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一章 東京で「江戸」をさがす

隅田川の中洲、江戸の漁師町佃島は、東京駅から
わずか2km。高層住宅と江戸の名残のコントラストが
奇妙な景観をつくりだしている。 |

江戸城の石垣。石の大きさと組合わせの美しさに圧倒される。 |
まず、エド・エド・エドと、三回、心の奥でつぶやいてもらいたい。
そう、あなたはいま、東京ではなく、江戸にいるのだ。
いま皇居のあるあたりは、十二世紀頃には、もう「江戸」と呼ばれていたらしい。
「江」とは、日比谷や丸の内ぐら今でくいこんでいた海の「入江」のこと。
その入口つまり「門」の「戸」にあたる場所だから、「江戸」ということになったようだ。
入江に面した、一面ぼうぼうの原野と丘だったところに、初めて館をつくったのは、江戸四郎重継という関東武士だったといわれている。
それから三百年後に太田道灌(おおたどうかん)が城を築き、さらに百数十年後に徳川家康が入城するまでの間、江戸はいくつもの戦乱と武家の興亡を見てきた。
天下を統一して、大阪から全国をにらんでいた豊臣秀吉の豊臣家を滅亡させて、新しく全国を統一した家康は、慶長八(一六〇三)年、江戸に、徳川の武家政権である幕府(政府のこと)を開いた。
江戸は「首都」になった。町はすごい勢いで大きくなっていった。
それまでの中心だった大阪をしのぐ町になっていった。
一口に江戸時代とはいっても、慶応三(一八六七)年、徳川幕府が政治の実権を天皇に返還(大政奉還)して崩壊するまで、二百六十余年もあるのだ。
江戸という時代は、多彩で、ものすごく幅広い。
最盛期には、町人の人口は五十数万、武家とその家族で五十万、商用などで各地からやって来る人も加えればで百万人をはるかに超えた。ロンドンなんかより大きい、世界最大の大都会だった。
それでいて、ロンドンやパリなどよりでずっと清潔な町だったらしい。
海と川と緑の、自然と人工の配分も、当時の絵や文章から判断すると中々のものだった。
読み書きソロバンの能力によって、教育水準も高かった。
さまざまな文化が花開いた。たとえば浮世絵はヨーロッパの絵画に深い影響を与えて、日本文化が流行(ジャポニズム)した時代もあったほど。
いま、日本でもっとも盛んな「文芸」である俳句は江戸文化そのもの。落語にしても江戸の「発明品」だ。テレビで毎日やっているお笑い番組にも、実はそのような伝統が流れているのだ。
もちろん、政治のゆきづまりや失敗もいくらもあった。腐敗もあった。
今の日本にあることのほとんどは、江戸にすでにあった、といってもいいくらい。
人や本に教えられなければわからないことは、たくさんあるけれど、ちょっと意識してまわりを見渡せば、自分自身の力で、まだまだ「江戸」をあちこちに発見することができるはずだ。
まず江戸城から案内しよう。
夏の太陽であぶられて熱い石垣や、冬の風に吹かれて冷えきった石垣に手を触れて、昔を想像してみてもらいたい。
教科書やテレビ時代劇の登場人物も、その石垣に手を触れたことがあるかも知れない。
いのちのない石垣ひとつとも「会話」ができるのも、人間の想像力というものの素晴らしさなのだ。
江戸城の跡が、今の皇居であることはいうまでもないが、しばらくの間、皇居を見るのではなくて、江戸城を歩いているのだ、という風に気分をかえよう。
折りにふれて、視点を自由に移動させるのも、「発見」のための、一つの方法だ。
1 江戸城天守閣 top

二重橋。この前を数々の「歴史」が通り過ぎていった。 |

江戸城大手門。
皇居東御苑の中には江戸時代の遺構が数多く残っている。 |
JR東京駅から歩いてすぐの、一面の芝生と松の美しい、いわゆる皇居前広場は、かつて「西の丸下」と呼ばれて、幕府の重臣の屋敷が並んでいたところ。
お堀にかかる「めがね橋」、その奥の「二重橋」を正面にしながら、ゆっくりと右の方向に大きくお堀端をめぐってゆくと、「皇居東御苑(ぎょえん)」入口の、大手門、平川門に出る。
「東御苑」は、宮中の行事に支障のないかぎり一般公開されている(月・金曜日が休園日)。
ここは、江戸城の中心である本丸、二の丸などのあった場所で、今も当時のさまざまな遺構が残っていて、江戸の昔をしのぶことができる。
なかでも、日本最大の天守閣のそびえていた、東西三十三メートル、南北三十・六メートルの天守台の石垣は雄大だ。高さ五十メートルの五層の天守を支えていただけのことはある。
天守閣は、徳川将軍の権威を天下に誇示するシンボルだったが、明暦三(一六五七)年の正月十八日におきた大火、「振り袖火事」の時に焼け落ちた。
本郷丸山の本妙寺で供養のために焼いた振り袖が空に舞い上がって、火事になったといわれる大火で、数万の死者が出た。
江戸の人たちの面白さは、火事にもアダ名をつけてしまうことにも表れている。
江戸文明の最大のアキレス腱は、何度も繰返される大火たった。それほど火事が多かったわけだ。
「江戸の家は七年に一度の割で焼ける」とは、作家、丸谷才一さんの名作『忠臣蔵とは何か』(講談社交芸文庫)の一節だ。
木造家屋の大都会がかかえるこの深刻な問題は、いまなお「マンモス東京」に、かなりの部分、そのまま残っていることを、あらためて意識しよう。
幕府の中に、天守閣を再建しよう、という意見もあったが、もはや戦乱の時代は終ったのだし、財政も苦しい、という意見の方が勝った。
表面が焼けただれた石垣だけを、修築した。いまある石垣がそれだ。
みごとな石組みの間から、そんな議論の声や、石職人や人足たちの掛け声がきこえてくるかも知れない。
歌舞伎や映画や小説で有名な物語、『忠臣蔵』の発端になる、「松の廊下」のあったところには、その場所を示す小さな標石があるだけ。
元禄十四(一七〇一)年三月十四日、殿中で刀を抜いたら死罪、という厳しい定めのある江戸城中で、赤穂藩主・浅野内匠頭(たくみんかみ)長矩(ながのり)が刀を拔いて、幕府の儀式・典礼の指導役である高官、吉良上野介(こうずけのすけ)義央(よしなか)に斬りつけた。
ふすまに松の絵が描かれていることから、「松の廊下」と呼ばれていた、幅二間半、長さ二十六間の畳敷きの廊下での事件だった。
なんでそんなムチャをしたのか、真相はわからない。
京都の朝廷から、天皇の使いである勅使を迎えて緊張した城中で、二人の間にはイライラした気分が高まっていたようだ。
浅野は勅使接待の責任者であり、吉良は代々、儀式などの進行・作法などを伝え、指導してきた家の主。
つまり、吉良は大名の浅野を指導する立場にあった。しかも吉良は「威張りたがり屋」であり、浅野は気の短い人物だったらしい。
浅野長矩は即日、切腹させられた。浅野家は断絶、赤穂城は明け渡し、領地没収の裁決を受けた。
この話のつづきは、「泉岳寺」(せんがくじ)の項でまたする。
三百年近い昔でも、この種のニュースの伝わるのは早いこと。
尾張・名古屋の武士は日記に、「江戸に喧華(ケンカ)あり」という書き出しでちゃんと記している(神坂次郎『元禄御畳奉行の日記』中公新書)。

江戸城天守閣跡。天守台は東西33メートル、南北30.6メートル。 |

江戸城富士見櫓。明暦の大火で天守閣を消失してからは、
富士見櫓が天守閣の役割をはたした。 |
白壁の美しい三層の建物は、ほとんど昔のまま現存する数少ない建物の一つ、「富士見櫓(やぐら)」だ。
「振り袖火事(明暦大火)」のあとは、この三重櫓が天守閣の代用にされた。
遠く、富士山も秩父連山も筑波山も見えたそうだ。
このほか、大番所、百人番所、同心番所などの、重厚な瓦屋根の建物も、ほとんど昔のままで興深い。
甲賀組、根来(ねごろ)組、伊賀組と、忍者もの映画に出てきそうな警護の役人(同心)たちの詰め所だった。
桜田門(正式には外桜田門)をはじめとするいくつかの巨大な門や、お堀と石垣などには、ほぼ往時のままの面影が残る。
桜田門もまた、のちに詳しく述べるように、日本の歴史を変える大事件の舞台になる。
皇居を、江戸城という名前で改めて見直すと、思ったよりはるかにたくさんの「江戸」が残っ
ていることに、びっくりする。
江戸城は、徳川政権が安定して、日本中に権力が行き渡ると、戦争のための城としての役割は早いうちになくなり、巨大な「官僚機構」が集中した「官庁」としての性格を強めていった。
全国各地で、それぞれの領地で権力を握る大名は、ときによって増減はあったが、二百六、七十前後だった。
その大名たちの上に徳川の将軍が君臨していた中央集権国家は、巨大な官僚国家であった。
日本の近代は、江戸時代にすでに下地が「用意」されていたという説は、そのようなところからも出てくるわけだ。
朝鮮使節や琉球(沖縄)使節も、この城に入って将軍にあいさつをした。
そんなことをも想像すると、朝鮮や琉球の使節とは何だったのかしらと、新しい知識欲もわいてくる。
いろいろな歴史に関心が広がってゆくのも、想像力の持っている重要な力なのだ。
オランダ人は例外として、外国人が来るのも、外国に行くのも禁止していた「鎖国」のもとでも、江戸本石町の長崎屋ではオランダ人たちと、日本の知識人たちの交流は、けっこう盛んだった。
故障した「摩擦起電機(エレキテル)」を修理して、日本で初めて人工的に発電するのに成功した天才・平賀源内もそのひとりだった。
オランダ人に「寒暖計」を見せられた時に、初めて目にしたのに、その場で原理を見抜いたりした話が伝わっている。
「鎖国」ではあったけれど、私たちの先人の好奇心と知性は、「小さな窓」から、かなりのものを摂取していたのだ。
そうでなければ、明治維新のあと、あんなにも急激に西洋の文化・文明を取入れることなんか、できたはずがない。
私たちは「江戸の延長線上」に生きているともいえるのだ。
うんと身近な例でいうなら、毎日のように食べている「佃煮」は、今も中央区佃島として名前の残る江戸時代の漁師町で作られたから「佃煮」なのだ。
「江戸前のすし」は江戸の前の海でとれた新鮮な魚のすし、というわけだ。
私たちは、このように意識しないで、「江戸」を食べているのである。
心の中にも、形の上にも「江戸」は、今なお残っているのだ。
江戸時代三百年の歴史は、映画じやあないけれど、本当にオモシロイ。
案内
東御苑は、地下鉄東西線竹橋駅、同千代田・丸ノ内・東西・半蔵門・三田線大手町駅から歩いてすぐ。
2 徳川将軍をさがす top

龍の彫刻が日光東照宮を想わせる寛永寺の厳有院霊廟。 |

西の比叡山延暦寺にならって名付けられた東叡山寛永寺。 |
旧・江戸城の石垣で将軍の姿を想像するのが難しいならば、将軍のお墓にいったらどうだろう。
家康にはじまり慶喜(よしのぶ)に終わる十五人の徳川幕府の将軍は、家康と三代目の家光の二人が日光山に葬られた以外は、みんな江戸の寺に埋葬された。
家綱(いえつな)、綱吉(つなよし)、吉宗(よしむね)、家治(いえはる)、家斉(いえなり)、家定(いえさだ)の六人は、上野・寛永寺に、秀忠(ひでただ)、家宣(いえのぶ)、家継(いえつぐ)、家重(いえしげ)、家慶(いえよし)、家茂(いえもち)の六人は、芝・増上寺に葬られている。ただし、「最後の将軍」慶喜(よしのぶ)だけは、谷中(やなか)の墓地だ。
「上野の山」のいちばん北よりに広がる寛永寺は、家康(一五四二〜一六一六)の意を受けて僧・天海(一五三六?〜一六四三)が創建に着手した。
京都御所の「鬼門」(中国から渡ってきた説をもとにした古凶を占う方法で、悪鬼がいるとされる北東の方向)にあたる場所に、悪鬼から御所を守るために比叡山延暦寺があるのと同じに、江戸城の鬼門にあたる上野にも城を守護する寺が置かれたわけだ。
上野の山のすぐ下の、江戸湾の名残である不忍池(しのばずのいけ)を、比叡山のふもとの琵琶湖になぞらえた。
元禄の綱吉の頃には、百二十万平方メートルの寺域に巨大な伽藍(がらん)がいくつもそびえ立っていた。大火で焼けて再建されたものもふくめて、明治維新のときの「上野戦争」(一八六八年)でほとんどが焼失した。
「上野の山」には、昔の建物が数はあまり多くはないが、点々と残っていて、往時を偲び想像する手がかりになっている。
家綱の厳有院霊廟(国重要指定文化財)など歴代将軍たちの霊廟や墓所は、将軍それぞれの治世やゴシップを知っていれば、おおいに想像力をかきたててくれる。
たとえば、五代将軍の綱吉は、幼いころから学問(儒学)好きで知られ、将軍の位につくと、幕府直轄領の勤務不良の代官(年貢取立て、土木工事などの役人)を大量に処分したりして、かなりの「改革」を進めた。
「英明」をたたえられた綱吉だったが、のちには、犬を異常なほど大切にして、町の人々に、「犬公方(くぼう)」とアダ名をつけられた。「公方」とは将軍のこと。
この将軍が出した「生類憐(しょうるいあわ)れみの令」は、江戸期を通じて最悪の悪法だった。
元禄八(一六九五)年には江戸郊外の中野に野犬収容所を作り、最高四万頭を越す犬を収容したほど。
現代の感覚で、単純に、犬を大切にするのはいいことなのに、などと考えたら困る。その巨大な費用は、江戸や関東の村々の大変な負担になったのだから。しかも、犬を殺傷すると厳しい刑を受けた。
「犬公方」は、やがて貨幣の質を落としたり、一部の役人や悪徳商人と腐敗した関係を持つようになってゆき、悪評のうちに世を去った。

谷中霊園の徳川慶喜の墓は、
他の将軍の墓にくらべとても質素なものだ。 |

増上寺本堂右奥に徳川家の霊廟がある。
すぐ後ろに東京タワーがそびえている。

東京タワーよりのぞむ――写真中央が芝増上寺、
左が東京プリンスホテル、右隅が東照宮、左奥の緑が浜離宮。
2棟の高層ビルは世界貿易センターと東芝本社ビル。 |
徳川第十五代将軍の徳川慶喜(よしのぶ)は「最後の将軍」だ。
明治維新で、天皇に政治の実権を返還して、徳川幕府の、というよりは、長らく続いた「武家政治」の最後の将軍となった。
水戸藩主の子であるこの人物は、維新の激動の中で将軍になり、フランスと結んで幕府軍を洋式の軍隊に改革した。
「王制復古」のもとで、なお徳川家の権力を保持しようとしたが、京都の鳥羽・伏見の戦いで幕府軍は大敗した。
慶喜は軍艦で江戸に帰還し、寛永寺に引きこもって謹慎してしまった。こ
こに、徳川家の権力は、完全に崩壊したのだった。
そしてこの人は、幕府の権力を奪った側の主だった人たち、たとえば西郷隆盛(たかもり)、大久保利通(としみち)などよりも長生きして、日清・日露戦争の結果も見とどけ、中華帝国最後の清王朝が倒れるのも見た。
大正二(一九一三)年、七十七歳で没した慶喜は、徳川家歴代の墓地には入らず、生前に自分自身で選んでおいた谷中(やなか)の墓地に埋葬された。
ほかの将軍たちの華麗な墓にくらべれば、ずっと飾り気のないその墓は、歴史と人間の生き死にについて、想像をめぐらすのに絶好の場所だ。
寛永寺にかぎらないけれど、古いお寺や文化財を拝観する時には、エチケットがとても大切だ。場所ごとの「きまり」を守り、静かに、敬意をこめて拝観する。
想像力とは、ただ昔の姿を思い描いてみるだけではなく、大勢の人々が、長年にわたって維持、保存してきた大変さについて考えてみることでもある。
さてここで、上野公園からちょっと離れてみよう。東京タワーのすぐ下に広がるのが芝・増上寺(しば・ぞうじょうじ)だ。
幕府の保護のもと、幕末には数十万平方メートルの寺域に壮麗な七堂伽藍(がらん)が立ち、六代にわたる将軍の霊廟(れいびょう)が並んでいた。
お坊さんたちの勉強のための学寮も百前後におよび、最盛期には、学徒(所化=しょけ)三千人といわれたほどだった。
当時の建物としてまず目につくのは、正面入口にそびえる朱塗りの三解脱(げだつ)門(略称、三門)だ。
「解脱」とは、仏教の言葉で、この世の迷いや苦しみなどから抜けたして、本当の意味で自由な境地に達すること。
慶長十九(一六一四)年に強風で倒壊して七年後に再建された。高さ二十一メートル、間口十九・五メートル、奥行き九メートルの二階二重門だ。
将軍の壮麗な霊廟のほとんどや建物の多くは太平洋戦争のときの米軍爆撃機B29などによる空襲で燃えてしまった。この門は、数少ない残ったものの一つだ。
東京プリンスホテル東側にある、七代将軍・家継の墓所、有章院霊廟の総門だった「二天門」は、銅瓦ぶきの華麗な建物(国重要文化財)だ。
さらに、ゴルフ練習場を背に、華麗な姿を見せているのは、二代将軍・秀忠の墓所だった台徳院霊廟の正門。
入り母屋唐破風(からはふ)、銅板ぶきで、これも国重要文化財だ。
東京タワー、ホテル、ゴルフ練習場と「江戸」の組み合わせは、まさしく、私たちの想像力と、日本の、古い文化財の保護のあり方が、厳しく試されている感じだ。

三代将軍家光が植えた大イチョウは樹齢360年。

上野東照宮参道にならぶ石灯篭。諸大名に寄進させた
石灯篭が約280基、青銅の灯篭も約50基ある。 |

上野東照宮の灯篭。葵の紋が灯篭にも彫られている。 |
東照宮の境内には、寛永十六(一六三九)年に三代将軍・家光が植えたという巨大なイチョウの木が葉を広げている。
高さ二十五メートル、根元の周囲十メートル、都指定天然記念物、樹齢三百六十年のイチョウはここで、さまざまな歴史を目撃してきた。
「東照宮」ときいて、オヤ、と思う人もあるだろう。東照宮は日光ではないのか。
元和二(一六一六)年に死んだ家康は、出身地の静岡の久能(くのう)山に葬られたが、間もなく日光山に改葬された。
これが日光・東照宮。
そののち全国各地に家康の霊をまつる「東照宮」が造営されて、一時は五百を越えたらしい。江戸では、江戸城内、芝・増上寺、浅草・浅草寺、上野の寛永寺など。現在でも全国で百以上あるといわれる。
ちょっと断っておくけれど、東照宮は神社なのだ。亡くなった人は「仏」になるのが普通だが、家康のような「偉い人」は「神」にもまつりあげられるのだ。家康より前の豊臣秀吉も、「神」になって京都の豊国神社にまつられている。
家康も秀吉も、お墓の方は「仏」だが、神社の方では「神様」になっているわけだ。
これは日本の文化の一つの個性といっていいかも知れない。ヨーロッパでは、偉い宗教家などが死後に「聖人」としてまつられることはあっても、「神」になることはない。
案内
寛永寺はJR鴬谷(うぐいすだに)駅から歩いて5分。上野駅から上野公園を散策してゆくのもいい。
芝・増上寺は、亅R浜松町駅下車徒歩8分。
または、地下鉄日比谷線神谷町駅(徒歩10分)、地下鉄三田線御成門駅・芝公園駅、同浅草線・同大江戸線の大門駅から歩いてすぐ。
3 「天下太平」の“影”を歩く top

丸橋忠弥の墓のある目白不動。 |

半蔵門からながめる桜田濠。
秋には彼岸花がむらがり咲いて美しい。 |
江戸時代二百六十余年は、おおむね「天下太平」だったけれど、家康が征夷大将軍になって江戸に幕府を開いて以後、初期の将軍の時代には、結構、大きな戦いや事件が天下を揺さぶったのである。
三代将軍・家光の寛永十四(一六三七)年に九州で起きた「島原の乱」は、武士と農民がいっしょになって幕府に背(そむ)いた一揆(いっき)であり、「宗教戦争」だった。
室町時代末期の十六世紀に、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に渡来して、初めてキリスト教が日本に伝えられた。
キリストといういい方がなまって「キリシタン」と呼ばれるようになった信徒は次第に増え、大名の中からも信徒の「キリシタン大名」が現れるまでになった。
まず秀吉がこの宗教を禁じた。さらに徳川の時代になっても禁制は続いた。
九州の島原半島と天草は、「キリシタン大名」の旧領だったためキリシタンの農民が大勢いた。
この農民たちは、幕府の禁制と、領主の過酷な政策に不満を持った。
島原の農民が立ち上がると、武家の出の天草四郎を首領に天草の農民も加わり、さらに近隣の浪人たちも参加して原城に立てこもっだ。
幕府はこれを鎮圧しようとしたが苦戦し、十二万余の軍勢で取り囲んで、やっと落城させた。
三万余といわれる参加者は、皆殺しになった。
「キリシタン禁制」は、このあと、さらに厳しくなった。
「鎖国」(この言葉は、幕末に開国の騒ぎが起きた時に、幕府批判の意味をこめて使われるようになったもので、初めからあった言葉ではない)は、この禁制と、九州地方の大名が外国貿易で豊かになるのを防ぐために、幕府がとっだ政策だった。
まず西洋との貿易を平戸・長崎の二港に限り、次ぎにイスパニア(スペイン)と断交し、さらにポルトガル船の来航を禁正し、オランダ人を長崎・出島に移して、ここをヨーロッパとのただ一つの窓口にした。
もちろん、日本人の海外渡航は厳禁だ。
「島原の乱」から十四年後の慶安四年、江戸を中心に「慶安事件(由比正雪(ゆいしょうせつ)の乱)」が起きた。
軍学者として江戸に塾を開いていた由比正雪、お茶の水に槍の道場を開いていた丸橋忠弥たちが中心になって、江戸の水道に毒を投げ込んだりして江戸城を襲う計画を立てた。しかし、事前に発覚して、自殺したり、処刑されたりして終った。
この計画には、おりからの世相を反映して、かなりの浪人が加わることになっていたらしい。
天下分け目の「関が原の戦い」のとき、徳川側にいた大名を「譜代(ふだい)大名」といい、戦いのあと徳川方に従うようになった大名を「外様(とざま)大名」という。
当然のことだが、徳川幕府は、「譜代」を大切にし、「外様」を冷たくあしらった。
三代将軍・家光の時代までに、大勢の「外様大名」が領地を取上げられた(改易(かいえき)という)。
領地がなくなるということは、そこに仕えていた大勢の武士が、職を失うことを意味する。現代でいえば、会社が倒産して、そこの社員が失業するのと同じだ。
失業した武士、つまり浪人の問題は、江戸時代を通じて、社会不安につながる、深刻な「失業問題」だった。
「慶安事件」もそのような社会的な背景の中から出てきたわけだ。
この事件は、ひところのチャンバラ映画には、やたらに登場したものだが、最近はすっかりごぶさただ。人気のあったのが丸橋忠弥だった。
江戸時代にも物語になっているが、幕府に遠慮して別名になっている。実
名になっだのは、明治になってからの芝居で、忠弥が江戸城の堀に石を投げ込んで、水音で深さを計ろうとする場面が有名だ。
よく映画にもなったのは、道具だてが派手だったせいだろう。
米丸橋忠弥の墓は、豊島区高田一丁目の金乗院(目白不動)にある。
忠弥は槍の名人だがオッチョコチョイだったらしく、逮捕に向かった連中が道場の外で「火事だ!」と騒ぎ、飛び出してきたところを捕まえたという「伝説」もあるそうだ。
鈴ヶ森で磔になり、首はさらされた。のちに一族の子孫が、この墓を作ったと伝えられている。
「目白不動」というのは、仏教を守る神の一つである「不動明王」がまつられている寺で、「目白」という地名の起源がこれ。不動明王には、目黒、目白、目赤、目黄、目青の五色の目の色があることからきた。
案内
金乗院は、JR山手線目白駅下車徒歩12分、または都電荒川線学習院下駅からは歩いてすぐ。
4 大名屋敷をさがす top

将軍家の鷹狩り場だった浜離宮では
鷹匠による放鷹術の実演が行われる。 |

六義園は、川越藩主柳沢吉保が築園した「回遊式築山泉水庭園」。 |
城下町としての江戸の町は、武家、寺社、町人の地域の三つでできていた。
その中で最も広かったのは武家地で、江戸全体の六割以上を占めていたらしい。
武家地は、@徳川家に仕える、「直臣」の旗本や、旗本より身分の低い「御家人」たちの屋敷、
A地方の大名の大名屋敷、の二つに分かれる。
家康が天下を取ると、各地の大名は忠誠を誓うために、江戸に屋敷を造り、自分の親族などを「人質」のようにして住まわせた。
やがて、地方の大名たちに一定の期間、江戸で暮らすことを義務づけた「参勤交代」制度が確立すると、大名に従って上京して来る家来や、江戸常駐の家臣たちで、大名屋敷の人口はふくれあがり、屋敷の規模も大きくなった。
大名屋敷は三百ほどもあったという。はじめの頃の屋敷は、江戸城本丸御殿にならったような豪華な建物で、彫り物や金箔で飾りたてられていた。
しかし、天守閣も焼けた「明暦大火」、俗にいう「振り袖火事」は、江戸の姿を一変してしまった。
当時の大名屋敷は大半が焼けてしまった。いまは一つも残っていない。
大火以後再建された大名屋敷には、前のような豪華版はなくなった。いまわずかに残るのは、大火以後のものばかりだ。
大名屋敷は、@藩主やその家族が住む公邸の上屋敷、
A隠居した藩主や後継ぎなどの住む中屋敷、
B郊外や海浜に設けられた休息用の別邸である下屋敷、の三種類があった。
隅田川が東京港に流れ込むあたりに広がる旧浜離宮(はまりきゅう)恩賜(おんし)公園は、元禄時代の老中・大久保忠朝の上屋敷だったところ。
明治初めに皇族の離宮になり、関東大震災で建物が焼失したあと、昭和天皇ご成婚記念に東京市に寄贈された。
海水を引入れて池にした、歩いて回る回遊式庭園で、大名屋敷の庭園の中でも規模の大きなものとして有名。ゆっくりめぐり歩けば、大名気分が味わえるかも知れない。
この公園で、「鷹匠(たかじょう)実演会」が開かれている。
鷹狩りは古代から行われてきた遊びの狩りだ。江戸時代の大名たちは、ときに郊外の山野に出て、小動物を捕獲するように訓練した鷹を使って狩りをした。特に家康は大好きたった。のちに幕府の年中行事になって明治維新まで続いた。
「鷹匠」とは、鷹を訓練して、扱う専門家の名前。将軍の鷹を預かる役目だから権威があった。
いまは宮内庁に残るのみだ。(東北地方に、技術を伝承しようと努力している人がいるのを、テレビで見たことがある。)
駒込の六義園(りくぎえん)は、五代将軍・綱吉に重く用いられた柳沢出羽守吉保(よしやす)の別邸跡だ。
「回遊式築山泉水庭園」の典型で、ここもめぐり歩くのが楽しいところ。
「六義」というのは、中国の古典「詩経」にいう、風・雅・頌・賦・比・経のこと。
吉保といえば、綱吉に異常なほど可愛がられて出世したために、当時から策謀家のようにいわれて評判が悪く、後世になってもチャンバラ映画などでは悪役にされてきた。
ところが実際の本人は実直な人間だったらしく、甲斐(かい)国(山梨)の領民に人気はあったし、学問を好み、詩歌のたしなみもあったのである。人間の評価の仕方とは、難しいものではないか。
江戸時代最高の儒学者である荻生徂徠(おぎゅうそらい)を召しかかえていたことでも知られる。
徂徠といえば、芝・増上寺の近くで苦学をしていた頃、豆腐屋がオカラを毎日ただでくれたのを食べていた、という話が伝わっている。
オカラは中々重要な食べ物だったのである(近代になっても、近年までずっとそうだった。特に太平洋戦争の末期から戦後にかけて、食べ物がない時代には貴重たった)
のちに出世した徂徠が、その豆腐屋に恩返しをするという『徂徠豆腐』という題の講談もある。当時の江戸で、一般の庶民の間で最も人気のある学者だった。
「人気学者」がいたというのも、江戸文化の面白さだ。
確かに、頭のなかの想像力は、日本よりも世界よりも、広いはずだ。
初めて大学にいった三四郎は、池のほとりに立って、じっと池の面を見つめる。大きな木が、いく本となく水の底に映って、そのまた底に青い空か見える。
そういえば、漱石は、慶応三(一八六七)年、江戸・牛込(うしごめ)に生まれた「江戸」の人なのである。
英文学や漢詩の大家である作家の中に、「江戸文化」もまた濃密に流れているのだ。
もういちど上野に戻って、国立博物館の正門の近くにある旧因州(いんしゅう、鳥取)池田屋敷表門だ。
もとは丸の内の東京会館のあたりにあったのが、明治になって高輪(たかなわ)に移されて、高松宮邸の表門に使われた。
鬼瓦の菊の紋章はその時のもの。昭和二十九(一九五四)年、今の場所にやってきた。
江戸末期の建物らしいが、両側に、唐破風(からはふ)の屋根をのせた出番所が、因州池田家三二万石の格式を示している。
案内
浜離宮恩賜公園は、JR新橋駅から徒歩15分。ゆりかもめ、地下鉄大江戸線しおどめ駅からすぐ。
六義園へは、JR山手線、地下鉄南北線駒込駅から歩いて5分。
「赤門」は、地下鉄丸の内線本郷三丁目駅、同南北線東大前駅から徒歩8分。
池田屋敷表門は、JR鴬谷駅が近い。
5 『忠臣蔵』をさがす top

「忠臣蔵」の刃傷事件の「松の廊下」跡。いまは何も残っていない。 |

本所松坂町吉良邸跡は、両国駅の南側、歩いて約5分のところ。

吉良邸跡の一角に首洗い井戸が残されている。 |
江戸城天守閣跡の石垣を見た皇居東御苑に「松の廊下跡」の石標のあること、そこで起きた事件のことは、前に述べた。
江戸城内で主君が事件を起こして切腹してから一年十ヵ月のち、またも大事件が起きた。
主人も城も失った旧・赤穂(あこう)藩浅野家の浪人たち四十七人が、元禄十五(一七〇三)年十二月、江戸の吉良(きら)邸(現在の本所松坂町公園のあるところ。公園は当時の吉良邸を縮尺して復元した)に討ち入り、吉良を殺して首をとった。
一行は、芝・高輪の泉岳寺にある主君の墓の前に首を供えて、うらみを晴らしたことを報告した。
そのあと、一行は大名屋敷に分散して預けられて、幕府の処分を待つことになった。
城内で斬りつけられながら、吉良は軽いケガをしただけで助かった。
しかも、「ケンカをしたら両方とも処罰」の「ケンカ両成敗(せいばい)」の定めが昔からあったのに、将軍・綱吉の独断で、吉良は何のとがめもなく、浅野は切腹になった。この処分に、江戸の民衆は「不公平だ」と、ひどく不満を感じていた。
それだけに、赤穂・浅野家の浪士たちの討ち入りは、民衆を喜ばせた。「めでたく主君の仇をうった」忠義の士とほめ称えて、「義士」と呼んだ。
浪士たちの行動も、民衆の支持も、幕府による不公平な処分に対する、間接的な批判という面があったわけだ。
それだけに、幕府は「世論」を気にして、中々処分を決められず、幕府内では「助命論」の方が盛んだった。
「松の廊下」の事件のあと、即座に切腹を命じてしまった自分の処分を、失敗だったと「反省」していた綱吉もそれを期待したらしい。
その時、理論的な「法治主義」を掲げ、「義士として切腹させるべきだ」と主張したのが講談『徂徠豆腐』の主人公、大学者のかの荻生徂徠(おぎゅうそらい)だった。
これを許せば、徒党を組んでこのような行為をすることを許すことになる。
むしろ、武士の罪に対する正式な処分である切腹に処して、「義士」として死ぬことの方がためになる、というのだ。

泉岳寺。
大石内蔵助や赤穗浪土たちの墓は、いまも参る人がたえない。 |

泉岳寺。
四十七士の討入のようすを伝える史料が展示されている。 |
発端となった江戸城中の事件から二年後、討ち入りから一ヵ月半後、元禄十六(一七〇三)年二月四日、一同はそれぞれに身柄を預けられた大名屋敷で切腹した。
遺体は、芝・高輪の泉岳寺の、主君の墓と並んで葬られた。
江戸城内「松の廊下」にはじまり、切腹に終ったこの事件は、やがて大阪で劇化されて「浄瑠璃」に、さらに歌舞伎にもなって大ヒットし、今に続くのだ。
『忠臣蔵』が今も人気があり、泉岳寺には線香の煙が絶えないのはなぜか。江戸のすべてと、人間とこの世のすべてが、その中にあるせいかも知れない。
事件について考えた本はいっぱい出ているから、ぜひ読んでもらいたい。
なかでも、前にも触れた、丸谷才一さんの『忠臣蔵とは何か』(講談社文芸文庫、または『丸谷才一批評集』3、文芸春秋、に収録)は、知的スリル満点だ。
この事件に関心があろうとなかろうと、実に面白い必読の本である。
松島栄一さんの『忠臣蔵−その成立と展開』(岩波新書)も、全体をつかむのにいい。
案内
吉良邸跡は、JR総武線両国駅下車徒歩5分。
泉岳寺は、地下鉄浅草線、京浜急行本線泉岳寺駅下車歩いてすぐ。
6 街道や宿場を「旅」する top

五街道の起点、日本橋。
いまは高速道路に押しつぶされ、無惨な姿になった。 |

深川の庵をあとにした松尾芭蕉は、
この千住より「奥の細道」へと旅立った。 |
江戸時代の人々の旅の姿をしのぶには、まず紀行文を読むのがいい。
たとえば、松尾芭蕉の『奥の細道』。江戸の千住(せんじゅ)を出発するにあたって、こう記す。
「前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の涙をそそぐ」
旅をするには、「決死の覚悟」が必要だったのである。
旅は、許可が必要だった。家や土地の持ち主である「大家」(おおや)や「名主」(なぬし)や自分の家の墓のある寺(檀那寺=だんなでら)に、旅行用の許可証(往来切手、関所切手)を出してもらわなければならない。
それがなければ、道中のあちこちに設けられていて、通行の取締りにあたった役所である「関所」を通過できない。
病気になっても、医者にかかれるかどうかわからない。旅先で、涙をのんで死んだ人も大勢いたことだろう。
お金も衣類も雨具も、なにもかも持って、ただひたすらテクテクと歩くしかない。カゴや馬は金がかかるから、よっぽどの金持ちでなければ使えない。
武士たちにしたって、カゴや馬は殿様や上級武士だけだ。一般のサムライたちは、重い刀を腰にして、ひたすら歩きだ。
ザックを背負って歩く今の登山者たちよりも、はるかに厳しい旅だった。
「先のことを考えると、胸がいっぱいになる」という芭蕉の言葉は、実感だった。
同時に、今の私たちが完全に失ってしまった、旅の楽しさというものも、あったのだろう。
私たちの旅というものを、もう一度、考え直すために、東京で江戸時代の「旅」を探してみたら、結構あるのだ。
「天下分け目」の関ヶ原の合戦(一六〇〇年)に勝った家康は、全国支配のために江戸からの街道の整備に力をいれた。
こうして、江戸・日本橋を起点にした主要幹線道路が五本、整備された。「五街道」と呼び、幕府の道中奉行が支配した。
@東海道−江戸・日本橋から京都まで。
A中山道−江戸から浦和、軽井沢、塩尻、木曽などを経て琵琶湖畔の草津で東海道に合流する。
B日光道中−江戸から宇都宮までは奥州道中と重なるが、そこで分かれて日光まで。
C奥州道中−江戸・千住から陸奥(むつ、青森)・白河まで。三厩(さんまや、津軽半島)までをさすこともある。
D甲州道中−江戸・日本橋から内藤新宿(今の新宿)や甲府を経て下諏訪で中山道に合流するまで。
宿場は、一定の数の人と、馬を用意するように義務づけられていた。大名と大勢の家来たちが、藩の「首都」と江戸を往来する「参勤交代」の定着によって、宿場の規模は大きくなっていった。

道路拡張などで姿を消した一里塚。
今も残るこの西ヶ原一里塚は貴重な遺跡だ。
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板橋宿は、旅篭屋が50数軒もならんで賑わったという。
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江戸・日本橋を距離(里)の起点に、街道には一里(四キロ)ごとに塚が築かれた。
塚の上にはエノキ(榎)が植えられた。
今では道路の拡張工事などでほとんどが消えてしまった。
志村の「志村一里塚跡」などを残すにすぎないのは、残念だ。
この五街道の最初の駅は、東海道が品川、中山道が板橋、奥州・日光道中が千住、甲州道中が上・下高井戸(のちに内藤新宿に)の「江戸四宿」だった。
「もう会えないかも知れない」と名残を惜しんで江戸を出た旅人は、最初の一夜を、品川や板橋などで明かす。
宿場は、たくさんの宿屋(旅籠屋=はたごや)が軒を連ねて、金をとって男たちの相手をする「女郎」たちも大勢いた。
たとえば最盛期の品川宿には、旅籠屋は二百軒近くもあったらしい。
「江戸四宿」は、地方からやって来る大名行列が、江戸に入るために身なりを整える場所でもあった。
板橋は、石神井(しゃくじい)川にかかる板の橋に由来するのだが、今そこにかかっているのはコンクリート製の橋だ。
そのあたりにはかって、役所や旅籠屋が並び、役所の命令や規則などを記した木製の掲示板(高札=こうさつ)が高札場に立っていた。

旧甲州街道と府中街道の交差点角に残る府中宿高札場。
ここに「高札」がかかげられた。
大国魂神社の立派なケヤキ並木がすぐそばにある。 |

甲州街道駒木野宿にあった小仏の関。
手つき石と手形石が残されている。 |
高札場の姿は、甲州街道の府中宿(府中市内)に復元されているものでしのぶことができる。
東京近郊の埼玉県に住んでいる私の、休日の散歩のコースの一つは、中山道だ。
太平洋戦争が終って間もない子供の頃には、道の両側に、古い商家がいくつも残っていたが、今ではほとんどビルになってしまった。
それでも、調宮(つきのみや)神社とか玉蔵院(ぎょくぞういん)という、古い神社やお寺が残っているので、秋の一日など、ゆっくり歩いていると、昔の街道の風景が、幻のように浮かんだりする。
関所は、たとえば、八王子市と神奈川県津久井(つくい)郡相模湖町の境にある小仏(こぼとけ)峠(標高五百九十メートル)のふもとにある、小仏関(駒木野)の跡でしのぶとしようか。
ここは、江戸に入るときの関東四関の一つだった。ほかの三つは、箱根、碓氷(うすい)、栗橋たった。
日本橋は、文化三(一八〇六)年の記録によると、長さ二十八間(約五十一メートル)、幅四間(約八メートル)の木造だった。
今の日本橋は、高速道路の下になってしまって、なんとも哀れな姿だけれど、昔の橋は浮世絵でもわかるように、堂々としたものだった。
このあたりは大きな商店が軒を並べて、日本一の繁華街たった。威勢のいい魚市場もここにあった。
同時に、幕府の政策や法律を一般に知らせるための、最も重要な「高札場」もここに置かれていた。
江戸の下町は、江戸湾岸を埋め立てた場所に開けたから、運河が縦横に走っていた。従って橋が多かった。
日本橋にしても、もとの川を広げて水運の動脈にした上にかけられた橋だ。
墨田川には、千住(せんじゅ)大橋、両国橋、新大橋、永代橋、大川橋(吾妻(あづま)橋)の五橋がかかっていた。
いま、そのあたりに鉄製の近代橋がかかっているが、名前は昔のままだ。
新橋、京橋、一ッ橋、という今の地名だって、昔、橋のあった名残なのだ。
「佃煮」(つくだに)は、隅田川河口の島たった漁師町の佃(つくだ)で、江戸湾の小魚を煮だのが始まり。
だから、「佃煮」を食べる人は、江戸の歴史も一緒に食べているわけだ。
昔、この島への往来のために渡し船が設けられた。この伝統は、ずっとのちに、埋め立てで島が消えてからも残った。
私が新聞社の社会部記者として、築地(つきじ)警察署などを担当していた、昭和三十九(一九六四)年、東京オリンピックのころも、ポンポン蒸気の小さな船が、聖路加(せいろか)国際病院の近くの岸から、対岸の佃をつないでいたのだった。
夕刊の仕事が終ると、競争相手である他紙の「サツ回り」(警察担当の記者のこと)仲間と連れ立って、船に乗って、佃の銭湯に汗を流しにいったものだ。
人も自転車もイヌも一緒に、暮れなずむ川面を渡ってゆくさまは、懐かしくも情緒のある光景だった。
それも、佃大橋の開通で消えてしまった。

映画「寅さん」の舞台。葛飾柴又と「野菊の墓」の舞台、
松戸矢切を結ぶ、矢切の渡し。
手漕ぎのわずか10分の船旅だが、江戸の情緒を味わわせてくれる。
そんな風景が、いまわずかに残るのは、かの「フーテンの寅さん」の、ご存じ葛飾区柴又(しばまた)は帝釈天(たいしゃくてん)にほど近い江戸川の、「矢切(やぎり)の渡し」である。
寛永八(一六三一)年に始まったという古い渡しは、古式豊かな手漕ぎの舟。
天気のいい日は、観光客でにぎわっている。
利根川は昔、江戸湾に注いでいた。
このため、しばしば洪水をおこした。
この川の治水は、政治にとって大問題だった。
そこでまず、利根川の流路を変えて、鬼怒川(きぬがわ)、霞ヶ浦などの水を合わせて銚子から太平洋に注ぐようにした。
これが今の利根本流である。
いささかおおまかにいえば、元の利根川の名残が今の江戸川なのだ。江戸時代には農産物を江戸に運ぶ舟で大にぎわいだった。
「矢切の渡し」の舟で、心地よい川風に吹かれながら、私たちは、昔の人の治水や、川・運河による輸送の苦心を、しのぶこともできるのだ。 |

千住の旧街道ぞいには、宿場町の面影をのこす
家並がまだ数多く残っている。
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帝釈天は江戸名所の一つとして、古くから知られてきた。除病・延寿のご利益(りやく)ありで、にぎわってきた。
最近では、映画『男はつらいよ』で、さらに有名になった。
主演の渥美清さんが、一九九六年に世を去ってしまっだのは寂しいことだけれど。

安政元(1854)年に完成した第3台場。
高さ約10mの石垣に砲台が築かれ、内部は鍋底状で陣屋、
火薬庫、炊事場などがあったという。 |

台場砲台跡の砲台は、変貌著しい
ウォーターフロントを静かに見つめている。 |
幕府の苦心、といえば「お台場」だ。
嘉永六(一八五三)年、ペリー司令官に率いられたアメリカの軍艦四隻が、浦賀に入港して開国を要求した。
一年の猶予をつけて艦隊は去ったが、幕府をはじめ国中は大騒ぎになった。
あわてた幕府は、藩に命じて江戸の沿岸に砲台場を築かせた。
この砲台から砲撃して、「黒船(アメリカの軍艦は黒い色をしていたため、そう呼ばれた)」を追い払おうというわけだった。
十二を計画したが、五台場ができあがっだところで、翌五四年、日米和親条約ができて日本は開国に踏み切ったため、作業は中止になった。
五ヵ所のうち三つはのちに取り払われて、いま残るのは第三台場と第六台場の二つ。
第六台場は東京港の海中にあって非公開だが、第三台場は、最近の埋め立てで江東区の土地につながり、あたり一帯は「お台場海浜公園」となった。
お台場には、昔の館の跡などがわずかに残っている。
ホテル日航東京をはじめ、地ビールも飲めるレストランなどが並んで、若者たちの人気を集めている。
レインボーブリッジの夜景の背後に、想像力で江戸の歴史を見るのは、ウーム、中々難しそうだなあ。
案内
志村一里塚は、地下鉄三田線志村坂上駅近く。西ヶ原一里塚は、地下鉄南北線西ヶ原駅下車。
小仏関跡は、JR・京王高尾線高尾駅から小仏行きバス、駒木野下車。
日本橋は、地下鉄銀座線・東西線・浅草線日本橋駅近く。
佃は、地下鉄有楽町線・同大江戸線月島駅近く。
「矢切の渡し」と帝釈天は、京成金町線柴又駅下車。
「お台場海浜公園」は、JR新橋駅前の東京臨海新交通「ゆりかもめ」でレインボーブリッジを渡りお台場海浜公園駅、台場駅下車。またはJRりんかい線とうきょうテレポート下車。
7 刑場の跡にたたずむ top

鈴ヶ森。右の火灸台では、
八百屋お七ら処刑者が生きたまま焼き殺された。
左の磔台では、丸橋忠弥らが真中の穴に立てた
角材の上に縛りつけられ刺し殺された。 |

小塚原首切りの地蔵。江戸時代小塚原の仕置場では、
約20万人が処刑された。
首切り地蔵が刑死者たちの霊をなぐさめている。 |
江戸幕府の常設の刑場(御仕置(おしおき)場)は、鈴ヶ森(品川区南大井二丁目付近)と小塚原(こづかっぱら、荒川区南千住五丁目付近)の二つ。
当時は一般の人々に刑を公開して見せるのが普通だった。おどかすことによって、犯罪の発生を防ごうとした。同時に、被害者や世人の復讐心にもこたえようとした。
処刑の方法は、
@武士は、切腹や、切腹を許さずに首を切る斬罪など。
A庶民は、はりつけ、火あぶり、打ち首、獄門、など。
重罪の場合には、通行人にノコギリを首に引かす「ノコギリびき」を加えることもあった(これは後にノコギリに血をぬってそばに置いておくだけになった)。
獄門(ごくもん)というのは、切った首を、木製の台にのせて、三日二夜、さらしておく刑。
処刑したり、獄門にしたりする場所が、鈴ヶ森と小塚原だった。
この二つのうち、小塚原の方は刑場と埋葬場を兼ねることになった。
数万人が死んだ「明暦の大火」の無縁の死者を葬るために建立された回向院(えこういん、現・墨田区両国)に、奉行の命令で刑死者も葬られるようになった。しかしいっぱいになってしまったため、幕府は小塚原の土地を回向院に与えて新たな埋葬場とした。
いまその場所には、二百数十年前に建立された「首切り地蔵尊」が、静かに風に吹かれ雨にぬれている。
小塚原では、一七七一 (明和八)年、蘭学者の杉田玄白、前野良沢たちが、刑死者の解剖を実際に見て、オランダの解剖書『ターヘル・アナトミア』の翻訳に役立てた。
その翻訳書が『解体新書』であり、その苦心を記したのが、有名な『蘭学事始』だ。
「顔のまんなかにフルヘッヘンドせしものあり」の「フルヘッヘンド」がわからなくて苦しんだが、ようやく「うずたかい」という意味だとわかった。 |

鈴ヶ森。元禄11(1688)年、池上本門寺の
貫主日凱が処刑者の供養に建てた碑。
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そうか、「鼻」のことだったのか! というような話を、昔、教科書で読んだことを、私は思い出す。
幕府最大の牢屋は江戸小伝馬(こでんま)町(中央区日本橋小伝馬町)にあり、明治新政府にも引き継がれて、明治八(一八七五)年まで使われた。
木造平屋で、いつも二、三百人が収容されていたという。
今でいう拘置所で、刑が決まるまで閉じ込められる仕組み。死刑や拷問もここで行われていた。

小塚原回向院にある鼠小僧次郎吉、
片岡直次郎、高橋お伝、腕の喜三郎の墓。 |

松陰神社。長州(山口県)萩の松下村塾を模した建物と吉田松陰の銅像。
松陰神社の境内の墓石には「吉田寅次郎藤原矩方墓」と刻まれている。 |
この牢で死刑になったのが、幕末期の長州藩の志士、思想家の吉田松陰だった。
二十五歳のとき、浦賀に再度来航したアメリカ軍艦に乗り込んで、禁止されていた海外渡航を試みたが失敗し、伝馬町の牢に入れられた。
やがて幕府は松陰を出身地の萩(山口県)に送り、入獄させた。
のち生家での禁固を許した。松陰は近隣の子弟を集めて、私塾「松下村塾」を開いた。
誠意は必ず人に通じる、これが正しいと考えたことは実行する、と説いたこの教育の中から、高杉晋作、久坂玄瑞(くさかげんずい)、伊藤博文、山県有朋などの人材が輩出した。
幕府は長州藩に松陰を江戸に送るように命じ、伝馬町の獄で処刑した。安政六(一八五九)年、松陰三十歳だった。
墓は世田谷区若林の松陰神社境内にある。
神社は明治十五(一八八二)年、松陰ゆかりの人たちが創建した。境内には、萩の松下村塾を模した建物もある。
松陰は、太平洋戦争前に、その思想の「忠君愛国」の部分だけが教育に利用され、戦後はその反動で無視されるようになってしまったが、そんな単純な人物ではない。
昔も今も、一人の人間に対する評価の仕方は、ただのレッテル張りである場合が多いのは不思議だ。
案内
鈴ヶ森は、京浜急行大森海岸駅下車徒歩5分。
小塚原は、地下鉄日比谷線南千住駅下車徒歩4分。
小伝馬町の牢屋跡は、地下鉄日比谷線小伝馬町駅近くの十思公園。
松陰神社は、東急世田谷線松陰神社前駅下車。
8 八百屋お七 top
八百屋お七が火をつけた
お小姓吉三に逢ひたさに
われとわが家に火をつけた
あれは大事な気持です
忘れてならない気持です
これは、文化勲章を受けた詩人、堀口大学さん(一八九二−一九八一年)の詩「お七の火事」だ。
「八百屋お七」とは、いい伝えによると、江戸本郷追分の八百屋の娘。
天和二(一六八二)年十二月二十八日、駒込の寺から出火した大火で、正仙寺(一説に円乗寺)に避難した。 その時、寺の若い小姓(えらい人の雑用を務める人)と恋仲になった。
家に戻っても会いたくてたまらず、ならず者にそそのかされて、また火事があれば会えると思い込んだ。 |

文京区白山の円乗寺にある八百屋お七の墓。
正仙寺、駒込吉祥寺なども近い。
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翌年三月二日に放火して捕まり、鈴ヶ森で火あぶりの刑になった。十五歳だった、という説もある。
三年後には井原西鶴の小説『好色五人女』に扱われ、さらに、恋愛や情死のようなニュース種を取入れた話を、三味線を伴奏に節をつけて語った「歌祭文」にもうたわれて有名になった。
浄瑠璃(じょうるり)・歌舞伎にもなった。役者が着た、「浅黄麻の葉鹿の子」の着付けが、お七の衣装として定着した。
「お小姓吉三」に会いたさに、その衣装で櫓に上って半鐘(または太鼓)を打つ場面が最高の見せ場になっている。
事件の主人公が、内容によっては、大ニュースになり、歌や芝居になってもてはやされるのも、江戸の面白さだ。
お七の、切ない、幼い、純といえばいえなくもない心が、江戸の人々の気持ちに訴えたのだろう。そう思うと、江戸の人たちが、にわかに身近な存在に感じられる。
しかも、歌や芝居の筋が、いつの間にか実話として流布して、さらに尾ヒレがついて広がってゆく。
いまでいえば、マリリン・モンロー伝説のようなものかも知れない。
江戸の男女は、中々マスコミ的だった。
堀口さんの詩も、そのあたりを、優しくとらえて、好きですきでたまらなくなる心は、実は大切なこと、とユーモラスにうたったわけだ。
新聞記事なら、「放火などは絶対に許されないことだが……」とただし書きをつけるだろうが、詩人はそんなヤボはいわない。
「八百屋お七」の墓は、文京区白山の円乗寺にある。
木造の屋根のついた立派な囲いの中に、「八百屋於七地蔵尊」と書かれた提灯が下がり、塔婆や石灯篭や供養塔が立ち並ぶ、堂々たる一角だ。
真新しい立て扎には、「寛政(一七九三)年/初代 岩井半四郎建立/百十二回忌供養塔/八百屋於七之墓」と記されている。
「町内有志二百七十回忌供養塔」とも書かれている。いつ行っても、花や千羽鶴や果物が供えられているのは、今もお参りする人が絶えない証拠だ。
「八百屋お七」伝説は、今もなお生きていて、私たちに、何事かを語りかけているのだ。
丸谷才一さんは、先に紹介した本の中でこういっている。
「徳川時代の京都を代表する女は誰か、大阪を代表する女は誰かと言はれても、大抵の人が返事に困るだらう。
しかし江戸なら即座に答へることができる。八百屋お七である。
不思議なことにあの都市を象徴する女は千姫でも高尾でもなく、十七歳の可憐な放火犯だった」
案内
八百屋お七の墓は、地下鉄三田線白山駅から歩いてすぐ。
9 桜田門外の雪と血と top
あとは、ものすごく面白く、迫力に富んだ吉村さんの歴史小説を、ぜひ読んでもらうとして、一面の雪は血まみれの風景に一変したのである。
雪のうえに斬り落とされた指や鼻が散乱しているのは、なぜか。その理由も、小説に書いてある。
いま、桜田門の白壁は緑の木々を背景に、まことに整然と美しい。
米アメリカの「黒船」の来航で開国を迫られていた幕府は、井伊を大老として、開国に踏み切ろうとした。
これに反対して、皇室を敬い(尊皇)外国人を排撃(攘夷)せよと叫ぶ「尊皇攘夷」(そんのうじょうい)派の武士たちを、井伊政権は弾圧した。
これが「安政の大獄」だ。吉田松陰もその犠牲者の一人だった。
井伊直弼は弾圧の一方で、京都の朝廷(天皇を中心とする組織)の許可をとらないままにアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの五か国と修好通商条約を結び、長年にわたる鎖国を解いて開港した。
雪の桜田門外で井伊直弼を暗殺しだのは、こうした政治・外交に憤激した武士たちだった。
以上はまことに単純化しすぎた説明だけれど、この事件によって「尊皇攘夷」の動きはさらに激化し、さらに「倒幕」運動へと進んでゆく。
そしてついに、徳川幕府は崩壊することになるのだけれど、歴史は面白いなあ。
幕府が崩壊した結果は、外国人を追放する「攘夷」どころか、どの外国ともつきあう、全面開国ということになるのだから。
ところで、殺害された井伊直弼の墓は、世田谷区の豪徳寺にある。この土地は、彦根藩(現・滋賀県)の江戸屋敷を支えるための領地で、寺は藩の菩提寺だったから。
襲撃した武士たちは、決行前に港区内の愛宕山に集合した。いま山の上には「桜田烈士愛宕山遺蹟碑」と記された石碑が立つ。
「烈士」十八人は、ほとんどが、その場で戦死、切腹、負傷死、自首して死罪、などで死に、天寿をまっとうしたのは二人だけだったという。
案内
桜田門は、最寄りは地下鉄有楽町線桜田門駅、同日比谷線・丸の内線・千代田線霞ヶ関駅だが、JR有楽町駅、地下鉄日比谷線日比谷駅からお堀端や日比谷公園内を歩くもよし。
豪徳寺は、小田急線豪徳寺駅から歩いて5分、東急世田谷線宮の坂駅近く。
愛宕山は、地下鉄日比谷線神谷町駅か同三田線御成門駅の中間あたりどちらの駅からも徒歩10分。
10 明治維新を歩く top

上野公園の西郷隆盛の銅像。
官軍側総司令官としての西郷は、この「西郷さん」からは想像しにくい。 |

勝・西郷会見之地碑。西郷隆盛と勝海舟は、薩摩藩邸で会談し、
二人して愛宕山から江戸の街を眺めた。 |
次に紹介するこの歌があったら、そのカラオケ屋は相当にかわっている。
昭和六(一九三一)年に出た、西条八十・作詞の『サムライ・ニッポン』という題の流行歌だ。
「人を斬るのが侍ならば/恋の未練がなぜ斬れぬ」、で始まる歌の二番は、「昨日勤皇 明日は佐幕/その日その日の出来心」、という風に続く。
若い人にはエンのない(私にだってありはしない)古い歌だが、「勤皇」は、朝廷を敬う立場、「佐幕」は、幕府に味方する立場、を意味する言葉。
一昔前の酔っぱらいサラリーマンは、こんな歌をつぶやいて、人事の不満のウサを晴らしていたものだ。「昨日は課長派、明日は補佐派」
「勤皇」は「尊皇攘夷」で、外国人は出てゆけ、幕府は政治の実権を朝廷に返還せよ、だ。「佐幕」は、徳川三百年のご威光を守れ派で、開国派もこちらということになる。
当時の日本中の藩は、そのどちらにつくかをめぐって、議論がわいて大変な騒ぎ。歌の文句じゃないけれど、昨日と明日でコロコロと動いた。
そのあたりを詳しく語る力はないので歴史の本にまかせるとして、幕府は「尊皇攘夷」と「討幕」を掲げる長州(山口県)に軍隊を送ったが敗けっぱなし。
徳川三百年の威光は地に落ちた。
一八六七年、京都の朝廷から長州藩、薩摩藩などに、天皇が「討幕」を命じた詔勅が秘かに出された。
これで、幕府は天皇の敵、朝廷の敵、つまり「朝敵」ということになり、幕府軍は 「賊軍」、長州藩、薩摩藩などの軍は「官軍」になった。
このため幕府は、朝廷に政治の実権を返還した。これが「大政奉還」(たいせいほうかん)だ。
しかし、徳川家になお忠実な会津藩などの諸藩連合は徳川の権力維持を策した。
大阪にいた前将軍・徳川慶喜は旧・幕府軍一万を進発させた。
慶応四(一八六八)年一月、京都郊外の鳥羽・伏見で薩摩・長州軍四千と衝突した。旧・幕府軍の方が数は圧倒的だったが、薩長軍はヨーロッパから輸入した最新鋭の大砲・銃で、これを破った。
薩摩・長州藩は、「攘夷」(じょうい)などと勇ましいことを主張していたのに、外国の近代的装備にはとても太刀打ちできないことに気がついて、「攘夷」なんかさっさとやめて、軍の近代化、つまりヨーロッパ化を図っていた。
文久二(一八六二)年、神奈川の生麦(なまむぎ)付近で、薩摩藩主の行列を乱したという理由で、イギリス人一人が斬り殺され、三人が負傷した(生麦事件)。
この事件に怒ったイギリス東洋艦隊七隻が翌年、鹿児島を攻撃して、大打撃を与えた。薩摩藩はこの「薩英戦争」の教訓から、軍備の近代化を急いだ(この事件、戦争については、吉村昭さんの名作『生麦事件』新潮社、に詳しい)。
また、その六三年には、幕府の「攘夷命令(外国人排斥)」に従って長州藩が、下関海峡を通過しようとした外国船を砲撃した。
これに報復するため、翌六四年八月、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの連合艦隊が下関海峡の砲台を攻撃して、長州藩を屈伏させた(四国艦隊下関砲撃事件)。
長州藩もまたこれに学んで、軍備の近代化を急いだ。
外国軍に完全に敗北するという苦い教訓を生かした薩・長連合軍に対して、一方の旧・幕府軍は、大昔の源氏と平家の争いの頃のような、華麗な鎧・兜に着飾った武士の姿が目立ったという。
「攘夷」派を弾圧して開国に踏切った幕府が、「攘夷」派の時代の流れを見る目の鋭さに敗れたのは、歴史の皮肉としかいいようはない。
この「鳥羽・伏見の戦い」が、「戊辰(ぼしん)戦争」の発端になった。
勢いにのる「官軍」は、薩摩藩出身の政治家・西郷隆盛を「総司令官」に江戸に向かって進撃した。
官軍(政府軍)の先頭にひるがえっていたのが朝廷が出した、賊軍征討の「錦旗」。鮮やかな色彩の錦で作った旗だ。
今の私たちの会話の中に、「錦のみ旗」という表現がある。
だれも反対できない立派な口実、大義名分、といったような意味で用いられる。
語源は、この「錦旗」にあるわけだ。
「錦旗」が江戸に進むにつれて、それまで行動を決められないでいた藩も、続々とそのあとに従うようになっていった。
米政府軍は江戸総攻撃の日を慶応四(一八六八)年三月十五日と決定した。
同十三、十四日、江戸・薩摩邸で西郷隆盛と幕府の代表、勝海舟の会談が行われた。
薩摩邸は、現在の港区芝五丁目の三菱自動車ビルあたり。そこには当時の絵図のついた石碑が設けられている。
維新新政府は、徳川家に対して厳しい態度で臨む方針だったが、政府内部の声や、内戦を望まないイギリスなどの国際的圧力によって妥協が成立し、江戸は、平和のうちに新政府に明け渡されることになった。

「西郷さん」の銅像に隠れてひっそりと「彰義隊戦死之墓」がある。
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戊辰戦争当時の弾痕が残る寛永寺黒門。
円通寺の住職が彰義隊の戦死者を弔った
縁で、千住の円通寺に保存されている。

寛永寺の黒門
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しかし、会津藩などはまだ抵抗して、戊辰戦争はなお続く。
旧幕臣たちが組織した「彰義隊」約三千は、「最後の将軍」徳川慶喜の謹慎する上野の山の寛永寺にこもって政府軍に抵抗しようとした。
しかし、慶喜は水戸に去った。
五月十五日、長州藩出身の大村益次郎(靖国神社の項参照)に指揮される政府軍は、イギリス製の最新鋭のアームストロング砲をもって上野の山を攻撃した。
このとき激戦になったのが、寛永寺の「黒門」付近だった。しかし抵抗ははかなく、半日にして終った。
このあたりのことは、益次郎の生涯を描いた、司馬遼太郎さんの小説『花神』(新潮文庫)に詳しい。
隊士の死体約二百六十余は、「賊兵」として雨の中に放置されたままだっだ。
見かねた円通寺の住職と、義理に厚いある侠客が火葬にした。いま「西郷さん」の銅像のうしろの森の中に「戦死之墓」がある場所である。
今もここにたたずむ人の多いのは、徳川への「義理」に、負けるのは承知の上で、意地になって身を投じた人々に対する思いゆえなのだろうか。
戊辰戦争の会津(福島県)戦争で、やはり政府軍に抵抗して敗れ、飯盛山で切腹して果てた、少年ばかりの「白虎隊」の悲劇も、同じように今に語り継がれている。
この少年たちの遺骸も、「政府軍(いわゆる「官軍」のことだが、会津の人々は今も「官軍」とは呼ばない)」の命令で、しばらく放置されたままたった。
彰義隊士の遺骨の一部は円通寺に葬られた。その縁で、「黒門」は、明治来年にこの寺に移された。
いまなお、小銃の弾丸の当たった跡の生々しい門を見ると、「上野の山」の戦争が、不思議に身近なものに思えてくる。
近藤勇といえば、チャンバラ映画などでおなじみだが、この人たちも、敗れ去ってゆく時代の流れに逆らって生きたのだった。
幕末の京都には、各地から「尊皇攘夷」の志士が集まっては、幕府を倒す策をねり、同志を募っていた。
幕府は「新撰組」という組織を作って、その取締りにあたらせた。
その隊長が、武蔵国多摩郡の村(調布市内)出身の近藤勇だった。 大勢の有能な志士たちが、新撰組のテロ活動の犠牲になった。
時代の流れは完全に変わり、「追う」側の近藤勇たちは、今度は「追われる」側になった。
鳥羽・伏見の戦いに敗れたあと江戸に戻ると、隊を組織して、甲斐勝沼(山梨)、下総流山(千葉)で政府軍と戦って敗れた。 流山で逮捕された近藤勇は、一八六八年四月、板橋の官軍本営に送られ、板橋刑場で首をはねられた。 |

新撰組隊長近藤勇は板橋で処刑された。
墓は中板橋駅(東武東上線)前広場の正面にある。
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首は、京都・三条河原にさらされた。
墓は東武東上線中板橋駅の前にある。今も花を供える人が絶えないのは、なぜだろうか。

西郷隆盛留魂祠。
墓の隣には西郷隆盛の留魂祠と詩碑がならんでいる。 |

洗足池に勝海舟の別邸「洗足軒」があった。
洗足池畔に勝海舟夫妻の墓がある。 |
上野の山の一角に立つ「西郷隆盛銅像」は 「西郷さん」という呼び名で親しまれている。
官軍を率いて江戸に向かい、勝海舟との会談で「江戸無血開城」を果たした英雄は、筒袖に兵児帯(へこおび)姿、草鞋(わらじ)ばきにイヌを連れた、いたって気楽な様子だ。
明治新政府最高の功臣として、長い歴史を持つ藩を廃止して県を置く、いわゆる「廃藩置県」を断行した。
しかし、幕末以前から一部に唱えられていた 「朝鮮侵略」のいわゆる「征韓論」を主張して敗れると、一切の役職を捨てて、故郷の鹿児島に帰ってしまった。
私学校を作って子弟を教育していたが、明治十(一八七七)年二月、この生徒たちに押上げられて、政府軍の陣営である熊本城を攻撃した。
政府の新しい政策や、武士階級に与えられていた身分「士族」の解体政策などに反対する、一連の「士族反乱」の一つだった。
明治政府は徴兵令を発動して、これを攻めた。
九月二十四日、西郷たち幹部は戦死、切腹して敗れた。
西郷隆盛は「賊」の汚名を着せられたが、維新のときの功績ゆえに、明治二十二(一八七九)年、「大日本帝国憲法」公布の時に許された。
間もなく、大勢の人びとの寄附金によって銅像が作られた。像は高村光雲(詩人・光太郎の父)、イヌは後藤貞行の作だ。
隆盛については、勝海舟の語録である『氷川清話』(ひかわせいわ、角川文庫)に詳しい。
「もしバカなら大きなバカで、利口なら大きな利口だろう」とは、その中にある、幕末の志士、坂竜馬による隆盛評だ。
案内
「勝海舟・西郷隆盛会見の場」は、JR京浜東北線・山手線田町駅前、地下鉄三田線三田駅下車歩いてすぐ。
「上野の山」は、JR上野駅(公園口)、京成電鉄上野駅、地下鉄銀座線上野駅下車。
円通寺は、地下鉄日比谷線南千住駅下車徒歩10分、都電荒川線三ノ輪橋駅からは歩いて5分。
近藤勇の墓は、−JR板橋駅前。
洗足池は、東急池上線洗足池駅下車歩いて3分。
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