2006.04.29
*最近集中的に詩「生ましめんかな」で余りにも有名な栗原貞子の評論著作集(『ドキュメントヒロシマ24年』(1970年)、『ヒロシマの原風景を抱いて』(1975年)、『核・天皇・被爆者』(1978年)、『核時代に生きる ヒロシマ・死の中の生』(1982年)、『問われるヒロシマ』(1992年))をまとめて読みました。夫・唯一(戦前からクロポトキンの影響を受けたアナーキズム的思想を持っていたといわれる)の影響を受けた栗原の思想の全体像については、私としては必ずしもついていけない部分がありますが、60年代後半から90年代初頭にかけてヒロシマにおいて発言し続けた栗原の平和思想には見逃せない内容があると思います。以下は、私の日頃の問題意識との関連において栗原の発言を紹介する形でまとめたものです(具体的には広島市立大学での学部生対象の講義用に準備したレジュメです)が、私の思考の少なくとも一部に位置するものとして紹介させていただきます(2006年4月29日記)。
*栗原貞子の思想的位置について
**「峠三吉氏を悼む」(1954.2)
「峠さんの詩人らしい直情とひらかれた心の美しさに、思想的立場には他人だった私も、広島に生きる一人として、共通の広場を持つことが出来たけれども、ひろしまを愛し、ひろしまを生命の限りうたった峠さんは今はもはやない。峠さんの死とともに、私たちの協同のときは終り、私は私の円周を歩くことを決めた。」(『どきゅめんとヒロシマ24年』p.239)
*栗原貞子における「平和」
**「ヒロシマの文化を考える」(1976.7)
「ヒロシマ・ナガサキは決して過去の出来ごとではなく、未来の人類絶滅の様相を写し出す鏡であります。瞬間の大量虐殺、持続する放射能障害、広範な環境破壊による地域社会と人間関係の崩壊、このような原爆による根底的な破壊を経験した人間が、世界の絶望的な核状況のなかで、人類が人間として生きのびて行くために核の廃絶と永遠の平和をもとめて創造する核時代の文化こそ、現代文化の主要なテーマであります。…
これからの課題は、個人的な体験を普遍化して、核否定の思想を築き、原爆ローカリズムや被爆ナショナリズムを克服して世界の諸国民とともに、核兵器をつくり出した核文明を自然と人間に順応した文明につくりかえて行くことでなければならないと思います。
問題は、核兵器のみではなく、核兵器をつくり出した文明自体にかかわる問題だと思います。」(『核・天皇・被爆者』pp.61-2)
<栗原貞子「広島で会いましょう」(1964.7.6)>
「広島とは一体何なのだろう。人びとはどうして八月になると広島へやってくるのだろう。
広島が人びとを呼ぶからだろうか、広島は平和の聖地だから−。
ここに来て、人類終末の日を思い、慰霊碑の死者たちと静かに対話し、あらためて平和を確保するために、自他と誓うために−。
あれから二十年経った。最初の世界大会が開かれてからことしで十年目。
慰霊碑前の自他の誓いはどのようにみのり、広島は内部でどのように変革されたのであろうか。…
しかし広島のイメージはまだ定着していない。だからさまざまな混乱を生じているのではないだろうか。…
広島は世界中の人びとのイメージによってささえられてつくられる。
偏狭な広島であってはならない。」(『どきゅめんとヒロシマ24年』pp.265-8)
(イ)栗原の力強いメッセージ
<栗原貞子「人間復権のために」(1967.4)>
「私は…若い映画監督が、…ある被爆者と対談しているのをそばで聞いていました。
−原爆さえ落ちねばこんな苦しみはなかったはずです。
−それではたとえば部落民の場合、生まれてさえ来なければ、部落民として差別されることはなかった筈です。
つまり若い映画監督は、ヒロシマの悲惨は広島だけにあるのではなくて、ヒロシマこそ現代の悲惨の象徴であり、ヒロシマは世界中いたるところにある。いたるところにあるヒロシマが連帯し、奪われた人間を奪還しなくては、被爆者の問題も、人種や部落民の差別の問題も、戦争も何も解決出来ないことを言いたいのです。
けれど、広島の人たちは非被爆者まで、原爆自閉症にかかって、さしのべられた手を拒絶し、未来をひらこうとしないというのです。私には両者のいい分がわかるように思います。つまり、広島でものを書く人、編集者の役割は、被爆者の原爆自閉症を治癒させ、他者への目をひらかせると同時に、さしのべられた手と被爆者の手を結びつかせ、いわば内部と外部を結びつけ、人間復権の声をたからかにすることにあるのではないかと思います。」(『どきゅめんとヒロシマ24年』p.57 太字は筆者。以下同じ)
(ロ)三つの普遍性
<栗原貞子「ヒロシマの文化を考える」(1976.7)>
「ヒロシマ・ナガサキは決して過去の出来ごとではなく、未来の人類絶滅の様相を写し出す鏡であります。瞬間の大量虐殺、持続する放射能障害、広範な環境破壊による地域社会と人間関係の崩壊、このような原爆による根底的な破壊を経験した人間が、世界の絶望的な核状況のなかで、人類が人間として生きのびて行くために核の廃絶と永遠の平和をもとめて創造する核時代の文化こそ、現代文化の主要なテーマであります。…
これからの課題は、個人的な体験を普遍化して、核否定の思想を築き、原爆ローカリズムや被爆ナショナリズムを克服して世界の諸国民とともに、核兵器をつくり出した核文明を自然と人間に順応した文明につくりかえて行くことでなければならないと思います。
問題は、核兵器のみではなく、核兵器をつくり出した文明自体にかかわる問題だと思います。」(『核・天皇・被爆者』pp.61-2)
(ハ)原爆ローカリズム、被爆ナショナリズムの克服の重要性
<栗原貞子「原爆体験から」(1979.4)>
「広島と長崎に投下された原爆の犠牲者は日本人だけではなく、日本政府によって強制連行され、あるいは移住を余儀なくされた朝鮮人、中国人など数万のほか、ヒロシマで被爆したアジアの留学生若干名、アメリカ人捕虜二三名、長崎の捕虜収容所ではアメリカ、イギリス、オランダの捕虜四五〇名(一部死亡)が被爆し、敵味方の別なく人類最初の核の犠牲にされたことが時間の経過とともに判明した。
ビキニの水爆実験でも島民二六七名(うち四六名が死亡)、米国人科学者二八名が被爆しており、唯一の被爆国の呼称は他国の被爆者の存在を無視するものである。」(『核時代に生きる』p.127)
<栗原貞子「太平洋諸島の被爆者たち」(1980.11)>
「私は植民地支配下の太平洋諸島や沿岸諸国の先住民の核被害の深刻さと核からの解放は人間復権、独立自決以外にないとそれぞれの植民地支配を糾弾する彼らの怒りに、あつい共感を感じるとともに、彼らのはげしいパワーに圧倒されました。
高度工業社会に管理され、人間的な怒りさえ感じなくなっている日本人とは一体何なのだろうかと恥しい思いさえしました。」(『核時代に生きる』p.44)
<栗原貞子「国家の戦争責任と被爆者」(1985.1)>
「被爆者が「唯一の被爆国」という被爆ナショナリズムの放射能の特殊性を強調し、被爆朝鮮人など外国人被爆者や一般戦災者との連帯を切り離す限り、被爆者援護法は制定させることができないだろう。日本の政治家の中には保守革新を問わず、「唯一の被爆国」を強調する人が多いが、日本はけっして「唯一の被爆国」ではない。…
…「唯一の被爆国」を唱える被爆ナショナリズムでもって核時代を乗り越えることはできない。…」(『問われるヒロシマ』pp.66-7)
<栗原貞子「文学の責任 −アウシュヴィッツとヒロシマをめぐって−」(1990.11)>
「核時代に入ってますます核兵器体系は拡散すると共に原発の事故は日常的に起こり、放射能の被害者は世界中に存在し、正に人類みな被爆者となって、各被害者の国際的ネットワークがつくられ、ヒロシマは核時代の原体験として新たな実感となって生き続けることが可能なのである。」(『問われるヒロシマ』p.134)
(ニ)広島・長崎の一つの特殊性:三つの普遍性を一身に背負っていること