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三章 文化の散歩道
1 大森貝塚 top

大森貝塚のモース像。
モースが車窓から発見した大森貝塚は、いま大森遺跡庭園として
整備されている。遠足に来ていた子供たちの歓声が楽しげだった。 |

大井町と大森駅の途中の線路下の地下通路に、
地層のようすを示した展示がある。 |
幼い頃の私は、電車に乗るたびに座席の上にヒザをつき、窓ガラスにおでこをつけんばかりにして、走り去る窓外の景色を見るのが好きだった(もちろん、ズック靴はきちんと脱いで)。
大田区の蒲田で生まれ育ったせいで、今もはっきり記憶しているのは、大森駅近くの線路のすぐ際に見えた「大森貝塚」の記念碑だった。
だから、幼稚園に入るころには、それが「オオモリカイヅカ」というものであることだけは知っていた。
貝塚発見の経緯も、私の幼児体験にちょっぴり似ている。
アメリカの動物学者であるエドワード・シルペスター・モース(一八三八−一九二三)が明治十(一八七七)年六月、横浜から東京に向かう車窓から、貝層の露出を発見したのだがら。
すぐに発掘されて、日本考古学最初の遺跡となった。
モースは東京大学に招かれて、生物学、動物学を教授し、ダーウィンの進化論を紹介した人。
大森貝塚のほか古墳の発掘も行って、日本の考古学・人類学への道を開いた恩人である。
この貝塚は縄文式後期のもので、土器、土偶、石斧、人骨などたくさんのものが掘り出された。
東大理学部人類学教室に保存され、国の重要文化財になっている。
案内
JR京浜東北線大森駅山王口下車、北に歩いて5分の線路際にある。
2 お雇い外国人 top
明治の新政府は、文明開化、殖産興業のため大勢の外国人専門家を雇って、いろいろな分野で学んだ。
総数三千人以上ともいわれる「お雇い外国人教師」は、日本の近代化に大きな役割を果たした。
イギリス人、ドイツ人が多かった。
いささか余談めくが、海軍の軍制、教育制度の整備のため東京にきたイギリス人はフットボール(いまでいうサッカー)を日本の若者たちに伝えた。
その若者が各地の師範学校に教師として赴任して、さらに学生に教えた。
たとえば埼玉がいま「サッカー王国」といわれるようになった基礎は、埼玉師範の教師とその卒業生によって築かれたのだ。
不肖、この私が埼玉師範付属中学でサッカーを覚え、高校、大学で全国優勝した経験を持つのも、もとをたどれば、明治初めの「お雇い外国人」のおかげ。Jリーグの歴史も、源は同じといってよい。
アメリカからもモースのような学者が来てくれた。
クラーク博士は、札幌農学校(北海道大学の前身)の教頭として、学生にキリスト教精神の強い感化を与えた。
「少年よ、大志を抱け」は、クラークの残した言葉として有名だ。
3 ニコライ堂 top

お茶の水・ニコライ堂
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日本ハリストス正教会復活大聖堂。
ニコライ堂の名で親しまれ、青いドームはお茶の水のシンボルだ。
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神田・駿河台に美しくそびえるニコライ堂を、私は何度も見上げたことがあるけれど、ではこの聖堂を建てたロシア人ニコライというのがどんな人であったのか、何も知らなかった。
ところが、中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(岩波新書)を読んで、実に人間的な素晴らしい人物であったことを教えられて感動した。
町を歩くためには、幅広く本を読まなければいけないことを改めて痛感した。
「知る」ことによって「景色」は変るのだから。
中村さんは、レニングラードの古文書館にきわめて貴重な「ニコライの日記」が保管されていることをつきとめて、この本をまとめたのである。
ニコライ堂は、正式には、日本ハリストス正教会復活大聖堂といい、国の重要文化財。
ロシア人司祭ニコライは、異人と見れば斬り殺されかねない時代である文久元(一八六一)年に来日した。
二十五歳だった。
函館で、医師であり漢学者である木村謙斎や、後の同志社大学の創立者、新島襄(じょう)に師事して、やがて、『古事記』『日本書紀』から『日本外史』まで読みこなす人になった。
堂々たる日本語の文章を書き、岩手の「南部弁」のなまりが強かったが、大変な雄弁家でもあった。
ニコライの伝道の旅は日本全土におよび、「明治の無名の庶民の中に自分と共鳴する心を見いだしていた」(前掲書)
異国での伝道に努めるニコライに、作家、ドストエフスキーも強い関心を示して、ニコライが聖堂を建てる資金の調達のためモスクワに行った時、面会している。
ニコライ堂は、ニコライが、明治十七(一八八四)年から同二十四年までかけて駿河台の幕府役人の屋敷跡、旧幕士邸宅に建設した、ビザンチン風の聖堂だ。
関東大震災で被害を受けて、現在の建物は昭和四(一九二九)年に再建された。
聖堂が完成して十三年後、日本とロシアの戦争が始まった。公使をはじめロシア人たちは帰国したのに、ニコライは決然として日本にとどまっだ。
前に「東郷神社」の項で述べたように、戦争が日本の勝利で終った時、講和の内容に不満を爆発させた民衆が暴徒になった「日比谷事件」で、暴徒はニコライ堂にも押しかけた。
姿を隠してくれ、という警察の要請にもかかわらずニコライは神学校にとどまった。百人を越す軍隊、警察が必死になって大群衆を防いだ。
日本の宗教的土壌にも深い理解を示し、庶民に深い愛情を寄せていたニコライは、明治四十五(一九一一)年、七十五歳で死去した。
「三千人にものぼる各界からの弔問が相次ぐなかで、明治天皇からの賜花が衆目を引いた。
思えば日本に居ること五十二年(後略)」(長縄光男『ニコライ堂の人々 日本近代史の中のロシア正教会』現代企画室)
ニコライ堂の内部は、改修後に拝観できなくなっだのは残念だが、ここからほど近い神保町の古書店街をぶらぶらするのは、最高の楽しみ。
さらに裏通りに入れば、安くてうまい食べ物屋や飲み屋が並んでいる。
本書を刊行した出版社の「高文研」も、そのあたりで頑張っているのである。
案内
JR中央線・総武線御茶の水駅下車歩いてすぐ。
4 湯島聖堂 top

お茶の水駅の東側、神田川にかかる聖(ひじり)橋は、二コライ聖堂と
湯島聖堂の二つの聖堂をむすぶことから聖橋と名付けられた。
儒教
湯島聖堂(ゆしませいどう)に行く前に、儒教についてちょっと考えておこう。
江戸の頃、論語の有名文句は庶民にとってもジョウシキだった。そこで、こんな小咄(こばなし)があるそうだ。
儒学者の家に忍び込んだドロボウが取り押さえられた。仁を説く儒学者は、ドロボウに銀子(ぎんす=銀の貨幣)を与え、もう二度と悪事を働かないように諭(さと)した。
するとドロボウは銀子を数えて、「ああ、すくないかな銀」(新潮社編『江戸東京物語 山の手篇』から)。
このオチは『論語』の、「巧言令色は、鮮(すく)ないかな仁」のモジリ。 巧言も令色も、それ自身必ずしも非難すべきことではない。
しかし、口にきれいごとを並べ、容貌、態度をものやわらかく美しく見せることが主になると、その種の人には、とかく、 |

湯島聖堂孔子像。学生の街お茶の水、
そのルーツ湯島聖堂の孔子の銅像。 |
人間の根本の道である仁の心が薄くなりがち(諸橋轍次『中国古典名言事典』講談社学術文庫)という意味だ。
『論語』とは、中国古代の思想家、孔子(こうし、紀元前五五一−四七九)の言行を記録したもの。
政治や道徳についての教えである。
日本には五世紀の初めごろ百済の博士・王仁(わに)によって伝えられた。
古事記に先立つこと三百年も前のこと。「日本人」が手にした初めての書物である。
『論語』を学ぶ儒学は、大化の改新以後、貴族層の必須の教養になった。
鎌倉時代になると中国・南宋の新しい儒学である朱子学が伝来して禅僧によって学ばれ、さらに江戸時代になると武士にとって最も重要な教養になり、多くの儒学者が出た。
一部の民衆の間にも広がった。
道徳の実践を説く「教え」という意味で、儒教と呼ばれるようになった。
明治以後は国民道徳として、学校の教育などで大いに教えこまれた。
今の私たちも、ほとんど無意識のうちに、「忠義」とか「親孝行」のように、儒教から出た規範の下に生きている。「儒教なんかカンケイないや」、といっても、私たちの精神そのものになってしまっているのである。
湯島聖堂
江戸時代に、儒学を教える学校は、全国各地の藩につくられた。
なかでも、幕府の儒学者(儒官)である林羅山(らざん)が、三代将軍の家光から上野に広大な敷地を与えられて建てた学塾は中心的な存在だった。
寛永九(一六三二)年、尾張藩主、徳川義直(よしなお)がここに聖堂を寄進した。
「聖堂」とは、孔子やその弟子たちをまつった「孔子廟(びょう)」のこと。各地の学校にも建てられていた。
儒学に熱心だった五代将軍綱吉は、元禄四(一六九一)年、幕府の直営にするため、この孔子廟を上野から湯島に移した。
綱吉は、みずから「大成殿」と書いた額を掲げ、幕臣を前に儒学を講じたという。
ここでちょっと、この本の冒頭の「江戸を歩く」の中の、「徳川将軍を探す」や「忠臣蔵を探す」を思い出してもらいたい。将軍綱吉が何度も登場していた。
犬を異常なほど大切にしたため「犬公方」と陰口をいわれた綱吉は、一方では大変な学問好きで、自ら儒学の講義をするほどだったのである。前にも述べたけれど、増上寺の近くで、豆腐屋に助けられながら苦学した荻生徂徠も、綱吉の時代の儒学者だった。
聖堂の隣には昌平坂(しょうへいざか)学問所が建てられ、幕府直参や諸藩の武士たちが集まって儒学を学んだ。
後には日によって浪人や農民でも聴講できるようになった。江戸というのは、そのような面でもとても面白い時代だ。
「昌平」は孔子が魯(ろ、中国山東省)の昌平の出身であることにちなむ。
この湯島聖堂は何度も火災にあい、江戸時代の建築物で残っているのは、寛政十一(一七九九)年に十一代将軍家斉が改築した「入徳門」、左右の塀、水屋だけ。
しかし、大正の関東大震災の後、鉄筋コンクリートで再建された「大成殿」などは、もとの基壇、礎石の上に忠実に再現されているから、江戸時代の「最高学府」での勉強ぶりを十分に想像することができる。
敷地跡に今は、束京医科歯科大学、同付属病院、順天堂病院などが並んでいるのだから、その規模たるや相当なものだったことがわかる。
都心の緑の中の聖堂は、ひとときの想像を楽しむのに絶好の場所だ。
案内
JR中央線・総武線御茶の水駅下車、神田川の聖(ひじり)橋を渡ってすぐ右手。
5 神田明神(神田神社) top
『江戸名所図絵』という素晴らしい本がある(ちくま学芸文庫・本編六巻・別巻二冊、に収録されたのはうれしいことだ)。
江戸神田の町名主、斉藤幸雄・幸孝・幸成の父子三代の手で、三十年を費やして天保七(一八三六)年に刊行された、江戸とその近郊の地誌だ。
江戸後期の風俗や行事や風景を、知的好奇心あふれる文章と、浮世絵師の長谷川雪旦(せったん)・雪提父子の絵で伝えてくれる。
この本に、「神田明神の社(やしろ)」は、「聖堂の北にあり、唯一にして江戸総鎮守(ちんじゅ)と称す。祭神、大己貴命(おおあなむちのみこと) 平親王将門の霊 二座」と記されている。
「聖堂」は湯島聖堂のこと。「江戸総鎮守」とは、幕府が神田明神を江戸の総鎮守神として保護してきたことをいう。 |

神田明神
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絵は、広大な神社の境内の様子や祭礼の盛んな姿をよく伝えていて楽しい。
「名所図絵」はまた、「神田明神の旧地」という項で、この神社は元々ここにあったのではないことを伝えている。
それについては、次の「将門塚」で語ろう。
案内
JR中央線・総武線御茶の水駅下車徒歩4分、湯島聖堂のすぐ北側。
6 将門塚 top
神田明神について記した「名所図絵」の、「祭神」のくだりで、「将門の霊」というのがちと気になる。
平将門とは、平安前期、下総(しもうさ、千葉)を根拠地にした「たより所のない人や世にいれられない人に力をかしてやるといわれた」(網野善彦『東と西の語る日本の歴史』講談社学術文庫)武将である。
天慶二(九三九)年、常陸(ひたち)国府を襲い、さらに下野(しもつけ)・上野(こうずけ)の国府を占拠して(天慶の乱)、みずから「新皇」と称した。
「東国の新国家がはじめて呱々の声をあげたことは確実といわなくてはならない」(前掲書)。
「本天皇」(平安中期の作者不詳の軍記物語『将門記』の記述)からすれば完全な「朝敵」であり賊軍である。
しかし「新皇」は翌年二月戦死、「東国国家」はわずか三ヵ月で消えた。 |

銀行、商社など大企業の本社ビルが建ち並ぶ
大手町の一角にある将門塚。
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京都にさらされた首はやがて、今の大手町一丁目の三井物産ビルのあたりに埋葬されたと伝えられている。
この将門の死については、首が自分の遺骸を求めて京都から東国まで飛んでいった、というような奇談が東日本各地の民衆の間で語られきた。
その由来の地があちこちにあるのは、民衆の間で将門の人気がいかに高かったかを物語っている。
その霊の祟りを恐れてまつったのが、「将門塚」で、これも「御霊信仰」の一つ。首をまつったと伝えられる塚は、大手町に今もある。
元々神田明神はそこにあったのだ。しかし江戸城の拡張のため、まず駿河台に、次に湯島台の現在の場所に移った。
幕府が「将門塚」を保護したのは、「尊皇思想」が起こるのを防ぐため、という説もあるそうだ。
つまり、「朝敵」といわれながら民衆に人気のある「将門」を利用したというわけである。
ところが、明治維新後に新政府は、「将門は朝敵であるから好ましくない」と横ヤリを入れてきた。
このため神社は、仕方なしに、将門のご神体をほかの社に移した。
いまでは、将門のご神体は無事に神田明神に戻っている。
案内
地下鉄大手町駅で下車、三井物産ビルが目標。
7 菊坂あたり top
一九九八年四月、久米宏さんが司会を務めるテレビ朝日系報道番組ニュースステーション(今はなくなったが)の「夜のさくら旅」という番組に私は出演した。
名のある桜を、夜の実況生中継で伝える番組で、私は「案内役」として、桜の花の下から若干のコメントを語った。
その二回目に、山梨県塩山(えんざん)市にある慈雲寺の樹齢三百五十年の枝垂(しだ)れ桜を紹介した。
この寺は、明治の女流作家、樋口一葉の両親が結ばれた場所としても有名である。
寺に勉強に来て知り合った二人は、やがて家出をして東京に出た。
雨にぬれた満開の桜の花を見上げながら、私は、やがて一葉の両親となる二人が、巨大な傘のように広がったこの枝垂れ桜の下を歩む姿を想像してみたりした。
一葉の作品『ゆく雲』(『大つごもり 十三夜 他五篇』岩波文庫、に収録)には、両親の故郷が、こう記されている。 |

菊坂一葉旧宅跡。樋口一葉の旧宅があった路地裏。足を一歩
踏入れた途端、明治時代の路地に迷い込んだ気分になる。
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「我が養家は大藤村の中萩原とて、見わたす限りは天目山、大菩薩峠の山々峰々垣をつくりて、西南にそびゆる白妙の富士の嶺は、をしみて面かげを示めさねども冬の雪おろしは遠慮なく身をきる寒さ……」
明治五(一八七二)年に一葉が生まれたのは、今の日比谷シティーの場所。
東京府に勤めていた父親の官舎がそこにあった。
父が退職したあと文京区に移り、さらに、明治二十三年から二十六年にかけては本郷の菊坂に住んだ。
事業に失敗した父が死んだあとは、母と共に裁縫や洗い張りで生計をたてる貧窮の生活を送った。
さらに浅草に移ったが、一葉が懸命に生きた当時の雰囲気を今に伝えるのは、やはり菊坂である。
菊坂あたりについては、一葉の名作の、前田愛さんによる「解説」(前掲岩波文庫)が素晴らしい。
「菊坂界隈には今でも明治の町のたたずまいを偲ばせる路地裏がいくつか残っているが、旧真砂町から菊坂にくだる鐙坂に、この旧居跡から鍵の手に接続する路地もそのひとつだ。
この路地に一歩踏みこめば、両側から迫り出している二階の屋根の稜線に切り裂かれた細く長い空が仰がれる。
それに燻んではいるか、浮きだした木目が繊細な模様と陰影を織りだしている格子窓や板羽目。乏しい光をいっぱいに吸いこんで鮮烈な色彩の花々を咲かせている軒下の鉢物。
路地の一隅には手押しホンプで汲みあげる古風な井戸があり、突き当りには急勾配の石段が崖下に切りだされたもうひとつの路地に接している(以下略)」
このあたりをそぞろ歩けば、想像力豊かな人ならば、一葉がひょっこり姿を現しそうな錯覚にとらわれるに違いない。
ただし、今そこで暮らしている住民のみなさんの迷惑にならないよう、くれぐれもご注意を。
ちなみに「菊坂」という地名の由来は、昔このあたりは一面の菊畑だったから。
案内
地下鉄三田線白山駅下車。
8 上野の森 top
先に紹介した『江戸名所図絵』を開くと、「上野の山」の神社仏閣と森の広大なこと、目を見張るばかり。
文章と絵図もたっぶりあって、いかに江戸の人たちにとって大切な名所であったかがよくわかる。
「そもそも当山は江戸第一の桜花の名勝にして、一山花にあらずといふところなし。
いにしへ台命(たいめい)によりて、和州吉野山の地勢を模し植ゑさせらるるがゆゑに、花に速さあり遅きありて、山上・山下盛りをわかてり。
弥生の花盛りには、都鄙(とひ)の老若貴となく賎となく、日ごとに袖を連れてここに群遊し、花のために尺寸の地を争ふて、帷幕(いばり)を張り、筵席(えんせき)を設く。詩歌・管弦は鴬声に和し……」
という一節を読んでも、そのことがわかるだろう。今のあのお花見の騒ぎは、江戸以来の伝統であることもわかる。
今もしも上野公園がなかったとしたら、東京ももっともっと風情の乏しい、むさ苦しい大都会になり果てていたことだろう。
江戸の人たちよありがとう、といいたいくらい。
「ありがとう」なら、「上野公園の産みの親」であるオランダ人医師ボードワン(一八二二−八五)を忘れてはならない。
この人は文久二(一八六二)年、長崎に来て医術を指導し、さらに明治政府の要請で再び来日して医学校の創設などに協力した。
政府は上野の山に、東京大学医学部の前身となる医学校の付属病院を建てることを決めた。
徳川幕府ゆかりの「上野の山」に、新政府はちと冷たかったのかも知れない。
ボードワンはこれを聞くと、反対して、東京に大きな公園がなかったら、首都としての資格がない、市民の憩いの場を造るべきだ、と提言した。 |

上野公園の産みの親、ボードワン博士像。
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かくして明治六(一八七三)年、上野公園が誕生することになった。
ボードワン博士の胸像は、噴水と美術館の間の木立のなかにある。
「上野の山」は、ゆっくりと歩けば見所がいくらもある素睛らしい公園だ。
その存在を私たちは、もっともっと大切にしたいと思う。
沢山あるものなかから、一つだけ挙げるならば、清水観音堂はどうだろう。
寛永八(一六三一)年に建てられた、上野で一番古いお堂である。「名所図絵」の絵も、そのにぎわいを伝えて、芭蕉の高弟、宝井其角(きかく)の、「鐘かけてしかもさかりの桜かな」の句を紹介している。
9 東京音楽学校奏楽堂 top
カラオケはまあ得意(?)な方だけれど、土井晩翆作詞・滝廉太郎作曲の『荒城の月』となると、もういけない。
声が出ない。あれは難しい。
それと、この歌を耳にするたびに、台湾の飛行機事故で亡くなった作家、向田邦子さんの作品『眠る盃』(講談社文庫)を連想してしまう。
彼女はこの歌をなるべく人前では歌わないことにしている、と記す。必ず一ヵ所間違えるところがあるからだという。
「春高楼の 花の宴」
ここまではいいのだが、あとがいけない。
「眠る盃(さかずき) かげさして」
と歌ってしまう。
いかにも向田さんらしい、ほのかなユーモアと悲哀に満ちた文章である。
奏楽堂は、明治二十三(一八九〇)年、東京音楽学校の本館として建てられた。
昭和の終り近くに老朽化のため、解体寸前までいったが、保存運動が実って、旧美術館跡地に移築され再建された。国重要文化財。
明治三十二年、二十歳の若さで、この学校の先生になり、多くの名曲を作曲した滝廉太郎の像がある。 |

旧東京音楽学校の奏楽堂。
パイプオルガンの荘厳な慓きは今も健在だ。
手前は滝廉太郎像。
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東京国立博物館。本館。表慶館、東洋館、
法隆寺宝物館などていねいに見て歩くと時のたつのを忘れてしまう。
写真は、大阪金剛寺の増長天立像。
10 博物館・美術館
東京国立博物館
本館も素晴らしいし、表慶館の考古学発掘品もいい。
その裏手にある法隆寺宝物館はすごい。
東洋館も見応(ごた)えがある。
本館で特別展がある時だけ行ったのではもったいない。
どこも空いていて、静かに楽しめるのは「文化国家」の皮肉である。
宝物館裏の旧十輪院宝蔵は、明治十五(一八八二)年に奈良の元興寺(がんごうじ)別院十輪院から移築したもの。
鎌倉時代の校倉(あぜくら)造りで、国の重要文化財。
東京にいて、奈良、京都が楽しめるのが、ここ国立博物館なのである。
国立科学博物館
私も子供の頃、よく通った。メキシコのミイラは怖かった。道具の歴史も素晴らしい。 |

国立科学博物館。
太古の恐竜から最先端の航空宇宙開発まで、
科学のおもしろさを堪能できる。
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国立西洋美術館
‘実業家、松方幸次郎(一八六五−一九五〇)がヨーロッパで収集した「松方コレクション」を中心に昭和三十四(一九五九)年に開館したのがはじまり。ロダンの「考える人」「地獄の門」「カレーの市民」もすごい。
東京都美術館
残念ながら消えてしまっだけれど、大正十一(一九二二)年に建造された、石の大階段と石の列柱が懐かしい。
子供の頃、よく来たものだった。
今の建物は昭和五十(一九七五)年に造られた。

上野動物園で亡くなった動物たちの慰霊碑。
戦時中は、薬殺された猛獣や、
エサ不足で餓死した動物も数多くいた。
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国立西洋美術館。
オーギュスト・ロダン作「考える人」。
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上野動物園
江戸時代は藤堂(とうどう)家の下屋敷があった。藤堂高虎は戦国末期の代表的武将だった。築城術にも優れていた。
豊臣秀吉の部下だったが、秀吉の没後は家康に仕え、信頼を得た。第一代藩主として津藩の基礎をつくった。
動物園の正門を入って突き当たりのところに、藤堂家の墓所がある。
動物園は、明治六(一八七三)年、ウィーン万国博覧会出品のための動物陳列所を設けたあと、同十五年に開園した。
太平洋戦争が激しくなった昭和十八(一九四三)年、食糧難と、空襲を受けて猛獣たちが暴れるのを警戒して、職員たちが一生懸命に世話をしてきたライオン、象など二十五頭を薬殺した。
動物園にも、様々な歴史あり、なのである。
案内
JR上野駅・鴬谷駅、京成上野駅のいずれもよし。
11 小石川植物園 top

自然林のようにうっそうと生い茂る樹木、
小石川植物園は都会のオアシスだ。 |

小石川植物園。青木昆陽のサツマイモ研究の記念碑。
現在は東大理学部の植物実験場となっている。 |
一九九八(平成十)年九月、映画監督、黒沢明さんが死去した。
世界中の映画人やファンは、心の底からその死を惜しんで、哀悼の意を表した。
黒沢さんの作品の一つに、『赤ひげ』がある。
白黒スタンダード版の、とても力強い、いい作品だ。主演は、これも同じ年に世を去った三船敏郎さん。
江戸の町医師、小川笙船(しょうせん)がモデル。
将軍の吉宗は亨保七(一七二二)年、この医師の意見によって小石川御薬園の地内に、貧民救済のための施設である小石川養生所(施薬院)を開設した。
貧困の病人、看護人のない独身者などは、名主の許しを得て願い出れば、一切の費用を支給してもらうことができた。
笙船は、ひげが赤みを帯びていたために、「赤ひげ」と呼ばれて親しまれた。
映画の三船さんは、仁と正義の人「赤ひげ」を地でゆく好演だった。何人ものナラズ者をアッという間に退治する場面は痛快だった。
養生所が設けられた小石川御薬園は、元々は品川にあった薬園が移転したもの。
敷地は、五代将軍、綱吉の下屋敷「白山御殿」のあった場所だった。
吉宗の時代に、御殿のすべての敷地を薬草園にした。
維新後に養生所は廃止されたが、薬草園は植物園として存続して今日に至る。養生所の専用井戸は今も残る。
江戸中期の儒学者・蘭学者である青木昆陽(こんよう、一六九八−一七六九)の進言で、幕府は、飢饉のときの食糧としてサツマイモの栽培を奨励し、この薬園で品種改良に努めた。
太平洋戦争の末期から敗戦後しばらくは、食糧が極度に不足したため、私たちはコメのご飯には滅多なことではお目にかかれなかった。
毎日、朝から晩まで主食は配給のサツマイモばかりだった。
今の人にすれば、サツマイモは美容にもいい「健康食」ということになるけれど、その頃食べざかりだった私にとっては、それは貴重な命の源だった。
江戸の薬草園は、「昭和の子供」の命もすくったことになる。
江戸の近くに、「甘薯(かんしょ)試作の地」の記念碑があるのをはじめ、私たちはここでも歴史に触れることができる。
案内
地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅下車徒歩10分、同三田線白山駅下車徒歩8分。
12 ケンネル田んぼ top
京王井の頭線の駒場東大前駅のすぐ近くに 「駒場野公園」がある。
『江戸名所図絵』にこうある。
「駒場野道玄坂より乾(いぬい、北西)の方、十四、五町ばかりを隔てたり。
代々木野に続きたる広原にして、上目黒村に属す。雲雀・鶉・野雉・兎の類多く、御遊猟の地なり」
将軍家の狩猟場だったこの原野に、明治時代に、駒場農学校が開設されて、農業の近代化に励んだ。
この学校で、多数の日本人学者を養成したドイツの農芸化学者ケンネル(一八五一−一九一一)が、土壌、肥料の研究を行った水田が今も残っている。
農学発祥の地「ケンネル田んぼ」で、田植えと稲刈りの季節には、ここを管理している筑波大付属駒場中・高校の生徒たちの元気な声が響く。 |

渋谷駅からわずか2km、井の頭線の車窓から見えるケンネル田んぼ
収穫の季節には泥だらけになって稲刈りをする中学生たちの姿が見える
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ここから井の頭線の踏切を渡れば東大教養学部があり、左手に少し歩けば日本民芸館や駒場公園がある。
13 日本民芸館 top

朝鮮の白磁や青磁、琉球の染織物など
各地の民芸品の美しさにふれられる。 |

日本民芸館は、大谷石の外観も美しいが、
建物内部も素睛らしい。 |
大谷(おおや)石を使った蔵造りの美しい建物が印象的である。
ここにあるのは、鑑賞のためのいわゆる美術品ではない。
人々が毎日の暮らしに使うために作った日常品ばかりである。
それなのに、焼き物や織物のこの美しさはどうか。
自らを飾りたてて、美しく見せようとするものにはない、この美しさは何か。
日本のものも素晴らしいが、「朝鮮」のものはさらに素晴らしい。
柳宗悦(やなぎむねよし、一八八九−一九六一)とその同志の人たちの、熱心な収集や研究がもとになって、昭和十一(一九三六)年に開館した。初代館長は柳宗悦。
明治四十三(一九一〇)年八月、日本は朝鮮を完全に併合して植民地にした。
九年後の一九一九(大正八)年三月一日、朝鮮で「独立万歳」の声と共にデモが起きた。
独立運動が全国に広がると、日本政府は軍を出動させて弾圧した。
死者七千五百人、負傷者一万六千人、検束者四万七千人(角川・日本史辞典)。
「当時の日本人に与えた影響はそれほど大きいとは言えない。
当時の日本の学者、文学者、宗教家に、この事件について書いた人は多くはない。
柳宗悦は、この事件に心をうばわれた」(鶴見俊輔『柳宗悦』平凡社ライブラリ)
その五月、柳は『読売新聞』に「朝鮮人を想ふ」を発表した。朝鮮の人々とその美に対する愛と日本政府に対する批判だ。
当時としては、まことに大胆、勇敢な行為だった。次の「朝鮮の友に贈る書」は雑誌『改造』に載ったが、検閲でズタズタに削除された。
大正十二(一九二二)年、柳は、『朝鮮とその芸術』の「序」に書いた。
「軍国主義を早く放棄しよう。弱者を虐げる事は日本の名誉にならぬ。彼等の精神を尊び肉体を保証する事が友誼であると深く覚れよ(中略)自らの自由を尊重すると共に他人の自由をも尊重しよう。
若しも此人倫を踏みつけるなら世界は日本の敵となるだらう。
そうなるなら亡びるのは朝鮮でなくして日本ではないか(後略)」
この人は、沖縄の社会と文化にも深い関心を持ち、戦争の始まる前の年の昭和十五(一九四〇)年には、県知事や警察部長の方針である「沖縄方言撲滅論」を公然と批判した。
このため当局は柳を危険思想を持つ者とみなし、他のいいがかりをつけて拘引(こういん)し裁判所で尋問した(前掲書)。
民芸館で、朝鮮や沖縄の民芸品の静かな美しさを楽しみながら、歴史を想うひとときを持ちたい。
案内
京王井の頭線駒場東大前駅下車、ケンネル田んぼは徒歩3分、日本民芸館は徒歩5分。
14 芦花(ろか)公園 top

徳冨蘆花が晴耕雨読の生活をおくっていた旧宅。
書斎も公開されている。
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旧宅に隣接する史料室では、
トルストイからの手紙などが展示されている。
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明治・大正期の小説家、徳富蘆花(とくとみろか、一八六八−一九二七)の屋敷、庭園を整備して、昭和十三(一九三八)年、公園として公開された。
蘆花は日露戦争が終った次の年、明治三九(一九〇六)年、エルサレムに行き、その帰途、ロシアのヤスナヤ・ポリヤナに文豪トルストイを訪れた。
このときに受けた暗示によって、「自然に還る」ための暮らしをはじめたのが、この土地であった。
「農は神の直参(じきさん)である。
自然の懐(ふところ)に、自然の支配下に、自然を賛(たす)けて働く彼等は人間化した自然である。(中略)
彼等は神の直轄の下に住む天領の民である」(『みみずのたはこと』岩波文庫)
と記して、ここで「田園生活」を送った置花の思想と行動は、様々な面で揺れ動き続けた。
菜食主義は、「全く子供じみたトルストイ模倣の一つ」(中野好夫集『置花徳富健次郎』第二部)だったが、長くは続かなかった。
「百姓生活」にしても、村の人を頼んでの「代耕」で、自らいささか自嘲的に「美的百姓」と表現するほどだった。
正直いって、「偉大」すぎて、不勉強の私にはよくわからない人であるけれど、うっそうと茂る木立のなかに残る古色に包まれた屋敷をめぐりながら、明治・大正・昭和を生きた大人物に思いをはせるのも楽しい。
案内
京王線芦花公園駅、または八幡山駅下車で徒歩13分。
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