2006.04.29
①昭和天皇の戦争責任問題を直視することを避ける日本・日本人
<栗原貞子「被爆者にとっての天皇」(1972.4)>
「戦争体験のない世代が、天皇の戦争責任を追及し、全存在を賭けて天皇来広(注:1971年4月15-16日)を阻止すると屋内集会や街頭で糾弾活動を展開したのに、戦前・戦中派が沈黙していたのは何故だろうか。
戦中・戦前派にとって戦争体験とは、天皇体験であった。心情的には、若い世代の糾弾闘争に同意しながら、戦争中の陰惨な天皇体験は心理的な屈折をともない、三団体(注:被爆者青年同盟、アジア青年同盟、部落解放同盟)の直線的な行動に違和感を感じ行動出来ない後ろめたさを感じていたと言うのが、私などを含めた体験世代のいつわらぬ実情であった。
昭和六年から敗戦にいたる十五年間、うちつづく軍人の怒号と、改正治安維持法に圧しひしがれ、「畏くも」「畏れ多くも」と天皇の枕詞を言われるとき、反射的に直立不動の姿勢をとらされた、あの戦争の日の感覚がよみがえって、思考は自由でも感覚的には今も恐怖の余韻が残っているのである。
戦前・戦中派にとって天皇絶対主義の恐怖は母斑のように肉体にしみついている。天皇制は日本人にとっての原罪である。」(『ヒロシマの原風景を抱いて』p.117)
<栗原貞子「戦後三十年めの天皇の発言」(1976.8)>
「三十年目に米国訪問を終えて帰国した天皇が、十月三十一日、日本記者クラブでの記者会見の席上、
「この原子爆弾が投下されたことは遺憾に思っていますが、こういう戦争中のことであることですから、どうも広島市民に対しては、気の毒であるがやむを得ないと思っております。」
と答えたのは何故であろうか。
終戦の詔書に見られる原子爆弾の残虐性への非難は消え失せ、原爆投下の容認となっているのは、単に三十年による風化を意味するものではないだろう。」(『核・天皇・被爆者』p.96)
(注)天皇は、終戦の詔書の中で、「敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニル」と述べていた「前述の天皇の原爆発言は、日本人記者団との合同会見の中で述べられたひとつであって、その日の会見で明らかにされたことは全部で三つあった。まず戦争責任の問題である。「私はそういう言葉のアヤについては文学方面を勉強しておりませんので、よくわかりませんのでお答えできかねます」と答え、戦争責任を文学上の表現の問題として考えられていることがひとつ、次に「日本の国民性とアメリカの国民性はちがう」と断定し天皇と国民との民主的接触はむつかしいと表明されたこと、三つ目に「原爆投下はやむを得なかった」とされたことである。」(同上、p.103)
「記者会見の席で天皇が、戦争責任を回避し、米国の原爆投下を肯定し、彼我の国民性の相違と断定して、天皇の民主的あり方を否定したことは、朕の股肱が多数戦犯として処刑された後も、まぬがれたその地位にとどまった天皇の戦後三十年の総括なのである。天皇のこの総括は、この国の再軍備・経済侵略・被爆者見ごろし政策とともに、主権在民の憲法が否定されようとしている事情とぴったり重なっているのである。」(同上、p.104)
(連想事項)戦争「受忍」義務で押し切られる国民の「弱さ」
- *「受忍」論:
- 「およそ戦争という国の存亡をかけての非常事態のもとにおいては、国民がその生命・身体・財産等について、その戦争によって何らかの犠牲を余儀なくされたとしても、それは、国をあげての戦争による『一般の犠牲』として、すべての国民がひとしく受忍しなければならないところであって、…国の法律上の責任を追及し、その法律的救済を求める道は開かれていない」(1980年12月11日 原爆被害者対策基本問題懇談会報告『原爆被害者対策の基本理念及び基本的在り方について』)
<栗原貞子「ヒロシマというとき」>
<ヒロシマ>というとき
<ああ ヒロシマ>と
やさしくこたえてくれるだろうか
<ヒロシマ>といえば<パール・ハーバー>
<ヒロシマ>といえば<南京虐殺>
<ヒロシマ>といえば女や子供を
壕のなかにとじこめ
ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑
<ヒロシマ>といえば
血と炎のこだまが返って来るのだ
<ヒロシマ>といえば
<ああ ヒロシマ>とやさしくは
返ってこない
アジアの国々の死者たちや無告の民が
いっせいに犯されたものの怒りを
噴き出すのだ
<ヒロシマ>といえば
<ああ ヒロシマ>と
やさしくかえってくるためには
捨てたはずの武器を ほんとうに
捨てねばならない
異国の基地を撤去せねばならない
その日までヒロシマは
残酷と不信のにがい都市だ
私たちは潜在する放射能に
灼かれるパニアだ
<ヒロシマ>といえば
<ああ ヒロシマ>と
やさしいこたえがかえって来るためには
わたしたちは
わたしたちの汚れた手を
きよめねばならない
(『核・天皇・被爆者』pp.145-7)
③戦争責任そのものを否定する動きの公然化
①昭和天皇以下の戦争責任に対する不徹底な追及(1(2)①参照)
②押さえ込まれたアメリカの原爆投下責任の追及
<栗原貞子「核・天皇・被爆者」(1975.8)>
「言論統制は毎年行われた追悼式典や平和式典の市長の挨拶にも及び、ヒロシマの心を歪めてしまった。
二十一年八月六日には原爆投下一周年の追悼式典が…行われ、木原市長は次のように挨拶した。
−本市がこうむりたるこの犠牲こそ、全世界にあまねく平和をもたらした一大動機を作りたることを想起すれば、わが民族永遠の保持のため、はたまた世界人類恒久平和の人柱と化した十万市民諸君の霊に向かって熱き涙をそそぎつつも、ただ感謝感激をもってこの日を迎えるほかないと存じます。」(『核・天皇・被爆者』pp.50-1)
③原水禁運動における曖昧さ
<栗原貞子「ヒロシマの文化を考える」(1976.7)>
「原水禁運動は、単なる感覚的被害意識やムードによりかかるのではなく、一貫した説得性と、誰にでも理解できる論理を持たなくてはならないと思います。
原爆や戦争は「いやだ」と言いながら戦争政策に押し流され包摂されていく現実を見るとき、運動の便宜上、安易につくためのあいまいさを残しては、どんな多数の人を集めてもほんとうの力にはならないと思います。…
原水禁運動が始まった当初のように、一〇年間も原爆被害がかくされていた時なら、何はともあれ原爆反対だけで世論をおこさねばならなかったことは当然でありますが、既に日本の再軍備が核装備にまで進んでいる現実や、きびしい世界の核状況のなかで、ムードや被害意識だけでは対応できません。」(『核・天皇・被爆者』、p.70)
④原子力平和利用神話
<栗原貞子「原子力ユートピアから原子力帝国主義まで」(1982)>
「被爆者たちは、原子力の平和利用によってユートピアが出来るならば、まず原爆被害者である広島、長崎こそ最初に平和利用を受ける権利があると、何の疑いも持たなかった。
このようにして、戦争が終ると恐怖の兵器は、バラ色の平和の夢に包まれて、被爆者の怒りと呪詛を解消させる役割を持ったのである。当時は中央の総合雑誌も、広島、長崎の悲惨にふれることなく、恒久平和の理想や、原子力ユートピアについて書きたてた。占領軍のプレスコードの下で、広島、長崎は完全に孤立し、臣道実践に代ってアメリカデモクラシーが讃美され、占領軍は解放軍だった。」(『核時代に生きる』p.142)
⑤第9条の解釈改憲の積み重ね
⑥曖昧な「非核3原則」・「究極的核廃絶」論の忍び込みを許してきた核廃絶運動
(参考)原爆ドームの世界遺産登録推薦文(1995年9月 前掲)
⑦90年代以後の保守攻勢に対して受け身に追い込まれた私たち
①私たちが国家を遠ざける原因について
②日本が大国であることに対する違和感・拒否感