詩人・栗原貞子の平和思想 Page.3

2006.04.29

(ハ)原爆反対の声が上がりにくかった日本国内事情

<栗原貞子「広島の文学をめぐって」(1960.3.21)>

「ヨーロッパの戦後文学がアウシュヴィッツに対して向きあうことが出来たのは、フランスの文化の伝統、わけて第二次大戦中のユマニティによる抵抗運動が存在したことによるものであろう。花鳥風月的文人意識の日本文化の伝統の中にはユマニティは存在せず、したがって抵抗文学の育つような土壌もなく、したがって、日本の戦後文学の主流が依然として、日常的私小説で占められ、原爆文学をライ文学の陰惨さとしてとらえるような歴史的感覚の欠如しか見られないのは仕方のないことかも知れない。」(『どきゅめんとヒロシマ24年』p.214)

<栗原貞子「回想−「中国文化」原子爆弾特集号をめぐって」(1967.10)>

「私たちはと言えば十五年戦争の間、合理を不合理にし、不合理を合理とする国家主義、軍国主義の猛々しくすさぶるなかでひそかにその暴虐な非人間性に抵抗し、日独伊のファシズムを軸とするものに対して反ファシズムの立場から、連合軍にひそかに期待しながら、戦争の終りを待っていた。
 戦後いち早く活動を開始した人たちは、中央でも、地方でも、そのような傾向の人たちだった。…
 今にして思えば、日本の民主勢力がたとえ占領下とは言え、広島、長崎の原爆投下に対して、数年間も、沈黙を守っていたことの盲点は、そのあたりにあったのではないかと思われるのである。
 当時、日本共産党はアメリカ占領軍を解放軍と規定し、日本の戦争犯罪と責任に対しては、積極的に追求したが、米軍の原爆投下に対しては、後に米ソ冷戦が表面化するまでは不問にしていた。
 そのことは、ヨーロッパでも、アメリカの原爆投下に対して、バチカンが非難したのに対し、イタリアの共産党の機関誌の「ウニタ」やフランスの「ユマニテ」が「われわれは科学の成果を高く評価する。原爆投下の非難は、抽象的な人道主義のあそびごとだ」と論ばくしたことと符節する。
 つまり国際的にも国内的にも原爆反対の声が表面化したのは、二十三年から二十四年の頃だったのである。
 したがってそれまでは中央の出版物にも原爆の記事は、皆無と言ってよい状態だった。」(『どきゅめんとヒロシマ24年』pp.165-7)

2.核廃絶を目指す立場にとっての更なる課題
(1)戦争禁止という展望のなかで核廃絶問題を位置づけるという課題

<栗原貞子「原水禁運動の再生を求めて」(1968.12)>

「原水爆禁止運動は、絶滅兵器としての放射能による悲惨さを訴えることに集中して通常戦争への視野を欠落させたまま、ヒロシマ・ナガサキを視点にすえ、通常戦争の犠牲者を不問にして被爆者救援にのみ集中した。…
 原爆体験も戦争体験の一部である。原水爆禁止に集中することで通常戦争を軽視し、通常戦争の犠牲者を視野のなかから見失ってはいないだろうか。さまざまな戦争体験、軍隊、空襲、疎開、動員、占領、基地の体験を交流し反戦反核運動の裾野をひろげ、ベトナム反戦運動と結びつき、すでにベトナム戦争協力国の国民として、被害者であると同時に加害者であるという二重の存在としての現状から脱け出し、人間として回復しなければならない。」(『ヒロシマの原風景を抱いて』pp.25-26)

<栗原貞子「ヒロシマのこころ」(1976.8.3)>

「これまで原水禁運動の弱点として被爆前史が切りすてられていること、したがって戦争責任の追及や反戦意識の欠落がたえず指摘されていた。…ビキニの水爆実験で始まった原水禁運動が、何はともあれ原水爆禁止の一点に集中し、再軍備論者までまじえて原水爆反対の国民運動を大きくひろげていかねばならなかったのは、当時の状況として当然のなりゆきでもあった。
 しかし、原水爆反対だけが強調されているうちに、反原爆は反戦につながらないという現実が生まれてきた。
 三十年四月に始まった原爆裁判の国家の戦争責任による国家補償の理論も賠償を求めるための法的視点からのみ強調されて、戦争責任の問題自体としては深められも広がりもしなかった。」(『核・天皇・被爆者』p.88)

「八月六日と八月十五日を切り離して考えるのではなく連続した反原爆・反戦として考え、行動すべきである。」(同上、pp.92-3)
(参考)

  1. 「ノー・モア・ヒロシマ」「ノー・モア・ナガサキ」「ノー・モア・ウォー」そのものが核廃絶問題と戦争禁止問題との不可分性を集中的に表明
  2. 戦争を禁止するという枠組みの中での核廃絶
    • −「力による」平和観の立場からも「核廃絶」「核不要」の主張がある現実
    • −「力によらない」平和観の立場からの積極的な論点整理が求められていること
  3. 地球的規模の諸問題と取り組む運動との連帯
    • −広範な世論をまき起こすことによってのみ、いずれの運動も展望を切り開くことができるのではないかという問題意識:環境問題への関心の移行という現実にどう向き合うか
    • −核兵器は地球環境の深刻な破壊をもたらす重大な脅威でもある事実という接点
(2)「核時代」の安全保障のあり方を指し示す平和憲法を前面に押し出すという課題

<栗原貞子(1969.10.23)>

「長い十五年戦争の暗い奈落の中で、息をひそめるようにして生きて来たものにとって、敵機の空襲とは別に国内の軍閥、特高、すべての軍官報道機関などにより日々重圧を加えられ飢餓にさらされた末、ヒロシマ、ナガサキを初め前線銃後の五百万の血によって購われたただひとつのよきもの−平和憲法をここで再び徴兵制度と言うドレイ制度へ後かえりさせられることは絶対に許されない、死者への裏切りと平和新生を誓った自身の破産である。」(『どきゅめんとヒロシマ24年』あとがき)

<栗原貞子「ヒロシマの文化を考える」(1976.7)>

「日本の平和憲法は、戦争と原爆の悲惨な国民体験から生まれたものであることを忘れてはならないと思います。」(『核・天皇・被爆者』p.70)

(参考)1946年3月27日の幣原喜重郎の発言

「斯の如き憲法の規定(注:第9条)は、現在世界各国いずれの憲法にもその例を見ないのでありまして、今尚原子爆弾その他強力なる武器に関する研究が依然続行せられておる今日において、戦争を放棄するということは、夢の理想であると考える人があるかもしれませぬ。併し、将来学術の進歩発達によりまして、原子爆弾の幾十倍、幾百倍にも当る、破壊的新兵器の発見せられないことを何人が保障することができましょう。若し左様なものが発見せられたる暁におきましては、ノ短時間に交戦国の大小都市は悉く灰燼に帰し、数百万の住民は一朝皆殺しになることも想像せられます。今日われわれは戦争放棄の宣言を掲ぐる大旆を翳して、国際政局の広漠たる野原を単独に進み行くのでありますけれども、世界は早晩、戦争の惨禍に目を覚し、結局私共と同じ旗を翳して、遥か後方に踵いて来る時代が現れるでありましょう」(丸山眞男「憲法第9条をめぐる若干の考察」(1965年5月))

(参考)1947年の広島市の平和宣言

「この恐るべき兵器は恒久平和の必然性と真実性を確認せしめる「思想革命」を招来せしめた。すなわちこれによって原子力をもって争う世界戦争は人類の破滅と文明の終末を意味するという真実を世界の人々に明白に認識せしめたからである。これこそ絶対平和の創造であり、新らしい人生と世界の誕生を物語るものでなくてはならない。」

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