詩人・栗原貞子の平和思想 Page.2

2006.04.29

(2)広島・長崎が人類共通の「負の遺産」となるために実現しなければならないこと

(イ)「人類共通の負の遺産」であるアウシュヴィッツ・ホロコーストとの比較から見えてくること

  1. 国を挙げての取り組みが不可欠であること
    • −ホロコーストに対して国を挙げて取り組んでいるドイツ
    • −「唯一の被爆国」を言いながら、アメリカの核抑止力に依存する政策をとり、「究極的核廃絶」しか言わない日本
  2. 関係諸国との共通認識を作り上げることの重要性
    • −近隣諸国と歴史認識の共有に正面から取り組んできたドイツ
    • −日本にとっての課題
      • 《対アメリカ:核兵器肯定論の克服》
        1. 広島・長崎への原爆投下を正当化する主張の誤りを明らかにすること
        2. 核兵器の反人道性(*1)・核兵器使用の国際法違反性(*2)に関する認識の確立
          • (*1)国際司法裁判所(ICJ)の勧告的意見(1996年7月8日)
          • (*2)①軍事目標主義(1977年ジュネーヴ条約第1追加議定書:無差別攻撃の無条件禁止)
            ②不必要な苦痛を与える兵器の禁止
             (上記ICJ勧告的意見)
      • 《対アジア:広島・長崎に関する共通の認識の形成》
        1. 侵略戦争・植民地支配(加害)に起因する15年戦争の結果としての広島・長崎に対する原爆投下という歴史的認識を共有すること
        2. その共有の基礎の上に立った核兵器の反人道性・国際法違反性に関する認識の共有を図ること
          • □ 韓国:韓国人被爆者問題への注目から進んでいる対原爆観の見直し
          • □ 中国:核兵器保有国のなかでは唯一、核廃絶の可能性に言及する柔軟性をもっていること(先制不使用、純自衛目的、全面的核廃絶が中国の核戦略の特徴)

<栗原貞子「国家の戦争責任と被爆者」(1985.1)>

「いくらヒロシマの悲惨を語り核廃絶を訴えても、自国の軍事大国化を許し、核持ち込みを許していては、「ああ、ヒロシマ」と共感を得ることはできない。逆に、加害責任を問う言葉が返ってくるのである。日本の天皇制軍国主義の侵略に協力した直接間接の戦争責任を自覚するとき、私たちの戦争体験、原爆体験も否応なく相対化される。」(『問われるヒロシマ』p.65)

<栗原貞子「国家の戦争責任と被爆者」(1985.1)>

「広島・長崎への原爆投下は、人道上、国際法上許すべからざる犯罪である。しかしその絶対性は、その誘発を許した国民の責任やアジア諸国への加害責任を不問にしたり相殺したりすることはできない。被害と加害の複合的自覚に立つとき、初めて他国民間の連帯が可能になる。そして、自らが国家の被害者であると同時に、加害者であることによって、加害(協力)を強制した国家の戦争責任を明確にとらえ追及することが可能なのである。」(『問われるヒロシマ』p.65)

<栗原貞子「戦争犠牲者に誓う」(1990.5)>

「いくら広島の悲惨を唱えても、自国の戦争責任を自覚せず、自国の軍事大国化を許しては、逆に加害責任を追求されます。広島の心は受け入れられません。被害と加害の複合的自覚が求められております。
 最近ではアジアの人々が来日されまして日本の戦争責任を問うようになりました。昭和十七年(1942年)、マレーシアのネグリセンビラン州の住民五〇〇〇人を日本軍人が虐殺した事実が、現地住民の証言と防衛庁に保管してあります陣中日誌によって判明いたしました。しかも日本軍人とは、こともあろうに、原爆の被爆地、広島第五師団第十一連隊第七中隊の軍人であることが判明いたしました。赤ん坊から年寄り、男女の別なく、広場に集めまして虐殺いたしました。被爆地広島の父や兄や子が、原爆投下に先立ってこのような蛮行を行なっていたことをどのように理解したらよろしいのでしょうか。」(『問われるヒロシマ』pp.35-6)

(ロ)広島固有の問題の克服という課題

①思想の不毛性

<栗原貞子「広島の文学をめぐって」(1960.3.21)>

「広島はしばしば文学不毛の地と言われる。文学不毛の地ではなく、それ以前に文学の深さと広さを与える思想の不毛の地なのである。ある種の文学者たちは、文学の底を流れる思想性や政治に作用された現実的リアリティさえ、文学が政治や思想に従属するとマユをしかめるのである。」(『どきゅめんとヒロシマ24年』p.211)

②被爆者にかかわる問題

<栗原貞子「ヒロシマに沈黙の権利はない」(1967.1.10)>

「八月六日だけのヒロシマを拒絶する。三百六十五日のヒロシマに生きよ」と人も私も言う。

しかし、一日の行事にすら参加せず、さりとて、自分たちののぞましい運動をつくり出そうともせず、分裂を理由に、拒絶し批判しているだけで、全体的状況を変えることは出来ない。しかも事態はさせしまっているのである。
 批判者としての加重責任はないのだろうか。
 数万の人々を八月六日の広島へひきつけるだけのものを内包しながら、数万の人に訴える何ものもないのだろうか。…
 被爆者の多くは沈黙する権利のなかに避難し、正統的人間のみが原水爆禁止運動のために闘う威厳ある人として、普通の被爆市民からきり離され、日常的おぞましさを捨象した聖地広島の聖なる人間として美化されるのである。
 このような把握のなかからは、広島の被爆体験が平和思想の原点として国民の中に根をおろし、共通感覚を育てることは出来ないであろう。」(『どきゅめんとヒロシマ24年』pp.271-2)

「被爆者の自閉症は、原水禁運動の分裂から始まったのではない。
 それは戦後の復興とともに始まった。すべての支配機構と支配秩序の復活は、廃墟のはかにひとしく傷つき、ひとしく焼けトタンのバラックの生活を始めた被爆者たちと、いつのまにか入市して来た非被爆者との間に格差をつくり、さらに被爆者との間に格差をつくり復興経済にとりのこされた被爆者は二重の格差のなかにあえいだ。
 その上、生きのこったよろこびも束の間に、回復した筈の原爆症が再発し、生活不能者として、底辺に生きねばならなかった。
 被爆当時の連帯感は消え失せてしまい、被爆敗戦のちかいである平和憲法はふみにじられて、再軍備は始まり、世界は核実験の競争をし、死者へのちかいは何ひとつみのらなかった。
 原水爆禁止運動も当初は「生きてよかった」と被爆者のはげましとなったが、核実験再開後の統一と団結の妥協工作は、被爆者の運動への不信を一層つのらせた。
 被爆者の原爆自閉症はある意味では戦後民主主義の行き詰まりの集中的な姿でもある。しかし被爆者の自閉症は自らを苦しめると同時に、広島へ連帯しようとする善意の人々をも傷つけいらだたせ、「わが愛する憎悪の街ヒロシマ」と呼ばせたり「広島へは行くな」と言う言葉さえきこえるようになった。
 拒絶し沈黙することによって、ますます巨大化する核競争と核危機に対する平和の願いを後退させるだけである。」(『どきゅめんとヒロシマ24年』pp.275-6)

<栗原貞子「原水禁運動の再生を求めて」(1968.12)>

「被爆者が自分の個人的な体験に固執してとじこもり、体験しない人が被爆者に対してうしろめたさや引け目を感じるという現状ではほんとうの連帯をつくり出して行くわけにはいかないであろう。」(『ヒロシマの原風景を抱いて』p.28)

<栗原貞子「ヒロシマの文化を考える」(1976.7)>

「(ヒロシマ・ナガサキは)全人類にかかわる問題でありますが、原爆投下による圧倒的な事実のため、被爆者は個人的な体験から脱け出ることが出来ないで、文化面でも原爆自閉症や原爆ローカリズム、被爆ナショナリズムがつきまとい、このため、朝鮮人被爆者や外国人被爆者の問題が表面化したのは一九六五年の頃で、欠落とたちおくれがめだっております・」(『核・天皇・被爆者』p.62)

③被爆者と非被爆者との間の微妙な関係

<栗原貞子「被爆者はなぜ沈黙するか」(1973.8)>

「「体験したものでないとわからない」と言う言葉は、最初は被爆者同士の相互理解として言われ、次に、体験を語ろうとして語り得ない自己の表現能力への絶望を意味する言葉として用いられた。
 しかし、被爆体験を自身の問題として受けとめようとする体験のない側の人たちにとって、「体験のないものにはわからない」と言う言葉は、被爆者の他者への拒絶として受けとられ、いらだちと失望を感じさせた。
 「体験したものでないとわからない」と言う言葉が、他者を拒絶した言葉であるとするならば、「体験したものはほんとうにわかっているのか」と問い返したとき、「わかっている」と自信をもって答えることのできる体験者がいるだろうか。…
 ひとりひとりの体験は極く限られた部分的な体験であって、被爆の全体は誰にもわかっていないのである。
 全体から切り離された体験のあいまいさは、いわば、大象をなでる群盲的認識とでも言うべきであろうか。」(『ヒロシマの原風景を抱いて』pp.192-3)

(留意事項)「被爆者」とひとくくりにすることも問題があるらしい様子

  • −直接被爆者、入市被爆者、救護被爆者、「黒い雨」…
  • −山代巴編『この世界の片隅で』で描かれた様々な被爆者(在日、部落、胎内被爆・小頭症、原爆孤児・孤老、沖縄)
  • −被爆二世(三世)問題

④広島市政の問題

<栗原貞子「ヒロシマの文学の回想と今日」(1987.8)>

「広島市はメッセ・コンベンショナル・シティをとなえ、権威的な国際反核会議、学術会議、国際平和マラソン大会、国際アニメーション大会、国際姉妹都市交流など、ヒロシマの国際化を強調していますが、都市の内部からの平和創造の市民のこえや運動には冷淡で、比較平和都市宣言も出しっ放しのまま、自国の政府への抗議は行なわれず、原爆資料館の展示も被害の面からのみとりあげられ、前史としてのアジア侵略の歴史は欠落したままです。平和公園の慰霊碑の上には日の丸の旗が常時ひるがえっていますが、あれは二十数年も前、右翼の新日本協議会が市へ寄贈したものです。原水禁団体などが撤去を申し入れていますが、一向にとりあげられていません。
 昨年(注:1986年)十二月に比治山に御製碑が建立されました。申請者は在位六十周年奉祝委員会です。御製というのは一九四七年にヒロヒト天皇が広島を訪問された時に詠まれた次の歌です。

ああ広島平和の鐘も鳴りはじめ
たちなおる見えてうれしかりけり

天皇の戦争責任をかくし、平和愛好のイメージをつくりあげ、旧天皇制再生へみちびこうとするものです。しかし七五年に天皇がアメリカを訪問し、帰国後日本記者クラブでの記者会見の際RCCのヒロシマ記者の秋山利彦氏が、原爆投下について質問した時、「戦争中のことで原爆投下はやむを得なかった」との天皇の回答は、今も被爆者たちから忘れられてはいませんし、戦争責任についても「私はそういう言葉のあやについては文学方面のことは勉強していませんのでお答えできかねます」とまるで政治家のような答弁をされたことも多くの人々の胸の中に刺った荊のようにうずいています。
 被爆県広島でも今年の県立高校の卒業式には県教育委員会が卒業証書の年号表記を昭和にすることを強制しました。…
 世界の中のヒロシマならば、閉鎖的で合理性のない元号使用を廃止し、西暦を用いて国際理解を容易にするのが当然だと思います。まして主権在民の憲法下、旧帝国憲法的感覚はふさわしいものではありません。
 このようにヒロシマの国際化の反面、軍都ヒロシマの思想が再生され、隣接する旧軍港都市呉でも旧海軍関係の慰霊碑が次々と建立され、海上自衛隊の施設も強化され、チームスピリットでは海上自衛隊が日米韓の合同演習に参加して地雷敷設作業を行なっていることや核艦船の常時入港など市民運動が抗議しています。
 こうした環境のなかで状況をきりひらくような積極的な文学作品も書かれておりませんし、運動の停滞が感じられるのも事実です。」(『問われるヒロシマ』pp.78-9)

<栗原貞子「黒い折り鶴 −中曽根句碑−」(1988.1)>

「広島市の権威主義、事大主義、民族差別は平和行政をゆがめ、市民から遊離し、市民が早くから要求していた非核自治体宣言も被爆都市広島は別格であるかのようにいって拒否し続け、八五年七月、二七万人の署名をつきつけられて、やっと広島県下で一七番目、全国で四三九番目に宣言をした。しかし宣言はしても、しっぱなしである。
 市長は国内の非核自治体運動には冷淡にかまえながら、一方で世界平和都市市長会議の会長として熱を入れているのも別格意識なのだろう。市長は核実験の抗議電を外国政府の首脳に打電しても、国内への核艦船の入港などに対して市民が自国の政府への抗議を要請しても何らとりあげようとしない。こういう自国の権力への追随の姿勢が軍拡路線の中曽根句碑(注:1987年11月12日早朝に双葉ライオンズクラブが平和公園の対岸東側緑地に抜き打ち着工し、夕刻工事を完了させた)を唯々として許したのであろう。」(『問われるヒロシマ』p.89)

⑤広島にも濃厚に存在する天皇・天皇制タブー

<栗原貞子「核・天皇・被爆者」(1975.8)>

「二十一年一月、天皇は神格天皇から人間天皇に転身することで戦争責任を回避した。転身した天皇は二十二年十二月五日から七日まで広島県下へ第一回の巡幸を行ったのであるが、県議会は天皇の行幸に対し感謝決議をし、楠瀬県知事は天皇の質問に対して次のように答えた。

−広島の原爆の影響についての人体の健康は、全く心配がなく、ただ植物が学問的に言えば多少影響を残している程度で、決してご心配はいりません。」
(『核・天皇・被爆者』p.46)
 (参考)1947年12月の昭和天皇の広島巡幸を迎えた市民の反応
「(1947年)十二月、天皇が西日本における労働運動の拠点の一つをゆさぶるため、三車(注:三菱重工業三原車両製作所)工場へ来ることになり、天皇の戦争責任、天皇の人間宣言の追及から、組合大会では満場一致で「会う必要なし」ときめた。ところが天皇の来る当日、…「バンザーイ」のどよめきが聞こえる。窓から見下ろすと何千という組合員が、沿道に整列し、…三百を越す細胞員(注:共産党員)まで日の丸の小旗を振って熱狂していた。彼は負けたと思った。」(山代巴文庫「占領下における反原爆の歩み」、『原爆に生きて』pp.25-6)

「(七日の)沿道は切れ目のない奉迎の列であった。わけもなくほろばしる“バンザイ”“バンザイ”という歓声が、お車を包んで、宮島街道を、潮騒のように、また遠雷のように東へ走った。」(濱井信三『原爆市長』p.117)

<栗原貞子「文学作品に見る原爆と天皇」(1989.9)>

「戦争と地続きの戦後初期の体験作家、詩人の原民喜や大田洋子、峠三吉、正田篠枝などの作品の中には、原爆の悲惨さは書かれても、国家の戦争責任とか天皇の戦争責任については言及されずに、時としてナショナリズムやいわゆる天皇の御聖断による平和に感謝さえしている部分があります。
 占領軍のマッカーサーの助言で天皇は一九四六年一月一日人間宣言をし、神格天皇としての戦争責任を免責されるという巧妙な政策によって国民は操作されると同時に、戦争中の地続きの思想状況の中で、戦争責任を論及するような加害の自覚や思想はまだ生まれていなかったのでした。」(『問われるヒロシマ』p.124)

「戦前からの作家の原民喜や大田洋子の亡きあと、六〇年代終わり頃から、被爆した動員学徒世代や低年齢の作家が体験にもとづいて書き始めました。これまで原や大田には見られなかった新しい視点が見られます。
 これまでの日清・日露の戦争の場合、国内が戦場になったことはありませんでしたが、原爆投下によってあまりにも無惨な状態で焼き殺された肉親を眼前に見たり、追跡調査をして天皇の戦争責任を問わずにはおられなかった必然急迫の作品です。(中略)
 関千枝子の『広島県立第二高女二年西組』(筑摩書房、八五・二)は、…県立第二高女の同級生のことを書いた記録ですが、作者の関千枝子は八月六日、病気のため動員を休んで自分だけが助かったことを負い目に思い、被爆したクラスメートの追跡調査をして無惨な状態で死んだクラスメートのことを記録しています。調査してみると死亡した全員が、一九六三年に動員学徒遺族会の陳情が入れられて靖国神社に合祀され、軍人軍属なみに遺族年金と弔慰金を支給されていました。…」(『問われるヒロシマ』pp.125-7)

<栗原貞子「ヒロシマと天皇とアジア −アジア競技大会を前に−」(1992.3)>

「広島市はアジア競技大会を開催するに当たって、最初になさねばならないのはアジアへの戦争責任の謝罪でなければならない。それは八・六平和式典での口頭だけの公的セレモニーではなく、具体的に見える形で行なうべきである。…日本のどこに南京虐殺の記念碑など自国の加害を反省する記念碑があるだろう。
 広島市は今も軍都広島の天皇や戦争の記念碑がいたるところで聖戦をうたい聖天子をうたっていて加害責任の意識はどこにも見られない。
 原爆資料館の展示に対して市民団体が、被爆前史としての「加害コーナーを展示せよ」と要求しているが、市は「広島は原爆の被害の街であって、加害の展示は無用である」と拒否してきた。
 広島は加害意識の欠落した被爆者意識の不思議な街である。」(『問われるヒロシマ』pp.142-3)

「一九四七年十二月七日、中国巡幸の途中、広島を訪れた天皇の奉迎台が、爆心に近い廃墟の護国神社跡に設けられた。人間天皇を迎えた五万人の市民が、戦時下と同様涙を流し熱狂したのであった。そこには天皇の戦争責任の意識などないと同時に、市民自身も軍都広島の市民としての戦争協力の加害意識もあり得なかった。今も加害意識の欠落した被爆者運動や原水禁運動が続いているのが大方の実情である。」(同上、pp.143-4)

⑥「究極的核廃絶」についての無関心

(参考)原爆ドームの世界遺産登録推薦文(1995年9月):「人類史上初めて使用された核兵器の惨禍を如実に伝えるものであり、時代を超えて核兵器の究極的廃絶と世界の恒久平和の大切さを訴え続ける人類共通の平和記念碑である。」

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