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  十六章 練馬大根物語 top

  1 野菜生産地帯


 明治の中期から、東京の人口はとみに増加の一途をたどっていく。
 当時、東京十五区(注・明治十一年市内十五区に編成。神田・日本橋・京橋・小石川・下谷(しもや)・浅草・本所・深川区など)の人口は日露戦争後、飽和状態となり、牛込、小石川、本郷などの山の手地域にまで増加し、やがて、周辺の五郡(荏原(えばら)・北豊島・南足立・南葛飾(かつしか)・豊多摩郡)地域におよんでいった。
 新宿停車場は、明治三十八年(一九〇五)には年間乗降客数百八十万人前後、旅客収入が貨物収入の四倍以上になった。
 停車場のある角筈村は淀橋と合併して豊多摩郡淀橋町となる。
 大正四年の淀橋町の戸数は六千九百三十三戸で、そのうち軍人、官吏、自由業などが千百三十七戸もあった。
 中央線中野停車場と柏木停車場を持つ中野町は、戸数二千六百九十一戸で、そのうち軍人、官公吏が四百四十二戸あり、俸給生活者がトップを占めた。
 東京十五区の周辺部の農村では、農産物が商品化して、自給自足的な雑殻類はほとんど姿を消し、大消費地東京へ売り出す生鮮食品である葉菜類が栽培され、さらにその外縁部の農村では、さほど鮮度が問われないごぼう、にんじん、芋などの根菜類が多く作られるようになった。
 東京が膨張、拡大してくると、それら農産物の種類の分布は、外郭へ外郭へと移向していく。
 江戸時代、江戸の外縁部だった今の山手線の沿線あたりが、江戸住民の野菜の供給地であった。
 例えば早稲田(新宿区)の茗荷(みょうが)、駒込(文京区)のなす、四谷(新宿区)の内藤とうがらし、柏木(新宿区)の柏木瓜等の特産地があった。
 山の手線が敷設されて、これら江戸時代の野菜供給地は住宅地となり、東京市に編入されると、野菜地帯はその外郭の早川、麦畑だった地域がとって代った。
 この移動を明治から大正にかけて、青梅街道上で見ていくと、新宿・中野あたりが都市住宅地帯、杉並・練馬あたりが野菜地帯、保谷(ほうや)・田無(たなし)・小平あたりは野菜でも特に根菜類の多い地帯という分布に変った。
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 農産物の中でも野菜類は売価が高く、直接消費者に売り込めば大分もうかった。
 例えば桑畑十アール(約三百坪)で桑葉が百十三キロとれ、それで飼育した蚕の繭が三十七・五キロで、その売価は四十円足らずであった。
 麦の収入にいたっては十アールで三十円。それに比べて夏大根は八十円、きゅうりは百円になった。
 しかし、野菜づくりはあくまで新鮮であること、短期間で供給しなければならないことから、都市に隣接していることが絶対条件であった。
 しかも土性との関係から、野菜の種類は制約を受ける。
 杉並・世田谷・練馬・板橋などの高燥な台地上は火山灰埴土で、大根・にんじん・ごぼうのような根菜類が適している。
 それに対して赤羽・王子・千住・江戸川・葛飾などの低湿地帯は、粘土と砂礫を含んだ肥沃な沖積層で、ねぎ・小松菜などの葉菜類が特産となった。
 大根は涼しく湿潤な気候を好むので、幾分湿りがちな年が豊作であった。
 旱魃(かんばつ)の年は蚜虫(がちゅう)が発生し、苦味が生じて品質が落ちる。
 これに対して葛西地方のねぎや菜類は、雨の多い年はできがよくない。
 荒川が大水だとか雨が多い年は、練馬の農家は 「うちの村は大豊作だから葛西の連中はだめだろう」と言って喜ぶ。
 反対に日照り続きの年は、荒川沿いの村や古利根川地方の人が大豊作だといって喜び、「練馬のヤツらざまあみろ」と言った(『練馬区史』)
 ねぎと大根では、別に商売仇ではないが、同じ野菜づくり同士でも、人がもうけて喜んでいるのを見るのが面白くないのであろう。
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 土質が大根に向いているといっても、高燥な関東ローム層は、多量の肥料を与えなければならない。
 それに野菜栽培は、間作や輪作で土地を休ませずに、間断なく使うから、肥料の消粍度が激しい。
 その上狭い耕地を最大限に利用して、生産性を高めようというのであるから、余計肥料が求められた。
 野菜は特に窒素成分を必要とするので、人糞(じんぷん)肥料が最適とされた。
 しかし、自分の家のものだけではとても間に合わない。人糞尿の生産地(?)である東京は、明治二十八年(一八九五)の人口二百五十万人。
 一人一ヵ年桶六杯分(百八リットル)排泄すれば、年間千五百万杯となり、その代価一杯分は三十五銭。
 人口が増えればもっと安くなり、大正四年は一軒分一年で七十銭となった。
 かくして野菜と人糞尿は、切っても切れない関係になり、練馬近在の農家は朝、車にいっぱい大根を積んで東京に売りに行き、帰りは東京の人糞を積んで帰ってくる、といった生活が展開されるにいたった。
 練馬大根のメインストリートは、現在「練馬大根の碑」(練馬区春日町)の建っている愛染院(あいせんいん)の前を通る目白通りであるが、青梅街道、甲州街道とも野菜車、おわい(人糞)車でにぎわった。

  2 大根のはなし top

 最近、「大根めし」という言葉が評判になった。
 粗食の代表のようなこの食事は、東北の貧しい農民ばかりが食べていたわけではない。
 多摩地方の農民も常食に粟・稗・麦の殻類の中に、大根・大根の干葉・芋の葉・ささげの葉などを混ぜて煮る。
 葉類のほうが多くてどこに殻類があるかわからない飯だった。
 大根は主食の代りになったが、もちろん副食にも欠かせない。
 煮物・漬物・干物と調理が広範囲で、貧富、都市・農村の区別なく、一日に一度も口にしない日本人はいなかった。
 同じ根菜類でもごぼう・にんじん・芋は年に一度しか穫れないが、大根は三度も穫れるので安価であった。
 いくら作っても需要を上回ることはなかった。
 練馬大根は、江戸時代元禄期ごろから良質として評判が高く、『新編武蔵風土記稿』に「郡内練馬辺多く産す、いずれも上品なり、其内練馬村内の産尤(もっとも)上品とす、さればこの辺より産する物を概して練馬大根と呼、人々賞美せり」と書かれている。

 練馬大根というのは「練馬尻細(しりぼそ)大根」と「練馬秋止(あきづまり)大根」の二種で、尻細は根の長さ八十センチくらい、重さ一・六キロ前後。
 尻がとがっていて肉質がしまり、水分少なく皮薄く色白く、乾きやすいため干大根、たくあん漬に適している。
 いずれも細くすんなりしている(「練馬区史」)
 女の太い脚のことを「練馬大根のようだ」とよく形容に使われるが、それは間違っている。
 女の脚と一緒にするのは、練馬大根を冒涜するものである。
 水分が少なく、その上甘味が多いので、たくあん漬にすれば最も美味であった。
 また江戸時代の練馬は、江戸府内から遠距離の農村であったから、生鮮食品として出荷するのは無理で、保存用のたくあん漬、干大根として供給されていた。
 生大根の需要がのびたのは、東京市の隣接地になってからである。


練馬大根 沢庵用の尻細(左)と煮物用の秋止り(右)
(鹿島忠司氏提供)

 練馬地方には農閑期というものがない。春大根、夏大根、秋大根と息つく暇もない。
 冬はたくあん漬の仕事がある。干した大根を多い家では数百樽、少ない家でも二、三十樽も漬けた(『豊多摩郡誌』)
それに直接荷車で運搬して東京に売りに出る仕事も一緒なので、家じゅう一年じゅう目が回るほど忙しい。

  3 荷車のはなし top

 東京の人口が増えると、市場は中央から周辺に分散し、数も増え、野菜生産地から比較的近い距離にできた。
 青梅街道では、かって内藤新宿四谷大木戸に相模屋という青物市場があったが、大久保(新宿区)に睦(むつみ)市場ができ、杉並高円寺には甘藷問屋ができた。
 ここには保谷・田無・小平方面の農家が出荷した。
 杉並・練馬あたりの農家は、なるべく中央に近い市場を選んで持っていく。
 東京には坂が多く、都心部へ行くにはどの通りも必ず急坂があった(注・現在は補修されて、どこもゆるやかな坂になっている)
 坂を一つ越えるごとに高く売れるし、帰りに汲んでくる人糞も、中央に近いほど美食の人間がいるので、濃度の濃いよい人糞が得られたから、体力に自信のある者、欲の張っている者が行った。
 ふつうの野菜は一日おきでよいが、大根は毎日運ばないと、中にすのあいたのが出るおそれがある。
 毎朝まだ暗いうちに車を曳き出す。
 道が悪いから杉並方面の者は、中野まで女たちが後を押して、神田・京橋へ行った。
 後押しの連中は帰ってきて畑仕事に出る。
 車を曳いていった者は、午後一時か二時に帰ってきて畑仕事に出た。
 夕食後は市場へ行く準備にとりかかる。

 野菜や「おわい」を運ぶことが盛んになったのは、荷車の普及と道路が整備されてきたことも大きな原因であった。
 それまでの車は大八車で、赤ガシの木で作ったもので、重くて四人がかりで曵いたが、鉄の心棒、鉄の輪の荷車は、軽くて一人で曳けたので、たちまち普及した(『明治東京逸聞史』)
 道路はよくなったといっても、今のように補装されていたわけではないから、石がごろごろしていたし、雨が降るとどろどろのぬかるみで、遠方の者たちは、一台だけでいくと道にはまり込んで動けなくなるので、なるべく二台、三台とかたまって行った。
 青梅街道も甲州街道も、早朝からごったがえした。
 特に新宿駅付近は両街道が合流する少し手前にあたり、それに中央線、山の手線が重なり、電車の本数も増えて、この線路を横切る車が殺到した。


成子坂を行く荷車の列と西武電車
(昭和6年・淀橋誌考より)
日本の自動車の普及は戦後の昭和30年代です。
西武電車は、路面電車から西武新宿線に換わった。

 現在の新宿駅東口の線路沿いに、西口に通じる小さい地下道がある。
 その上にかって踏切があり「開けずの踏切」と呼ばれていた。
 この踏切を待つ車がおびただしく、朝の三時ごろから一日じゅう、馬糞と肥桶の臭気があたりにたちこめ、馬のいななきと車のきしむ音で、音も匂いも賑やかだったという。
 大正十年、やっと青梅街道を北方に大きく迂回させ、踏切の下を低く削りとって、現在の地下道が作られた(『新宿の今昔』)
 朝行く時、野菜のほかに自分の家でとれた焚つけ用のそだ、庭で咲いたあやめ、菊、南天なども束にして道々売って小銭にした。
 そだ一把四銭五厘。その分で四谷で白い飯三ばい三銭とがんもどきのおかず一銭五厘で、うまい朝食がとれた(明治終り頃)
 新宿付近にはこれら車曳き相手の一膳飯屋が繁盛した。ひと仕事終った彼らにとって、そこはひとときの憩いの場であり、知識を得る場ともなった。
  「わしが若いころ車を曳いて、一ぱい飯屋で飯を食っていたら、そばで五十くらいの男が話をしているのが耳に入った。
  『おれは甲州の産で今までいろんな商売してみたが。みんなうまくいかなかった。
  ラクして金とる商売は危いめに会うし、安全な商売はもうけが薄い。
  まあ荷車曳きはどっちつかずで一番いいと、このごろわかった』。
  わしゃそれ聞いて、なるほどいい話を聞いた、と思った」(小平市鈴木町・深谷浅之助談)
 市場に売りに行った荷車は、帰りは人糞を乗せて帰ってくる「おわい車」となる。
 汲取る地域や家はだいたい決まっていて、半年ごとに汲取り料を払った。
 そのほか盆暮には季節の野菜やたけのこ、漬物、たくあん漬などを持っていった。
 その頃店借(借家)が大分多く、こやし代は貸家の差配(管理人)の懐ろに入った。
 往きの野菜も重いが、帰りはもっと重い。九十パーセント水分である人糞尿は、一桶六十キロ余もある。
 三荷(六桶)積むと荷だけで三百七十キロになる。
 それに急坂という難所がある。東京方面は低地であるから、帰りは上り坂となる。
 練馬方面の者には、神田川から目白通りへ上る目白坂、世田谷方面の者には渋谷道玄坂、青梅街道の者には神田川をはさんだ成子坂と中野坂。
 これらの坂には「立ちんぼう」という浮浪者がいて、坂の上まで車の後押しして、一台一銭とる稼ぎをしていた。
 曳く者と押す者との呼吸が合わないと、車がはずんで黄金の水を浴びることになる。
 明治四十年(一九〇七)頃、北多摩郡千歳村(世田谷区)に住んだ徳富蘆花(とくとみろか)は、農村の姿を描いた作品『みみずのたはごと』(大正二年)にその当時の近郊農村の農民の姿を如実に描いている。
 その中からところどころ拾ってみる。
 車を運ぶ農夫のいでたちは「股引(ももひき)、草鞋、夏は経木真田(きょうぎさなだ)の軽い帽、冬は釜底型の帽を阿弥陀にかぶり、雨天には蓑笠姿」。
 三百七十キロの桶はさすがにきつく「両腕に力を入れ前悗みになって、揉みあげに汗の珠をたらして重そうに挽いて帰って来る」。
 「家へ帰って風呂を浴びて晩飯を食べると全身わたのやうに疲れて、強靭な脚もへなへなして立って歩けなかった。
 湯上がりのまま揮一つで家の中を這ひつくばる。その位五体は疲れ切っている」。

  4 人糞のはなし top

 曳いてきた人糞は、彼ら農民にとって不浄のものという気はしない。
 それを畑にまけば、また青々とした野菜になり、金になる。
 「むっといきれの立つ推肥の小山や、肥溜一ぱいに堆(うず)たかく膨れ上る青黒い下肥を見ると、彼は其処に千町田の垂穂(たれほ)を眺むる心地して快然と豊かな気もちになるのである」 (『みみずのたはごと』)
 十二キロ以上の道を苦労して曵いてきた人糞は貴重なものであった。もちろん自分たちの排泄したものも一滴も無駄にしない。
 「近所の者の話だけれど、八幡様のお祭りで夜遊びに行って、帰るとき急にもよほしてきたので。
連れの者よりひと足先に夜道を突っ走って帰ってきた。自分の畑の隅の肥溜にたどりついたと思うと、シャーッと大も小も一緒に出た。
 全身すーっとして天にも昇る心地だったって。
 一里以上の夜道を、よくもまあ後生大事にかかえてきて、感心なもんだと、近所の者が言っていた」(杉並区高円寺・上谷よし談)
 こういう話は別に珍しいことではなく、人糞汲みの農民にとって当然の心得であった。
 農家の生活は、ことごとく肥料を作るための生活だった。
 湯殿は肥溜から通じる所にあって、家族全員毎日入ったが、湯水は決して一日で捨てない。
 さめた湯水を翌日炊き直して入る。三、四日だつと湯垢でチョコレート色になる。
 それからやっと捨てるがただ捨てずに、それを肥溜に流し込む。
 入浴とは人体をきれいにするのが目的でなく、肥料をつくるために入浴するのである。
 「水肥」というのは、人糞と湯垢水を混ぜたものをいう。
 明治の終りには、家の中は大分板敷になったが、明治三十年頃までは、地面にワラや麦がらを積んで硬く踏みつけ、その上にむしろを敷いて暮す客が少なくなかった。
 そのうち敷いたワラや麦がらの下のほうから腐り始め、それを肥料にした。
そのほか、ごみ、あくだ、木の葉、家蓄の糞、野鳥の糞、蚕の糞、それらを溜めて必ず腐らせる。
人糞も腐らせて使う。肥溜は家のそばの日当りのよい所と、道路から畑に入る入口につくり、雨水が入らないよう立派な屋根を作った(『農家の話』)
 人糞は何といっても東京のが上等品で、粗食の農民のと比べて、東京人は肉や魚を食べているのでコクが違う。
 「不潔を扱ふと不潔が次第に不潔でなくなる。
 葛西の肥料屋では、肥桶にぐっと腕を突込み、べたりと糞のつくとつかぬで下肥の濃薄従って良否を験するそうだ」(みみずのたはごと』)
 いちがいに東京の糞といっても、場所によってきれいなのと汚いのがある。
 「同じ糞でも病院の糞だの女郎屋の糞だのと云ふと汚いように思ふ」(『みみずのたはごと』)
 野菜の育ちぶりからも人糞の良し悪しが自然とわかる。中野刑務所の人糞は、水っぽくて価値がない。
 練馬駅付近にあった鐘淵紡績の女工も、ろくなものを食べていないせいか、ここも悪い。
 「かねがふちとかんごくのこやしは糞にもならぬ」といわれていた(『杉並区歴史探訪』)
 練馬地方には「だら肥」と袮する特別製の配合肥料が考案された。
 これは下肥の中にぬかや灰のほか、過燐酸石灰、堆肥などを入れて撹拌したものである。
 洪積層火山灰地は、冬に凍結し霜柱がひどく、さらに春の季節風で土が舞うので、堆肥を施してその上に麦を蒔くと、麦が互いにからみ合って、根が浮き上がることはない。大根の追肥に使うと、通風がよい(『練馬の農業』)
 「だら肥」は練馬人糞専門家たちの名製品であった。
 こうした汗の結晶の肥料を、広い大根畑のひとうねごと、ていねいに施していく。
 桶を首からつるし、素手でひとつかみずつ出していく。時々目鼻に糞汁を浴びながら。


大根の豊作を願う狐絵馬
(西大泉・諏訪神社所蔵)

練馬区石神井(しゃくじい)町での大根干し風景
(練馬区郷土資料室提供)

 野菜地帯の農家は、貧富の区別なくだれもが東京へ汲み取りに行く。
 「衆議院議員の選挙権位はもって居る家の息子や主人が掃除に行く。
 東京を笠に被(き)て叱りつける長屋のかみさんなど、掃除人の家に往ったら土蔵の二戸(個)前もあってびっくりする様な住居に魂消(たまげ)ることであらう」(『みみずのたはごと』)。 
 たしかに野茱づくりによってみんな、多少なりとも余裕を得、住宅、衣服も変ってきた。
 「住居は近時改築せる農家多くして古代農家の風を見るべきものなく漸次都会せんとしつつありて亙葺多くに至れり、衣服も農家としては固より半天股引姿には相違なきも古代の服装と異りて漸次質の可なるものを用ひ常に帽子を頂くに至り、手拭の頬冠りは追ひくすたれてゆくが如し」(『下練馬村郷土誌資料』大正5)
 「(中野町の)建築物は町内処々草葺屋根の点綴(てんてつ)するを認むるも青梅街道其の他重(おも)なる巷衢(こうく)にありては全く亙葺に改められ……」(『豊多摩郡誌』)というような記録がいたるところに散見する。
 「ぜいたくになって歎かわしい」といわんばかりである。
 そういえば昭和七年(一九三二)、東京に隣接する五郡が東京市に編入され、練馬の村々も東京市になった時。
 それに先立って、同年五月八日朝日新聞紙上で新しい区が紹介された。
 「練馬区」には、大根あしの農家の夫婦が畑を耕しているマンガの説明に「おさかんな練馬大根」と、少々悔蔑的なニュアンスで書かれている。
 しかし何といわれようと彼らはよく働いた。
 荷車を曳く農夫たちは、脚と腰が発達していた。
 特に腰のふんばりが大事で、すべての重量が腰にかかる。従って背が低い。
 明治になって徴兵検査があった時、五尺一寸(一五三センチ)以下の短躯者が大分いた(北多摩郡の平均身長・五尺一寸二分)
 そして足がばかでかい。「杉並・練馬のヤツラはみんな十一文(二六・四センチ)以上のタビ(地下たび)をはいていた」(新宿区小滝橋・堤五郎談)
 背が低く肩と腰が張って脚が太く短い。
 今でいうなら重量あげの選手のような、ザリガニのような体型であったろう。
 そうでなくては往復二十数キロメートルのガタガタ道を、四百キロの車はゼッタイに曳けない。

  十七章 村山織物と女たち top

  1 村山がすり

 狭山茶の生産地である狭山丘陵一帯は、機織(はたお)りも盛んになった。
 青梅の市に出荷する村々は「青梅縞」を織っていたが、明治になっても村山地方は依然として自家用の質素なものを織っていた。
染料にも金をかけず、奈良・万葉時代さながらの草木染めや、どろ染(どろ水に布をつけ、どろの鉄分で染めたもの。昭和51年村山貯水池湖底調査により発見)という粗末なものであったが、だんだん多く織られてくると、その余分を所沢の市に出荷した。
 その出荷量が多くなってくると、商品として耐えられる製品が要求され、かすり織物が織られるようになった。
 青梅より大分遅れて、明治初年桐生−川越を経由して高機(たかはた)が村山に入り、かすりの生産量は徐々にのびてきた。


村山大島のはたおり
(芋窪乙幡富蔵家・大和町史より)

 多摩地方随一の織物生産地であり、織物市である八王子は、広汎な蚕の生産地を後背に持ち、早くから織物が盛んであった。
 文政年間にすでに桐生から高機を導入し、明治十年(一八七七)には製糸工場を持ち、いも早く近代化へ積極的に動き出していた。
 村山がすりが、織物生産地として技術を高め。生産量を高めることに力を入れ始めたのは、明治も半ば近くなってからだった。
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 村山がすりの起源は、文化年間、中藤村(武蔵村山市)の渡辺まさという者が、江戸において飛白縞(かすりじま)見本一片を得て、図のような模様を考案して試織した。 しかし都の人間はぜいたくになっていて、野卑な木綿飛白は嗜好に適さなかった。
 その後、天保年間に同村の内野きそという者が、苦心の末、図のような模様を織り出したが、商品として売り出すところまでいかなかった。
 また別説には文化六年(一八〇九)、芋久保村(東大和市)慶性院(けいしょういん)の住持が、生国の薩摩がすりの切布を持ち帰って荒畑シモに与え、シモはそれを参考に紙撚糸で綿糸を縛り、炭粉をとかした液で染色し、十字がすりの試織に成功した。
 さらに元結で綿糸を縛り染色し、十の字、井の字のかすりを織った。
 この製品は大和、薩摩のものに劣らないというので、近隣の子女に教えて周辺にひろがり、「村山飛白(かすり)」といわれるようになったという(『村山町史』)
 木綿地を紺で染めるだけでもぜいたくと思われていたが、糸を縛って染め、かすり模様に織ったものは、かすりを「飛白」という字をあてたほど、当時は大変美しく見えた。
 このように一部の人の間で創案、工夫がなされていたが、やはりまだ普及はしなかった。
 明治に入って、所沢の市に出荷するようになったころは、かすりの種類も増し、大きさも大柄、中柄、小柄とあり、一幅に十字模様が百二十も入った「蚊がすり」もでき、精巧で美しい柄が作られるようになった。
 村山地方では、繭は少し作っていたが、綿は作っていない。
 技術もよそから取入れたように糸も外から仕入れた。
 明治の初年より二十四、五年まで埼玉県東部から「東」(ひがし)と呼ぶ糸を、さらに茨城や栃木からも手撚糸を仕入れた。
 明治十五年(一八八二)頃からはイギリス産も入ってきた。
 国産の糸は太くてごつごつしているので緯糸(よこいと)に用い、「唐糸」(からいと)と呼ばれたイギリス産は細くてなめらかなので、経糸(たていと)に用いた。
 織物が増産されてくるにともない、染料は地元の地藍(じあい)だけでは間に合わず、北海道、四国の阿州産が使われるようになったが、明治の終り頃、ドイツから入った化学染料アニリンが使われるようになって、藍染めはなくなった。
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 にわかの間に生産と技術が高まった村山がすりは、明治三十年から四十年にかけて隆盛期を迎えた。
 これは村山ばかりでなく、全国的な風潮であった。
 日清・日露戦争によって輸出が伸び、特に紡績は明治二十九年(一八九六)には綿糸輸出高を超過し、軽工業の工場数と職工数が急増して、日清戦争後は軽工業の産業革命といわれた。
 繊維製品の輸出が多くなって、いくら織っても注文に追いつかないという現象をきたした。
     *
 織物の生産には「出機」(でばた)「内機」(うちぱた)「賃機」(ちんばた)という三つのシステムがある。
 「出機」は原糸を購入し、精練から漂白、染色までの工程を自家で行ない、これを賃織業者へ織りに出し、織り上がった製品を回収し、買継商人に市日ごとに売りさばく独立機業経営のことで、俗に機屋(はたや)と呼ばれている。
 「内機」は自分で機を持っているが、精製した糸を機屋から買い、織った反物を機屋に売る自己経営のこと。
 「賃機」は、糸も機もすべて機屋から提供を受け、織賃だけを得ることをいった。
 最盛期の明治三十九年(一九〇六)、東村山村の織物従事者は。
            機業戸数   職工数
   機屋(出機)  十八戸    三十八人
   内機       二十戸   九十五人
   賃機    四百八十戸   八百十七人
              (『東村山市史』)
 という割合になっている。賃機の職工数が異常に多いのは、賃機でも他村から人を雇い入れたからであろう。
 地主が土地を売ってつくった資本、あるいは内機、賃機で貯えた資本で機屋を始め、大きな利益を収めた者もいた。
 また土地を分けて貰えぬ農家の次、三男が、藍職人として技術を得て、機屋を始めた者もいた。
 機屋に糸を販売していた高木村(東大和市)の尾崎宇兵衛という人は、明治二十九年(一八九六)にすでに、年間二万円を越える取引を行なっていた。
 明治四十一年(一九〇八)、村山村組合(横田・中藤・三ッ木・岸)のうち、横田を併合した中藤は戸数約六百戸で、機織業を営む戸数は五百三戸、大部分の家が機織に従事していたことがわかる。
 内機、賃機問わず他村の子女を雇い、一戸平均一・七人から二人の機織娘を雇って、早朝から夜まで機織る音でにぎわった。
 収入はどのくらいだったか。明治中期の平均農家を『日本の下層社会』(横山源之助著)で見ると、良田五反(五十アール=約手五百坪)もっている自作農の年収は、労賃と肥料代、種もみ代等を差引くと、実収入四十一円三十銭であった。
 これに対して村山の織子一人の収入は、明治三十八年(一九〇五)、中物一ヵ月二十反織って四円、一年間で四十八円になった。
 家じゅうで農業で働いても、織子一人にかなわなかった勘定になる。
 日露戦争後の繊維製品の輸出の急速な仰びで、他村から雇入れても織子の数が不足した。
 主に所沢に多かった機屋たちは、賃機の家の争奪戦となり、サービスにつとめ、一機分(十二反)の糸を置いていったが、機屋が回収するのは十反であるから、二反分は織子へのサービスとなった。
 織賃のほかにもこのような余禄が入った。

  2 機織おんな top

 本格的な機織は、秋蚕が終った十月頃から始まった。
 主に冬場の仕事であったから、朝起きて仕事にかかる頃は、空にはまだ星がキラキラしていた。 十七〜八時間働き、仕事を終える頃も空に星が光っていた。

  しまい頃だよ 三星ゃどこよ
         三星ゃはた屋の 屋根の上
   
 女という女はみんな機を織った。機を織り始める年齢は「子守り三年 ままだき二年 やっと手機に手が届く」といわれ、尋常小学校を終えて十二、三歳頃からであった。
 小さい時から母親や祖母の機織りを見て育ったし、管巻き(たて糸を管に巻く)の仕事を幼児の時から手伝わされていたから、織り方は容易に習得できた。


明治の初め頃から農家で使われた原始的な手紡機

 朝飯前に一丈(一反の三分の一)織り、調子のよい時は一日二反織った。
 一ヵ月三十反織れば一人前であった(東村山市・比留間せん談)

  月にならして三十反 織れりゃ 木村さんのおかみ(機屋か)さん

 女は機織りのために生まれてきたようなもので、一片の疑いも持たなかった。
 ものごころついてから、遊んだ憶えは一度もなかった。小遣いというものも貰ったことはない。
 織賃はいくらになったか、女は全く知らない。
 機屋はその家の主のところへ勘定して行くので、銭を見たことがないまま死んでいった女も多かった。
 いい嫁の第一条件は「器量がよく気だてがやさしい」よりも、機織りが達者なこと。
 母親が娘に裁縫を習わそうというと父親が、とにかく機を織れといって怒った。
 そして目標は「日機」が織れることだった。
 賃機で糸を持ってくる機屋が、「どこのだれだれは市あいだ(市と市との間)に何反織った」と盛んに挑発する。
 それで負けまいとがむしゃらに織った(東村山市・内海しげ談)
 嫁に行ってからも懸命に織った。手間賃は、父親に代って夫や姑が受取役になった。女は金を握るものではないから、それが不満だとは思わなかった。
 嫁の機織りのために姑が孫の子守りをし、夫も雑事を手伝った。
 機織り女にとって何よりの喜びは、「仕事の独立」だった。茶摘み唄、桑摘み唄に次のようなのがある。

  五月六月泣く子が欲しや お乳やりたや 田のくろで
   
 夫や姑のひかる目を浴びながらの激しい野良仕事は、女に休む自由を与えない。
 せいぜい乳呑み子に乳をやる、わずかな時間しか休めない。
 だから自分一人で下屋(母屋のひさしにつけた小屋)や、家の一隅でする機織りのほうが、よほど楽しかった。
 どんなに広い家でも、悲しい時に女が泣く場所はなかった。
 家人に背をむけて、かまどの前で火吹竹(ひふきだけ)で火をおこす格好をしながら泣いた(『木綿以前の事』柳田国男著)という話もある。
 機織りはちょうどよかった。泣いても聞こえはしない。
 卜ントンカラリトンカラリ。外では夫や姑がその音を“金になる音”として快く聞いていた。
 明治のころの農村の女は、外出したことがなかった。
 嫁いだら最後、女は野良へ行く以外、外の用事はみんな夫がした。
 子供の入学式にも、娘の縁談にも父親が行った。
 里帰りと、生まれた子の宮参り以外、女は一生外へ出ないで死んでいった(武蔵村山市中藤・金子はる談)という。
 しかし大正の初めころともなると、織物で多少の余裕が出てきて、何年に一回くらい物見遊山が許されるようになった。
 所沢の飛行場や小金井の桜見物などに行かせて貰う者も出てきた。
 わずかな小遣いを夫や姑から貰い、名物だんごを買って食べたことなどが一生忘れられない思い出となった(東村山市・内海しげ談)
 赤ん坊の子守りは怙の仕事であったが、上の娘が十歳くらいになると、娘が赤ん坊の世話をした。
小学校に赤ん坊をおぶって通学する女児が増えて、東村山村の化成小学校では、そういう児童を集めて「子守学級」を作った。

   うれしや きょうはわが校の  運動会の時はこれ
   肥えたる駒のいななきを ここやかしこに聞く秋の
   双葉の時よりつちかいて 花も咲かせむ 菊の秋
     ふれ  ふれ  ふれー

 運動会の時は、背中の赤ん坊のことも忘れて夢中で歌った(東村山市・中谷トミ談)
 長い機織り人生に入る前の、わずかに開放されたひとときであった。

  3 織物の不況 top

 日本の輸出は、日露戦争後も好況を続け、第一次世界大戦(大正3〜7年)の時は、世界の工業国のほとんどが戦場となったので、さらに躍進し、国内はこれまでにない好況になった。
 しかし大正七年(一九一八)十一月戦争が終ると、戦後の不景気がやってきて、農産物の価格が大幅に下落し、繭は三・八キロ十円前後だったしのが二円に、安いものは一円五十銭まで下がった。
 この不景気は、その後ついに立直ることもなく、漫性的な不況になり、そのまま第二次世界大戦の中にのめりこんでいくのである。
 「北多摩地方の物産村山飛白(かすり)は八王子織物と併称せられた全国各方面にいずれも固定的の供給地を有し居れるが三月末の財界乱調に伴ひ漸次販路の梗塞を来たし各当事者等はいずれも操業を休止し或は廃業倒産の悲運に際会せる向少からざる」 (朝日新聞、大正9・6・1)
 東村山村の衰退はいち早くおとずれ、明治三十九年機屋数十八戸が、大正五年には二戸となり、内機は二十戸がゼロに、賃機は四百八十戸が百八十七戸に急減した。
 岸・三ツ木・中藤が合併した村山村(大正6年)では、織物の産出は大正十一年が最低で、前年十年の百二十万反から七十五万反へと落ちこみ、操短、休機、倒産が続出した。
 全国的な不況の中で、村山を含めた八王子・青梅・秩父などの織物地帯では、今までのものを改め、新しい織物へと活路を求めて、暗中模索の時代が始まった。
 村山村では、このころから木綿がすりから、銘仙(めいせん)がすり(絹)に換え始める機屋がぼつぼつ現われ始めた。
 「銘仙は木綿より先行きが明るい」といわれるようになったが、木綿から絹に換えることは、原料の生糸や染料の費用が高く、機も換えなければならず、資本がかさみ、資本のない機屋の多くは廃業した。
 「私の父は馴れない銘仙に手を出して、畑二町歩手離してしまいました」(武蔵村山市中藤・比留間はつ談)
 大正十五年(一九二六)十月一日付の『読売新聞』には、秩父織物同業組合の主催になる「秩父銘仙宣伝大売出し」の広告が載っている。
 「堅牢無比、低廉無比、理想的実用お召しもの」として景品つきである。
 青梅ではすでに、明治末年より青梅織物同業組合を結成して、従来の青梅縞から、生活消耗品であるふとん地へと転換し始めていた。
 常に時代の先端を誇っていた八王子でも、技術の改良に努め、ドビー装置使用の紋織や、輸出向けの広巾織物を始める者もいた。
 どこの織物生産地も、活路を見い出そうと必死になっていた。
 市場が分散していた村山村は、所沢・青梅・八王子の各同業組合から離れて、昭和四年(一九二九)に自主独立し、村山織物同業組合を結成し、絹織物に精進することになった。
 長いこと共に歩んできた大和村、東村山村は織物から離れ、村山村だけが織物生産地となった。

  4 村山大島つむぎ top

 隣接の砂川村では、玉繭から太糸を用いた砂川太織があった。
 村山村はそれに目をつけ、砂川太織と村山がすりの長所を合わせ、縞銘仙の織り出しを考案する。
 いわゆる「村山大島」と呼ばれるものである(大正8年頃)
 このため先進地伊勢崎(群馬)へ行って学び、伊勢崎の板締め法を取入れた。
 その後、縞銘仙、乱がすり、経無地などを経て、経糸にもかすりの入った経緯がすりの絹織物へと変っていく。
 これが今日の「村山大島つむぎ」と呼ばれるものである。
 この織物は織り方も精緻をきわめ、かって木綿の村山がすりを織っていた農家の女たちの手に負えるものではなく、工場内で専門の織姫たちや、農家の主婦のなかでも、少数のエリートによって織られるようになった。
     *
 ここで目を転じて、鉄道方面の状勢を追ってみる。
 明治二十二年(一八八九)。甲武鉄道が敷設されてから、それに連結する私鉄の増設が目立ち始める。

 明治27年
  同 
 明冶41年
 大正3年
 大正9年
 大正13年
 大正14年
 昭和2年
川越鉄道・国分寺−東村山間開通
青梅鉄道・立川−青梅間開通
横浜鉄道・八王子−東神奈川間開通
東上線・池袋−川越間開通
五王馬車・八王子−五日市間開通
村山貯水池完成により多摩湖線開通
八高線・八王子i東飯能間開通
西武線・高田馬場−東村山間開通

 と次々と鉄道が張りめぐらされ、新設された駅の周辺は、東京とのつながりの中で都市化され、住民の生活と職業が多様化されていく。
 しかし、どうしたわけか村山村だけは鉄道がなく、現在(昭和59年)に至っても、武蔵村山市は電車駅を一つも持たないエアーポケットになっている。
 北に所沢飛行場、西に観光地村山貯水池(多摩湖)が出来、たちまちにして三つの駅を持った東村山村は、かすり織物衰微を契機に織物からあっさり手をひいた。
 変動が激しく、面倒な絹織物への苦難な道を歩まなくても、鉄道開通により土地の高騰などで、いくらでも生活手段を持ち得た。
 青梅でも、鉄道でますます交通至便の土地となり、多量の原料購入と販路の容易なことから、ふとん地への切り換えで、薄利多売の量産へと進んでいった。
 とり残された村山村の唯一の活路は、原料が少なくてすみ、生産も少量で、手のこんだ奢侈品としての織物へと進まざるを得なかった。
 「村山大島つむぎ」の生産は、四十工程という複雑なもので、特にかすり染めに使われるかすり板(板締め用)は、みづめという樺抖の木材を板にして、一枚一枚丹念な手彫りで、一反につき数十枚を使用するという手のこみようである。
 男物は手織りで一反が二十〜三十日の日数を要するという。
 昭和四十年頃まで手織りを守り続けた驚くべき保守性で、東京都工芸技術品(文化財)に指定された(資料提供・都立繊維工業試験場村山分場)
 青梅街道の沿線上、武蔵村山市は、現在に至るまで、東京の影響をあまり受けていない。
 閉鎖的な一地域として、孤高的で悲壮的ともいえる「村山大島つむぎ」を美しく織り続けている。

  十八章 東京の水 top


淀橋浄水場
(昭和初年 東京都水道記念館提供)

   1 淀橋浄水場

 明治十九年(一八八六)の東京十五区の人口は百二十一万人にのぼった。
 江戸時代以来、東京市民の飲料水は、半分以上玉川上水に頼っていたが、市街に埋めた木管水道は腐りやすく不衛生で、早くから水道改良の声が東京市や内務省から出ていた。
 折も折、明治十九年コレラが大流行した。飲料水による伝染ではないか、と怖れられた。
 水道改良と拡張は、急務の策となり、東京を改造するため組織された委員会は、ドイツ・ベルギーの専門家の意見を聞いて、明治二十三年(一八九〇)、内務大臣の許可を得て水道改良に乗り出した。
 予算は国庫補助と、市債発行によって、六百五十万円という莫大な額であった。
 この予算額が発表されると、市民の中に水道改良反対者が現われた。
 「市は衛生と防火上というが、この莫大な費用での大工事によって、市民の水料は一ヵ年木造家屋一坪につき四十八銭で五十坪なら二十四円という高額負担となる。
 鉄管は恒久的というが四、五年で腐蝕している。また地震にどれだけ耐えられるものか、はなはだ不審である。
 教育も産業も振わない昨今、欧米なみの文明の利器と称するものに巨額の金をかけて、はたして市民の幸福をもたらすものであるか、本末緩急を誤する空気的政略である」(『東京水道史』)と激しく非難した。
 市は、道路事業などを一時中止して、財源を水道に回し、市債の一部募集を延期して、市民の説得につとめた。
 その後も用地買収の難行、鉄管納入不正事件などの障害があって、ようやく二十五年(一八九二)十二月に起工した。
 しかし今度は日清戦争と重なって難行し、市内一部にはじめて給水できたのは、明治三十一年(一八九八)であり、完成は明治四十四年(一九一一)という長きにわたった。
 改良工事にあたって、主任技師をドイツ留学中の中島鋭治とした。改良工事は、まず浄水場の設置から始められた。
 候補地は千駄ヶ谷(新宿区)としたが、中島技師の実地調査の結果、南豊島郡の淀橋地内に変更した。
 その理由は、経費節減と安全性であった。千駄ヶ谷にすると、玉川上水を代田橋から引くために水路距離が長くて、水面落差が減じてしまうが、淀橋にすると、代田橋辺から新水路にして距離が短縮でき、その落差を利用して沈殿池の水面を高めることができ、高地区域への給水のためのポンプ力、すなわち石炭消費が少なくてすむ。
 その上、淀橋の地勢は高低があまりなく築土の必要がない、ということであった。こうして浄水場は淀橋町と決定した。
 該当地は、山手線新宿駅の西方の淀橋町の一隅で、青梅街道と甲州街道の中間にあり、家数は二十数戸でまだ竹やぶや茶畑麦畑があった。
 明治二十年頃、このあたりに住んだ田山花袋は小説『時は過ぎゆく』(大正5年)の中で、当時の模様を
 「始めて此処に来た頃には家並も其処に一軒、此処に一軒という風であったが、此頃ではそれがぎっしりと軒から軒へと続いて、をりをり其処等に點綴されてゐた孟宗の竹藪も段々切り倒されて行ってゐた。
 その街道に添っては、小さな上水が布を引いたやうに細長く流れてゐた。」と描写している。
 甲州街道、青梅街道は商店が軒並みに建ち、人や馬の通行も多かったが、両方の街道から少し奥に入ったこの一隅は、家も疎らで、職人や小商人、それにわずかに畑を耕やす農民が住んでいた。
 浄水場の総面積は三百三十ヘクタール(約百万坪)とし、給水量は一人一日の使用量百十二リットルを基準に、人口二百万人(将来の人口増加を仮定して)に対応できる、一日二十二・四万キロリットルとするものであった。
 ただちに土地買収にかかった。
     *
 明治二十四年(一八九一)十二月、市参事会は用地測量や価格、移転物件の調査を済ませ、土地所有者五十一人に買収の交渉をしたが、協議が折り合わず難行した。
 市参事会が定めた土地価格は、宅地は坪当り(三・三平方メートル)二円二十一〜二銭、畑は七十二銭から八十二銭程度であった。
 当時周辺の相場は、畑でも坪三円前後になっており、参事会の定めた価格は異常に安いものであった。
 土地所有者は、自分たちが頼んだ価格人(不動産鑑定士)の見積高に比べて低廉であると反対したが、参事会の説得で、翌二十五年八月まで四十人、九月に三人、十月一人と応諾し、残る七人があくまで反対し続けた。
 反対した七人は下記のような請求額を提出した。

          所有面積(坪)    買上額     所有者請求額(坪当り)
 落合虎松       五〇   二円二一銭五厘      八円
 八木 昇     二九五四      七六銭五匣     三円
 榎本吉右衛門 一七〇九     七六銭五匣       三円
 内藤弥兵衛   二〇一二  二円二一銭五厘     一一円
 深野喜四郎   一五六四  二円二一銭五厘      八円
 松本金之助   一〇〇七     八一銭五厘      三円
 広田力松      七六      七一銭五厘       二円十銭

 田山花袋の同作品には次のようにも書いている。

 「此頃では殆んど目も驚かるばかりにあたりがひらけて行った。
 今までは畠道であるのが、広い二間道路になり、思ひもかけない大きな門や家屋が其処に建てられたりした。
 元は坪一円でも買手のなかった土地が五円、六円、十円でも滅多には得られないようになった。
 百姓たちも殼物や野菜や桑をつくるよりも、都会の人達に貸して地代を取上げる方が好いので、畠は次第に宅地になり、百姓は一躍して立派な地主さんになった。
 俄分限(にわかぶんげん、土地成金)が其処にも此頃にも出来た」。

 淀橋町角筈は、明治十八年、二十二年と、国鉄山手線、甲武鉄道の発着駅ができ、もっとも遅れた郊外の農村だったのが、一躍山の手の中心街へ急変した地域であった。
 にわかに土地を買い求める者が多くなり、高値に売買取引が行なわれ始めた。
 水道事業の発足から工事着工までの期間は、不幸にもこの変貌の時期とぶっかった。
 農地として安価に買収しようとした参事会側と、一夜待てば茶畑、桑畑が高級住宅地になることを目ざとく察した土地所有者と免がれない衝突となった。
 土地買収に執拗に反対した七人のうち、市のほうの高圧的な説得にしだいに諦めていった者五人、あくまで拒んだのは落合虎松と広田力松の二人になった。
 しかしこの二人の所有面積は他の五人に比べ、ケタはずれに少ない。
 ほかの者の千〜二千坪に比べて彼らはたった五十坪しかない。
 他の所有者はほかにも所持する土地があり、そこにこだわらなくても利益はほかからとれたのか。
 そこへいくと僅少所有者二人は、なけなしの金をはたいてわずかばかりの土地を得た庶民の一人で、ささやかな俄分限の夢を描いたのかもしれない。
 彼らは最後に東京地方裁判所に提訴したが却下され、土地買収はいっきに解決した。
 明治三十一年(一八九八)、淀橋浄水場の一部が完成した。
 浄水池の設備は、容積八万四千キロリットルの沈殿池四つ、面積四十アール(約千二百坪)の濾過池二十四という巨大なもので、濾過した上水は三条の暗渠で市内に送水する。
 明治四十四年(一九一一)、東京市内ほぼ全域が、この水を使用することになった。
 「池面周囲三里、満水面の亘長一里余、世界にも殆んどその比類を見ず」と人々は感歎した(『淀橋浄水場史』)
     *
 淀橋浄水場の設計基準となった市民の給水量は、一人一日百十二リットル、人口二百万人分として一日給水量二十二・四万キロリットルに耐えられる設備であった。それは明治二十年代当時としては、国家百年の計ともいうべき未曽有の水量で、これで市民の水不足は永遠に解決されたかと思われた。
 しかし意外な現象が生じた。明治四十二年(一九〇九)に人口が百二十四万人で、最高予想限度二百万人の約半数しかいないのに、使用量は二百万人分の水量を越えて、二十三・四万キロリットルになってしまった。この異常事態の原因は、生活水準が上がり、一人の使用量が大幅に増えたことであった。そのことを浄水場設計当時は考慮に入れていなかった。淀橋浄水場の最後の完成の明治四十四年を待たず、また大幅な改良と設備拡張が急務となった。

   2 村山貯水池 top


村山貯水池(多摩湖)

 満水期に水を貯わえ、一年じゅう浄水場内の水量を平均に保つには、多摩川の上流に貯水池を新設することが必要になってきた。
 工事主任は、淀橋浄水場の時と同じ中島鋭治工学博士で、氏の調査によって、次の二案が検討された。
 第一案は、多摩川の上流の大久野(日の出町)に貯水池を設け、補助水を秋川に求める。
 第二案は村山(狭山丘陵・東大和市)に設け、補助水を名栗川に取る。
 大久野は上流で水質がよく、水量が豊富であり、村山は大久野に劣るが、しかし村山は「その形状狭長地盤良好にして工費低廉なり」ということで、貯水池の建設は村山に決定した。
 狭山丘陵の内部は、すり鉢型の窪地になっており不幸にもまさに天然の器(うつわ)になっていた。
 大正元年(一九一二)内閣の認可を得て、翌年より事業に着手する。
 貯水池と同時にもう一つ浄水場を境(さかい、武蔵野市)に新設し、導水路は今までの玉川上水路によらず、隧道暗渠(ずいどうあんきょ)にして鉄管を地下に埋設する。
 つまり全部地下配水管で、羽村→村山→境→淀橋へと導水する大がかりな工事で、総工費千九百六十五万円で出発した。
 その後欧州大戦による物価の高騰、関東大震災による工事中断などで費用がかさみ、当初の予算を大幅に上回って、総工費四千七百六十万円という巨費になり、十七年の歳月を経て昭和八年(一九三三)完成した。
 村山貯水池の底部は、全部粘土岩盤で貯水池に適しているが、高い土堰堤(えんてい)が必要で、それは前例もないので、周到な研究のもとで施工した。
 工事材料約三十万トン、良質の粘土と砂利を撹拌して圧縮した堤心粘土壁の両面に、さらに良土を圧縮したものを幾重にも締め重ねて、底辺幅百七十二メートル、上部幅七・九メートル、高さ九十九メートルの土堰堤が完成した。
 貯水池の満水面積は二万七千ヘクタール(約八千二百万坪)という広大なものであった(『村山貯水池工事記録』)
 工事中には膨大な労力も必要で、地元の農民を使役することが良策と考えられ、農閑期に順応した工事計画がたてられた。
 完成までの人夫は、延べ数四百三十五万人に達した。

  〔湖底に沈んだ村〕 
 丘陵は、清水・高木・蔵敷・芋窪・奈良橋・狭山の六ヵ村が合併した大和村(東大和市)の、旧六ヵ村のそれぞれ一部の地域で占められていた。
 総面積三百二十一ヘクタールで、百六十一戸が六つの小さな部落ごとにかたまって住んでいた。
 丘陵内窪地の中央に流れる一条の小さな川に沿って、わずかに水田があったが、穫れた米は売り、そのほか、婦女子が村山がすりを織って所沢の市に出し、いささかの収入を得ていたが、外部との接触はほとんどなかった。
 もちろん医者は一人もなく、備えつけの漢方薬で済ませ、伝染病になると、患者の家の周囲に厄病除けの「へいそく」を張りめぐらすという原始的な方法をとっていた。
 時に大正三年(一九一四)三月であった。村じゅう大騒ぎになった。
 今まで見たこともない洋服の紳士が、測量器械をもち、毎日測量が行なわれた。
 旅館がなく、部落の篤農家の家を宿泊にするというので大わらわであった。
 吏員数人が道端で弁当を食べていると、子供たちが寄ってきて。
 「この人ら、白い飯を食ってる!」と目を丸くした。測量はかなり日数を要した。
 毎晩、酒を用意して丁重にもてなした。
 村の顔役や青年団の幹部が毎晩やってきて、ご機嫌うかがいをした(『湖底に沈んだふるさと』堀小十郎)
 まもなく買収にかかる。拡張事務所は村長に斡旋を依頼し、僅か二か月の期間で、その間、地元民との公聴会も行なわれず、買収価格が決められた。
 反当り(三百坪)、田:二百六十三円、山林:百三十円、畑:二百二十一円、宅地一坪:一円六十銭、
 村人にとって、先祖以来はじめての目のくらむようなまとまった金が、居ながらにして入るというので「村中は大喜び、あまり反対者もなく、ひたすらその成行きを待ちあぐんでいた。」(『湖底に沈んだふるさと』)という。
 しかしこの買収価格は不当に安いもので、明治四十五年(一九一二)、汚水堀敷として東京市が隣村より買収した価格は、田一反当り九百円、畑六百円という、二〜三倍も高いものだった。
 そのため、やはり反対者がいた。「土地所有者等は土地代価の低廉なることを理由として容易に之が応諾をなさざりしも屡々(しばしば)当務員を派して之が協議を重ねせしめたる結果、事情漸く諒解し、逐次協議成立せり」(東京市嘱託小倉徳太郎の記録)
 「しばしば協議を重ね」というのは「事業の公益なことを強調した高圧的な説示を重ね」という意味である。
 住民は次々と移転し、大正五年(一九一六)六月には、東京市長、東京府知事ほか三百人が出席して、貯水池敷地内で地鎮祭が行なわれた。
 しかし、それでも買収に応じない残留組があった。
 翌六年十月から、西半分の貯水池の堰堤工事が始まっていたが、残留組は東の貯水池の中の二つの池に狭まれた小高い丘に、小屋を建ててがんばった。
 旧清水村上宅部(やけべ)の住民杉本・木下・森田ら六人であった。
 人々はその小さい丘を「居残り島」「強情(ごうじょう)島」と呼び、嘲笑とも賛美ともつかない目で見守った。
 しかし市側には、いざとなれば「土地収用法」という伝家の宝刀がある。
 大正八年に十二月、四年半がんばり続けた「強情島」の住民は、内務大臣の名で、価格は当初のままとし、「市区改正土地建物処分規則」なるものをもって徴戒処分とされ、小屋はあっけなく取り払われた。
 移転者の多くの移転先は、本村(街道沿い)の南のほうの「原」と呼ばれている切添新田内であった。
 旧村単位の集団移動の形をとり、六つの部落はそれぞれ鎮守や壇那寺、墓地とともに「原」の一隅にかたまって住みついた。
 本村の者はその場所を「移転場」と呼んだ。ほかに隣村の東村山、狭山、小平、遠く千葉県や栃木県那須へ行った者もあった(星野晴一 「移転場図」)
 村を失った移住者たちは「原」に宅地や畑を購入したが、貯水池決定と同時に、周辺の土地が急に値上がりして、貰った移転料では元の広さの土地はとても買えなかった。
 「こちらに移ってからちっともいいことはなかった。
 せっかく賈った畑で桑を作ったが、繭の値段がぐっと下がって、生活は苦しかった」(東大和市奈良橋・内堀てる談)
 「新しい土地に移ってきたのだから、本村の者のだれにでも腰を低くしていったほうがいいといわれた。
 畑へ行く途中、人に会うたんびに挨拶した。そばの者が『今のは乞食だ』と教えてくれた」(東大和市蔵敷・内堀専二談)
 同村内への移転といっても、遠くから流れてきた者のように、肩身の狭い生活を送ったという。
     *
 昭和八年(一九三三)村山貯水池完成。つづいて翌九年その北に隣接して、山口貯水池(埼玉県所沢市)が完成した。
 しかし、それでもなお東京の水使用量に追いつけず、東京市は村山・山口両貯水池完成前に、第二の貯水池建設を計画していた。
 多摩川の上流の、九ヵ村九百戸を湖底に沈める、水道用ダムとして世界最大といわれる小河内(おごうち)ダム(奥多摩湖)がそれである。
 それもまた青梅市以西の、青梅街道沿いにある。
 このダムは昭和十三年(一九三八)着工し、三十二年(一九五七)完成したが、産業や人口が東京に集中してきた昭和三十年代は、もう多摩川の水では間に合わず、日本第一の流域面積を持つ利根川に、その水源を求めていった。
 水需要は数字の上では予測できず、常に不安定な状態にあり、水対策は“水もの”といわれている。
 石川達三が小河内ダムをテーマにした有名な小説『日蔭の村』で「東京という大都会が発展して行く、すると大木の日蔭にある草が枯れていくように小河内は発展する東京の犠牲になって枯れていくのです。」という枯れていく村は、東京周辺に存在するものの免れない運命であった。
     *
 現在、村山(多摩湖)・山口(狭山湖)両貯水池の間に、落日の光を浴びながら、一つの碑が建っている。
 淀橋浄水場、村山・山口貯水池などの主任技師であった中島鋭治博士の功績を記念して、昭和十一年(一九三六)東京市長らの手で建てられたものである。
 「中島鋭治先生ハ本邦衛生工学ノ泰斗ニシテ東京水道ノ恩人ナリ――
 先生ノ学徳功績ハ永ク後昆ニ垂レ其勲績ハ不朽ニ赫耀(かくよう)ス」
 工事に携わった多数の人々、父祖の地を追われていった人々などは全く無視され、欧米文化を導入した学識経験者のみが注目されたものか。
 個人崇拝の時代を反映するものであろう。

   3 淀橋浄水場その後 top

 かって、東京市の郊外で辺鄙な所であったがため、市民の給水源の格好な地としてできた淀橋浄水場は、戦後、新宿の繁華街がその周辺に及んで、浄水場移転の声がしばしば起った。
 ついに昭和三十五年(一九六〇)、首都圏整備法による新宿副都心の基本方針が都議会で議決され、東村山浄水場へ移転が決まり、半世紀におよぶその幕がおろされた。
 浄水場跡地が、大企業団体に払いさげられるや否や、次々と五十階建ての超高層ビルが建ち始めた。
 昭和五十年八月。六つ目のビル「新宿野村ビル」の建設工事で、ビル敷地を掘ったところ、旧浄水場の大量のレンガが埋もれていた。
 部厚いレンガが幾層も重なり合い、漆喰(しっくい)で固めてある。


淀橋浄水場跡地に建つ超高層ビル群

 支柱の太さは九十センチ四方、壁の厚みは二メートル以上もあった。
 全部オランダ製の良質なもので、レンガそのものも強く、鉄球や破砕機をつかっても簡単には壊れず、作業が難行している、と新聞は報じた(朝日新聞50・9・3)
 明治のわが国の文化の粋を結集してできたその建造物は、今度は厄介な廃棄物として、亙礫の山とさらされたのである。
 超高層ビル街は。従業員五万一干人、一日の客数十五万人(昭和58年6月現在・新宿区役所広報課調べ)
 農民など僅か数十人が住んでいた東京郊外の農地は、七十数年後、大都会東京を象徴する一大名所に変貌した。

  十九章 関東大震災後と堤康次郎 top

   1 拡大する近郊


 江戸・東京は、火災のたびに拡大していった。
 災害後の復興は、周辺の区域を呑みこんで大きく一新する。
 明暦の大火(一六五七)は、江戸御府内のほとんどを焼き尽し、はじめての都市計画のもとに、八百八町の町人町の基ができた。
 大正十二年(一九二三)九月一日の関東大震災による復興は、古いものを一掃し、近代都市としての変貌をとげていった。
 「八億円計画」と呼ばれ、大都市建設に力を入れていた東京市長後藤新平は、震災の翌日九月二日成立した山本権兵衛内閣の内務大臣となって、東京復興を担当することになった。
 その構想は、焼失区域ばかりとせず、焼失を免がれた山の手および郡部を含めて、街路、運河、公園、鉄道、築港その他にわたって総合的な計画をたて、世界的水準の大都市を形成しようというものであった。
帝都復興院が設立され、土地の買上げ、都心からの施設の移転、計画的配置、資材の大量購入などの業務を進めていった。
 しかし、新都市建設を実質的に推しすすめていったのは、行政機関によるものというより、民間人の企業的エネルギーによるものであった。
 まず第一は私鉄の発達である。震災以前から、市の隣接地の人口がしだいに増えていたが、震災後はそれがいっそう顕著になった。
 住居を消失した下町の住民の中で、焼残った山の手地域をとび越して、その奥の郊外へ居を移していった者も多くいた。
 人口移住に伴なって郊外電車が発展し、電車の便がよくなったため、さらに新しく住みつくという相関関係によって、しだいに広大な都市が形づくられていった。
 震災前は、小石川・牛込・四谷・赤坂・麻布などが山の手であったが、震災後は大塚・目白・渋谷・目黒まで市内に包み込み、その外側の農村地帯が郊外の様相をきたし始める。
 これらの町や村の麦畑の中に、赤瓦・青瓦の文化住宅が建ち、朝夕東京に往復するサラリーマンでにぎわうようになった。
 それまで、既設の郊外電車は利用者が少なく、近郊農民に必要な人糞を大量輸送して何とか営業を続けていた。
 そのため郊外電車は“黄金電車”とか“四二人乗り”(運転手と車掌だけの始終二人)といわれていたが、この頃から通勤する人々の姿が目立ち始めた。
 私鉄と連結する国鉄新宿駅や渋谷駅付近は、山の手の大繁華街となり、東京十五区外の初めてのデパートといわれる伊勢丹・三越が淀橋町(東京府豊多摩郡、現新宿区新宿三丁目)に進出した。
 青梅街道である新宿駅東口から伊勢丹までの通りは、メインストリートとなり、喫茶店・カフェー・映画館などができた。
 これらの客の住む所は、中央線では中野・高円寺・阿佐ヶ谷あたりで、そこは急速に畑が宅地になっていった。
 宅地の増加ばかりでなく、東京市内にあった広い面積を要する施設が、どんどん近郊農村に放出されていく。
 特殊病院、公共墓地、競馬場、電車操車場、刑務所等々。移転していったそれらの施設は、その場所が都市化すると、さらにその奥地へ移転していく。
 中央線の電車操車場は、中野から三鷹へ、三鷹から小金井へ、そして現在は豊田駅にある。結核病院は、中野療養所から清瀬と村山へ。刑務所は中野から府中へ。
 これらの施設は広大な土地を要するため、農村の中で直接農民が生産と生活の影響を受けない所、つまり街道から離れ、耕地から離れた山林が選ばれた。
 かって薪炭や堆肥用の草刈場で、「芝山」とか「原」とか「やま」とか呼んでいた所である。
 地価が安くて購入しやすく、農民との摩擦も避けられ、すべて好条件であった。
 しかし、それらの施設ができると、やはり周辺に影響を及ぼすことになり、農民の生活をおびやかす問題が生じてくる。次のものはその一例である。

  〔らい病患者を収容する全生(ぜんせい)園〕(東村山市)
 目黒の慰廃園のらい患者の一部を、明治四十二年(一九〇九)北多摩郡東村山村の林野十ヘクタール(約三万坪)を買収して新設することになった。
 買上げ額は五万四千円(坪一円八十銭)で、一部の地主に大金が集まり、多くの村民は利益を得ないで、ただ悪病の感染の危険にさらされるだけだと反対した。
 府の役人と地元民の間で摩擦が生じたが、工事が進むにつれて多数の地元の人夫が使われ、割のいい賃金を得たので歓迎され、不満を抱く者がなくなった。
 敷地の外周に溝と土手を作って外部と隔離し、ここに収容患者二千人の病院ができあがった(『東村山市史』)


焼失前の国立多摩全生園

  〔清瀬病院町〕 (清瀬市)  
 全生園がきっかけとなって、隣村の「芝山」に、国立結核病院建設が決った。
 昭和三年(一九二八)村長・村会議長の名で出された意見書は「彼ノ恐ルベキ肺結核患者ヲ収容治療スベキモノニ有之候――是レ実ニ本村ノ公益ニ関スル事件ニシテ忍ビ難キ一大痛苦ニ有之候」と書いて反対した。
 折りしも昭和三〜六年は農村の大不況期で、価値少ない山林が比較的高値で売れることが魅力となって、難なく買収が成立し、病院が建設された『清瀬市史』)。
 地元農民は最初は反対するが、土地の高値買収に勝てず、弱い一面を露呈して、都市化の波にあっけなく呑まれていったのである。
     *
 関東大震災を挾んで世の中は、戦後恐慌・震災恐慌・金融恐慌の三つの恐慌に見舞われた。
 この恐慌と恐慌の間は、ヨーロッパの経済復興と対支貿易の不振というダブルパンチを受けて、不況はますます深刻化し漫性化した。
 明治に創設されたさまざまの企業のうち、中小企業が犠牲となり、集中化が進んでいった。
 またそれに伴なって、すでに人口集中化した東京には、中間的なサラリーマンの増加が目立ち始めてきた時でもあった。
 この不況を乗り切り、企業を多角化し、資本の独占化を計る実業界の担い手は、薩長のような閥族に無縁で、政商のような強力な権力の庇護を受けない“第三の男”と呼ばれる人たちであった。
 大都市の中間層サラリーマンの増加にいち早く目をつけたのは、大阪在住の小林一三(明治6年生・山梨県出身)であった。
 電鉄経営と郊外住宅地を結びつける、つまり田園都市の着想を企業化し、大阪・神戸の郊外に続々と分譲住宅群をつくった。
 東京にこの事業を計画した渋沢栄一(天保11年生・埼玉県出身)は、第一生命の矢野社長に相談し、矢野は小林に要請した結果、小林は五島慶太(明治15年生・長野県出身)を推挙した。
 それは京浜方面の郊外を掌中して、東急コンツェルンを作りあげた交通王五島慶太の、実業界に踏み出す第一歩であった。
 それからの五島は、田園都市会社の成功から、のち玉川・横浜電鉄の合併、江ノ島電鉄買収、目蒲電鉄を吸収し、東京横浜電鉄設立、小田急電鉄買収、同電鉄を合併して、東京急行電鉄(東急)を設立した。

   2 堤康次郎の学園都市 top

 堤康次郎が鉄道事業に着手したのは、五島慶太よりやや遅れた昭和三、四年からである。
 最初、土地屋として出発した堤康次郎は、軽井沢の土地開発から、次は伊豆半島の観光資源に目をつけ、箱根土地会社を作った。

 やがて東京近郊に目をつける。
 大正九年(一九二〇)目白に文化村建設、大正十二年(一九二三)渋谷に百貨店、新宿に新宿園をつくる。
 ちょうど到来した関東大震災は、堤の土地開発を一挙に好転する機会を与えた。震災後の混乱の中で、富豪や華族の所有していた大邸宅の分譲を行なう。
 やがて抱いた堤の構想は、「東京府下に大規模な田園都市を作りたい」ということであった。
 大正十三年(一九二四)、早くも実現の第一歩を踏み出す。大泉学園都市(練馬区)の経営である。
 つづいて小平学園(小平市)、さらに国立(くにたち)学園(国立市)。 三十五歳の男盛り、土地に着手して満五年、最も精力的な時期であった。
 やはり土地買収地域は、農民の住宅地・街道から離れた山林を選んだ。
 大泉学園は、青梅街道と川越街道の中間の大泉村。


大正13年新設なった大泉学園駅

 小平学園は青梅街道と五日市街道の中間の小川新田の「外田」(とでん)と呼ばれていた山林。
 国立は、五日市街道と甲州街道の中間の谷保(やほ)村の「ヤマ」と呼ばれていた山林である。
 堤も土地と交通の一体化が必要であると考え、大泉学園の建設は、武蔵野鉄道の乗客数が、大正十三年には十一年の二倍以上になったのをきっかけに、十四年ただちに着工した。
 自費で大泉学園駅を作り武蔵野鉄道に提供した。
 小平学園町には、国分寺駅から村山貯水池に通じる多摩湖鉄道を設置。学園の中央を縦断させ、小平学園駅を作る。
 多摩湖鉄道はほかにも大きな目的があった。
 堤の箱根土地会社が、三つの学園にとり組んだ時、大和村(東大和市)ではちょうど村山貯水池の工事にかかっていた。堤はこれに目をつけた。
 貯水池の周囲は、丘陵の緑でおおわれた美しい自然に恵まれており、この環境を利用して観光地を作ろうと考え、昭和三年(一九二八)、資本金百万円をもって鉄道工事にとりかかった。
 萩山−小平間、萩山−国分寺間が開通して、中央線に連絡がついた時は、貯水池はまだ堰堤工事が終っていなかったというスピードぶりであった。
 「多摩湖」という名は堤がつけたという。
 正式な名は「村山貯水池」であるが、今日では「多摩湖」という名しか知らない人のほうが多い。
 その後の堤の主な事業は、武蔵野鉄道経営管理、武蔵野鉄道と多摩湖鉄道吸収合併、池袋デパート買収、秩父自動車合併、豊島園合併、旧西武鉄道買収、西武鉄道創設…、そして戦後の発展ぶりはいうにおよばない。
 事業の鬼と呼ばれた五島慶太に対して、堤も株の売買のトラブルから、右翼十数人に囲まれてピストルをつきつけられ、首をかすめて発射されても、顔色一つ変えなかったという豪胆さから、ピストルの堤と呼ばれた。
     *
 大正期における実業界の大物たちは、明治の後半頃、いちように地方の山村の故郷から上京し、二度と故郷の土を踏むまい、と決意をかためてきた気骨者たちであった。
 岩波書店の創立者岩波茂雄が中学を終えて、暁風の中を友人の「男子志を立て郷関を出づ。
 学若(も)し成らずんば死すとも還らず」の詩吟に送られて出発したという(明治32年)
 堤康次郎も、育ててくれた祖父母が死んで、田畑を金に換えて、柳行季一つで故郷近江をあとに東京へ出てきた時(明治42年・21歳)、「男子志を立て郷関を出づ」を心の中でつぶやいたという。
 彼は近江商人の末裔である。昔から近江商人は、たくましい商魂を持っているという定評がある。
 転んでもタダでは起きない、ねばりと忍耐と鋭敏な時代感覚で、大阪、京都で怖れられていた。
 幾多の近江商人が江戸へ向かう時、箱根は、山賊や雲助に持物をはぎとられるという大きな難所で、箱根を越えて江戸へ行けば儲けが大きいといわれていた(『堤康次郎伝』)
 産婦が陣痛を経てはじめてたくましい母体に変身するように、箱根を越えて江戸入りした近江商人は、不屈の闘魂の塊りになっていた。
 五島慶太の出身地、長野県青木村は旧上田藩である。
 信州は徳川幕府から、勢力の伸びることを怖れられていくつもの小藩に分断され、維新政府の時も中央に迎え入れられず、官途に望みを得られなかった不遇の地である。
 上田藩は百姓一揆が全国の中でかなり多く発生した反骨の地でもあった。
 冷や飯食いの信州人と、不屈な闘魂の近江商人。
 五島と堤の二人によって、多摩は大きく変えられていった。
 東京へ出て勇名をとどろかせる、などとの一大決心をしたことのない、東京にあまりに近い所にいる多摩の住人にとって、この“巨人”の進出に、またたくまに征覇されることになったのである。

   3 学園建設あれこれ top


右上に時刻表も書かれている

 堤がもっとも心血を注いだのは、国立(くにたち)学園町の建設である。
 多摩川に沿った段丘上に甲州街道があり、それに沿って谷保(やほ)の街村(がいそん)があった。
 農家は街道沿いに四百戸ばかりあり、街道の北側は五日市街道まで、雑木林がゆるやかな傾斜をもって一面に続いていた。
 ヤマは無人地域で、やがてその中に中央線が通ったが、昼でも暗く、キツネやナヌキが棲息していたという。
 関東大震災の翌十三年(一九二四)八月のある日、谷保村村長のところへ、箱根土地会社の堤社長と専務が訪ねた。
 ヤマを三三〇ヘクタール(約百万坪)買い受けたいという。会社と地主側の交渉は数十回におよんだ。
 会壯から提示された買収価格は、一反(一〇アール=約三百坪)千円で、坪(三・三平方米)三円強である。
 当時ヤマは、一反百円か二百円の捨て値で取引されていたから、この額は肝をつぶすほどの高値であった。
 会社はさらに追討ちをかけるように、地上物件(雑木類)は別に地価に上乗(うわの)せして買上げるという。
 谷保村は翌十四年になって、土地売却に踏み切ることになった。
 一方、東京神田にあった東京商科大学が、震災で焼かれて再建の土地を西郊に捜し求めて、谷保村に決定した。
 箱根土地会社にとってそれは棚からぼたもちの喜びで、さっそく町づくりに着手した。
 驚くばかりの敏速さで、樹海さながらだったヤマは見る見る切り開らかれ、二百坪(六・六アール)を単位とした宅地が整然と区切られていった。
 中央線国分寺と立川の間に駅を新設して国立(くちたち)駅ができた。
 ドイツのベルン郊外をモデルにしたエキゾチックな設計で、駅前の広場から甲州街道に向かって、幅四十三メートルのばか広い通り(一橋通り)がつくられ、幅十メートルの放射状の道路もできる。
 「その些麗なまでの駅前広場の出現には村人たちはただ瞠目するばかりだった」という(『わが町国立』)
 大学設置は、大通りの東側の赤松林を開いて校舎ができ、つづいて通りの西側の広い地域に本校と講堂が建設された。
 会社は、商科大学のほかに国立音楽大学、府立第五商業学校も誘致した。
 箱根土地会社は、この国立町建設に熱意をかけ、本社を経営地の中に移してきた。
 しかし分譲地の仕上げ工事はなかなか進まず、水道は駅の東部に井戸を掘って汲み上げる簡易式で、下水は側溝を掘っただけのもので、雨が降るとてこぼこ道は泥海となった。
 不況の時期と重なって土地はなかなか売れない。
 分譲価格は駅前が坪八十円、少し離れた所で二十円。
 地元民たちは、自分たちが売った時は坪三円で高値だとびっくりしたが、会社が売る値段は二五〜六倍になっているのを見て二度びっくりした。
 やがて駅前通りに店が数軒でき、レストランも一軒建った。
 林の中には、ぽつんぽつんと社員住宅が建った。
 街道沿いの旧谷保地区と大学町との間は広い畑が帯状にひろがり、双方の往来はなかったが、住宅が増えるに従って、本村の農家が野菜を売りに来た。
 しかしまだまだ淋しく、村より淋しい“町”だった。

  〔一橋大学パイオニア〕
 商科大学の学生たちにとって、国立はどんな町だったか。
 商科大学が移転してきたのが昭和二年(一九二七)四月で、翌三年三月国立の第一回の卒業生たちは「パイオニア会」を結成して、その後も旧交を暖めた。
 彼らにとって国立は文明の遅れた蛮国に見えたのだろうか。
 自分たちは高度の文化をもつアングローサクソンというのか、“パイオニア”という発想にはそんな響きがある。
 国立パイオニア会から刊行された『国立・あのころ』に、当時の思い出が書かれている。
 「自分は下町から通学したが、交通の便が悪く時間がかかり、第一時間の授業はいつも受けられなかった。
 国立というと今でも苦痛だったことしか想い浮かばない。」
 「この地は深い森林で、土地の人でも特殊な人以外は未踏の地であった。」


学園町国立の一橋大通り

 「都心に近接した感覚はなかった。」
 「神田一橋に通学していたころと比べると全く違った雰囲気が漲(みなぎ)っていた。
 ――また一面通学距離がながく且つ不便なので、あきらめに近いノンビリしたムードでもあった。」
     *
  〔小平学園〕
 箱根土地会社の小平学園建設用地は、青梅街道と五日市街道の間の山林であったが、設計した三三〇ヘクタール(約百万坪)の中に、畑地が六十パーセント入っていることから買収は難行した。
 会社は、村長と大地主らと交渉を始めた。買収価格は国立と同様、坪三円という。
 農村不況打開の好機到来とばかり、村長、地主代表者たちは賛成し、地元民に働きかけた。
 しかし地元民のなかには、耕地が少なくなるとの理由であくまで反対する者もあって、青梅街道に寄ったほうを百八十メートルせばめて、総面積百九十八ヘクタール(約六〇万坪)に縮少した。
 会社は、明治大学の誘致を計画したが、同大学は震災復興金が集まらず解約したので、会社は苦労の末、商科大学の予科をやっと誘致した。
 宅地一区画百坪単位に区切り、六坪のハイカラなバンガローを付けて五百円(坪五円)で売出したが、ここでも不況の折柄思うように売れなかった。
 会社は土地を売ったあとで、その金の一部を地主に払う、という契約だったので、思うように売れないため、地主への支払いが延びた。
 「箱根土地会社からの話があった時、村長は大変乗気で、これで村も景気がよくなる、とみんなに売ることを進めて回っていた。
 桑畑をたくさん持っていた丸山某(仮名)さんは、坪三円で売れるというのでさっそく会社ヘ一町売って、その代りよそから坪一円の地所を一町買った。
 しかし会社からは金がこない、新しい地所の借金をしている。
 利息を払わなければならない。それで困りはてた丸山さんは首をくくって死んでしまった」(小平市天神町・加藤泰平談)
 会社は土地が売れないからといって農家に金を払わない。それがため農民に不満が高まった。
 ようやく箱根土地会社と農民の間で解決を見たのは、景気も幾分回復し、戦時休制に入る直前の昭和十四、五年になってからという。
     *
 堤康次郎の学園都市構想は、「先を読みすぎて失敗する」(西武鉄道・小島前社長の言)という結果になった。
 関東大震災で都市化した範囲は、結局現二十三区内の杉並から練馬あたりまでで、それより遠距離の国立・小平まではまだ無理な話であった。
 当時の郡部の学園都市は“青田買い”というにとどまった。
 青田にみのりが訪れるのは「火災のたびに膨張発展する東京」が、もう一つの大きな火災、昭和二十年の戦災まで待つしかなかった。
 箱根土地会社の活躍は、昭和二十一年(一九四六)西武鉄道会社を創立させ、鉄道・運輸・観光・不動産・百貨店と、西武コンツェルンが築かれるための前哨戦であった。
 現在、国立・小平・大泉学園は、一区画百坪、二百坪単位を、もっと細分化して売買されたが、整然とした道路と町並は、堤構想そのままに美しい町となり、大泉は高級住宅街、小平は市内中、最も人口集中化した中心街として戦後繁栄した。
 学園町国立の一橋通りのいちょう、やなぎの並木は、当時「周囲の雑木より小さく見えた」というが、現在は直径五〜六十センチの大木となって威風堂々、西武王国を象徴するかのように、大空にゆったりと枝葉をなびかせている。

   二十章 軍都東京を支えた多摩 top

  1 軍部の進出

 東京周辺の農村から土地を奪い、都市化を進めていったのは、一介の実業家の手によることばかりではなかった。
 もっと強烈な巨大な力が、帝国日本の歩みの中で育くまれ、郷土の上で炸裂していった。
 明治中期から昭和二十年までの軍部の爪跡に目を向けなければならない。
 日清戦争終結の翌明治二十九年(一八九六)の第九・十帝国議会は、総額二億四千万円という、戦前をはるかに越える予算額を通過させた。
 財源は増税と公債と清国からの陪償で、これで陸海軍備の拡張、製鉄所創設、鉄道の敷設、改良等に回そうというものである。
 軍事施設はそれまで、宮城(きゅうじょう)を中心に丸の内・日比谷付近の旧大名邸を使用していたが、軍備拡張と人口増加から、広い敷地を要するため赤坂・麻布、さらに荏原(えばら)郡世田ヶ谷・目黒に移転した。
 明治末年までに近衛師団管下の歩兵・騎兵・砲兵十数連隊が市内に配備され、このほかの諸隊は千葉県習志野(ならしの)・国府台(こうのだい)に置かれ、東京の守りを堅めた。
 このほか軍部は、量的質的拡大強化のため、幹部の養成機関として陸軍大学校・陸軍砲兵学校・陸軍戸山学校・陸軍士官学校・陸軍経理学校等々を設置し、東京市内はまたたくまに軍一色にぬりっぶされていった。


明治の中頃は軍事施設が、皇居の周辺に密集していた

 海軍は横須賀が中心であったが、やがて広島県江田島に移り、東京には陸軍だけが集中した。
 日中戦争までの四つの戦争の兵器の主役を見ると、日清戦争は小銃火力、その製造は東京砲兵工廠が目黒にでき、火薬製造工場が王子にできる。
日露戦争では火砲、その砲具製造所は川口に、火具製造所は十条にできた。
 第一次世界大戦に参加した日本は、中国青島(チンタオ)のドイツ軍基地の爆撃に初めて小規模ながら飛行機を使用した。
 大正七年(一九一八)のシベリア出兵には、航空機の増産が求められ、戦争は陸の戦いから空の戦いへと移行する。
 満州事変、日中戦争を経て、第二次世界大戦は、陸海軍とも空中戦に力を入れ、主役は完全に航空機となった。
 最少限六百メートルの滑走路と格納庫と飛行試験場、飛行機製造工場と、広大な敷地を要する航空施設は東京市内では不可能であり、また東京の外側から帝都のまもりを堅めようと、鉄道機関の輸送網を通して、都心から三十キロ以内で広大な敷地が確保できる所が求められた。
 ここにすべての条件を備えた「立川村」が、軍国日本の歴史の中に新しく登場したのである(大正11・一九二二)
 一方、日露戦争後、急速な発達を見た重工業は、横浜港からの資材導入、東京の中央市場への運搬のため、東海道線の便のよい大田・品川、さらに大森・蒲田・川崎の京浜地方に製造工場が集中した。
 しかし軍需産業の拡大によって、昭和に入り飽和状態に達し、進出の鉾先がしだいに多摩のほうへ向けられていった。
 折りしも、軍部による軍事基地の多摩進出とちょうど時期が重なった。
 鉄道網による軍事基地の構想は、明治二十二年(一八八九)の甲武鉄道(中央線)の開通当初から考えられ、中野・立川への軍部の進出は徐々に始まっていた。
 これに続いて大正六年から十三年頃にかけて、民間工業が中野・立川の二つの駅の間、萩窪・三鷹・国分寺のそれぞれの駅から徒歩十五分以内の所に設置し始めた。
 中島・正田の飛行機製作所、横河電機中央工業、日本自動車などの航空機・計器・銃砲等の工場である。
 軍部は、軍需産業を拡大強化させるために、財閥との結びつきをはかった。
 既成財閥が政友会・民政党などの既成政党と結びついたのに対し、満州事変以後の軍需インフレの中で急速に成長した日産・日窒・森・日曹が、「新興コンツェルン」と呼ばれるほどに成長し、軍人・新官僚と結びつき、機械化学工業その他の軍需工業に目を向けた。
 地域的には、既成財閥三井・三菱などが京浜地区に本拠を構えていたのに対し、新興財閥は既成財閥の進出の遅れていた地域(海外では朝鮮・満州)、国内では新興地多摩地区を、その活躍舞台にしようとした。
 またその時期は、飽和状態に達した京浜の既成財閥の多摩への進出とやはり同じ時期であった。
 中央線とその北側に平行する、五日市街道との間の広い山林の帯状地帯は、またたくの間に軍需産業の大工場が群立した。
 戦車・重電機・銃砲・発電機と、規模の大きい工場と下請工場も加わった。
 五日市街道の北側に平行する青梅街道の沿線も、ついにこの軍事化の侵触にまき込まれていったのである。
 街道と鉄道による輸送の至便な立川町(大正12年町制)は、多摩の軍事化の中核となった。
 鉄道の増設は立川を中心とした構想のもとに増設されていく。
 昭和五年(一九三〇)二月、工都川崎を結ぶ南武鉄道が開通して立川駅と結ばれる。
 これは横浜からの資材輸送と、京浜地区との連結のためである。同年七月には五日市鉄道が立川駅に連結する。
 立川は四つの鉄道を集めて東京西部の交通センターとなる。昭和十九年(一九四四)三つの私鉄、青梅・五日市・南武は全て国有鉄道となった。
 立川に集まるすべての鉄道は国営のもとに、能率の向上と、最大機能を発揮する運営が行なわれるようになったのである。
 多摩の軍事化は、立川をぬきにしては語れない。

  2 空の都よ、立川よ top

 立川が軍事基地の拠点となった第一弾は、大正十年(一九二一)の飛行場決定の時で、その理由となったものは下記の五点てある。
 @武蔵野の雑木地帯のため、飛行場新設費が少なくてすむ。
 A地域が広大なので将来飛行場を拡張するのに便利である。
 B隊・職員は中央線を利用すれば通勤は容易である。
 C鉄道・道路等交通の要衝で物資輸送に便利。
 D他候補地にくらべ水利・水質に恵まれている。
             (『郷土たちかわ』)

 飛行場は広大な敷地を要するため山林を選んだ。
 東京の公共施設や箱根土地会社のように、住民との摩擦を避けるために山林を選んだのではなかった。
 何事も「国家のため」という大義名分がある。
 一方的に場所と買収価格が決められた。


(『福生町誌』より)
これがさらに拡張され、今の米軍「横田基地」となった。


立川仲町通り、フォード36年型のバスは
座席数10人前後(大正11年頃、立川市提供)

 買収のしかたは、福生(ふっさ)村の陸軍航空本部ができた時(昭和14年)の令達文(左上)から窺うことができる。
 この軍部からの「通知」を見ると、第一回の「協議」に土地所有者に認印を持参することを命じている。
 通達したあと有無を言わさず、即座に署名捺印させたものか。この第一回の協議が昭和十四年(一九三九)七月四日で、七月七日には軍部は土地の測量を開始した。
 八月に土地価格が決定、同月土地登記がなされたという猛スピードぶりである。
 価格は畑反(三百坪)当り五百五十〜七百円、山林五百〜六百五十円であった(『福生町誌』)
 立川の買収経過も、ほぼ同様に行なわれたものであろう。
 大正十年の立川の買収価格は坪二円五十銭で、百人近い地主が三回の打ち合わせて売買が決定したという。
 価格は決して安くなかったし、不況の時だったので歓迎された。それどころか地元民はそれを名誉として喜んだという。
 今までかえり見られなかった一農村が一躍脚光を浴び、軍国日本の檜舞台に登場した千両役者のような、まばゆい誇りを持ったのである。
 軍用地工事は、文化の到来かと思うほど、驚威の連続であった。
 鉄筋コンクリートのビルは、東京でもまだ珍しい時代だった。
 格納庫の鋲打(びょううち)作業に連日見物人が押し寄せた。
 大正十一年(一九二二)十一月、立川駅に降りたった飛行第五大隊を、村長はじめ村民一同、村をあげて歓迎した。

  そも三多摩に覇を振う 我が立川の平原に
  巍(き)然と建てる幾棟は これぞ飛行五大隊
  晴れたる秋の空高く タベに多摩の水清く
  秋たけなわの今日の日に いざや祝わん諸共(もろとも)

 曲は「勇敢なる水兵」の借り物であったが、村民は声をからして歌った。
 天皇陛下・皇太子殿下・陸軍大臣荒木大将など国の最高権力者が、中央線に乗って続々と立川を訪問した。
 「天皇旗進ませ給ふ多摩の山野は清々しき旭光に映ええ、麗はしき御英姿を拝して光栄と感激に包まれた――」(昭和8・5・8)と、新聞は高らかに報道した。
 第五大隊のあと、飛行機製作所、民間航空会社なども立川を目指して移ってきた。
 石川島飛行機製作所・朝日航空会社・日本航空等々、設備が多くなるにつれて、当然土地拡張が進められた。
 昭和十年に二万八千五百九十五平方メートル加わり、十六年までには千十八万平方メートル、滑走路は一・五キロメートルとなり、補装されて世界でも有数の航空基地となった。
 滑走路の西にアジア最大の航空機実験場設置。中島飛行機製作所で作られた一式戦闘機「隼」(はやぶさ)も立川から飛んでいった。
 町の中心は、立川駅北口から飛行場正門までの仲町通りで、別称「五連隊通り」といい、繁華街ができ、映画館もできた。人口は昭和十五年(一九四〇)三万四千七百二十九人となり、同年「立川市」となる。
 住民たちは得意絶頂であった。昭和五年作られた「立川小唄」は誰もことあるたびに口ずさみ 酒を飮んでは歌い踊った。

   東京ばかりか浅川青梅 五日市からひと走り
   汽車だ電車だ川崎からも 空の都よ 立川よ
   かたじゃ飛行機風まかせ お前の出ようで宙返り 
      (以下略)

 飛行場関係の従業者は、立川飛行機株式会社だけでも、最初は百六十人であったが、昭和十二年には千九百二十九人、昭和十六年には一万一干六十人となる。立川駅乗降客は昭和十五年には四万人となった。
 飛行場用地は、昭和十九年ついに五百八十ヘクタール(約一七五万坪)、立川市の全面積の四分の一を占めるに至った。
 「空の都よ、立川よ」と歌い踊っている農民の足元から、土地がみるみるうちに失われていった。
 土地を失った農民は、移住してきた従業員の貸地代や、商店街の雇用人、飛行場整地などの臨時労務者となって生活を補なった。
     *
 武蔵野特有の強風による土ぼこりは「赤っ風」と呼ばれて住民を悩ました。
 三月から四月にかけては特にひどかった。
 飛行場二百十五ヘクタール(約六五万坪・設立当時)の広大な土地は木が一本もなく、全くの裸土となったので、連日連夜黄塵万丈で太陽も暗く、バッタの顔までまっ黒だった。
 伸び始めた麦が埋まり、熊手で土をかき出した。家の中は押入れの中まで土が積もった。
 『立川飛行場史』(三田鶴吉著)に古老の言が集録されている。その中から拾ってみると、
 「飛行場の拡張のゼニを東京まで貰いに行ってな、うんとだからって一反風呂敷持ってな。
 近所の若いもん頼んで行ったらば、紙きれ一枚しかくれねえから変な顔をしてたら、銀行へ持っていけばゼニになるって教えてもらったあけど、帰りにゃご馳走するって連れてったあ連中が腹ペコで帰って来ただとよ。
 なんしろ小切手なんか貰ったことがないもんでなあ」。
 「たしか昭和十年の拡張だったよ、七万二千円ゼニが入った家があっただよな。
 百姓屋のシンヤ(分家)にうち作って出すに二千円もあればお釣がくる頃の話だから、あんまりの大金でみんなたまげたもんだよ」。
 「昭和八年、九年頃、百円持って芸者二人連れて湯河原にタクシーで遊びに行って一晩泊って帰ってきても、それでもまだお釣がいくらかあっただから、あの頃はゼニの値うちがあっただなあ」。
 入った土地の金を、気をよくして一晩で使い果たした者もいた。環境の急激な変化のため、農民の意識は時代感覚について行けなかった。

   3 青梅街道沿いの軍事施設 top

 立川飛行場の北へ北への拡張にともない、付随する施設や民間企業が、中央線の各駅の北側に“群雄割拠”する。
 そのために五日市街道はほとんどすべて工場などで埋められ、街道は軍事道路となった。
 さらに五日市街道を越え、青梅街道へも進出した。
 五日市街道は大倉系・三井系。青梅街道は中島系・日立系が群立する。
 青梅街道は、五日市街道に比べて数こそ少ないが、多摩随一の、いや日本随一といわれる中島飛行機株式会社があった。
 ほかに日立航空機株式会社もかなり規模が大きかった。

  〔日立航空機株式会社〕(東大和市) 
 これは松方財閥が大森一帯につくった「東京瓦斯(ガス)電気工業株式会社」が前身で、設備拡張のため立川飛行場の北の昭和飛行機株式会社の東隣りの山林に目をつけた。 現在の西武線東大和駅から玉川上水駅にかけて、広さ二十四・八ヘクタール(約七万五千坪)の場所で、昭和十二年(一九三七)土地買収が行なわれて坪二円五十銭で手に入れた。
 社員を家族ぐるみ三百五十戸、千人以上を全部移住させ、工場都市を建設するという大がかりなものだった。
 当時の大和村は、青梅街道から南方の畑・山林に、村山貯水池で追われた、ひとかたまりの農民の「移転場」があるだけだった。
 「瓦斯電」の指定地は、それからさらに南の、全くの無人地域である。

 新しい工場都市は、まず水の確保のため二百七十メートルの深井戸を掘り、ポンプで吸いあげて配水する。
 西に工場、東の南街通り(青梅街道)は社員住宅地とした。 他に共同浴場・診療所・物品配給所・郵便局・理髪店・クラブ・映画館もつくられた。たちまち独立都市が出来上がった。
 昭和十四年(一九三九)、軍部の命令で「瓦斯電」は新興財閥日産コンツェルンの日立製作所の支配下におかれ、「日立航空機株式会社」と名を変えた。
 航空機エンジンの工場は拡大され、従業員も増加した。十八年には六百三十二戸となり、大和村の総戸数千八百二十六戸の三四・六パーセントを占めるにいたった。
 地方から若い社員や工員や徴用、学徒動員も加わって増産が強要された。 太平洋横断に使うという二千五百馬力のエンジンも作られた。


戦時下に生まれた町・南街(大和町史より)

 立川から青梅橋まで原料・製品を運ぶ引込線(現西武鉄道拝島線東大和駅)ができて動脈となった。
 戦争が激しくなると、当然アメリカ軍にねらわれた。
 昭和二十年(一九四五)二月、アメリカ艦載機五十機が日立航空機を襲い、小型爆弾を投下して、収容された死体だけでも百五十体を越えた。
四月二十四日はB29の編隊九十機が襲い、三千メートルの低空から一トン級の大型爆弾三千発をおとし、工場のほとんどが壊滅した(資料提供・元日立航空機葛ホ務・東大和市奈良橋・三沢泰太郎)

  〔中島飛行機株式会社〕(武蔵野市) 
 中央線三鷹駅のある武蔵野町の西久保に中島飛行機株式会社ができた(昭和6年)
 第一次世界大戦前後に、群馬県太田に小さな飛行機研究所」を作ってから、戦争の航空機への転換に呼応して、太田に航空機の部品・組立工場を作った。
 昭和十二年(一九三七)蘆溝橋事件より、軍事行動が全中国大陸に及ぶと、もはや航空機でなければ活動不可能となり、軍部は第一の重工業会社をもつ三菱財閥を排して、中島飛行機に生産の増大を要求した。
 中島は資本金千二百万円の株式会社に名を改めて、多摩地区に進出を企てた。
 武蔵野町には、渋谷から工場拡張のために移ってきた横河電機株式会社があり、中島はその隣りに十八ヘクタール(約五万四千坪)の敷地を買入れ、発動機工場として「武蔵野製作所」を開設した。


立川基地跡と日本本土空襲の米軍B29爆撃機

 昭和十四年には田無町の北部の谷戸(やと)付近の広い山林に、「田無鋳鍛工場」を新設する。
 ここで発動機体を鋳造し、それを武蔵野製作所に送って発動機に仕上げ。
 トラック輸送で太田の本工場へ運び、飛行機の機体にとりつけて完成させる、というシステムである。
 海軍からも生産拡充を命ぜられ、武蔵野製作所の隣りに、海軍の発動機専門の「多摩製作所」ができた。
 中島飛行機は「満蒙国境ニ於ケル空中戦ニテ遺憾ナク其優秀性ヲ発揮シ赫々タル戦捷ノ素因ヲ作レリ…」と、軍部から表彰されるほど性能の高いものであったが、同時に軍部の強いバックアップがあった。
 満州事変後の軍事費は、年とともに増大し、昭和十二年国家予算の十三%、十五年は十九%、十九年はなんと四五%を占めるにいたった。
 中島飛行機の拡大膨張は、軍事費の増大をそのまま反映していた。日増しに増産が要求された。
 軍の機密もあってか、鉄道に頼らず、大型トラックが航空機エンジンを満載して、青梅街道側の正門から、街道を東へ無気味な音をたてて走って行った。
 かって野菜と人糞をのせた荷車でにぎかった百姓みち青梅街道は、軍用道路と化していた。
 工場に働く労務者とその家族の住宅、宿舎が次々と建てられ。周辺の農地も宅地となり、武蔵野町の人口は昭和十二年には二万九干人、十六年には五万人を越えた。
 南口しかなかった中央線三鷹駅に北口ができ、バスも数本開通した。
 工員は関東一円から集められた。第二次大戦中は東北方面に募集に行き、今の集団就職のように団体で、会社の旗をたてて工場へやってきた。
 工場敷地内に七〜八千人も入れる独身寮が三棟建ち、青年学校もできた。
 そのほか徴用、学徒動員も加わって四万五千人ほどになった。
 通勤する人も大分いて、通勤時間帯での中央線は、東京市内から乗る人で、新宿へ来ると超満員になった。
 ほとんど三鷹(中島・横河)と立川へ行く人ばかりだった。
 車両も駅のホームの長さぎりぎりの七両に増車された(資料提供・元中島飛行機製作所勤務・田無市南町・秋元重雄)
 青梅街道は工員住宅が建並び街道坂上(保谷市)は「坂上銀座」と呼ばれるほど工員家族でにぎわった(『郷上北多摩』)
 中島飛行機株式会社の最盛期、昭和十九年の状況は、群馬県太田製作所のほか、東京製作所・武蔵野製作所・小泉製作所・半田製作所・大宮製作所・宇都宮製作所・浜松製作所・三島製作所・三鷹研究所・田無鋳鍛工場と、各製作所配下の分工場と合わせると七十五工場があり、戦争末期は空襲を避けて、地下工場、疎開工場にしたものを合わせると、中以上の工場だけで百二にのぼり、敷地総面積は三干五百五十三・八ヘクタール(約一千万坪)、建坪二百四十五・五ヘクタール、機械台数三万七百三十五台、就業人員約二十五万人、このほか協力工場六十八社、下請工場は数知れず、という日本最大というより、史上未曽有の大々工場群であった。
 資本金は三十五億九千二百万円という。
 その中でも最も大きいのが武蔵野製作所で、この工場の回りに協力工場、下請工場が幾重にも包囲して、武蔵野町は、“中島飛行機の町”とさえいわれた。
 本格的な東京空襲が、昭和十九年(一九四四)十一月から始まった。
 その初空襲十一月二十四日、敵B29八十機数編隊が襲ったのは東京市街ではなく、この武蔵野町中島飛行機工場であった。
 爆弾三十六個と焼夷弾十四個投下。死者五十七人、負傷者七十五人、建物破壊四ヵ所。
 その後ひんぱんに中島工場を目指して敵機が来襲した。
 昭和二十年(一九四五)二月十六日は艦載機グラマンの低空攻撃を受け、八月八日まで武蔵野製作所だけで死傷者合計四百八十六人、内死者二百二十人と、物的被害は莫大な額にのぼった。
 「二十年の二月ごろまでの空襲は、敵機が東京の空を通りぬけて西の方へ向かっていきました。
 空襲警報が鳴出すと近所では、『ホラまた中島だ』と外へ出て西の空を眺めると、少したつと間違いなく黒雲のような煙りが西に舞い上がっていました。
 空襲というと小さな子供まで『ナカジマ、ナカジマ』と騷いでいました」(新宿区北新宿・西野せい談)
 東京空襲の第一目的は、都およひ周辺の軍事施設・軍需工場の壊滅にあった。
 十一月から二十年八月まで、中島飛行機工場ばかりでなく、軍需工場の集中する武蔵野町・三鷹町、航空本部のある立川市およびその周辺を、白昼高度一万メートルからの大型爆弾の精密爆撃が執拗に続けられた。
 二十年三月からは都市攻撃(夜間低空焼夷弾攻撃)も始まり江東地区は全滅した。
 沖縄占領後の五月からは大規模な無差別絨毯(じゅうたん)爆撃が開始され、「東京にもはや高地(目標)なし」と東京壊滅が米国に報じられた。
 青梅街道沿いも、四月に保谷・田無の中島飛行機関係の工場、施設が集中爆撃を受け、四、五月には都市攻撃により淀橋地区(全滅)、中野地区(五割)、杉並地区は阿佐ヶ谷・馬橋・高円寺などの一部が爆撃された。
 市民の記録を集めた『東京大空襲・戦災誌』に次の一文が記されている。
 「(五月二十五日の中野地域の)青梅街道は、人と荷物と強制疎開で解体された建物の残骸で、ごった返していた。
 焼夷弾の落下音、呼び声、叫び声、物のこわれるような音、一層多くなる子供達の泣き声、大正十二年の震災以上の混乱振りであった。――」 (坂田保男)

   4 国破れて山河あり top


多摩地方の歴史を見つづけてきた狭山丘陵
(上の右端が下の左端につながる。東大和市役所屋上より望む)

 戦争が終って多摩の各地のおびただしい軍用地は、再び農民の手に帰することはなかった。
 米軍に接収されたり、自衛隊の施設用地になったり、大手メーカーの工場用地に払い下げられたりした。
 軍需工場はそのまま日立などの日産系の工場に形を変え、継続している所もあるが、“軍需の大御所中島”は国有となり賠償工場に指定され、その使命が終ると、この地上からうたかたのごとく消えていった。
 万を越えた従業員は国へ帰る者、転職していった者が数多くあったが、住み馴れない多摩の地で、新しく職を求めて定住した者も大分いた。
 武蔵野製作所跡は現在、一部は電気通信研究所となり、大部分の敷地はグリンバーグと名を変えて、無心な若者たちが競技する、明るい平和な広場となっている。
 東大和市南街は、日立航空機の残留組が作った町で、南街通りは賑やかに商店が並び、市の中心街となった。
 立川飛行場は米軍に接収され、昭和三十年(一九五五)基地拡張を迫られた時、該当地の砂川町(現立川市)は、町民総決起集会を開いて基地に反対した。
 「土地に抗は打たれても 心に抗は打たれない」のムシロ旗を押し立てた。
 有名な砂川闘争である。昭和五十一年(一九七六)やっと市民の手に帰することになった。
 福生市は多摩に残るただ一つの悲劇の町となった。昭和十四年(一九三九)立川飛行場の付属「多摩飛行場」として設置された。
 戦後米軍に接収され「横田基地」となり、騎兵師団、航空輸送団が移住してきて、福生・羽村・武蔵村山へ基地拡大した。 福生は米軍を対象としたサービス業が増え、“限りなく透明に近いブルー”がただよう町になった。
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 旧立川飛行場を背に、五日市街道を横切り、新日光街道(国道十六号線)を北へ行く。
 街道に沿い金網をめぐらしたものものしい横田基地を右に見て、喧噪する車の流れに悩まされながら五キロ先の箱根ヶ崎へ向かう。
 新日光街道と青梅街道の交差する箱根ヶ畸へ来ると、狭山丘陵西端のうっそうとした木立が、商店の軒並の隙間からのぞいている。
 広い武蔵野の原野にたった一つの目標とされ、武蔵野台地の人々に勇気と哀歓を与えてきた狭山丘陵は、人家に埋まろうとしている。
 何一つ昔をとどめるものはない。
 百姓みち青梅街道は、この地上から消えようとしている。
 日本列島のすべてに通じるメカニカルな無個性な「東京主要道路第五号線」となり、無限に走る車とその喧噪の中で、かっての街道は埋まろうとしている。

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