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九章 学問・芸術の都 top

  1 学問の都市

 京都大学の創立
 明治初年、全国にさきがけて小学校を設立した京都府は、この時期に英学校・仏学校・中学校・医学校などを続々設け、近代的教育の確立に力を注いでいることは前章でみてきた。
 学制発布以降、政府の教育制度は着々と整備されてくる。それは、政府に集約される中央集権的なものであった。
 このような中で、京都府が明治初年に設立したこれらの学校は大きく変貌する。
 仏学校はお雇い外人教師ジュリーの契約期限切れぬ一八七五(明治八)年に廃校となり、英学校・独学校はそれぞれ勧業場管轄の新英学校女紅場(じょこうば)、仮中学校に合併、存続している。
 中学校は、政府が地方立の中学を認めない方針を打ち出したため廃校の瀬戸際に立たされるのであるが、京都府はじめ市民の懸命の働きかけにより、一八七九(明治一二)年再興された。
 そして一八七七(明治一〇)年末には、府下一校だった中学校も四校にふえ、一時財政難もあり東本願寺に経営が委託されたが、明治二〇年代に入りしだいに京都の中等教育も充実してくるのである。
 このような経過の中で、京都市民の教育に対する熱意は、京都に高等学校・大学の設立を願望するようになる。


京都大学

 こうして当時の知事北垣国道はじめ官民一体となり大阪にあった大学分校の移転誘致運動が始まった。
 やがてこの運動が効を奏し京都移転が決定。
 一八八九(明治二二)年、第三高等学校と改称して京都の吉田村に移転、開校されるのである。
 移転費用一七万円あまりのうち、京都府が一〇万円を負担したということから、京都府がいかにこの誘致を積極的に行なったかわかるだろう。
 一八九四(明治二七)年、第三高等中学校は中学の字を削除して第三高等学校となる。これ以後、東の一高、西の三高と併称される時代を迎える。
一九四六(昭和二一)年、第二次世界大戦後の新学制によって廃校されるまでの半世紀の間、帝国大学への進学の予備校ではあったが、「紅燃ゆる丘の上」と三高寮歌に歌われる独特の雰囲気の中で、学問の自由を尊重する独特の気風を形成していくのである。
 この後、京都に東京帝国大学についで二番目の帝国大学創立が決定した。
 一八九七(明治三〇)年、まず、理工科大学、ついで一八九九(同三二)年法科大学、医科大学が開校している。
 一九〇六(同三九)年文科大学が開校されるに至り、京都帝国大学はその陣容を整備し、官僚養成の東京帝国大学に対して、「自重自敬、自主独立」をうたい、自由主義的校風の育成につとめたのである。
 『善の研究』で有名な西田幾多郎を擁(よう)する文科大学哲学科では西田の他にも朝永三十郎・深田康算・波多野精一・田辺元ら、日本の哲学界を代表する錚々たるメンバーが集まり、多数の優秀な学徒が集まってきた。
 その中の一人、一高からわざわざ京大へ進学した三木清は、その当時の京大を「日本文化史上における一つの壮観」であったといっている。
 三木清の後も一高からは、谷川徹三・林達夫・戸坂潤・西谷啓治ら、昭和に入ってから活躍する人々が京大に進んでいる。
 哲学科の他にも、西洋史では坂口昂、日本史では内田銀蔵、とりわけ内藤湖南・桑原隲蔵(じつぞう)・狩野直喜・羽田亨・浜田耕作らを擁する東洋史科は、パリ、北京とならび東洋学の一大メッカとして世界的に有名な存在となった。
 三高開校当時の校長折田彦市が、商都大阪より京都の方が人材育成の地、学問の地としてふさわしいと述べているが、この言葉の通り、これ以後の京都は学問の都市として大いに興隆していくのである。

 同志社
 京都には京都大学のほかにも多くの私立大学が集まり、その近辺に学生街が形成された。
 全国の都市の中にあって京都は、古社寺と大学街の点在する独特の景観をもつ都市として発達してきた。
 私学の中で、最も古い伝統を誇る同志社について次にみてみよう。
 新島襄(にいじまじょう)によって始められた同志社は、一八七五(明治八)年一一月、寺町丸太町上ルにあった新島の借屋で官許同志社英学校として呱々の声をあげた。
 大阪で開校する予定であったが、当時の大阪府知事渡辺昇はキリスト教に対して非協力の態度をとり、このためキリスト教に基づく教育を掲げる同志社の開校が難航するのである。
 このため新島は面識のあった勝海舟・木戸孝允らに相談した。
 この時、彼らから京都の山本覚馬を紹介され京都に赴いている。
 その当時の京都は前章でみたように、槇村正直を中心とする積極的な開明策が実施されていた時である。
 槇村・山本の積極的な支援をうけ、山本の所有する烏丸今出川上ルの旧薩摩屋敷を校地と定め開校に至るのである。
 開校時の教師は新島とデヴィスの二名、生徒八名というささやかな出発であった。


同志社大学

 一八七七(明治一〇)年には、同志社分校女紅場(じょこうば、翌年、同志社女学校と改称)を開校、ついで同志社神学校・同志社予備校・看護婦学校などを新たに開き、大学創立という当初の目標にむけ体制を整えていくのである。
 一八九〇(明治二二)年、新島襄は大学設立の業(ぎょう)半ばで急死した。
 新島の遺志をついだ二代社長小崎弘道、ついで枇井時雄らの努力もむなしく、大学への昇格はなかなか認められなかった。
 その間、同志社政法学校・ハリス理科学校が開校している。
 大学創立を迎えるのは、一九一二(大正元)年のことである。
 宗教教育を厳禁する政府の方針とたびたび衝突を繰り返しながらも、徳富蘇峰に「先生らしき先生」と評された新島の人柄に魅かれた青年が多数集まり、そのなかから、蘇峰はじめ浮口和氏・海老名弾正・安部磯雄ら、近代日本の思想界をリードする人材を輩出している。
 一方、京都大学初代書記官をつとめた中川小十郎は、大学は「民間に於ても之を利用し、之に拠りて私学を興し」て開かれたものとしなければはならないという信念の持主でもあった。
 そこで、中川は法科大学の教授陣を迎えて夜学の京都法政学校を鴨川ぞいの上京区東三本木の元料理屋清輝楼(せいきろう)に開いた。
 一九〇〇(明治三三)年のことである。
 学長には、京都出身で東京帝大法科大学教授富井政章、学監には中川小十郎が就任。一九〇四(明治三七)年大学部を増設した。
 中川が西園寺公望の秘書官であったことから、西園寺の私塾「立命館」の名称を一九〇五(明治三八)年譲りうけ、さらに一九一三(大正二)年大学部を立命館大学と改称、これ以後、法学を中心とする実学を伝統としてうけつぎ人材の育成につとめた。
 こうして明治三〇年代から大正にかけての時期に京都の高等教育は整備、充実した。
 そしてそれに伴ない、京都は名実ともに学問・文化の都として発展し、今日に至るのである。

  2 京都の宗教界 top

 廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動と寺院

 京都は東、西両本願寺に象徴されるように、仏教各宗派の本山のある地として江戸時代を通じて繁栄してきた都市でもある。
 明治維新直後、新政府は神仏分雛の政策をうちだし、神道の国教化を推し進めようとした。
 こうして全国いたるところで廃仏毀釈の運動が展開するのである。
 この運動のさなか現在国宝に指定されている興福寺の五重塔が五〇円で売却されかける、あるいは仏具のみならず多くの人々の信仰を集めた仏像が薪同然に燃されるという、現在では考えられないようなことが起っている。
 京都の仏教寺院も例外ではなく、様々な受難にあっている。
 とりわけ、その頃京都府政に携わっていたのが開明派の槇村正直である。
 神仏分離の波の中で旧弊打破の急先鋒となり後々まで語り草になるような施策をとった。
 ちなみに槇村のこの面での施策をあげてみると、まず宇治平等院の鳳凰堂を売りに出している。
 これは売り値二〇〇〇円という法外な値段のため、買い手かつかず、今日までその壮麗な建物が残る結果となった。
 さらに、当時の京都府は開拓に力を入れ桑・茶・楮(こうぞ)・櫨(はぜ)などを空地となった大名屋敷、公卿屋敷跡に植えることを奨励した。
 当然、広大な敷地をもつ寺院の境内にもこれが及び、多くの寺院が接収され桑畑、楮畑と化したのである。
 鳳凰堂の前にある池もこの時稲が植えられたが、泥が深く失敗に終っている。病気平癒の仏さんとして老若男女の信仰を集めていた藤森の即成院(そくじょういん)の阿弥陀如来をむりやり府庁に運ばせたり、迷信の除去を目的に、京都市中の辻々にある地蔵堂をとりこわし、地蔵会(じぞうえ)をやめさせるなどがある。
 これらの施策は単に国学者流の廃仏毀釈というよりも、むしろ開化を進める上での旧習打破であったのだが、ともあれ、このような衝撃をうけた京都の仏教界は大きく動揺するのである。
 そして、やがて仏教界内部から仏教の近代化を図る改革派が生まれてくる。

 仏教の近代化
 仏教の近代化にいち早く着手しだのは、真宗である。東、西両本願寺とも明治初年に教団の機構改革に乗り出した。
 明治の中頃には、末寺組織を改め代議制を取入れた集会制度を確立している。一方、西洋文明の摂取にも積極的に取組み、宗門の次代を担う秀才をヨーロッパ留学させ、西洋の宗教制度、キリスト教が社会に果たす役割、あるいは仏教学・インド哲学などを学ばせている。
 一八七二(明治五)年より数回にわたる派遣生の中に、近代仏教史に大きな足跡を残した島地黙雷・赤松連城・藤島了穏・菅了法・薗田宗忠ら(以上西本願寺派遣)、大谷光瑩・石川舜台・南条文雄ら(以上東本願寺派遣)がいる。
 とくに明治政府に政教分離を迫った島地黙雷についてみておこう。
 一八三八(天保九)年、周防国佐波郡の真宗学院に生まれた島地黙雷は、幕末には大洲鉄然と共に萩に改正局を設け真宗僧侶の教育ならびに洋式兵術を教授。
 明治維新直後に上洛して本山の改革に赤松連城らとあたった。
 廃仏毀釈運動が起こるや直ちに上京して政府に仏教保護を働きかけ、教部省設立に大いに尽力した。
 一八七二(明治五)年、大教院が設立されると、留学先のフランスより、政府の神道国教化政策を批判し政教分離を政府に広献している。
 帰国後も石川舜台らと共に政教分離運動を起こし、一八七五(明治八)年ついにこれを実現させた。
 一方、『復活新論』を著わしキリスト教を仏教の立場から非難し、さらに仏教の浸透を図るため白蓮(びゃくれん)社を結成し、仏教講話を行なっている。
 一八七六(明治九)年西本願寺の執行となり教団の発展に大いに尽力するのである。
 幕末、維新期における仏教復興の第一の功労者であり、明治仏教界が生んだ偉大な指導者といえるだろう。
 島地、赤松ら新進の僧侶による仏教復興の動きは、教団内部にとどまらず、当時の社会に積極的に働きかけ、間引きなどの堕胎(だたい)防止、監獄教誨(かんごくきょうかい)活動を生み、さらに開拓時代を迎える北海道への布教活動が開始されるのである。
 これら仏教関係者の社会事業の中で特に京都に関係のある事柄として宗門立の学校の創立をあげなければならない。
 各宗派はそれぞれ自派の教理研究のため宇寮を有していたが、これをそれぞれ学校に改組している。
 東本願寺は真宗大学(後、大谷大学)、西本願寺は大教校(後、竜谷大学)、知恩院は仏教専門学校(後、仏教大学)、臨済宗は臨済宗大学(後、花園大学)、真言宗は真言宗京都専門学校(後、種智院大学)などが創設された。
 のち、これらは大学になり、京都が学問の都市として発展するのに大きく寄与するのである。
 しかも宗門立の学校はこれにとどまらず、一般市民のために中学校や女学校を創立し、京都の教育の充実に力を注ぐのである。
 こうして、仏教界全体が近代的社会の進展にあわせ再生していく中で、幕末の戦火で焼失した寺院の再建が進む。禁門の変で灰燼(かいじん)に帰(き)した東本願寺では、十数年の歳月をかけ、一八九五(明治二八)年、現在の建物を再建している。
 とりわけ、皇室とゆかりの深い寺院・門跡寺院は東京遷都に伴い一時荒廃したが、一八七六(明治九)年、これらの寺院(仁和寺・妙法院・聖護院・青蓮院・宝鏡寺・曇華院・泉涌寺等)に援助金を政府が出し復興を助けている。
 明治三〇年代に入ると、東本願寺の清沢満之が新しい仏教を求める運動を起した。
 これに対して古河勇・境野黄洋・高島米峰らの仏教清徒同志会が新仏教運動で対抗する。
 一方、東本願寺の僧であった伊藤証信は脱宗して無我愛運動を始める。
 さらに、九〇五(明治二八)年、西田天萍が一灯園を興し、絶対平等・無一物・無所有の共同生活を提唱するなど、仏教界にも新しい波が押し寄せるのである。
 さらに、東本願寺では、一九〇二(明治三五)年、大谷光瑞を中心に中央アジア探検隊を派遣。
 一行が持ち帰った仏典・古経籍はじめ諸資料は、仏教研究のみならず、中央アジア史研究の上で資するところ大であった。
 西本願寺の普通教校の学生有志を中心に一八八七(明治二〇)年創刊された『反省会雑誌』もこの頃にはすでに禁酒や仏教界の革新を論ずる宗教雑誌から総合雑誌にかわり、東京に移転した翌々年の一九〇一(明治三四)年には『中央公論』と改称し、大正・昭和を通してオピニオン・リーダーの役割を果すまでに成長した。
 明治に入りキリスト教が解禁されると共にキリスト教の布教活動にもめざましいものがあった。
京都におけるキリスト教伝道の中心となったのは、新島襄と彼が創立した同志社であり、一八七六(明治九)年にはすでに上京に三つの教会が建てられている。
 また、幕末に興った黒住教・天理教・金光教などの新興宗教も明治初年にはすでに京都に入ってきたが、本格的な布教活動が展開されるのは明治中頃からのことである。

 神道界の動向
 正月に幾万人の初詣客を集め賑わう京都の神社の明治維新後の変遷を次にみてみよう。
 一八六八(慶応四)年、王政復古の令を発し、「祭政一致の制に復し、天下の諸神社を神祇官に所属せしむる……」と神道の国教化を推進する明治政府は、まず神社に属する僧侶の還俗令を出すと共に、既存の神社の社格づけを行なった。
 一八六八(慶応四)年、いち早く神祇官勅祭社、同直支配礼、同準勅祭社の三つにわけられ、一八七一(明治四)年に至り、官国幣社の制度を定めて全国にある神社のことごとくが整理されたのである。
 この時、京都の神社の中で最高位の官幣大社(かんぺいたいしゃ)に指定されたのは上賀茂・下鴨・男山八幡・松尾・平野・稲荷の六社である。
 さらに官幣中社には八坂・梅宮・貴船・大原野・吉田・白峯・北野各社が指定されている。
 こうして明治政府は、神社の格付けをする一方、神官の世襲制を廃止し任命制を実施して全神社を掌握した。
 のち、政府の方針も政教分離に変り神道の国教化こそ図られなかったが、天皇制の確立に伴い神道は政府の手厚い保護の下で発展するのである。
 とくに、幕末尊王攘夷運動の舞台となった京都では、非業の死を遂げた志しを祀る京都招魂社が明治政府の手で一八七〇(明治三)年すでに創立が決められた。
 京都招魂社の建立地に選ばれた東山霊山は、江戸時代末期につくられた霊明神社を中心に志士の多くが埋葬されるゆかりの地である。
 ここには、ペリー来航以降の「唱義精忠天下ニ魁シテ国事ニ斃ル諸士及草奔有志ノ輩」五〇〇余柱が祀られている。
 一八六九(明治二)年には東京にも招魂社(しょうこんしゃ、後、靖国神社と改称)が創立され合祀されたが、京都招魂社は、政府の保護をうけ、また民間人の手によって養正社が結成され維持存続された。
 そのほか明治に入って新しく創立された神社に崇徳・淳仁天皇を祭神とする白峯宮、豊臣秀吉を祀る豊国神社、織田信長を祀る建勲神社、さらに三条実美を祀る梨木神社などが創建されている。
 これらはいずれも明治政府が皇室崇敬の念を国民の中に起こすために創られたものといえるだろう。

 それらの中に、一八九五(明治二八)年、桓武天皇の平安遷都一一〇〇年を記念して造営された平安神宮がある。
 平安神宮が工事に着工したのは一八九三(明治二六)年。
 ちょうど京都では疏水が完成し、東京遷都という痛手から立ち直った頃である。
 そして二年あまりの歳月をかけて完成した平安神宮が市民の前に公開された年には、第四回内国勧業博覧会が岡崎公園で開かれた時でもある。
 博覧会見物に疲れた人々の憩いの場として平安神宮の朱塗りの建物、小川治兵衛作庭の池泉を配した廻遊式庭園が心なごませたことであろう。


平安神宮大極殿

 当時の歌人、大和田建樹は、「殿(大極殿をさす:筆者)の高さ五十五尺。左右に廊あり之を歩して二縷に到るべし。其東なるを蒼龍樓と名づけ、西なるを白虎樓と名づく。さはいへど其雅致壮麗なる。覚えず人をして畏敬の情に堪へざらした。……」と、完成直後の平安神宮をいう。
 一一三万人もの入場者を集めたこの博覧会こそ、京都が旧都として衰退したのではなく、近代的都市として新しく生まれ変ったことを全国的に宣伝する場であった。
 だからこそ「曰く博覧会見物。曰く京都の花見。書生は試験後の休暇を利用して行き。田舎者は本山の開帳を口実として行き。官吏行き。商人行き。紳士行き。淑女行き。新聞記者行き。画師詩人行き。天下の人心今や挙って東海道を西へ西へと向ふ。」と謳われたほど、多くの人々を全国から集めた。
 ここには昔も今もかわらぬ観光都市京都の姿があるといえよう。
 桓武天皇(のち孝明天皇を加える)を祭神とする平安神宮で一〇月二二日に行なわれる私祭が時代祭である。
 平安時代に始まった葵祭、室町期に起こった祇園祭、そしてこの時代祭を加えて京都の三大祭が多くの人々を集め今日の京都の繁栄をもたらしている。

  3 美の世界

 京都画壇

 長い伝統を有する京都画壇は、幕末、明治のはじめ頃には四派に分かれ、京都の美しく変化する自然と調和する画風――岡倉天心はこの京都派を評して「微妙なる自然主義」という――を築いていた。
 四派というのは次の四つの流派をさす。まず室町期よりおこり近世に至り盛名を駆せた狩野派、円山応挙に発する円山派、松村呉春に発する四条派、それに多くの文人墨客に愛好された南画の系統である。
 これらの流派は、それぞれの画壇を開きながら発達してきたのである。
 一八七三(明治六)年、第二回博覧会で設けられた席上揮毫では、この四派が一堂に会し広く市民の好評を博している。
 とはいえ、明治の美術界をふりかえり、岡倉天心がいうように「美術界に於ける発達はしかし顕著ならず。其の進歩頗る緩漫」であり、目立った動きはみられなかった。
 さらに続けて岡倉天心はいう。
 「新様式を構造するの徴候は、明治二十年前後に至りて始めて顕はれたるに似たり。
 東京に橋本雅邦、川端玉章、狩野芳酷凾出し、京都に岸竹堂、幸野梅嶺の頭角を出廿るを見る。」
 確かに狩野派の流れを汲む岸竹堂と四条派の塩川文酳門の幸野梅嶺の存在は京都画壇の近代に入ってからの歩みの上で大きかった。
 とりわけ、京都府画学校創設を働きかけた幸野梅嶺であるが、彼の門下から後の京都画壇を代表する多くの画家を輩出している。
 ところで、京都において最初の画学校となった京都府画学校の設立経過をみてみよう。
 一六七八(明治一一)年、まず南画を代表する大家田能村直入が設立の建議書を京都府に提出している。
 ついで翌年、四派を代表するかのように望月玉泉(狩野派)、幸野海嶺(四条派)、久保田米僊(円山派)、巨勢小石(南川)の四名が府に設立の建議書を出し、ようやく創立の運びとなったものである。
 このような経過から設立された画学校には、東宗(円山、四条派)、西宗(洋画)、南宗(南画)、北宗(狩野派)とそれぞれの派を代表する科が設けられている。
 最初は、京都御苑内旧准后里(じゅごうり)御殿があてられたが、一八八二(明治一五)年、織殿跡、その後、御苑内、知恩院、吉田上阿達(かみあだち)町と移転し、明治末、今熊野の地に移った。
 その間、名袮も京都市画学校、京都市美術工芸学校と変わり、一九〇九(明治四二)年、絵画専門学校が新たに設立され、教師に竹内栖鳳(せいほう)、菊池芳文、山元春挙らを迎え、日本画教育において比類ない伝統を以後うちたてるのである。
 明治・大正・昭和の三代にわたって京都の日本画を代表する画家として有名な竹内栖鳳が活躍しだすのもこの時期からのことである。
 栖鳳が生まれたのは、京都の街を焼け野原にした禁門の変が起った一八六四(元治元)年である。
 生家は二条城の南、御池通油小路西人ルの「亀政」という川魚の料理屋。亀政の長男として生まれた栖鳳は当然料理屋を継ぐ身であったが、早くより画才を示し、最初四条派の土田英林につき絵の手ほどきを受け、一八八一(明治四)年、幸野梅嶺に入門している。
梅嶺門下の中で頭角を現わし、フェノロサ、岡倉天心の入洛によってもたらされた新風の感化のもと一八八八(明治二一)年、同門の谷口香嶠(かきょう)ら青年画家を集め煥美(かんび)協会を結成し、東京の『絵画叢誌』に対抗する『美術叢誌』を刊行し、ついで、一八九一(明治二四)年、香嶋、三宅呉暁らと共に各派の新進画家を集めた百年作家倶楽部をつくり、京都青年絵画共進会を開くにまで至る。
 もうこの時期には京都画壇の新しい世代を代表する作家として、「猫児負喧」、「秋山暮霊」、「廃園春色」等の名画を制作している。
 後、渡欧を機に洋画への関心も深め、従来の日本画にみられた写生による自然描写がともすれば陷りがちな類型化、形骸化の弊害の克服につとめ、新しい様式を日本画の長い伝統の上に築き、日本画の改良に努めたのである。
 一方、栖鳳は絵画専門学校および自分が主宰する画塾竹杖会で弟子の指導につとめ、彼の門人の中から今日の日本画を代表する作家を生み出している。
 竹杖会の門人には、西山翠嶂・西村五雲・上村松園・上田麦僊・小野竹喬・徳岡神泉ら、専門学校で村上華岳・鰰原紫峰・福田平八郎・堂本印象らがいる
 栖鳳の歩みそのものが近代における京都画壇の歴史であるといえるだろう。
 さて大正期に入ると、栖鳳門下の土田麦倦・村上華岳・小野竹喬らが国画創作協会を結成し、従来の京都画壇にみられなかった「明確な理念と、新しい感覚」による日本画の追求が行なわれている。
 発会の際出された宣言書はいう。
 「生ルルモノハ芸術ナリ。機構ニ由ッテ成ルニアラズ。此レ霊性ノ奥ニ深メテ人間ノ真実ヲ発揮シ、此レヲ感覚ノ彩ニ潜メテ生命ノ流動ニ透徹ス」と。
 この宜言文からも、国画創作協会に集まった新進画家の意気ごみがうかがえるだろう。
 実際、この会に集まった麦僊・華岳・竹橋・榊原紫峰らはこの時期に彼らの代表作ともいうべき大作を制作し、それ以後の日本画の隆盛の基を築いたのである。

 百工技芸の展開
 京都の工芸界に新しい波が押しよせるのは、明治二〇年代に入ってからである。
 それまでは、明治初年以来の京都府を中心に殖産興業のための近代的技術の習得が優先していた。
 織殿・染殿の設置に端を発し、明治二〇年代に設立された京都染習講習所、京都市立陶磁器試験所、あるいは友禅図案会、京都漆工会等は、新しく入ってきたヨーロッパの進んだ技術の教育・研究のためのものであり、京都がそれらの導入に積極的であったのは、西陣織、京焼をはじめとする伝統産業の技術革新を目的としたからである。
 このような状況の中で、本阿弥光悦あるいは尾形光琳らが多くの名品を生み出し独自の工芸の世界を築いた伝統は、京都市美術学校に図案科および漆工科を設立するに至り、工芸界にも新しい動きが芽ばえる。
 そして一九〇二(明治三五)年、中沢岩太・浅井忠・鶴巻鶴一らの新しい指導者を迎え、京都高等工芸学校が開かれるに及び、京都の工芸界にも新しい動きが起こるのである。
 まず翌年には、図案家と陶芸家の交流を図るための遊陶園が結成され、ついで漆芸の京漆園、染織では道楽園の結成をみている。
 定期的に作品の展示会を行ない、作品研究を通して芸術的向上を行なっている。
 こうして、一九一二(大正二)年に開かれた農商務省主催の展覧会(農展)を一つの画期として京都の工芸界は発展していき、一九一九(大正八)年、赤土社の結成をみている。
 これはちょうど、日本画で若手新進作家が旧来の方式にあきたらず国画創作協会を結成した時と期を同じくする。
 集まったメンバーは、楠部弥弌・河合卯之助・八木一艸ら陶磁器試験揚を出た新進の陶芸家たちであった。
 大正末年頃まで赤土社の活動が続き、その後衰退しているが、自然の美の深奥を各自の愛をもって探求し、永遠に滅びざる美を陶器なる芸術に依って表現せんとす」という主張をかかげて芸術運動を起こした意義は大きいといえるだろう。
 京都の洋画界は、一九〇二(明治三五)年浅井忠が、京都高等工芸学校教員として入洛した時から急速に興隆する。
 明治美術会を結成して日本の洋画の発達に先鞭をつけた浅井が二年あまりのフランス留学を終えて帰国した直後のことである。
 京都にやって来た浅井は早速、聖護院洋画研究所を自邸内に設立し、日本画中心の京都画壇に不遇をかこっていた洋画家の指導にあたっている。
 浅井の門から、近代日本の洋画家を代表する石井柏亭・府原龍三郎・安井曽太郎らが出ている。
 日本画の竹内栖鳳・洋画の浅井忠、この二人によって、京都における美術・工芸は一段と飛躍したといえるだろう。

十章 古都の明暗 top

  1 社会運動の展開

 日露戦争と京都

 一九〇五(明治三八)年二月一〇日、日露戦争が起こるや、京都でも続々出征兵士を送り出した。
 その数をみると、応召者二万三〇〇〇人、従軍者二万刀五〇〇〇人、そして戦没者一八一四人となっている。
 山城各郡出身者は大阪の第四師団に属し、金州、南山の会戦、さらに転戦して奉天の会戦に従軍している。
 戦時下の京都市民の生活は他の地方同様、増税につぐ増税で楽なものでけなかった。
 とくに、一家の大黒柱を戦争で奪われた遺族の生活は悲惨をきわめ、このため京都市では、開戦半年後に軍人遺家族、貪困家庭を対象に戸別税の免除を行っている。
 数年前には、関西貿易合資会社が倒産したため債権銀行であった京都商工銀行、鴨東銀行等で取付け騒ぎが起こるという窮状に陥った京都の経済界である。不況の回復もみないまま開戦を迎えた経済界がこうむった打撃も大きく、菓子製造、京大形などの軍需産業に関連のない部門では著しく生産高が減少し、そこで働く人々の生活を圧迫している。
 さらに政府は戦費の調達のため地方財政賞の支出を極力きりつめさせる方針をとり、このため京都府では緊縮財政を行なわざるを得なくなり、市民の生活環境の向上をはかる施策は繰り延べることで窮地の打開を行なっている。
 国民生活に多大の犠牲を求めた戦争が終結すると、市内各地で戦勝祝賀会、提灯行列が行なわれている。
 一方、その講和条約をめぐり大国民運動か東京を中心に起こった。
 日比谷焼打事件といわれる一大騒擾事件である。
 この動きは、横浜・大阪・名古屋・神戸等の主要都市に相ついで波及した。
 京都でも一九〇五(明治三八)年九月六日、京都市会大成会派議員の発起で日露戦争講和反対府民大会が一万二〇〇〇人の参会者を集め、岡崎博覧会館で開かれている。
 しかし京都での動きは、「甚タシキ過激ノ言動ヲ為スニ至ラズ、是レ其主本者アリテ太シク煽動セシニアラズ、一時発起者ノ名ヲ以テ集合セシニ止マレリ」(明三八・九、京都府日露時局記事)という状態にとどまり、おおむね「其ノ後(会の中止解散後:筆者)二三不良ノ徒其間ニ交ワリ公園内ニ集マリ多少ノ濫行ヲ為セシ者アリシモ亦事ヲ発スルニ至ラス、本府ニ於テ先ツ平穏ニ経過セリ」(同前)

 大正デモクラシー運動
 年号が明治から大正へと変わる頃より盛んになった護憲運動の影響をうけ、京都でも京都立憲青年会が結成され、デモクラシーを要求する大衆的政治運動が展開している。
 いわゆる第一次護憲運動と呼ばれる運動が起ったのは、一九一二(大正元)年一二月、陸軍の二個師団増設要求を拒否した西園寺内閣に対して、陸軍側か陸相上原勇作を辞任させて倒壊させ、長州閥の桂太郎に組閣を命じたことに端を発する。
 この時、当時の第一党であった政友会は党をあげて、閥族の横暴を非難し、直ちに憲政擁護大会を開いた。
 「憲政擁護、開放打破」をスローガンとするこの運動に、日露戦争講和条約反対運動以来、政治意識にめざめた民衆が加わり、全国的に激化していくのである。
 京都での運動の開始は、東京、大阪よりもややおくれ、翌年二月になってからのことである。
 政友会、国民党の青年党員を中心にまず、木津町、向日町等の府下で演説会が始まった。やがて両党の青年党員が提携して、「立憲政治の済美に努力し府市行政の革新を企図」することを目的とする京都立憲百年会を結成するに至り、京都における護憲運動は最高潮に達する。
 京都立憲青年会は、一九○三(大正二)年二月一七日、市内三条柳馬場の青年会館で発会式を開いた。
 このとき集まった一万あまりの群集は、会場が混乱するに及び演説会を中止になるや、口々に 「円山へ!円山へ」と叫びながら幾隊にも分かれ市中行進を始め、この間、官僚派と目された日出(ひので)新聞社、報知新聞社支局、中央倶楽部代議士安信三郎、無所賦代議士浜岡光哲宅を取りまき、各所で警備の警察官と市街戦さながらの小ぜりあいを繰り返している。
 この日の衝突で多数の負傷者を出し、また逮捕者も一〇〇名近くにのぼっている。
 翌一八日になってもこの騒ぎはおさまらなかった。この民衆の高揚に動揺した京都立憲青年会では、当初予定していた演説会を中止したにもかかわらず、前日同様、何千人という市民が円山公園に集まり、市中行進の途次、前夜同様、官僚派と目さられる各所を襲撃し護憲ののろしをあげたのである。
 ところが一月二〇日、政友会を与党として山本権兵衛内閣が成立するに及び、運動は急速に退潮していった。
 何百人という負傷者、ならびに逮捕者を出した民衆には政友会をはじめとする政党のこの妥協を前にして得るところがなかっただけに無力感に襲われただろうが、それ以上に、政治的権利意識を明確に持つ契機となった。
 この時期の京都では、一九一二(明治四五)年七月三〇日崩御した明治天皇の大葬、ならびに大正天皇の即位礼が市民の間で大きな話題となっている。
 明治天皇の御陵を紀伊郡堀内村(現伏見区)とすることが決定すると同時に、明治維新以後さびれた地元の伏見町はにわかに活況を取戻した。
 東京での大葬挙行後、一九一二(大正二)年九月一四目霊柩列車を出迎える京都府民は弔旗をかかげ高台寺の号砲を合図に遥拝(きょうはい)をしたのである。
 一方、大正天皇の即位礼は、一九一五(大正四)年一一月一〇日、京都御所紫宸殿でとり行なわれ、これを記念する各種催し物――京北鉄道の建設、ホテル拡充、記念公会堂など――を計画して京都の新たな発展を期したのである。
 この時、大典記念の博覧会の建設用地として下鴨を買収した京都府では、後、三井家の寄付を得て大典記念植物園(現京都府立植物園)を建設、一九二四(大正一三)年開園した。

 友愛会京都支部の結成
 「友誼的共済的又は研究的団体」として、一九一二(大正元)年八月に鈴木文治によって結成された友愛会も、結成四年目の一九一六(大正五)年には会員二二〇〇人、支部八二を有するまでに成長していた。
 結成当初は、労働者の地位向上のため労働者自身の修養を重んずる色あいが強かったが、もうこの頃には、積極的に労働条件の維持改善のための闘争を始めた。
 京都でこの友愛会の支部が最初に結成されたのは舞鶴工廠であり、一九一五(大正四)年一月のことである。
 京都市内での支部結成は、一九一七(大正六)年二月である。
 舞鶴工廠の活動が最も華々しく行なわれた時期でもある。支部結成を行なっだのは、市内でも有数の近代的工場をもつ奥村電機株式会社の労働者一五二名である。
 これにつづいて京都日出新聞社に七分会が結成された。
 そして同年五月一五日、奥村電機の支部を中心に鈴木文治を迎えて友愛会の京都支部が結成された。
 この時、ただ一人参加していた京都帝大の学生高山義三が初代支部長に選ばれている。
 その他の役員には奥村電機の熟練工布施弥吉、松田一登らが選出された。
 学生である高山を支部長に選ぶというのは唐突な感じがするが、この時すでに高山義三は、京大学生の政談演説事件を通して民主主義の活動家として友愛会会員に知られていた。
 京大学生の政談演説事件というのは、一九一七(大正六)年三月、時の内閣寺内内閣の非立憲性を弾劾して立憲思想の普及を図るため、高山はじめ古府春彦・田万清臣・津田元一・阪田正行の五名の弁論部員が綾部を中心に政談演説会を開き、処分問題に発展した事件をいう。
 大学当局は、学生の演説を取り締まる文部省の方針にそって早速演説会の中止を命じ、さらに彼らを無期停学処分に付した。
 これに対して法科の教授であった河上肇・佐々木惣一・田島錦治・河田嗣郎らの進歩的民主主義者は、一九二二(大正二)年の沢柳事件を通して獲得した大学の自治・学問の自由の侵害として当局と対立。
 このため処分は訓誡(くんかい)にとどまったのである。高山が支部長に選ばれたのはこの直後のことであった。
 ところで高山義三であるが、明治初期の京都の発展に大いに寄与した中村栄助の三男として一八九二(明治二五)年生まれた。
 五高時代より社会運動に関心をもち、一時は学業を捨て救世軍の社会事業活動に飛びこむことを考えほどであった。
 京大卒業後は、友愛会支部長として京都の労働運動を指導し、第二次世界大戦後、初の革新市長として京都市政に携っている。
 これについては次章でみることにする。
 結成後の友愛会京都支部は、機関誌『労働及産業』の配布のほか京大教授はじめ進歩的知識人を講師に招き、月一回例会を開き、漸次市内の会員をふやし、翌年一月には西陣支部が京都支部から独立している。

 京都における米騒動
 一九一八(大正七)年七月二三日、富山の漁師の妻たちが米価高騰に反対して起した米騒動は、またたくまに各地に拡がった。
 これは、政府のシベリア出兵決定で始まった米商人の投機により、米の値段がわずか半年ばかりの間に一挙に一・五倍以上に高騰したことに端を発する。
 京都でも、その年の一月には一升一五銭であったものが、八月以降四○銭からどんどん値上がりしついに五三銭にまで高騰している。
 そして、富山での騒動を報道する新聞までが、「どうしても米屋があるから米が高いのかもしれぬ、寧ろ米屋を叩きつぶそうかしらん。米屋を叩きつぶしたら百姓が米をもてあますから安く売るに相違ない」(『日出新聞』大正七年八月九日付)と、騒ぎを煽動する仕末であった。
 このため日出新聞は新聞紙法違反に問われ罰金を払わされている。
 京都で騒動が起こたのは八月一〇日、市内の東七条の住民を中心に下京一帯の米屋三二戸が襲われている。
 翌日になると、この騒ぎは、田中・鹿ヶ谷・東三条・西三条および西陣地区に拡がり、市内各所で買いだめし、売り措しみをする米屋が襲われた。
 これに対して京都府では直ちに軍隊派遣を要請し、軍隊の出動をもって騒ぎをおさめる一方、市内の富豪有力者を集めて窮民救済団を組織、また外米の安売りを行なった。
 この騒動で翌月には寺内内閣が倒閣、平民宰相といわれた原敬(はらたかし)内閣が組閣されるに及び、この騒ぎは収まった。
 この時、騒動で立上った民衆の中に、「はっきりとデモクラシーを叫ぶようになった。青年の問でも労働開題が一つの流行のように取上げられた。
 今まで陰にかくれていたものが、急に表面に顔を出し始めた(朝山善之助「差別と闘いつづけて」より)のである。
 これ以後、京都でも、社会運動が活発にくりひろげられる時期に入る。

 労学会の結成
 一方、高山義三らより一つ下の世代の学生たちは、ロシア革命、米騒動という情勢に敏感に反応し、社会への関心を高めた。
 そして一九一八(大正七)年一〇月、京大、東大両弁論部連合大演説会を契機に、友愛会の理論的支柱をつくるため高山義三らが、後輩にあたる水谷長三郎・松方三郎・小林琿次ら京大法科生を中心とする労学会を結成させた。
 労学会結成におくれること二ヵ月後、東大生を中心に吉野作造を指導者とする新人会が、右翼国粋団体の浪人会との立会演説会をきっかけに結成された。
 新人会がセッルメント活動を通して社会に積極的に進出して華々しく活動したのに反して、労学会の活動は、結成当初こそ友愛会神戸連合会の演説会に参加する等のめざましいものもあったが、京大内の社会問題研究会の域を出なかった。
 労学会の理論的指導にあだったのは、当時京大法科の教授をしていた河上肇である。
 この時の河上はすでに前年に『貧乏物語』を刊行し、社会的貧困に深い関心を寄せていたが、『社会問題研究』の刊行にとりかかった時期だけに目立った動きはみられなかった。

 米騒動前後の労働争議
 米騒動(一九一八=大正七年)を前後する時期の京都における労働争議は、友愛会京都支部の結成とあいまってしだいに活発になってきた。
 このため京都府では、一九一九(大正八)年一月、労働需給調査会を設置している。
 この調査会は労使間の紛争が生じたさい、「斡旋和解」につとめ、「過渡期に於ける生産組織の危険を防止」するためのものであった。
 また資本家側は警察署管内を単位にに業会を結成し、労使の協調を説き労働者の慰安・懐柔(かいじゅう)につとめる施策を行なっている。
 このような状況の中でいち早く友愛会支部を結成した奥村電機株式会社の労働争議が起こるのである。
 この争議は単に一企業の争議というよりも、むしろこの時期の京都の労使対立を端的に物語るものであると共に、京都の労働運動史上、一時代を画する争議でもあった。
 一八八五(明治一八)年に創業された奥村電機は、大正年代に入ると京都きっての近代的施設をもつ工場とされるまでに成長していた。
 しかしその経営体質は古く、職工たちを人間扱いしない経営者の姿勢が職工の不満をかっていた。
 一九一九(大正八)年四月、一人の職工が夜学通学の許可を会社に求めたことをきっかけに紛争が始まった。
 友愛会の高山会長のとりなしでこの時は一応収拾したのであるが、同年七月、再び労資間で賃金をめぐり紛糾したのである。
 この時も友愛会が職工たちに同盟罷業(ストライキ)を一時差控えることを承認させ仲介に入った。
 最初は慎重な態度をとっていた友愛会も、同年八月四日、鈴木会長の入洛をきっかけに会社と交渉に入った。
 友愛会を労働組合として認めない会社側の強硬な態度もあり、交渉は決裂、一一日、友愛会は早速罷業宣言を行ない六五〇名あまりがこれに参加した。
 ところが、同盟罷業に入った当日の深更、高山会長と親交があり鈴木文治とは東大の同期生であった藤沼府警察部長が両者の仲介に入り、交渉再開が決まったのである。
 その後幾多の交渉をへて一応争議は収拾された。この争議を指導した友愛会では、この争議の主導力をめぐり高山会長と下山天心主事の間に確執があり、争議終結直後、高山会長は入営を口実に会長職を辞任して京都を去った。
 この後しばらくの間、友愛会は組織的に壊滅に近い状態のまま混迷の時代を迎えるのである。

 水平社の結成
 民本主義が叫ばれ、大正デモクラシー運動が華々しく展開される時期、京都でも他の地方同様、労働者、学生の中から新しいものを求める運動が一斉に芽ぶいた。
 この中に、京都での米騒動で一番戦闘的に立上った被差別部落民もいる。長い年月、いわれなき差別で苦しんできた人々だ。
 米騒動でめざめた青年層を中心に、従来の「同情的差別撤廃」を進める融和運動を排し、「部落民の自発的運動」を求める声が急速に高まってくる。
 そしてこうした動きの中で、阪本清一郎・西光万吉・駒井喜作らによる水平社設立をみるのである。
  一九二二(大正一一)年三月三日、京都の岡崎公会堂で全国水平社の全国大会が開かれた。
  部落解放運動史上、一時代を画するこの歴史的大会には、奈良、大阪はじめとする各地方より二〇〇〇人に及ぶ参加者をみ、京都の南梅吉を議長に選出して創立大会にふさわしい熱気にあふれた議論がくりひろげられ、綱領、宣言、決議が採択された。
 その時に決議された内容は、あらゆる差別に対して徹底的糾弾をもって闘う、東西両本願寺の態度いかんにより機宜の行動を起こすという二点であった。
 そして南梅吉を初代委員長に選び盛会のなか閉会している。
 これ以後、各地で続々水平社の支部が結成されたが、京都でも松浦清重・朝田善之助らを中心に、設立大会の翌月に田中支部が京都府連合会とあわせて設立されている。
 その後、いくたの苦難の道をたどりながらも水平運動は進められ、第二次世界大戦後は部落解放同盟が水平社の伝統をうけつぎ、部落解放運動をになっている。

  2 新しい文化の興隆 top

 新聞

 明治の初めに京都で刊行された新聞には、『京都新聞』(明冶五年、西京新闘社)、『京都日日新聞』(明治一一年、活版所雄文常)、『京都商事迅報』(同年、後、『京都新報』、『京都滋賀新報』、『中外電報』と改称)、『日出新聞』(明治一八年、明治三〇年、『京都日出新聞』と改称)がある。
 これらは政論中心のいわゆる「大新聞」と称せられたものである。
 広く一般庶民を対象に世事逸話、芸能界の話題を提供するいわゆる「小新聞」には、『西京新聞』(明治一〇年)、『西京絵入新聞』(明治一三年)などがあった。
 近代が進むにつれ、新しい都市市民層が形成され新聞購読者層が拡がる。それに伴い、『朝日新聞』『毎日新聞』などの全国紙が浸透してくるのであるが、京都ではそれらに並んで『日出新聞』が地の利を活かした報道活動を行ない着実に読者層をふやしながら京都を代表する地方新聞に成長していく。
 第二次世界大戦時下の一九四二「昭和」古年、一県一紙の政府の方針により『日出新聞』は、『京都日日新聞』(大正九年、夕刊紙として新しく刊行)と合併して『京都新聞』と改称された。

 映画
 一八九七(明治三〇)年、日本で初めて映画が紹介されているが、同じ時期、京都では稲畑勝太郎がフランスから映写道具一切を持ち帰り知名人を招いて試写会を開いている。この時は電源がとび不首尾に終ったという。これ以後、映画興行に乗り出した稲畑ではあるが、失敗の連続でいや気がさし、一切の権利を横川永之助に委譲して映画から手を引いてしまった。
 パリ博覧会に京都府出品委員としてフランスに派遣された纈甲水之助は、その時映写道具一式を持ち帰り、横田商会を興して独自に映画興行を行なっていた。この頃の映画は専ら輸入フィルム物ばかりであった。しかも日露戦争の戦勝ムードに湧く市民に戦記物、日露戦争を扱った記録映画が好評を呼び、順調に発展、明治末年には京都でも活動写真(この頃、映画はこう呼ばれていた)の常設館が続々と生まれ出すのである。
 南北の電気館、日本館、西陣館、新京極電気館など。
 こうして映画が市民の娯楽となるに伴い、輸入フィルムだけでは間に合わなくなり、やがて日本でも映画製作が牧野省三によって開始される。
 牧野省三は、一八七八(明治一一)年、丹波山国村に生まれている。
 父は維新のさい山国隊の隊長をつとめた藤野斉であり、母方の左官業を営む牧野家の養子となり、その頃は西陣千本座の狂言方をつとめ、秘かに映画製作に情熱を燃やしていた。
 纈田永之助の依頼をうけた牧野は、一九〇七(明治四○)年、早速千本座の役者を使い「本能寺合戦」を撮り、ついで、「菅原伝授手習鑑(かがみ)」「児島高徳誉(ほまれ)の桜」など歌舞伎で大当りをとった題目のものを撮影したのである。
 その頃、尾上松之助を見出した牧野は、松之助を主演男優として動きに富んだ演出による「チャンバラ」映画を撮り「目玉の松ちゃん」こと松之助を一躍人気スターにした。
 一九一二(大正元)年、横川らによって日本活動写真株式会社(日活)がつくられた。
 ついで白井松次郎・大谷竹次郎兄弟によって開かれた松竹合名社も映画製作に乗り出した。
 関東大震災後、日活は一時撮影所を東京向島より京都の大将軍に移した。松竹は下鴨に撮影所を設けていた。さらに日活より独立した牧野は、一九二三(大正一二)年、マキノ映画製作所をおこし、等持院に撮影所をおいた。
 こうして京都に各製作会社の撮影所が集まり、映画のメッカとなり、いわゆる「東洋のハリウッド」と呼ばれ、阪東妻三郎・大河内伝次郎・嵐寛十郎・林長次郎(のちの長谷川一夫)ら、数多くの名優を生みだした。
 こうして映画は、大正・昭和を通して市民の娯楽として広く楽しまれ、映画館が集中する新京極は明治時代にまして賑わい、京都一の繁華街として発展する。
 カフェーが京都に新登場するのもこの頃である。
 コーヒー、軽食を中心とするカフェーは手頃な憩いと談話の場所として学生の間で人気を博し、急速に普及したのも、多数の大学を有する京都ならではのことであったといえよう。

  3 戦争への道 top

 金融恐慌の波及

 昭和と改元されてまだ七〇日あまりしか経っていない一九一七(昭和二)年二月七日、京都では府下の峰山町を中心に北丹後地方で大地震が起った。
 この時の地震のすさまじさは、死者三九五九人、家屋の全壊または全焼六一五五戸という数字からもわかるであろう。
 さらに続いて、この八日後の三月一四日、若槻(わかつき)礼次郎内閣の大蔵大臣をつとめる片岡直温(なおはる)の失言問題に端を発して金融恐慌が発生した。
 片岡蔵相は京都選出の憲政会の代議士で、政界に入るまで日本生命保険の社長などを歴任した関西の実業人である。
 渡辺銀行破綻の片岡蔵相の発言により、諸銀行で取付け騒ぎが発生し休業する銀行が各地で続出した。
 この時、京都でも村井銀行、近江銀行、十五銀行などで相ついで取付け、休業騒ぎが発生し、京都の経済界は混乱に陥ったのであるが、これはすぐに収拾された。
 そしてこの騒ぎをきっかけに京都における一流銀行の位置は高まった。
 この二つの事態に象徴される暗い幕あけで京都市民は新時代を迎えるのである。
 しかも、金融恐慌につづいて起った世界天恐慌(一九二九=昭和四年)は関東大震災以後まだ十分復興していない日本の経済界に深刻な影響を及ぼし、多数の倒産企業と失業者を巷間(こうかん)に出したのである。
 京都においても失業者問題は深刻な様相を呈し、京都府ではそれまで臨時で行なってきた日雇い労働者失業対策事業を一九三〇(昭和五)年以降は年間事業に組入れ失業者救済にあたっている。
 また西陣では休機がこの前後より目立って増加してきた。そのため西陣産業資金積立制度(昭和五年)、買継制度の実施(昭和六年)、西陣振興株式会社の設立(同年)等の諸施策がとられ、不況の打開につとめている。
 一方、労働争議も激化し、一九二八(昭和三)年には、五〇件の争議が、一九三〇(昭和五)年に入ると三倍弱の一四〇件を数えるに至る。
 その中でも特に大きな争議の一つに武藤山治以来の温情主義的労務管理で労使間の協調に定評のあった鐘紡で賃上げをめぐり起った大争議(昭和五年)がある。
 この争議には、総同盟の西尾末広代議士が争議終結交渉に活躍し、二ヵ月にわたる争議も労働者側の勝利で終結した。
 また、この年のメーデーには戦前のメーデーの中でも最大の参加者を数えている。ところで京都で初めてメーデーが行なわれたのは一九二五(大正一四)年のことである。
 総同盟傘下の組合員ならびに結成直後の森英吉率いる日農京都府連合会会員、水谷長三郎・山本官治らの京都労働学校が参加して呱々の声をあげたのである。
 鐘紡の争議の他、あらゆる産業部門――洛北友仙・市バス・陶磁器・映画などで争議が起っている。
 昭和初期の京都市民の生活がいかに苦しく窮迫していたかを物語るであろう。
 こうした深刻な経済不況の中で普通選挙権を獲得した市民(男子にのみ限られているが)は、一九二七(昭和二)年、自分たちの代表者を選び京都の政界地図をぬりかえていったのである。

 無産政党の形成
 一九二五(大正一四)年、普通選挙法は治安維持法と抱き合わせて成立した。納税額の制限を撤廃した普通選挙法は、まだこの時には男ドにのみ限定され、婦人の選挙権は第二次世界大戦後にようやく認められるのである。ともあれ、普選の獲得は長い間の無産大衆の願望であった。このための諸運動が米騒動以後の大正デモクラシー運動の波にのり展開され、またこの過程の中で無産政党の結成をみるのである。
 京都では、まず総同盟左派のメンバーにより結成された日本労働組合評議会(地評)が一九三五(大正一三)年六月結成された。友愛会京都支部結成以来の主力活動家奥村甚之助が会長となり、谷口善之助が主事をつとめた。
 地評は、京大、同志社大の社会主義に関心をもつ学生で組織された学生社会科学連合会と共同して一九五四(大正一三)年総同盟が設立した労働学校の経営にのり出すかたわら、日農、水平社、無産者教育協議会などと共に同年二月に京都地方全国無産政党期成同盟を結成して無産政党結成の気運を高めた。
 一方、同年三月右派、中間派によって結成された労働農民党ではあるが、京都においては右派勢力の弱いこともあり、左派の山本宣治・水谷長三郎・小田美奇穂らを中心として労農党京滋支部、のち京都、滋賀それぞれ独立して同年一二月に水谷長三郎を委員長とする京都支部が結成され、普選の即時実行のための議会解散請願運動が取組まれ、右派、中間派の脱退した後の労農党の主要な運動となっていく。
 脱退した右派、中間派は一九二六(大正一五)年一二月、早速キリスト教社会民主主義者の安部磯雄を委員長に社会民衆党を結成するのであるが、京都でも一九二七(昭和二)年一月、吉川末次郎・上田蟻善らによって支部結成をみる。
 しかしながら、京都の右派勢力は弱く、傘下の組合にわずか伏見の樽工組合をみるのみであった。
 こうして一九二七(昭和三)年九月二五日、普選法が最初に適用された京都府会議員選挙に二つの無産政党は候補者をたて、労農党の神田兵三(上京)、奥村甚之助(下京)二人を府会に送り出した。
この時の選挙では、従来の有権者数三万六〇〇〇人から一挙に一三万四○○○人と増えている。そして一九二八(昭和三)年一月、普選法下最初の総選挙を迎える。
 この総選挙にあたり、労農党は市内より水谷長三郎、郡部より山本宣治の二人を候補者に立て無産勢力の枯集をはかり、民政党の片岡直温・森田茂、政友会の鈴木吉之助・磯部清吉らにまじって見事当選を果した。
 ここに京都における政界も、無産政党の抬頭に伴い大きく変化していくのである。
 京都における無産政党の進出に大きく活躍した二人の人物、水谷長三郎・山本宣治について、次にみてみよう。

 二人の闘士、水長と山宣
 一八九七(明治三〇)年、京都伏見の紀州藩舟宿をつとめる「水六」の次男に生まれた水谷長三郎は、二中−三高−京大という当時の京都の秀才コースを順調に進み、京大時代河上肇の薫陶をうけ高山義三らと親交をもち社会問題に目ざめ労学会を組織している。大学卒業後は弁護士活動のかたわら社会科学の研究を行なう一方、日農の小作争議の指導にあたり、一九二六(大正一五)年には『法廷に於ける小作争議』を出版して農民運動のリーダーとして活躍した。
 労農党より山本宣治と共に代議上に選ばれた水谷は、最年少の議員として話題をよんだ。
 一九二九(昭和四)年一月共産党寄りの山本宣冶と訣を分った水谷は、労農大衆党を結成して執行委員長となる。
 山本宣治が右翼に刺殺された翌日開かれた議会で死刑を追加する治安維持法改訂には、「我国の無産大衆をして死刑の断罪に、死刑の犠牲に送ると云うことは、絶対に反対である」と演説し、旧友の死を悲しんだという。
 三・一五事件、四・一六事件と相つぐ官憲の弾圧によりしだいに無産政党が退潮する中で行なわれた一九三〇(昭和五)年の選挙では落選したが、生来の気取らない庶民的性格が市民の間に多くの水長ファンをつくり、一九三六(昭和一一)年、社会大衆党代議士として当選して以来、戦時下にあっても大政翼賛会と一線を画して議員活動を行なった。
 第二次世界大戦直後の一九四五(昭和二〇)年一一月、日本社会党が結成されるや中央執行委員になる一方、社会党議員として片山内閣の商工大臣として戦後の民主化、経済復興に尽した。
 一九五九 (昭和三四)年、社会党の分裂にあだっては、右派に網し、匹に尾末広らと共に翌年一月民主社会党の結成にあたると同時に京都に民社党支部をつくっている。
 昭和初期に始まる水谷の政治家としての一生は、京都における共産党と一線を画する無産政党の歩みといえよう。
 一方、水谷より八歳年上の山本宣治も、宇治の旅館「花屋敷」の長男に生まれた。
 神戸一中を経て一九歳の時カナダに渡った。
 五年間の苦学時代を通して生物学に興味を覚えた山本は帰国してから同志社普通部、三高をへて二九歳の時東大動物学科を卒業。
 京都に帰ってきた山本は同志社大学、京大理学部で教鞭をとるかたわら、熱心な産児制限論者として、一九二二(大正一一)年サンガー夫人の来日を機に産児制限運動を起こし、この頃から社会問題への関心を深め、京大、同大の左翼系の学生組織学生社会科学連合会の主カメンバーの一員となり、政治研究会会員はじめ京都労働学校校長となって京都における無産運動の活動家としてしだいに有名になっていく。
 一九二五(大正一四)年から元年にかけて起った初の治安維持法適用の京大学連事件により、教壇を追われた山本は以後、労農党の闘士として活躍。
 一九二八(昭和三)年一月水谷と共に労農党代議士に選出された。
 普選法最初の総選挙で無産各派から八名もの代読士が選ばれた事態に驚いた官憲は、早速無産政党の進出を阻止せんがために、三月一五日、共産党員の大検挙を行ない、労農党・評議会・全日本無産青年同盟の三団体に解散命令を出した。
 いわゆる三・一五事件である。この時、京都でも前年より谷口善太郎・宮崎菊治・稻葉辰蔵らによって共産党再建が始まり、先の総選挙では、天皇制反対のビラをわずかではあるがまいていた。
 彼らはこの事件で倹挙され、以後第二次世界大戦後まで非合法のまま長い苦難にみちた歩みを始めるのである。
 一方、左派の強い京都の無産政党とりわけ労農党は、解散という事態を前にして、山本、水谷らで新党結成に着手するのであるが、共産党寄りの山本は、奥村甚之助と労農同盟にとどまり、翌年一月同盟京都支部を結成した。
 これに対して水谷は、同月に労農大衆党を結成し、ここに京都の無産運動は二つに分裂してしまった。
 三・一五事件後の無産運動の分裂の中で山本宣治は共産党系の唯一人の代議士として国会活動を行なうのであるが、一九二九(昭和四)年二月五日、右翼団体の一つ七生義団の団員黒田保久万のテロに倒れ、「実に今や階級的立場を守るものは唯一人だ。だが僕は淋しくない。
 山宣(やません)一人孤塁(こるい)を守る。併(しか)し背後には多数の同志が」という生前最後の演説を遺し、非業(ひごう)の死を逐げるのである。

 京大事件
 三・一五事件の検挙の嵐は大学にも影響を及ぼした。京都での起訴者四八三名のうち半数近くが専門学校卒業ないし中退者であった。
 とりわけ学連事件以来、左傾化した学生の多くを出した京大関係者から多くの連座者を出している。
 当然、政府の取締りは、「左傾教授」に及び、京大の河上肇がその対象となった。
 その頃の河上は、「マルクス主義講座」の編集を担当し、労農党の大山郁夫の選挙に応援演説するため香川に赴くなど、無産運動に実際的関りを持ち始めていた。
 一九二八(昭和三)年四月、経済学部教授会決定として辞職を求められた河上は、教授会決定を大学の自治の表われとうけとめ同月一七日、辞表を提出。
 同日には閣議決定として河上の「依願免」が発表されたのである。
 この当局のす早い対応は学生らによる反対運動を封ずることにあった。この時、河上が指導にあたっていた社会科学研究会に解敗命令を出している。
 その後、象牙の塔から街頭へ出た河上は、一九二九(昭和四)年の総選挙のさい新労農党に推され京都一区で立候補した。
 教え子の水谷長三郎もこの選挙区より新労農党と犬猿の仲の社会大衆党候補者として立ち、師弟間の争いとなったが、ともに落選している。
 一九三二(昭和七)年、日本共産党に入る党した河上ではあるが、翌年検挙され懲役五年の刑をいいわたされ下獄した。
 出獄後は実践から遠ざかり『自叙伝』の執筆に入った。
 ヒューマニズムあふれる河上の人柄が漢文調の名文で綴られたこの『自叙伝』は『善の研究』と共に、第二次世界大戦後の真理に飢えた青年の多くを魅了した。
 一九三一(昭和六)年の満州事変を境に日本全体が戦争の道へ歩み始める。
 この頃になると、共産主義者のみならず自由主義者に対しても思想・言論の取締りが厳しくなる。
 政府の自由主義者への思想弾圧の第一弾として起ったのが京大事件であった。
 一九三三(昭和八)年四月、文部省は京大法学部教授滝川幸辰の刑法学説を槍玉にあげて国体にそむく「アカ」学説であるとして滝川教授の辞職を要求した。
 これをうけた法学部教授会では早速理由がないとしてこれを拒否し、その旨を文部省に伝えたところ、文部省は、高等文官分限委員会を開き、滝川教授の休職を決定した。
 この文部省の一方的なやり方に対して法学部教授会は、研究の自由、大学の自治の侵害であるとして、宮本英雄学部長を先頭に、佐々木惣一・米川博・恒藤恭らの教授一五名はじめ助教授・講師・助手に至るまでをふくめ全員の辞表提出でこれに抵抗する。
 一方、学生側も法学部のみならず経済学部・文学部の学生を巻きこんで、大学の自治を守るをスローガンに組織的抗議闘争を起こしたのである。
 さらに、ファシズムの拾頭を警戒する多くの知識人も彼らを支援したのであるが、文部省の辞表提出者の一部受理という教授会の分裂工作によって、この事件も終熄を迎えた。受理されたのは強硬派のメンバーで、佐々木惣一・滝川幸辰・末川博・森口繁治・宮本英雄・宮本英脩の六教授であった。
 慰留組の恒藤恭・田村徳治の二人は、この六人に同調して大学を去っている。
 夏休みあけにはさしもの騒ぎも収まり、学生たちは、その当時流行していたヨーヨーの大きなものを校舎の窓につり下げ、深まりゆくファシズムの嵐を前にしてその無力感を表出したという。
 二年後には、貴族院議員をつとめる美濃部達吉の憲法理論をめぐり天皇機関説事件が起こるなど、しだいに言論統制が目立ちだす。
 こうした風潮の中で、学生運動も京大事件を最後にその灯を消し、やがて右翼学生団体、立命禁衛隊が結成され戦争へ突入していくのである。

 戦時下の京都
 一九四〇(昭和一五)年、近衛内閣の成立と共に始まった新体制運動は京都でも開始された。
 府会の政党政派は解消され、新たに、「吾人は皇道政治を大本とし、新政治休制滅私奉公するを誓ひ」全府会議員団を結成、隣組制度の実施、大政翼符会、産業報国会の組織などが翌年にかけて行なわれる。
 ところで戦時下の京都の経済界であるが、京都の誇る西陣織などは、一九四○(昭和一五)年七月七日出された奢侈品等製造販売制限規則(七・七禁令)により大きな打撃をこうむり、つづいてとられた企業整備令(昭和一七)で西陣、室町辺りの中小企業はいくつかの大手企業に合併される事態を生じた。
 これは多くの企業を休廃業させ、そのあとを軍需工場に利用するためにとられた施策であった。
 その結果、繊維中心の京都の産業界にあらたに機械工業、金属工業かおこるのである。
 一九四一(昭和一六)年一二月八日、対米英宣戦布告がなされるや、一六日、京都でも官民一〇万人を集めた米英学滅国民大会が御所建礼門前で開かれた。
 それ以後敗戦までの四年あまりの間、多くの家庭より出征兵士を戦場に送り出し、京都市民の生活は戦時色一色に塗りつぶされ、統制経済下、米・麦・マッチ・砂糖にはじまる日常生活物資の配給制により耐乏生活をよぎなくされるのである。
 このような状況の中でも政府および軍部による無謀な戦争遂行に抵抗する動きが京都の知識人の間にあった。
 『世界文化』、『土曜日』などに拠るグループである。
 一九三五(昭和一〇)年二月創刊され九月刊雑誌『世界文化』グループは、それ以前から『美・批評』誌を刊行していた中井正一を中心に久野収・真下信一・新村猛・武谷三男・和田洋一・禰津(ねづ)正之らであり、フランスの反ファシズム人民戦線についてこの時代に初めて紹介した点で『世界文化』の意義には大きなものがある。
 『土曜日』は能勢克男・林要・斎藤雷太郎らによって、翌三六(昭和一一)年七月刊行された週刊紙である。
 この他にも北川桃雄らの文学雑誌『リアル』がある。これらはいずれも、人道主義、合理主義、世界主義の立場から当時の思想・文化を支配する天皇制ファシズムに抵抗していたのである。
 しかしこれら知識人の抵抗も、一九三七(昭和一二)年七月、盧溝橋事件で日中戦争が開始された直後に相ついで同人らが検挙され、やむなく廃刊されるに至る。
 この他にも、学生雑誌では『学生評論』(京大)、『同志社派』(同志社大)などが刊行されている。

十一章 国際文化観光都市への歩み top

  1 戦後の民主化

 占領下の京都

 一九四五(昭和二〇)年八月一五日、日本の敗戦という結果で長い戦争がやっと終った。
 ついで、八月三〇日敗戦のショックで茫然自失(ぼうぜんじしつ)する国民の前に占領軍としてアメリカ軍が進駐してきた。
 進駐軍が京都に入ってくるのは、一ヵ月後の九月二五日のことである。
 西日本を統轄する司令部が京都に設置されたこともあり、進駐軍による大規模な建物接収が行なわれた。
 これらの大半はサンフフンシスコ講和条約発効までにほとんど返還されている。
 敗戦と共に始まった市民の生活難は、一九四六(昭和二一)年の物価統制令でますます拍車がかけられ、新京極・塩小路高倉・堀川四条など市内各所にヤミ市が開かれ一〇〇〇年の王城の地を誇った京都の町も殺伐とした喧噪と混乱に見舞われた。
 そうした中でも市民の間には戦争で封圧されてしまった政治的自由を求める声がわき起り、大政翼賛体制で解散した政党が復活する。
 一九四五(昭和二〇)年末までに日本社会党、日本自由党(旧政友会系)、日本進歩党(旧民政党系)、日本共産党が再結成され、京都でもこれらの支部が続々と結成されたのである。
 翌年四月に行なわれた選挙では、芦田均、小川半次らの保守系の中にまじって、社会党の水谷長三郎・辻井民之助・竹内克巳の三人が当選している。
 また、この時初めて女性に選挙権、被選挙権が与えられ、富川ふさ・木村チヨ二人の女性代議士が生まれたのである。
 さらに、この年の一月には、総同盟京都府連が結成され、これ以後労働組合の組織化が急速に進むのである。
 こうした民主化の高まりの中で、一九四七(昭和二二)年の二・一ストを迎えるのである。
 京都でも、中央と呼応して吉田内閣打倒危機突破国民大会が相ついで開かれ、官公庁、民間労組および農民組合などの民主勢力が結集した。
 二・一ストに対して占領軍は突然中止指令を出した。
 これはアメリカが日本の民主化の行きすぎが社会主義化を招くことを恐れたためであった。
 これを機に、占領政策は逆コースをとり始めるのである。占領政策の転換は労働界にも大きな波紋を生じた。
 共産系の産別組合に対抗しうる組織として、一九五〇(昭和二五)年七月、日本労働組合総評議会(総評)が占領軍の支援をうけて結成され、労働界の再編成は一応終結するのであるが、共産党勢力の強い京都では総評の京都支部結成は遅れている。
 こうして全国的に左翼勢力が退潮する中にあって京都だけは、組合以外の共産系の大衆団体――府学連、生活を守る会、婦人民主クラブ、民主主義科学者協会、商工擁護同盟等の運動によって革新陣営の勢力は維持されるのである。

 革新首長の誕生
 このような京都的状況の中で、朝鮮戦争の勃発、レッド・パージの開始という重苦しい気分が漂よう一九五○(昭和三五)年、全国に先がけて二人の革新首長――知事蜷川虎三、市長高山義三を誕生させた。
 革新首長の誕生に大きな役割を果たしたのは、一九五○(昭和二五)年一月二五日に結成された全京都民主戦線統一会議(民統会議)である。
 これは戦前から京都の民主勢力の指導者として活躍してきた高山義三を市長候補に公認した社会党を中心に京都の民主団休が結集して組織されたものであった。
 二月八日の市長選挙で、民統会議が推す高山義三が、保守系の二人の候補者を押さえて見事当選を果たした。
 一方、府知事選は、民統会議を中心に人選がなされ、末川博と蜷川虎三の二人の名前があがった。
京大事件で有名な民法学者末川博は、その頃戦時中右翼で鳴らし、占領軍より目をつけられていた立命館大学の民主化に着手していた時であったから、早速不出馬を明らかにしている。
 京大教授をつとめた蜷川虎三は、一九四八(昭和二三)年設置された中小企業庁の初代長官に就任、ワンマン宰相といわれた吉田茂と対決したという経歴の持主である。
 社会党への入党を条件に民統会議の推せんを受け立候補した蜷川虎三も、四月二〇日の府知事選で保守系の推す前副知事井上清一をおさえて当選。
 以後、しだいに共産党寄りの立場に変わり、首長多選の批判の中で府知事を七期つとめ、一九七八(昭和五三)年に引退した。
 「憲法を暮らしに生かす府政」をモットーに進められた二八年にわたる蜷川府政は京都食管、高校三原則(総合制・小学区制・男女共学)の実施など京都独自の行政を生んでいる。
 ともあれ、こうして府、市両首長を革新陣営から出したこの年の京都のメーデーは二人の首長の参加の下、占領下、しだいに反動化か深まるなかといえども活気にあふれたものであった。

  2 京都の復興と発展 top

 初期の高山市政

 一九五〇(昭和二五)年二月一〇日、京都市の二代公選市長となった高山義三は、一九六六(昭和四一)年二月、四期目の任期を最後に引退した。
 最初は社会党より立候補した高山ではあるが、地方首長は不偏不党、超党派でなければならないという信念に基づき、一九五二(昭和二七)年一月社会党を離党した。
 以後、保守・革新を問わず安定した支持基盤を京都市民の間に形成し、一六年にわたる在職期間を通して今日の京都の繁栄の基礎を確立している。
 その中で主なものをみてみると、第一期目は、戦後の混乱の収拾ならびに朝鮮戦争の特需ブームが去った後の中小企業を対象とする不況対策があげられる。
 ちょうどこの時期は、サンフランシスコ講和条約締結にあたり、全面講和か単独講和かをめぐり世論が大きく二分された時でもあった。
 全面講和を要求する民主陣営は単独講和批准反対闘争を起こし、京都では、全学連(昭和二三年結成)に結集する各大学自治会および学生が先頭に立ってこれを展開した。
 このような中で、一九五一(昭和二六)年一一月、京大天皇行幸事件が起った。
 これは京大行幸のさい、学生が平和の歌で天皇を迎え、また、天皇に公開質問状を提出しようとして警官隊と衝突した事件である。
 学都京都は、その名の通り多くの大学および学生を有する町であり、戦前、戦後を通して学生運動の拠点になる町でもある。
 京大天皇行幸事件についで、一九五三(昭和二八)年一一月、荒神橋事件が起っている。
 これは、わだつみ会がつくった「戦死者の霊を弔い、その平和希求の精神を具現し、さらに生き残った者の平和擁護の精神的支柱となるべき戦没学生記念像」――わだつみ像が東大の拒否にあい立命館大学に設置されるさい、立命大で開かれていた歓迎集会に合流せんとして京大を出発したデモ隊が、無届けの不法デモとしてこれを阻止せんとした警官隊と荒神橋上で衝突した事件である。
 学徒出陣により、学生の手からペンを奪い銃をとらせた戦争のむごさが、この時期の多くの学生を平和運動へ結集させていったのである。

 新しい都市づくり

 高山市政が二期目を迎える頃になると、しだいに日本の社会も敗戦・占頷下の混乱も収まり、落着きをみせ、一九五六(昭和三一)年一二月には、日本の国際連合加盟も決まり、ようやく国際社会の一員としての歩みを始める。 高山市政はこのような中で京都を国際文化観光都市として新しく誕生させるヴィジョンをしだいに明らかにし始める。
 そのためには、国際社会の一員にふさわしい市民モラルの養成を図らねばならぬとして一九五六(昭和三一)年、市民憲章を制定し、ついで京都と同じように文化の香り高い世界の各都市――ボストン・パリ・ケルン・フィレンツェと姉妹都市となり国際交流の輪を広げた。
 さらに京都市交響楽団の結成(昭和三一年)、市民の文化センターとしての京都会館の建設(昭和三五年)、国際会議場の建設などの文化施設の充実を図り、全国に先がけて競輪を廃止(昭和三三年)し、文化都市にふさわしい都市づくりを行なっている。


京都国際会議場

 戦争で中断した祇園祭、葵祭に京都市が援助金を出し、その復興に大いに尽力した。
 これらは時代祭とあわせて、京都の四季を彩る三大祭として観光都市京都の中心行事となっている。
 社寺の拝観料に文化観光施設税を課し京都会館の建設費にあてると共に、観光施設の充実にあてるという奇抜なアイデアを一九五六(昭和三一)年より実施して世間を驚かせた。
 一方、市民福祉の充実に力を入れ、一九五八(昭和三三)年赤字財政を解消した後は都市の環境整備を重点的に行ない、市民の住みよい町づくりに専心した。
 こうした数々の業績を遺した高山市政は、今日の京都の繁栄の基礎となり、高山の後任市長に代々ひきつがれ、一九七八(昭和五三)年、世界文化自由都市宣言をするまでに至っている。

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  3 明日への京都 top

 保存と開発のはざま

 明治維新と共に近代を迎えた京都は、西洋文明を積極的に取入れ近代化をはかろうとした。
 東京遷都により古都となった京都ではあるが、近代化へのたゆまぬ努力は数多くのすぐれた施策を生み出し、今日の繁栄の礎となっている。
 様々な紆余曲折を経て現在、京都がたどりついた結論は世界の古都としての新生である。
 四囲を山でかこまれ、清流をたたえる川が貫通する盆地に築かれた京都は、町全体が一つの歴史的景観をなし、それこそが全国いや全世界の人々を魅了する点である。
 いきおい町全体の保存が急務となるのだが、これまでみてきたように、京都の人々は進取の精神に富み、時代の最先端をつねに歩んできている。

 しかも住民という立場からみれば、都市は便利な方がよい。そのためには開発もまた必要とされる。
 京都におけるこの「保存と開発」をめぐる問題は、世界の古都だけに内外から多大の関心を呼び、一九七〇(昭和四五)年にはユネスコの後援をうけて「京都・奈良伝統文化保存シンポジウム」が開催されたほどである。
 京都市では、地下鉄建設、京都市西部にニュータウンを開発するなど、市民の生活環境の改善に力を入れる一方、早くよりこの問題を都市計画の大きな柱に取入れ、一九七二(昭和四七)年、「京都市市街地景観条例」を制定した。
 そして京都独自の保全修景方法をとって古い町並み保存に着手するのである。
 住民に生活の豊かさを与え、しかも京都が形成してきた伝統を明日へひきつぐための、保存と開発が見事に調和された古都づくりがようやく始まろうとしている。


京都市西部にひろがるニュータウン

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