込まれたアメリカの原爆投下責任(Ⅲ2②参照)

④解放者・アメリカというイメージ

<栗原貞子「被爆者にとっての天皇」(1972.4)>

「…長い軍国主義の重圧からの解放のよろこびは原爆による慟哭のこえ、怨嗟の叫びをも相殺させる程だった。アウシュビッツ・ヒロシマと言われる二大虐殺に対して、外国人はヒロシマの被害者たちに憎悪が見られないことをしばしば指摘し…た。 アウシュビッツが直接眼前の人間によって加えられた残虐であるのに反して、原爆は高度三万一六〇〇呎の見えざる敵によってボタンを押され敵を実感することが出来なかったと言う理由がひとつ−これこそボタン押し戦争の被害者・加害者がともに被害と加害の対象を実感することのない超非人道性を意味するものである−。そしてもうひとつの理由として民主主義革命即「米占領軍は解放軍である」として、占領のための疑似解放が原爆帝国主義を解放軍にすりかえる一方で、アジア侵略の最高責任者を人間天皇として温存することにより、原爆投下の責任と侵略戦争の責任が、カムフラージュされ、隠ぺいされたことによるものであった。解放軍の疑似解放の下で、被爆者たちは、放射能禍に苦しみながら、原爆との因果関係を知らされることなく、栄養失調による無気力や倦怠、伝染病や結核による吐血、出血とみなされて死者たちの世界をさまよい、原爆の残虐行為の追及を、逆に生き残った自身の罪意識として内へ向け、原爆亡霊のように生きて来たのだった。こうして被爆者の多くが、原水禁運動のエネルギーになり得なかったのも当然である。」(『ヒロシマの原風景を抱いて』、pp.125-6)

⑤原爆投下についての受け止め方

<栗原貞子「核・天皇・被爆者」(1975.8)>

「言論統制は毎年行われた追悼式典や平和式典の市長の挨拶にも及び、ヒロシマの心を歪めてしまった。 二十一年八月六日には原爆投下一周年の追悼式典が…行われ、木原市長は次のように挨拶した。

−本市がこうむりたるこの犠牲こそ、全世界にあまねく平和をもたらした一大動機を作りたることを想起すれば、わが民族永遠の保持のため、はたまた世界人類恒久平和の人柱と化した十万市民諸君の霊に向かって熱き涙をそそぎつつも、ただ感謝感激をもってこの日を迎えるほかないと存じます。」(『核・天皇・被爆者』pp.50-1 前掲)

(参照)1947年平和宣言 「これが戦争の継続を断念させ、不幸な戦を終結に導く要因となったことは不幸中の幸いであった」

⑥原子力平和利用神話(Ⅲ2④参照)

⑦国家の仕組みへのまき込まれ

<栗原貞子「被爆者にとっての天皇」(1972.4)>

「…動員学徒の会は、被爆死した動員学徒を、靖国神社に合祀されるよう署名運動を行い、三十八年、国難に殉じたとして、靖国神社に合祀されることになった。また二十七年に、総動員法によって動員され被爆死した国民義勇隊、動員学徒など軍人・軍属に殉じて三万円の弔慰金が支給され、三十七年から遺族年金が支給されるようになり、被爆者が軍人序列の体系の中にくりこまれ、四十三年には国民義勇隊の作業中に被爆死した二五八二名が、第一次分の勲章を授与され、被爆者の天皇制包摂は成った。「過ちは繰り返しません」と誓いながら、あやまちの方向へ引きづられて行く被爆者の姿である。」(『ヒロシマの原風景を抱いて』、pp.127-8)

⑧既成事実への屈服・健忘症

<栗原貞子「逆ユートピアの悪夢のなかで」(1970.8.5)>

「被爆二十五年目の夏は、核安保の現実をともなっていいようもなく重い。 一九四五年の被爆・敗戦の夏でさえ、日本軍国主義が解体され、そこから解放された新生へのよろこびがあった。 しかしその解放感も巧妙な占領政策による疑似解放感で、私たちは日本軍国主義に代って占領軍の言論統制下におかれ、原爆についての表現は許されず、原水爆禁止運動が凍結されたまま、ビキニ被災まで圧殺されていたのであった。 にもかかわらず、…原爆のような最終兵器が現れた以上、もう戦争は出来ない、ヒロシマ・ナガサキは最初で最後の犠牲となり、原子力は平和のためにだけ用いられるであろうと、原子力ユートピアがいわれ、反ファシズムと戦争否定の民主主義革命が具体に的に行なわれたことは、原爆にうちのめされた私たちにとっても鮮やかな印象であった。(中略) 思えば戦後二十五年という年月は、永久政権と化した保守政権によって戦争放棄の夢は束の間に破られ、朝鮮戦争でマッカーサーの命により、警察予備隊が創設されたのを初めとして、以来、「再軍備はいたしません」「核武装はいたしません」といいながら…自衛隊のミサイル基地が日本全土の核基地化として強行されようとしている現実にたち至らせたのであった。 こうした状況のなかですすめられる原子力の平和利用が軍事利用に結びつかないという保証はどこにもない。」(『ヒロシマの原風景を抱いて』pp.63-64)

⑨被爆体験の思想化が阻まれていること

<栗原貞子「原爆体験の今日的意味」(1972.8)>

「閉鎖的な狭い個人の身辺的体験のなかから一歩も出ることのない体験は、それが個人にとってどのようにかけがいのない体験であろうと、蛸壺のなかの蛸のあがきに似てはいないだろうか。 体験は核否定の思想に上昇すべきであるし、思想は体験の底深く怨念のうずまく基底に下降し、相互に検証することなくしては、いずれも観念として固定し、生き生きした運動を持続させることは出来ないだろう。」(『ヒロシマの原風景を抱いて』pp.146-8)

<栗原貞子「被爆者はなぜ沈黙するか」(1973.8)>

「「体験したものでないとわからない」と言う言葉は、最初は被爆者同士の相互理解として言われ、次に、体験を語ろうとして語り得ない自己の表現能力への絶望を意味する言葉として用いられた。 しかし、被爆体験を自身の問題として受けとめようとする体験のない側の人たちにとって、「体験のないものにはわからない」と言う言葉は、被爆者の他者への拒絶として受けとられ、いらだちと失望を感じさせた。 「体験したものでないとわからない」と言う言葉が、他者を拒絶した言葉であるとするならば、「体験したものはほんとうにわかっているのか」と問い返したとき、「わかっている」と自信をもって答えることのできる体験者がいるだろうか。… ひとりひとりの体験は極く限られた部分的な体験であって、被爆の全体は誰にもわかっていないのである。 全体から切り離された体験のあいまいさは、いわば、大象をなでる群盲的認識とでも言うべきであろうか。(中略) こうして、作家的良心や、民衆自身の語りが作品化され記録されたが、前記のように被爆者の多くは「体験したものでないとわからない」と沈黙し、体験のない良心的な知性人は同時代人としての被爆者への後ろめたさから、被爆体験を絶対化し事実信仰に陥り被爆者の聖化が行なわれた。… こうしてつくり出されたヒロシマ信仰の残滓に甘え、戦後二十八年経過した今日なお、戦争責任や戦後責任にも無関係に風化し形骸化した体験が語りつがれ、体験の継承がとなえられているのではないだろうか。 政治権力によって差別された被爆者は、被爆者の人間復権を求める原水禁運動や被爆者運動に対しても、被爆者を利用した政治的な運動であるとして背を向けている人が多い。… 被爆者が被爆の問題と政治を切り離して受けとめているあいだ、被爆者は沈黙しつづけるだけでなく、原水禁運動の非難をつづけ、被爆者不在の運動などとマスコミが書きたてることになるのであろう。」(『ヒロシマの原風景を抱いて』pp.192-6)

⑩運動論上の問題

<栗原貞子「70年ヒロシマ・ナガサキの現実-思想と体験の結合を-」(1970.5.20)>

「原水爆禁止運動も、思想、信条の相違をこえて原水爆反対の一点に結集するという再軍備論者から絶対平和主義者までをふくめた、いわゆるヒューマニズムの運動として、政治の実態に対する目かくしの運動となり自治体首長や議長、PTA、婦人会などの保守系団体のボスを組織の表面に立てることにより、自治体の補助金を得て、豊富な資金と動員力により、国民運動の盛況を誇ることが出来たのだった。 たしかに、それによって原水爆の悲惨を国民大衆に知らせ、ヒロシマ・ナガサキへの関心を深めはした。しかし再軍備論者までを交えた原水禁運動が世界の原水爆禁止、完全軍縮という完結的な目標を示し、外国の政府に対して、核実験などの抗議はしても、現実に進められている自国の戦争政策に対しては、抗議出来ず、六〇年安保の前年の第五回世界大会の際、安保条約改訂に対する反対決議は出来ず、自民党広島県議団によって、大会補助金三十万円を削られ、以後保守系団体が潮を引くように去りその後の運動は、偏向した政治運動として非難され、被爆者を脱政治化、脱状況化させるというマイナスの役割を果たしたことも明らかである。 つまり、杉並アピールの“……この署名運動は特定の党派の運動ではなく、あらゆる立場の人々をむすぶ全国民運動であります”という運動の基本原則が優先し、相互に牽制し、核政策に対して迫るのをさけ、被爆者を包む涙の大会にしたことが定着し、被爆者を政治的無関心に定着させてしまったという結果が生まれたのであった。」(『ヒロシマの原風景を抱いて』pp.46-47)

⑪被爆者の政治責任

<栗原貞子「ピカより何日、今日の状況のなかで」(1974.8)>

「今日、被爆国の資本と権力のヒロシマ・ナガサキを忘れた核免疫、放射能マヒの現状をゆるして来たのは、私たち被爆者の無力であり、被爆国民の頽廃である。被爆者のひとりひとりは、決して許して来なかった、と言うであろう。…にもかかわらず、私はわが被爆都市の現状について問いたい。 平和都市広島を名乗り、八月六日に、慰霊碑前で平和宣言を、世界に向かって宣言し、十月三十一日の、自衛隊開設記念パレードには、観閲台に立って、閲兵する市長(注:山田市長 1967年5月〜1975年1月)の現実を、どう説明するのであろう。ノ広島市において、骨肉を埋めた市街を、自衛隊のキャタピラでじゅうりんさせる、この現実をゆるしたのはだれであろう。原爆で多数の骨肉を焼死させ、生の根幹をゆすられ、生き方そのもの、考え方そのものを変革した被爆者であるならば、あらゆる現象に対しての選択が、反原爆、反戦争となって現われ、自衛隊のパレードをゆるすような結果は生まれなかったはずである。 「ピカによっても、こわれなかった部落差別」と同じように、ピカによっても天皇制軍国主義は潜在化したまま、壊れなかったのである。戦争を美化し、軍人戦死者を神と祀るヤスクニ神社へ、学徒動員で原爆死した息子や娘を国家のためにつくして死んだのだから軍人同様に祀ってほしい、と言う陳情運動が始まったのは、一九五七年頃だっただろうか。被爆者援護法を制定せず、被爆者を見殺しにする一方、軍人軍属に準じる年金などを餌に、被爆者を保守陣営に包摂する誘いがあったとしても、戦争体制の精神的支柱である靖国神社に原爆死者を祀るべきでなく、援護法制定のために団結すべきであった。 被爆者は変らなかった。再び天皇制軍国主義の円環のなかにとじこめられようとしているのである。そのことを思うとき私の狂気はしずまらないのだ。… 「私も被爆者で戦争には反対ですが、この程度の自衛隊がなければ、朝鮮や支那に馬鹿にされ、戦争をしかけられますよ」と言う中年婦人があった。加害者意識どころか、被害者意識さえ持たないで、戦前、戦中同様、朝鮮や中国を敵視しているのであった。こうした被爆者によって、広島市長の八月六日と十月三十一日の精神分裂症は支えられているのだ。」(『ヒロシマの原風景を抱いて』pp.238-9)

⑫平和教育の問題

<栗原貞子「平和教育と児童文学の創造」(1974.3)>

「平和教育のなかで文学教材も用いられ、詩や歌や児童文学の作品が用いられているが、これらは原爆の悲惨さを教えるための手段として用いられており、文学としての独自な作用が考慮されていない傾向がありはしないだろうか。文学は具体的な人間の生きる姿を通して、生活や思想感情などを文学的に形象し、人間の魂のなかに微妙に深く浸透して、知らず知らずのうちに人間形成を行ない、文学のもつ独自な方法で人間変革をせまるものである。したがって原爆の悲惨を強調しさえすれば、反原爆の意識を植え運動へ参加させることができたり、使命感をもって被爆体験を書けば体験のない子供に受け入れられると言う使命感と楽観は、児童生徒の感動を呼びおこすことはできないだろう。」(『ヒロシマの原風景を抱いて』p.224)

⑬様々な現実 −「ノー・モア・ヒロシマ」「ノー・モア・ウォー」が一部の声に留まってしまっていること
−大和ミュージアムの盛況ぶり
−衆議院総選挙の結果
−「国民保護計画」に対する無関心
−岩国基地問題に対する無関心

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