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 十章 特権農民・水車稼人 top

   1 困窮農民の激増

 武蔵野台地の畑作の生産量が増え始めたのは、良質の肥料が用いられるようになってからだという。
 それ以前は刈敷(かりしき)といって、秣(まぐさ)場の枝葉を用いていたが、江戸から下りぬかや灰、干鰯(ほしか)を購入するようになって一段と生産量が上がった。
 この地方の肥料の購入は、初めの頃は各村の在方穀屋が江戸から直接仕入れてきたが、需要がだんだん増えてくると、本格的なルートができてきた。
 荒川や新河岸川の川輸送で、川越の扇河岸で陸にあげられ、扇町屋(入間市)を経て加治丘陵の根通りを通って青梅方面へ。
 もう一方は新河岸川引又河岸(志木市)から陸上げされて、所沢を経て狭山丘陵南麓へ入った。
 一反当りの大麦・小麦の作付けにぬか二俵、灰二俵必要で肥料商から買う肥料の値段は、ぬか二俵二貫二百文、灰二俵四百文かかった。
 穫れた作物の売り値は、反当り大麦十五斗で金二分と六百文。小麦は七斗で二分と三百文(天保14・一八四三)
 肥料代は雑穀収入の半分以上かかることになる。(天保期は大体金一両=八千文)
 ぬかの売買は、肥料商が「年々春ごろよりぬかを買占め、麦作仕付け(秋)頃申し合わせて占売(しめう)り」する。

 農民はこの高いぬかを前借りで買い、利息をとられ夏の収穫時に穀類で返済するが、その値は普通より安く引きとられる。
 ただしこれは平年作の場合である。凶作の時や、働き手が病気になったりすると収入はなく、借金が重なっていく。利息は年二割から二割五分という高率だった。
 文政六年(一八二三)の小川村「村方困窮始末書上」には「小百姓は肥料に差支え、肥料不足でも仕方なく耕作している。
 蒔きつけの時も遅れ、その上肥料不足のため収穫も減り、豊作の年でさえ余分の取高もあがらず、いつまでも困窮難儀している。
 大体一反歩で肥料は金一〜二分かかり、収穫は一反で金二〜三分とれるので、手広く耕作している者は何とかやっていけるが、耕地の少ない者は肥料代を借用し、それがまた高利で、利益はほとんどない。こんな状態で年々経営している」と書かれている。
 肥料商は前章で触れたように、穀商、水車稼人を兼ねた多角経営者が多く、水車を利用して醤油、酒造りもやっていた。
 また農民へ金も貸して利息をとっていたから、自然質屋を兼ねる者もいた。
 金肥を使う農業になって生産はあがっても、在方商人、特に肥料商と一般農民とのかかわり合いによって、富める者と貧しい者との差をいっそう顕著なものにしていった。
 農民がしだいに窮民になっていく過程は、次のように行なわれていった。
 農民は高い肥料を買い穀類を安く売る。それで借金が残る。来年の穀物が穫れるまでその借金に利息が増していく。次の年は不作でまた返せない。
 また借金と利息が増える。借金の担保にしていた畑を手放すことになる。
 貸すほうはそうなることを初めから予期している。自分たちの商法で、農民が返済できる力がないことは百も承知である。
 農民が肥料代を借りることは、すでに畑地を手離す前兆とさえいえる。
 守田志郎著の『二宮尊徳』に次のような一文がある。
 「農民間の貸借の際に、金を借りる時から田畑を手放す手順が貸主の方でちゃんときまっていた。
 必ず手順通りにはっきり進んだ。その手順とは、
 @借金の時の証文の作成。→A利息の累積によって、ある田畑の価格にふさわしい借金の増え。→Bその田畑を質入れさせて質入れ証文を作成する。→C地主・質小作関係が成立する。→D小作料の滞納でまた借金が増える。→E田畑の質入れ証文から、田畑売買証文へと書き換える。→F領主・代官による土地台帳の点検の際、台帳の名儀人の変更。という手続きをとる」。これで手続き完了。
 いとも明確に合法的に土地の名儀人が変わることになる。
 土地は「永代売買禁止」であるから、買うことはできないが、借金の質としてとることができる。
 質入値段は、上畑(注・反当り玄米一石三斗の収穫に値いする畑。中畑は一石一斗、下畑は九斗の畑)が一反永一貫文(金一両)、中畑・下畑永七百五十文(金三分)、屋敷は永二貫文(金二両)が標凖だった。
 利息は月一〜二割という高利である。

  「  入置申証文之事
  『私兄新兵衛願いに付き近所組合私共まで相談の上、新兵衛所持の地面少々これ有り候ところ、このたび勘兵衛方へ譲り置き候。
  新兵衛親子どもは私方に引取り候ところ実正なり。
  この上我ら方にて何分世話仕末まで見届け養育仕るべき候。
  これによって自今新兵衛義に付きいかようの義候とも、われら引受け御村方へ少しもご苦労をかけまじく候。
  後日のため一札よって件のごとし。
    新座郡西堀村  引請人 六兵衛の
           当村証人 勘兵衛印
    明和賢月
  下保谷村 村役人中          」
             (『保谷市史史科集』)
 このような質地証文は、各村の名主、富農の家に最も多く残されているという。
 小川村の耕地の所有の移動を見ると、
            三町以上 一−二町 一町以下
宇水七年(一七一〇) 八〇人  一一六人  一〇人
安永六年(一七七七) 七四人  一八一人   四人
天保二年(一八三一) 七二人  一〇八人  三二人
嘉永七年(一八五四) 七六人   九七人   八四人
                (『小平町誌』)
 安永の頃まで中間層が多かったが、天明を経て天保ごろには、下層が多くなり貧富の差がしだいに多くなっていく。
 農業だけでは食べていけず、農間渡世に繭を作ったり、女は機織り、男は薪をとって売ったりして、かろうじて露命をつないだ。
 村明細帳に「水呑」という名が目立ってくるのは天明のころからだという。
 下層は小作が日雇いになる。しかし手離せる土地があるうちはよかった。


古文書・奉公人請状

 土地を手離してもまだ借金が残った場合、娘・子供を質奉公に出さねばならない。

「  奉公人請状之事
 一、みつと申す女、たしかなる者に御座候に付き、我等請人に相立て、当亥の二月二日より来る子(ね)二月二日まで壱季に相きめ、御給金壱両二分二朱、只今残らず請取申候、御着せの儀は夏木綿単物(ひとえもの)壱つ、冬木綿袷(あわせ)壱つ、その外諸式下され候御約束に御座候事(略)
 御奉公大切に相勤さすべく申し候、もしまた勤の内取逃げ欠落(かけおち)仕り候はば三日の内たずね出し、人代なりとも本金にても御望みしだい埓(らち)明け申すべく候。
 御奉公勤め方御気に入り成られ御留置き候はばこの証文をもって私ども何ヵ年も御請けに相立て申候事(略)
下小金井村人主  甚 七印
     請人  伝 蔵印
  享和三(一八〇三)亥
        二月二日
同村 治右衛門殿     」
          (『小金井市誌V資料編』)

 「人主」(ひとぬし)という仲介業者がしばしば出てくる。
 商売として結構成り立っていたのだろう。
 しかし、娘を奉公に出してそれで済めばまだましなほうで、小前、水呑百姓の最後の手段は、家を捨て村を捨てどこかへ逃げ出すことである。
 退転、欠落(かけおち)、出奔(しゅっぱん)、遂電(ちくでん)、勘当(かんどう)、家出、久離、逃散(ちょうさん)、と言葉に不自由しないくらいいろいろな呼び方がある。
 欠落はどの村からも毎年のように出た。
 岸村(武蔵村山市)の例でみると、文化十年:男一人、文化十二年:男女各二人、文政二年:男一人、天保五年:男一人、天保六年:男女各二人、天保七年:男女各二人、天保十年:男一人、天保十一年:女一人。
 これらの者たちはどこへ逃げていったのか。
 近郊の町や村もあっただろうが、江戸へ流れていった者が多かったに違いない。
 寛政改革の「旧里帰農令」(一七八九)や天保改革の「人返し令」(一八四三)などのように、江戸流人を禁止し、帰郷を奨励したのは、こういう世相から生まれた政策であったが、少しも効果があがらなかった。
 安永九年(一七八〇)より天明六年(一七八六)のわずか六年間に、全国の人口が百四十万人も減少したという。
 老中松平定信は「減じたる人みな死うせしにあらず、只帳外れ(宗門人別帳から名を消す)となり。
 又は出家山伏となり、また無宿となり、又は江戸へ出て人別にもいらず、さまよい歩く徒と成りにける」 (『江戸町人の研究』1巻)
 このように路頭に迷う農民や、江戸の庶民に決定的な打撃を与えたのは、天明、天保の大飢饉であった。
 天明三年(一七八三)から同七年(一七八七)までの四年間、天保三年(一八三二)から同八年(一八三七)までの五年間、ほとんど毎年飢饉が続いた。
 断続的な飢饉に比べ、毎年のうち重なる飢饉は、前年の貯えが全くなく、食べ尽し借金し尽し、すべて底をついて、飢餓が累積されていく。
 世相は不穏な空気がただよい、一触即発で何が起るかわからない状態にあった。
 商人たちの米、雑穀の買占めが行なわれて、穀類の値の高騰が続いた。

   2 天明の打壊し top


筥根ヶ崎村古図


打壊しの集合場所となった箱根ヶ崎・筥の池

 天明四年(一七八四)二月、羽村の名主羽助、太郎左衛門、組頭の伝兵衛の三人が集まって、困窮している人々を何とか救う手はないか相談し、三人で檄文(げきぶん、触れぶみ)を作った。

   「  口上
 一、去る卯年(天明三年)関八州並び出羽、奥羽まで、去夏秋両毛不作につき米穀並び雑穀等高値に相成り(略)
 近在有徳の者ども寄合い相談いたし、市場町場はもちろん小前までの雑穀を買留め置き、占売りいたし候者ども近辺にこれあり。
 大勢の難儀をかえり見ず甚だ不法の仕方、よって御相談申す儀これあり候間、来る廿八日暮六ツ時より五ツ時まで箱根ヶ崎村池尻へ、高百石に付き二十人ほどずつのつもりを以て村々一同御出合なされ候(略)。以上。

    辰二月(天明四年)   困窮之村々
         御名主、御年寄、御百姓  」
                (『端穂町史』)

 この檄文は多摩郡、入間郡四十ヵ村の村々におよび、高札場や村役人の宅前に貼られた。
 驚いた村の役人や“占売りしている有徳の者ども”は、代官所へ注進した。
 二月二十八日の夜がやってきた。
 集合場所に決められた箱根ヶ崎池尻(筥(はこ)の池)は、狭山丘陵の西端、駒形富士山という小山があり、日光裏街道と青梅街道が交差する所で、目印のない武蔵野原には集合場所として格好の地点であった。
 打壊しの聞き書きを記録した「武州村山大変次第之事」(『端穂町史』)から、その状況を追ってみる。
 夜九つ(十二時)、農民二〜三万人が箱根ヶ崎池尻に鐘の合図で集合した。
 松竹の印の高提灯をたで、寄せくる人の声は野山もくずれるばかりであったが、これといった頭取もなく評議もなかった。
 老人の声がした。「どこへでも心さす方へ行くように」。その時対岸の山頂から「原山才次郎」と叫ぶ者があった。
 それを合図に四〜五百人、口をそろえて「山王前!山王前!!」というと、群衆も一斉に「山王前、山王前」と叫んで、中藤村(武蔵村山市)を目指して進んでいった(山王前というのは中藤村萩の尾の波多野文右衛門宅の通称)
 箱根ヶ崎池尻から東方五キロ、闇にのまれた狭山丘陵を左手に、春まだ浅く冷気が覆う青梅街道(清戸道)を一路中藤へ。
 先頭は鰒田村(武蔵村山市)に至っても後尾は石畑、箱根ヶ崎という長蛇の列であった。
 先頭二〜三百人の若者は手に斧、かけや、のこぎり、すき、鍬などを持ち、たいまつの火とともに押し進んだ。
 この来襲をいち早く知った「山王前」では家人や使用人たちが鉄砲、弓矢を用意して待ち受けたが、あまり大勢なので、ちりぢりに逃げてしまった。
 一行は表門、裏門をかけやで壊し、物置、油屋、穀蔵、金蔵、居宅と次々打壊し、敷居や鴨居はなたやのこぎりで切り倒し、道具類、なべ釜も壊した。
 それから「山王前」の品物を預っているという同村の親戚を荒し、同村佐兵衛、与七宅を襲い、さらに今度は二キロ離れた高木村(東大和市)の庄兵衛宅を襲った。
 庄兵衛宅は、絞油業を営むと同時に肥料商、穀商、質屋を兼業する「庄兵衛大尽(だいじん)」「油大尽」と村人から呼ばれていた。
 そこを打壊し、翌朝巳の刻(午前十時)にはみんな散っていった。
 庄兵衛宅では油樽を壊されたため、油が一面に流れ、長いこと井戸の水が油に変ってしまったという。
 幕府は「いずれにせよ民百姓の分ざいで、騒動を起こすこと上天もおそれない不届き千万」ということで、騒動五日後、江戸南北両町奉行所から同心一行が羽村に入り、主謀者を召し捕った。捕えられた者、羽村名主羽助、太郎左衛門、組頭伝兵衛ほか八名、他に小作、川崎(昭島市)、福生、箱根ヶ崎、石畑、殿ヶ谷、中藤新田、二本木、今寺、青梅などの村々の者六十三名であった。
 騒動鎮圧後、打ち壊された高木村庄兵衛が、代官所に届け出た「打壊諸道具書上帳」(損害内容報告・ 『大和町史・史料集』)を見ると、家具什器類のほかに「土蔵四棟のうち二棟、荏油三斗八升入り四十三本、炭小屋二ヵ所、炭五百俵、俵物(米か?)五十俵余、雑穀六十七俵、質物口数二千七百六十四口等々」が損失を受けた、とある。
農民各戸の米びつが底をつき、雑草やワラで食いつないでいた飢饉の最中での所有量である。
 檄文を書いて騒動の口火を切ったのは、羽村の村役人三人であった。なぜ羽村の村役人が立上がったのか。
 「羽村は玉川上水堰場で、御普請人足を動かしており、各村から労働力を受入れる側であった。
 不作によって収入が失なわれ、人足賃銭で生活のたしにする農民との接触が多かった」(『新田村落』)という見解がある。
 また別な見方をすると――江戸からの肥料収入のルートである扇河岸から扇町屋を経て加治丘陵下の沿道と、所沢を経て狭山丘陵下の沿道(青梅街道=清戸みち)に肥料商が多い。
 羽村はこの経済圏の西南端にあって、村には肥料商かいない(「文政書上」に「肥料商無御座候」とある)
 同じく肥料ルートからはずれた小川村の名主であり、醸造業をやっている弥次郎は、ことあるごと 「肥糠高値で百姓が困窮している」ことを代官所に訴え、また寛政二年(一七九〇)には、小川村はじめ二十四ヵ村連名で、奉行所へ「ぬか肥値下げ歎願書」を出し、肥料値下げ運動を執拗に続けていた。
 在方商人といっても、一番もうかる肥料を扱わない商人や村役人たちの、肥料商に対する激しい嫉妬感情があったことも見逃せない。
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 天明七年、大坂に江戸に、打壊しが拡がる。
 江戸の打壊しで、淀橋雑穀問屋大和屋も襲われ、首謀者とみられる三十人が逮捕される。
 その逮捕者たちが住んでいた大方の町は、裏店借(うらだながり)の貧民層の密集地であり、彼らは大工、左官、仕事師、棒手(ぼて)振り(青物、魚の行商人)など、その日暮しの生活を送っていた。
 その貧民層の密集地の住人のうち、四人に一人は江戸近郊の農村出身者であり、捕われた三十人の中で七人がそうであった。
 七人のなかに七兵衛(25歳)という武州多摩郡青梅村百姓出身者がいた(『江戸町人の研究』1巻・竹内誠)

   3 天保の貼紙騒動 top

 天明の飢饐から約五十年後、世の中はまた大飢饉にみまわれ、悪天候が波状的に村々を襲った。
 天保二年(一八三一)の麦作の出来具合については、
 @ 前年の初冬の蒔(ま)きつけの時、大雨が降り続き、蒔くのが遅れた。
 A 成育期に入ってから逆に雨が少なくてよく育たなかった。
 B 本年になってときどき大風雨があって倒れたり根腐りになったりした。
 C 出穂期に霖雨が降り続き、よく実のらなかった。
 D 収穫期に入る四月七、八日に烈風が吹き、折れたり倒れたりした(『東村山市史』)とある。
 天保五年(一八三四)上川原村(昭島市)の名主は、組合村の報告書に「当村方には米麦雑穀ともいっさい御座無く候。貧民を救いとしての囲い穀(貯穀)いっさい御座無く候――」と書いた。
村全体、穀類がないという。(注・古村であるこの付近は、新田村のような貯倉がなかった)
 米雑穀の値段はみるみる高騰し、天保四年(一八三三)八月に銭百文で米八合、麦なら一升買えたものが、同年十月は米四〜五合、翌五年七月は米四合、天保七年(一八三六)八月は米四合、麦は五合になった(『大和町史史料集』)
 肥料値下げ運動があっても肥料は下がらず、在方商人の雑穀売占め買占めがますます盛んだった。
 中藤村の「山王前」も、打壊し後ようやく立ち直り、以前のような商売を続けていた。
 ただ変ったことといえば、関東取締出役が設置され、文政十年(一八二七)、関東全域に組合村が編成され、取締りの面だけが強化されていったことだった。
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 天保七年(一八三六)十一月二十七日、新町村付近で打壊しの貼紙、捨て札騷動か起る。
 村々に貼られた紙には、次のことが書かれてあった。

   「  覚
    『青梅  吉の屋
    一、所沢  あわ屋
    一、扇町屋 下くら
    『糀谷  しまや
  右之者米雑穀物買〆(かいしめ)候ニ付村々一同押寄セ打壊し可申候間当二十八日夜秩父青梅道四ッ辻寄場江村々一同罷出(まかりいで)(もし)また不参之村方ハ手始ニこわし可申候
    殿ヶ谷村  幸右衛門
    今井村   五兵術
    今井村   千右衛門
    三ッ木村  宮ノ下
    中藤村   古着や
    所沢    角屋
    富士山   周助
    糀谷    乙五郎
    坊村    弥十郎
  右之もの穀買〆
    木蓮寺村  権右衛門
    長谷部新田 弥丘[衛
    長谷部新田 伊丘]衛
    山王前大 臣(尽)
  右之もの糠買〆
    栗原新田  政五郎
    長谷部新田 馬之助
  右之もの世話人預り別紙之通合力出不に申候ハバ一同打こわし可申候
 申十一月(天保七年)    頭 取  」
           (『端穂町史』)

 天明の時と違ってはっきり目標を定めている。
そればかりかその目標を三段階に分け、第一目標は青梅の吉野屋など四軒、第二目標は穀物買占めの九軒とぬか買占めの四軒、第三目標はこれらの世話人である二人の者で、酒や炊き出しを提供しないと打壊しをかける、という条件つきのものである。
 ただ名指しをしただけの貼紙でも充分用が足りる。
 この近辺の者には、どの村の何兵衛というだけで、その在方商人の場所も顔も知っている。
 「有徳人(うとくじん、富者)一人あれば其辺には困窮の百姓二十人も三十人も出来、…福有は其大勢の徳分を吸取て一人の結構と成し……」 (『世事見聞録』文化13)というように、多数の困窮農民の中で、一人栄華を尽し聳(そび)え立っているのだから、どうしても目立つ存在である。青梅の吉野屋は、米穀を主として質屋もやっている穀商。所沢のあわ屋(阿波屋)は米穀商。扇町屋の下くらは酒造と穀物と肥料商。
 名指しを受けた商人たちは驚きあわて、財を隠し、飯の炊き出しで難を逃れようとした。
 しかしその日の夜のうちに、名主の通報をうけた関東取締出役が出動し、打壊しは未然に鎮圧されてしまった。
 首謀者と見られた長谷部新田幸左衛門と藤橋村の某は召捕えられた。
 もしこの騒動か起ったら、狭山丘陵、加治丘陵周辺、参加者多数の激戦となり、天明の時よりはるかに大きな騒動となっていたことであろう。

 天保期の全国の打壊しは、天明の時を更に上回り、江戸で起こり、大坂では大塩平八郎の乱となった。
 この村山地方の打壊しは、関東取締出役のため未然に終ったが、在方商人に与えた影響はかなり大きかった。
 天保八年(一八三七)二月、田無村の下田家を中心に篤農家が集まり、窮民に穀物や金銭を施行しようということになった。
 下田半兵衛は稗(ひえ)十九俵、鞁(ふすま)五五俵、大麦三俵、金十一両を窮民たちに分け与えた。
 ほかに村役人や富裕農民四十人が、合計六十六両二分の金を出し合い、極窮民六百六十六人に、一人あて金一分ずつを施した。
 半兵衛はそのほかに約一町歩の土地を「養老畑」と称し、困窮者に耕作させ、その収穫物を与えた(『公用分例畧記』)
 いつ自分の家が襲われるか、富裕者にはわかっている。金銭施行や養老畑は、先手を打った厄逃れであった。


左=田無山総持寺所蔵の下田半兵衛富宅像
右=養老畑の碑(田無小学校内)

 幕府の肥料、穀物値下げの通達、倹約令、取締り強化等、どれもこれも窮民対策の解決にはほど遠く、やがて起るべくして起る三十年後の慶応二年の武州一揆まで、農民の不満はくすぶり続けていく。


  十二章 武州一揆と農兵隊 top

   1 農兵誕生

 伊豆韮山(にらやま)に居を構えていた代官江川太郎左衛門英竜は、天保九年(一八三八)アメリカ船が浦賀に来てから、事態が容易でないことをいち早く知り、伊豆国の防備について幕府に意見書を提出し、幕府諸藩の常備軍を補うため「農兵隊」の編成案をたてた。
 さらに嘉永六年(一八五三)、下田にペリーが来航すると、江川太郎左衛門は、国防に武士の兵力だけでは不十分であると、農兵隊を作ることを幕府に進言して認可を求めた。
 一方、国内の状勢も年ごとに緊迫化していった。
 一揆、打壊しが頻発し、無宿無頼が横行した。
 数人から八、九人の徒党で刃や銃砲を持って民家に押入り、家人を打殺すという犯行もあった。
 自警的な性格を持つ組合村が文政十年(一八二七)組織された。


韮山代官江川太郎左衛門は
反射炉(右)を築いて銃砲の鋳造に当った

 自分たちの手で治安に努めようと、村山地方二十ヵ村の組合村は、江川太郎左衛門代官所へ盗賊撃退用の鉄砲百丁の借用を願い出た。
 安政の大獄(一八五八)で世情は騒然となり、幕府は軍制改革に着手し、「兵賦令」(慶応元・一八六五)を発した。
 江川が構想をたてて三十余年後、江川支配地にかぎり「農兵取立」を許可した。
 農民に武器を持たせるのは太閣の刀狩り以来のことで、幕府の根本政策を揺り動かすものであったが、事態はそこまで追いつめられていた。
 農兵の数は、村高百石について一人の割合で、江川代官支配の多摩郡、入間郡の組合村百八十五ヵ村で、三百人を選出した。
 農兵の資格は、村役人の子弟や「身元之者」(富裕者)とされ、その費用は村人用(村負担)と身元之者の献金てまかなうことになった。
 はじめ消極的であった村側も、村方治安の維持ということは、富裕者自身の身を守ることにつながるので、この農兵制度に在方商人は次第に積極的に協力し出した。
 田無村の下田半兵衛は、農兵取立に金十五両と小筒三十挺を献上した。
 農兵の中から選抜した者を韮山へ集めて、槍術、オランダ式炮術を専門家が直接調練し、指導者として養成した。
 その者が村々へ帰って農兵にその技術を教えた。銃はオランダのゲーベル銃、雁皮(がんぴ)のこよりで編んだ上に漆を塗った韮山笠をかぶり、つめ襟の上着にズボン、腰には長剣をさげ、革帯の前に弾薬箱をつけ、三つ葉葵の紋のついた皮のどうらんを着けた農兵は、意気揚々、笛を吹き太鼓を叩いて行進したという。
     *
 村々の困窮農民は、わずかな耕地で高い肥料の耕作生活だけではやっていけず、やがて肥料のいらない桑畑にかえて、養蚕が行なわれるようになっていった。
 折から安政五年(一八五八)の横浜開港で生糸、茶が輸出され、国内の生糸は生糸商の買占めによって不足をきたし、その価格が暴騰した。
 それによって物価高という悪循環が繰返され、輪出の恩恵は生産者の農民におよばず、利を得た者は仲買問屋たちで、「…繭や糸を買い叩き、神奈川の夷人(いじん)に運び、大量の穀をつぶし、飢饉をよそに酒をしこみ、わずかな米を融通して数倍の利をむさぼる者…」(『武州世直し一揆資料』)であった。
 慶応元年(一八六五)、幕府は長州征伐を断行する。慶応二年、再度の長州征伐。これには世論も反対し、諸藩も止戦の建白書を出す者もあった。
 大名たちは戦争の拡大、長期化による米の欠乏に伴う飢饉を予想して、多量の兵糧米を買占め、米穀の領外移出を差し止め、また商人たちも米穀の続騰を見込み、盛んに買占めを行った。
 長幕戦が開始されると下関海峡が長州軍に占領されたため、西国、北国米の輸送がとまり物価高騰はピークに達した。
 運悪くこの年は天候不順。四月には大霜が襲い、五月になってもみぞれが降り、二月くらいの気温で、麦、桑が冷害を受け、春蚕が育たなかった。
 かって天保の大飢饉の時、百文で米五合という高騰ぶりであったが、慶応二年には百文で米一合八勹、挽割(ひきわり)は二合五勺にもなっていた。
 この年上半期だけでも各地で一揆が四十件も起った。
 米を買って生活している都市の日雇労働者から火の手があがった。
 五月には大坂で打壊し、ただちに江戸へ飛火して同月二十八日、品川宿の質屋、米屋、酒屋などが襲われ、麻布、神田、本所などへ拡がった。
 それから十日後、武州、上州一帯に有史以来未曽有の打壊しが勃発した。

   2 武州一揆 top

 「慶応二年六月十三日朝、武州秩父郡上名栗(かみなぐり)村に、どこの者か顔に覚えのない者三、四人が、当村の百姓紋次郎、豊五郎宅へ立寄って、物価が上がり、人々が苦しんでいるので飯能(はんのう、埼玉県飯能市)へ米穀値下げの要求に行く。
 皆に知らせ一同が出る様に連絡しておくよう、もし出なければ後日仇をとる、といって立ち去った。
 そこで二人が大声で触れ歩いた」(高麗郡梅原村・堀口家文書。以下の文書は大館右喜氏より)
 あるいは「上名栗村正覚寺。下名栗村川又竜泉寺、右二人の住寺惣発起人にて一揆蜂起致し…(秩父市岡谷家文書)とか「当村新規百姓紋次郎、豊五郎従党を企て候」 (上名栗村・町田家文書)とかいって、首謀者は文書によって違いがある。
 彼ら上・下名栗村百八十人あまりは、徒党を組み「南無阿弥陀仏」と書いた大旗と「平均世直(よなおし)将軍」と太筆で書いた旗を先頭に、飯能を目指した。
途中直竹村方面より一群加わり、併せて三百人くらいが集まった(堀口家文書)


農民は竹槍と農具を武器とした

 山また山の間をはるか二十キロ先の飯能を目指した名栗の一揆勢は、途中加勢を求めて何人か上直竹(現飯能市)の方へ回って「飯能宿穀屋を打壊しに行く人々出でよ」と催促し、もう一方吾野(あがの)へ回り人足を集めて総勢五百人くらいになった。
 その夜のうち飯能河原に勢揃いした。そこは五〜六アール(約百五十〜百八十坪)ほどの河原であるが、崖下のくぼ地になっていて、目と鼻の先にある飯能宿から見通しの利かない格好の場であった。
 夜の明けるのを待って米穀商酒商八左衛門宅に押しかけ、左記の頃項を要求した。
 一、今日より八月二十九日まで人助けのため玄米百文につき五合、挽割百文につき一升で売ること。
   『借金証文を返し、帳簿は焼き捨てること。
などを掛け合ったが、いっさい聞き入れないので打壊す。
 次に名主で米穀商の堺屋又右衛門、同じく名主米穀商の中屋清兵衛、板屋半兵衛の三軒を打壊した。次に竹屋、金子屋、秩父屋を目指す。竹屋へ掛け合うと、要求通り困窮者へ施し(金銭)とにぎり飯、酒を多量に出したので打壊しせず、ここで飲み食いする。
 打壊しにはルールがあり、目標とする家へ行って、いきなり打壊すのではなく、まず代表者が当家へ掛け合う。
 要求項目をのめば打壊さない。また打壊し同志の間でも鉄則を決めて厳守させた。
 このころの一揆は規模も勢力も拡大し、世直し一揆と呼ばれた。
 世直しは世ならしてあり、個人の富を一般に還元し、均等化させるのが目的てあるから、それ以上過度の行動をしてはならない。
 すなわち「徒党は指定した以外の家へはいっさい損害を与えてはならない」「人身に少しも危害を加えてはならない」「金銭を掠(かす)め取りおのれのものとしてはならない」「火つけはどのような場合にもしてはならない」「武器(刀、鉄砲、槍)は持ってはならない。農具(斧、鍬、鎌など)を使用する」とし、倫理的行動によって一般の共感を呼び集めた。
 また行動を拡大させるため人足の補給に努めた。
 その方法は、打壊しに入る村の名主に交渉して人足を出させて、次の打壊しに協力させ、次の村の名主にまた人足を集めさせると、打壊しの済んだ村の人足は帰させる。
 というように次々と交替させ、打壊し人足を減じないようにした。
 飯能が終って扇町屋へ向かう。
 途々集まってきた農民を加え、扇町屋へ着いた頃(午前十一時)には二千人にふくれ上がっていた。
 最初に「下くら」(天保の貼紙にも名指しされた長谷部家。横浜に生糸の支店を持つ)を無交渉で襲う。
 長谷部家の記録には
 「およそ二千人ほどの者当所にまいり、吹き流しのような旗を押し立て、白、赤、黄、萠色などの小ぎれを竹の先にくくりつけ、めいめいさらし木綿の鉢巻、たすきをかけ、斧、鉄砲をたずさえて…」
 「家作財宝諸道具等散乱の上打壊し、当宅の儀は酒造蔵へ押し入り、持ち合わせ居り候生酒六尺桶十一本、いずれも桶の輪を打ち切り生酒残らず相流し、土蔵居宅とも屋根瓦をひきめくり投げこわされ大乱暴に会い候」とある。
 ほかに浅田茂右衛門(生糸会所)、半次郎(名主)、徳兵衛(麻屋)、山村屋の四軒を打壊し、十四日正午すぎ本隊は扇町屋をあとに所沢に進んだ。
 所沢では阿波屋善兵衛(天保の貼紙に名指しされた家)をはじめ穀屋七軒、糸屋(横浜向け商人か)一軒、油屋二軒、搗米(つきまい)屋、茶屋(横浜向けか)質屋合わせて十五軒の家を二千人でわずか六時間ほどで打壊すという勢いてあった。

 そこで一揆勢は三手に分れる。 一隊は柳窪(やなぎくぼ、東久留米市)から田無(たなし)へ向かう。
 一隊は引又(ひきまた、埼玉県志木市)へ向かう。
 一隊は入間川で夜を明かして十五日坂戸(埼玉県坂戸市)へ向かう。
 また別の名栗勢一隊は広瀬村(埼玉県入間市)から飯能へ戻り、一部は自分の村へ帰り、大部分は黒須(入間市)へ行き、霞川をさかのぼり小谷田、谷ヶ貫を経て青梅へ入った。
 また名栗勢とは別に、上成木村でのろしをあげた別動隊は、吹上峠を越え、黒沢村で豪農柳内幸助、柳内源之助(酒造)、中村忠蔵(糸商・質屋)宅を荒し、青梅坂から青梅宿へ入って先動隊と合流する。時は十五日八ッ時(午後十時)
 青梅宿では上町の吉野屋をまず襲う。のちいい伝えによると、吉野屋は斧で傷つけられた柱が立つだけで、家具類、お勝手道具は散乱し、米俵はほとんど破られ、表の通りは米でまっ白に埋まったという。

 吉野屋のあとは豊島屋(酒造)、三好屋(質屋)、磯屋を打壊した。
 ここでまた一揆勢は二手に分れる。
 東へ進み新町から箱根ヶ崎、福生(ふっさ)、熊川、拝島から八王子へ行こうとする一隊。
 もう一隊は上成木村からおりてきた別動隊と合流して多摩川を渡り、御岳村からUターンして日影和田、長淵村等の村々から加勢を得て、十六日七ッ半(午前五時)に大久野(日の出町)に入り、そこで糸商を襲った後、羽生(はぶ)河原(日の出町)で羽生伝蔵差し出しの酒食をとって休憩後、ホラ貝でときの声をあげて、総勢三千人の大部隊となって五日市町を目指した。
 名栗勢より二日遅れて十五日、蜂起した山峡(あ)いの高麗郡吾野(あがの)村の吾野勢は、北上して埼玉北部、群馬県方面の打壊しの端緒を切った。
 寄居(よりい)、大宮、秩父、熊谷方面へ。
 こうしてわずか三日間のうちに武州、上州一円を、驚くべき速力と動員数で、大騒乱をまき起こしたのであった。
 ついに青梅街道も打壊しの舞台の一つになった。
 六月十五日青梅宿を襲って二つに分れたその一隊は、青梅街道を東に向かい、新町村の綿屋半十郎、田村重兵衛を襲い、長谷部新田では清水弥兵次(糸商・天保の貼紙でも指定された)を襲ったのが夜の十二時頃。
 十六日午前一時には箱根ヶ崎に来て、同村名主村山為一郎宅に押入る。
 ここで和談となり食事をとる。それから青梅街道をあとに日光裏街道を南下する。
 十六日夜明け、福生村田村重兵衛(酒屋)を襲い、熊川で和談になった石川酒造で酒食し、拝島から八王子に向かおうと築地(昭島市)の渡しに出た時は、人数およそ三千人になっていた。
 この時、対岸の日野宿に来ていた代官江川太郎左衛門の手附増山健次郎のひき入る八王子農兵隊、駒木野農兵隊(青梅)、日野農兵隊百人のほかに、増山の命令下に集められた人足五、六百人に鉄砲を発射され、一揆勢は撃退された。
 「農兵は一揆勢と遭遇したら遠慮なく打壊せ」という命令が出ていた。
 二百数十年間、たとえ一揆といえども幕府から「打壊せ」という命令はこれまで出されたことはなかったという。
 一揆側の死者十二人、捕えられた者三十二人を出し、徒党は四散した。

 一方所沢打壊し後、三手に分れたその一隊百数十人は、田無に向かうべく途中柳窪に来て、村野七郎左衛門(酒造・本家)、村野の分家七次郎 (肥料商)を襲った後、大雨が降ってきた。
 十五日夕刻、田無村に来ていた代官江川配下の長沢房五郎、田那村淳の二人は、翌朝五つ(八時)田無農兵隊および人足を連れ、柳窪にかけつけ、一揆を攻撃した。
 そのため一揆側即死八人、手負いは数知れず、雨の中をいずれかに逃げ去り、騒乱は鎮圧された(東大和市・内野家文書)
 各所の一揆勢は次々に鎮圧されていった。
 青梅で別れ、御岳、吉野、梅ヶ谷峠を越え五日市へ向かった一隊は、五日市寄場名主の呼びかけで、人足九百四十五人と農兵一人、鉄砲所持者二十人、竹槍所持者五百人が待機して、午前二時両者入交じって乱戦になり、農兵側は鉄砲を撃ちだす。
 二時間後、一揆勢は死者二人、生け捕り二十三人を出して四散した。


柳窪・村野家に残る打壊しの刃あと

 埼玉県方面へ向かったそれぞれの一揆勢も、農兵、藩兵の手で鎮圧された。
 引又に向かった一隊は川越へ押し寄せ、川越藩士の鉄砲で駆遂された。
 吾野勢のほうは、高麗から高崎(群馬県)に向かった一隊は岩鼻で、高萩から熊谷に向かった一隊は宮鼻で、上州八幡山から秩父方面に向かった一隊は名倉で、それぞれ攻撃されて敗走した。

   3 戦いすんで その一 top

 一揆側召捕えられた者百五十一人。そのうち多摩郡が三十九人で一番多く、次に緑野郡(埼玉)三十一人、児玉郡(埼玉)二十六人、秩父郡(埼玉)十三人等々。
 職業は不明の三十二人を除いて百姓六十六人、日雇十一人、下男・召使い十六人、大工建具等の職人五人、木挽二人、借家人十六人等々、一目瞭然貧困層であった。
 数千とも十万ともいわれる一揆の参加者の大方は、このうちのいずれかの職業であったろう。
 なぜ一揆が起ったか――。
 悪天候による飢饉のため米が足りなくなり暴騰した。
 米を買って生活している日雇労働者が真っ先にあおりをかぶった。
 しかし米が足りなくて値段が高くなっただけではない。
 幕府の弱体化による大名たちの思惑買い、領外移出差し止め、商人たちの買占めなどが原因だ。米がないのではない、ある所にはあるのだ。
 事件が越こる数日前(慶応二年六月七日)、川越城下町で周辺の大工職人が米価引下げを要求して氷川神社に集まった時、事態を重く見た川越藩は、藩米千俵をあっさり放出した(『川越藩日記』)
 ないのなら諦めがつくが、権力や金力で隠し持っているのは我慢できない。それも原因の一つとなっている。
 それからもう一つ。「廻し状、櫛の歯を挽くが如し」というように、一揆勢の伝播の速度は速く、農民の間で一揆について異常な関心と熱気がある。
 それまで起った各地の一揆の噂は、ものすごい速さで口から口へ、足から足へ電波のように拡がっていった。
 この年、上半期だけで一揆の数四十件。そのたびごとに豊富な情報と伝達の中で、自分たちが置かれた場の意識と、闘争意欲が刺戟されていったであろう。
 三十年前の天保八年(一八三七)大坂で乱を起こした大塩平八郎の檄文が、幕府の厳しい風聞取締りにもかかわらず、「風説書」の写本となって全国に流布していった。
 「二百四、五十年太平の間、追々上たる者、驕者(奢)とて、おごりを極、大切の政事に携候請人共、賄賂を公に、授受とて、贈貰いたし、一人家を肥し候工夫而已(のみ)に智術を運らし、其領分知行所の民百姓共に過分の用金申付、是迄年貢諸役の甚しき苦む上、追々入用かさみ候故、四海困窮相成候」。
 江戸およびその周辺の多くの者も、ひそかにこの檄文を読みあさったであろう。
 一揆は起るべくして起ったのである。
     *
 このころの一揆は共通の型を踏んでいる。
 一揆のやり方、心得は常日ごろからわきまえていたごとく、秩序正しく整然と行われた。
 誰も自分の村には打壊しをかけない。隣村の打壊しが済むと自分の村へ引上げてくる。
 自分の村の金持とはかかわり合いがあるし、人情も湧く。それに見知りではすぐ捕まってしまうという難点がある。
 柳窪村で田無農兵隊によって捕えられた一揆の顔ぶれは、溝沼村、所沢村、安松村、本郷村、秋津村、久米川村等、隣接する周辺の村の者ばかりで、当の柳窪の村民は一人もいなかった(「柳窪世直し一揆聞書抄」植田文雄)
 中神村(昭島市)の中野久二郎(縞屋)が打壊される時、「中神村人大いに怒り曰く。これ皆宮沢村の人の案内なりといふ」。他の村の文書にも「面体不存者共」「何方の者とも相知らず申す者ども打ち寄せ」と書いている。
 これも情報の中で研究された、打壊し戦術一つであっただろう。
     *
 一揆のルールは大体同じように行われたが、埼玉北部、群馬方面へ向かった吾野勢と、多摩郡に拡がった名栗勢とは、打壊し方が少々違って、その土地柄が出ている。
 天明、天保のころと違って、打壊しの対象に新しく登場したのが『横浜向商人』であるが、これは埼玉、群馬などの生糸、織物生産地帯に多い。
 原料の糸がほとんど横浜へ売払われて、機織りに細々と収入を得ていた農民は失業状態に陥入っていた。
 「乱妨こわし人の趣意、第一に高利金貸し外国売買之商人」 (高麗郡)
 「横浜あきなへの者第一並高利金がし」 (榛沢郡)
 「横浜向商人は大小に不限(かぎらず)、施行に不抱(かかわらず)難捨置(すておきかたく)打壊し候由」(秩父郡)
 空家であっても糸会所であるので打壊す。
 交渉せずいきなり打壊す。施行しても打壊す。
 というように横浜向商人へは、激しい憎しみを持っている。
 それに対し多摩郡は、糸会所の打壊しは扇町屋の一軒だけ。示談によって打壊されなかった糸商もある。
 それよりもやはり憎しみの対象は穀屋が多い。つづいて質屋、油屋の順になっている。
 青梅宿の吉野屋(米屋・質屋)は天明でやられ、天保の時も名指しされ、また今回も襲われた。
 米は街道の上に真っ白にまかれ、「井戸の中へ物を投げ入れ油をかけ申し候」と、やり口がこっている。
 水の乏しいこの地方で、井戸へ打壊しをかけるのはよくよくの憎しみである。
     *
 事件後、武州府中宿で取調べられた左記の者が首謀者として明らかにされた。

   「 八月三日府中宿より差立之者
  一、武州上名栗村百姓 紋次郎  四十二歳
  二、武州上名栗村百姓 豊五郎  四十四歳
  三、武蔵坂石町分百姓 菊之助事佐兵衛 三十八歳
  四、武蔵長沢村 百姓 作兵衛  四十七歳
  五、武蔵下成木村組頭 惣五郎事昌左衛門 五十八歳
  六、武蔵南入曽村無宿 文太郎   四十歳
  右の通り差御送りに相成候
    寅 八月十四日(慶応二年)    」

 端緒を切った名栗村紋次郎、豊五郎とその相談相手になったと見られる下成木村惣五郎らは、正式には農民であるが、大工、桶屋、馬喰(ばくろう)という職人である。
 ふつう農民と職人は階層も違うし生活の場も違う、職人は土着性が薄いし、村の中で浮上がった存在である。
 しかし幕末の山村は、多くの農民が農間稼ぎを行なっており、職人、日雇いを兼ねた者が多かった。
 沢井村(青梅市)の文政期の「村明細帳」には、桶屋三人、木挽一人、大工二人、屋根屋一人、紺屋一人、杣(そま)四人など農間渡世十九人とある。
 秩父連山の山深い名栗村も、おそらくこんな構成であったろう。大工も桶屋も浮上がった存在ではない。
 上州から上名栗の農家の養子となった紋次郎。
 こわれた桶の修理に村から村へ渡り歩いていた豊五郎。
 馬喰渡世で日本橋まで行くこともあった下成木の惣五郎。
 彼らは仕事を通して広く世間を見る機会に恵まれていた。
 村で信望が厚かったという。
 一揆の計画をたてたのは五月十五日、それから一ヵ月かけて、各地の一揆の情報をもとに、綿密な構想を練ったものであろう。
 名栗谷から山峡いを九十九折(つづらおり)に蛇行し、二十キロ先の飯能まで、気まぐれな暴発の勢いを持続できる道のりではない。
 今でも人影がほとんどなく、寂漠と孤独が這いよる道である。
 高騰する物価の対策に、幕府は肥料、雑穀、繭の値段を押さえられず、逆に大工、柚、木挽、屋根屋、桶屋、左官、旦屐などの低所得労働者の手間代を下げることを通達した(青梅・吉野家文書・長谷川正次)
 愚策、弱策の幕府こそ一揆の張本人である。
 紋次郎は死罪。豊五郎、惣五郎、ともに遠島。
 だが同年十月二十日紋次郎は牢死した。捕われた者の中で「牢死」が大分いた。(注・五日市で捕われた上長淵、日影和田、畑ヶ中、駒木野四ヵ村の一揆参加者二十四人のうち、七月中に七人牢死した)
 屈強な者たちがそう短い間に続けざまに牢の中で死ぬわけがない。拷問のすさまじさを物語っている。

   4 戦いすんで その二 top

 一揆がすんでみて、今まで内包されていた様々な矛盾が露呈した。
 二百数十年幕府のもとで続いた名主も、名主というだけでは安泰ではなくなった。
 幕政の末端機構で、代官からのお達しを伝え、村民が従順していた時代はよかった。
 幕末になると村民(特に小前百姓)の不平不満が鬱積してきていて、風当りが直接名主にはねかえってくる。
 箱根ヶ崎の名主村山一直は、一揆勢が襲った時、交渉が妥結して一揆勢に酒食を出して事なきを得たが、そのあと進軍してきた農兵隊に協力し、幕府から銀一枚の褒美にあやかっている。
 他の名主も一方で一揆の参加者を役所に通報したりしながら、事件後、捕まった同村の者の減刑歎願を出したりしている。
 板ばさみになってうろたえ、その場しのぎに何とかきり抜けようとしていた。
 田無村寄場名主下田半兵衛は、江川代官の信頼が厚く、当地随一の豪農で元質屋もやっているので、一揆に真っ先にねらわれる立場にあった。
 そのため困窮者に施金したり、養老畑を提供したりして防備した。
 一方で地元民へ懐柔策をとり、一方では鉄砲など幕府に献上したり、農兵の育成に力を入れたりしている。
 一揆後、代官からやはり褒美として銀一枚授けられた。混乱期を生き抜くために、常に巧みに両刀づかいをしていかなくてはならない名主にとっても、苦しい生きにくい時代となっていた。
 それにつけても、一揆勢も、それに参加しない農民たちも、幕僚たちも、おそらく驚嘆したであろう農兵隊のあざやかな戦闘ぶり――。
 寄居(よりい、埼玉)から上野(こうづけ、群馬)に入った一揆勢と、岩鼻利根川べりで幕府軍とが戦った時、幕府軍は「刀得物をうばはれかへさまにきられたるあり多力の者にいであひ辛き目みたる生捕られたるうちとられたるもあまたあり」というていたらくであったが、かろうじて一揆勢を取り押さえたという。
 秩父大宮が打壊しを受けた時、寄居町も一揆に襲われていて、そこを通るはずの藩兵軍が、一揆を抑える自信がなく、小前田という所に二、三日滞留して一揆の治まるのを待つたという。「太平がうちつづいて武士が惰弱になった」と秩父の医者が悲憤した。
 それに比べて農兵隊の活躍は目にも鮮やかであった。八王子、日野宿を目指した一揆勢を、江川代官所手付増山の指揮する八王子農兵隊、日野農兵隊、駒木野農兵隊が築地河原にすばやく出動し、三千人の一揆勢を迎えて、わずか数十人という少数であったが、銃撃組と帯刀組の二段攻勢で、一揆勢を総くずれさせた。
 五日市農兵隊は、五日市に向ってくる一揆勢を撃退。田無農兵隊は、田無を目指した一揆勢を柳窪村で撃退。
 農民と農民同士の戦いであったが、同じ「農」でも全く異質のものであった。
 農兵はつめ襟の上着にズボン、長剣をつけ、韭山笠に最新式のゲーベル銃という格好よさ。
 ほとんどが村役人層の子弟で、平均年齢二十五歳(蔵敷組合農兵隊の例)
 それに比べて一揆勢は筵(むしろ)旗に鎌、鋤(すき)、鍬(くわ)、棒などを振りかざした世帯持ちの多い中年男たち(平均年齢三十九歳)
 姿かたちがまるで違えば、出身もまるで違う。上層農民と下層農民。農兵と一揆の対象にされた富裕者だちとは同一の階層である。
 農村が貨幣経済の波にのまれてより、利害関係が全く相反して共存してきた異質の農民が、この一揆で歴史上はじめてはっきり分かれて対決することになった。
 この日からこの「二つの農民」は相交わることなく、それぞれ別の道へ、別の階級へと歩み始めることになる。
 片や地主階級、資本家階級へ。片や小作人、プロレタリアートへと。

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  十三章 社倉騒動 top


版籍奉還にあたり知藩事を置くことについての太政官通達

   1 御門訴(ごもんそ)事件

 戊辰戦争に始まり、幕軍と官軍の戦いの中で、あわただしく年が過ぎた。
 武州一揆が起った翌々年、明治と改元された。

 翌明治二年一月には早々に薩長土肥が版籍奉還し、維新の端を切った。
 地方行政として最初に行われた改革は、幕領であった所に県が置かれた。
 東京周辺には小菅(こすげ)県、品川県、大宮県、韮山(にらやま)県などができた。
 小菅轄区域は旧支配地のまま受け継いだため、各県の境界は複雑に入り混っていた。
 青梅街道上で見ると、大体新宿・中野・杉並・練馬・保谷・田無・小平の中間までが品川県、小平の中間から青梅あたりまでが韮山県となっている。
 県知事は、韮山県は旧代官江川太郎左衛門、品川県は佐賀藩士の古河一平が新しく任命された。
 品川県庁は日本橋浜町の旧大名小笠原邸が用いられた。
 明治二年も幕末から続いた凶作による飢饉のため、農村は荒廃していた。
 各県は県民の支持獲得のため、救恤(きゅうじゅつ、飢饉)政策をうち立てることが急務となった。
 小菅県は「報恩社法」という策をたて、有志者を募って献金させ、加入者には「義人」と称して歓迎する、という方法をとった。
 韮山県は新しい政策をたてず、旧幕時代から続いた「義倉制度」を踏襲する方針をとった。
 品川県知事古賀一平は「社倉制度」をうち立てた。
 貯穀の方法は、持高五石以上の者は一石につき米二升(2%)、五石以下の者は一戸当り四升、三升、一升、五合の四段階に分けて供出する。
 供出の際は貨幣に換算してその金を県に上納する。
 県はその金て米を購入し、米を県が管理する、凶作の時に放出して救済に充てる、というものであった。
 備荒貯穀は旧幕時代からあり、特に武蔵野新田には、川崎平右衛門の養料金制度があって、新田の救済に大いに役立った例がある。
 しかしそれは村で雑穀を貯蔵して村が管理、運用したが、品川県の社倉制度は、県へ金て納めて県が管理するという点に大きな違いがあった。
 それに明治二年は凶作であって、今後の凶荒に備えて納めるというのはおかしい、これは「増税」ではないか、という印象を農民に与えた。
 この制度を聞いて、まず反対ののろしをあげたのは、武蔵野新田十三ヵ村の農民であった。武蔵野新田八十二ヵ村のうち、十五ヵ村が品川県に入っていた。
 そのうち青梅街道、五日市街道沿いに十三ヵ村がまとまっている。十三ヵ村の新田名は、田無村(田無市)、上保谷新田(保谷市)、関前新田(武蔵野市)、梶野・関野新田(小金井市)、鈴木・大沼田・野中新田与右衛門組・同善右衛門組(小平市)、野中新田六左衛門組・戸倉・内藤新田(国分寺市)、柳窪新田(東久留米市)である。
 これらの地域は、名栗村や下成木村のように、零細な農間稼人が多い山村と違って、自給自足的な農業だけに依存している者が大部分だった。
 田無村を除いて、村には主だった豪農も肥料商もいない。名主も二十石たらずの中農クラスである。
 武州一揆が起った地域のような極端な貧富の差はなかった。
 この地域の農民は、「作物――畑方大麦小麦粟稗大豆小豆芋菜大根少しツツ仕付申候」という細々とした生活を送っていた。
 新田という理由で、年貢は古村より二〜三割低い、特別待遇を受けていた。
 それだけに品川県の古村、新田問わず一律の増税策は、新田農民に大きな衝撃を与えた。
 十三ヵ村の農民は「新田は収穫が悪く、五石以上の者でも古村の二石ぐらいの者と同じで、そのため江戸時代は古村よりも低い年貢率にしてもらってきた。
 それを品川県は古村も新田も同率に扱うのは納得できない」と主張した。
 「他県に編入された七十ヵ村の武蔵野新田には増税がなく、品川県に入った新田だけが増税の難を受ける」という被害意識が底にあった。
 十三ヵ村は相談の結果、内藤新田名主を総代として品川県役所へ社倉積立は困難の旨、歎願しようということになった。
 この話を聞いて県側は、ただちに勧農方荒木という役人を田無村へ派遣した。
 彼は十三ヵ村村役人全員を田無村に集め、最初の規約通り納めるよう言い渡した。
 村役人たちはこのまま村へ帰っては小前百姓にまた反対されるので、どうしても古村と新田だけは区別して貰いたいと懇願し、「五石以上の者は今まで通りでもいいが、五石以下の者は全員免除にしていただきたい」という妥協案を提示した。
 荒木は止むなく同意した。
 しかし、この妥協案を聞いた県知事古賀一平は激怒して、荒木を馘(くび)にした。
 一方、村へ帰った村役人からこの妥協案を聞いた小前百姓たちも、全面的に反対した。
 「新田はみな免除」でなければ困る、と譲らなかった。
 十二月十八日、西村という県役人が田無へ来た。
 田無村は、事態が険悪になりそうだとみてとると、わが村の危険を感じ、この歎願運動から脱退した。
 田無村代々名主下田半兵衛は、これまでも幕府に信用厚く、地元農民に懐柔策をとり、いくつもの難関を突破してきた処世家で、この件でも矢おもてに立つことを好まなかった。
 田無村が脱退して、完全に新田だけとなった。裕福な田無村が貧しい新田にまぎれて、免納運動するのは虫がよすぎると思っていた新田は、かえってこれで新田同士の結束を深めていった。
 しかし、一歩も引けないのは県側ら同じで、品川県下四百十一ヵ村のうち、十二ヵ村の言い分を聞いていたのでは、他の四百ヵ村へのしめしがつかない。
 十二月十八日田無村に来た西村と新田村役人の問答は、
 西村「たとえ新田が廃虚と化しても、県の方針を曲げるわけにはいかぬ。
 新田は難渋困窮というが、困窮というのは茅(かや)で囲って莚(むしろ)を夜着に用い、土間に住むことをいうのだ」。
 村役人「仰せの通り、そのような生活をしている者は新田にたくさん居ます。そのような家さえ持てず、親類や近隣の木部屋を借りている者もいます」。
 西村はそれでも強硬な態度をひるがえさず、県の方針を小前の者に申し伝えよ、と厳しく命じた。
 十二月二十一日。野中新田名主定右衛門の発言で、小前百姓代表を加え、歎願書をしたためたほかに、議定書も作成した。
 「社倉積立免除になるまで何度でも歎願運動を続ける。
 歎願中どのような成行になろうとも心変りしたり、勝手な行動をとらないこと」をとりかわした。
 二十四日、県役所は、関前新田名主忠左衛門、上保谷新田名主伊左衛門、野中新田名主代理、息子忠蔵と組頭権兵衛の四人に出頭を命じた。
 県知事らが出席して四人を説得したが、彼らは承知しなかった。
 そこで忠左衛門、伊左衛門の二人を「宿預」(やどあずかり、監禁)にし、忠蔵、権兵衛の二人は小前百姓に伝達させるため、一日だけ帰村させた。
 忠蔵、権兵衛の帰村報告で、県の態度と制裁を知った農民たちはついに怒りが爆発し、村役人を介しての歎願という手段では手ぬるい、十二ヵ村全員で品川県へ行き、直訴しようということに決め合った。
 年の暮迫る明治二年十二月二十八日明六つ(六時)、田無村字八反歩(はったんぽ、田無市南町五)に二、三日分の弁当を持ち、蓑笠をつけた農民全員が集合した。
 農民たちの表情が冷たく硬直していたのは、冷たい朝霧のためばかりではなかった。
 石神井川沿いの低地の八反歩から、なだらかな坂をのぼった辺りは、かって自分たちのような農民を銃撃した、田無農兵隊が勇ましく訓練した調練場があった所だ。
 誰もが記憶によみがえったであろう。
 田無村の下田半兵衛は、驚いて農民に中止を説得したが、農民たちは「途中で脱退した田無村の名主の言うことなど何で聞けよう」とばかり、東へ向って行進した。
 同じ時刻、県役人福永、飯沼の二人は急拠、田無村へ出向き、一行を引戻させるよう命じた。
 下田半兵衛は青梅街道を関村(練馬区)の辺りで一行に追いつき、そこでも説得したが、一行は「これまで何度も県は約束を守らず裏切ってきた、もうとても信用できない」と応じなかった。
 そのとき福永、飯沼から「宿預になっている二人は帰村できるように努力する。百姓のいうことも聞き届けるようにする」との伝達がきたので、全員はしぶしぶ引揚げた。
 しかし県側はまた裏切った。宿泊の二人は帰されず、その上、年が明けた明治三年の正月六日、県が突然「十二ヵ村村役人全員出頭せよ」と命じてきた。
 村役人一同が出頭すると、勧農方役人はまたしても県の命令に従うよう説得しだした。
 村役人があくまでそれを拒否したため、全員宿預となった。
 村役人は「二十五日まで待って貰いたい、それまで村へ帰って小前だちと相談して返事をする」というので、県側もやや譲歩して、十日には全員の帰村を許した。
 一方、新田では十二ヵ村の村役人全員が不在という異常な状態におかれたため、農民の怒りは頂点に達した。
 一月九日、十二ヵ村の村々へ次のような廻文が出される。
 「社倉一件に付村々御役人衆出府ニ相成候処誠之外之大変ニ相成候間、
 明十日明ケ六ツ時田無村字八反歩へ銘々四五日分弁当持参ニ而(て)村々小前一同御出張可被下候  以上
    午正月九日   下鈴木新田
   (明治三年)     村役人代  龍平印  」

 農民はみんな覚悟をきめていたところであった。
 翌十日、再び農民は田無村八反歩へ続々と集結した。その数は三百人とも七、八百人ともいう。
 それぞれ三、四日分の弁当を持ち、蓑笠姿のいでたちであった。
 薄暗くなりかけた七つ時(四時)、ゆるやかな坂を北にのぼり青梅街道へ出て、東へ目指して黙々と進んだ。
 一方、仮釈放された村役人たちは同じ十日、県役所から村へ帰る途中であった。
 途みち農民たちが県役所へ押し寄せるとの風聞を聞き、驚いて八方手をつくしてくれるよう、内藤新宿(新宿区)の名主高松喜兵衛に頼んだ。
 高松はすばやく中野、淀橋ほか近在の村に、新田農民一行を差しとめるよう通報すると同時に、品川県、民部省などへも通報した。
 淀橋の橋(中野区と新宿区の境)の上は大八車を組合わせたバリケードを築き、鳶の者が警護した。
 淀橋へ着いた一行はここで差し止められたが、遅れてきた者は中野から迂回して、高田馬場、小石川御門から警備の合間をくぐりぬけて、浜町河岸の県役所へ到達した。
 農民たちは蓑笠姿のまま役所の門外から内に向かって、
 「武蔵野新田十二ヵ村の百姓一同申し上げます。凶年が続いて食糧にも差支え大変難渋しております。
 何とぞご慈悲をもって社倉穀積全員免除下さるようお願いいたします」と叫んだ。すると中から
 「何事も聞き届けてやるから一同門内に入れ!」と声がした。
 門内へ入れば門訴でなく強訴になり、一揆、暴動と同じ重罪となる。農民たちは県側の挑発にのらなかった。
 「全員免除をお聞き入れ下さらない上は、一歩も中へ入りません」、
 「しからばその方たちは知事様を外へ引出すつもりか」 
 「左様にございます」。とたんに門がぱっと開き、騎馬二頭と多数の兵士が、
 「不届至極な百姓ばら、本刀の続くかぎり斬って捨てよ!!」というや否や一斉に斬りこんで、たちまち大乱闘となった。
 意外な襲撃に農民たちは県役所前の川にとび込んだり、四方八方へ逃げ去った。
 すでに夜中になっており、地理に不案内なため五十人が捕えられた。
     *

 一月十三日から県側の追及が始まった。
 新田農民の結束を約束した議定書が証拠品として発見され、この運動は訴願でなく、徒党を企てた「強訴」であるとの判断を下された。
 強訴の首謀者として名主、組頭などの村役人にその鉾先が向けられた。
 県役所から出された「告諭」には、
 「野中新田名主定右衛門、関前新田名主忠左衛門、上保谷新田名主伊左衛門、大沼田新田名主弥左衛門、内藤新田名主次助、上保谷新田組頭元右衛門、野中新田百姓代八右衛門、上保谷新田百姓国蔵の八名は、神明をはばからず民心を惑(まど)わかした罪により厳罪に処する。


御門訴につき品川県「告諭」高札(明治3・1・18)

 この八名の者に煽動された小前たちは、罪はないから安心せよ」。
 とはっきりと村役人たちだけを名指した。
 実際には村役人というより小前百姓、ことに龍平などの若者グループの煽動によって起こされたものであるが、小前百姓まで処罰することの社会的な反響を、さすがに考慮したものであった。
 逮捕者総数は不明だが、首謀者とされた八名はいずれも獄にあって残虐な処置を受けた。
 「痛吟味」(いたみぎんみ)という拷問で、股肉が打ち裂けたという。
一ヵ月後定右衛門、国蔵牢死。あとの六人は重病となったため仮出牢後、忠左衛門死亡。五人再び入牢。
ほかに内藤新田年寄六兵衛と四人の小前百姓が牢死した。村役人の家族にも痛吟味がおよんだ。
明治四年二月、判決が下され、徒(ず)、杖(じょう)、笞(ち)の体刑の上、役儀がとり上げられた。
 明治三年三月、品川県社倉出穀高が定められた。
 これは最初に村役人と県勧農方役人との間で決めた妥協案と、ほぼ同じくらいに減額したものになっていた。
 「新田は全員免除」とはならなかったが、県としては大きく譲歩したものであった。
 この事件にかかった村側の費用――歎願の出府、宿預の抑留費など――は関前村・関前新田の例でみると、明治三年一月から四ヵ月間の費用は、百七十両で、同年の社倉積立金額二十五両の七倍もの負担額になった。
 このように大きな代償を払いながら、社倉積立金は、明治三年から県の計画通り、古村、新田を問わず、確実に徴収されることになったのである。
     *
 後年、犠牲になった村役人を悼んで、各新田に記録や供養塔を建てて霊を慰め合った。
 十六歳で門訴に加わった内藤新田の神山平左衛門は、三十一歳の時、自己の体験をもとに書いた記録『むさ志野の涙』(『武蔵野市史・続資料編一』に収録)を残した。
 上保谷新田では、明治十三年に建てた「招魂塔」(保谷市新町)がある。裏に大きく名主平井伊左衛門の名が刻まれ、台座の世話人連名の中に、事件関係者峯吉、六五郎、甚平の名がつらなっている。

 関前新田では明治二十七年、五日市街道沿い(武蔵野市八幡町三丁目)に「倚鎚碑」(いそうのひ)を建てる。 社倉返還金と村民の寄付で作った碑には、事件の概略と犠牲者を悼行文と最後に四言古詩の漢詩が刻まれている。
 「門訴で夫を亡くした寡婦は機を織り、遺児は肩を寄せ合っている。
 しかし医薬の袋もあり、牛も丸々太っている。
 このように平穏で暮せるようになったのは犠牲者のお陰だ」という意味の詩である(解釈は植田文男氏による)
 野中新田では合同碑はないが、青梅街道沿いの武蔵野神社(小平市大沼町)の社地の籔続きの墓地に、名主高橋定右衛門の墓が明治二十一年せがれ忠蔵によって建てられた。 小さな墓石だが、台座には「筆子」と称する者の地名と名前が二十四人びっしりと刻まれている。
 名主のことを筆頭ともいった。筆子とは名主を親とも慕う者の謙譲語であろうか
 。事件後十八年たってもお上に憚るのか、悲憤を小さく凝集させた。
 各新田の農民に落した影は大きかった。


名主高橋定右衛門の墓

   2 県知事の両面策 top

 御門訴事件の起る三年前、慶応三年(一八六七)、東海道鎮撫総督は、幕藩頷の民衆に向って「諸国の情実を問い、万民塗炭の苦を救わせられ度叡慮に候間、各々安堵渡世致すべく候」と年貢半減ないし全免まで約束した。
 人心の動揺と、新政府への離反を防ぐためであった。
 民衆は二日も早く天朝御料に相成り、ありかたく御仁恵御政法にあずかりたく、幼稚の父母を慕うが如く」この御一新に期待をかけた。
 鎮撫総督のこの約束を、新政府はあわてて取消た。
 政府は旧幕領と東北諸藩領とを没収したが、その中から旧将軍徳川氏に駿府を与えた領地分と、討幕軍への賞典祿を差引くと、収納高は四十〜九十万石ぐらいしがなく、財政難にあえいだ幕府の収納高百五十万石に比べると著しく減少していた。
 これが維新政府の財源のすべてで、年貢半減どころか、ただちに増税に踏みきらねばならない状態だった。
 しかし領民はこの半減令を見逃さなかった。明治元年から二年にかけて、年貢半減や天領並みの待遇を要求する一万人を越える大一揆が各地に起った。
 この時期の領域は、まだ藩があり、旧幕領の府県と入り混り、貢租率もまちまちで、異なった領民間で、他を比較して、より低いほうへ平均化して貰いたい、という意向も強く政府に向けられた。
 武蔵野新田十二ヵ村が、他県に入った新田に比べて、自分たちだけか増税されたという不満もそこにあった。
 政府から任命された府県知事は、幕末の世直し一揆の再現を防ぐ鎮撫策として、窮民を救う救恤策をうち出しながら、一方増税策を考えなくてはならない使命を担った。
 この時期の一揆の中で、飛騨で起った有名な「梅村騒動」がある。
 慶応四年六月(同年九月から明治元年)、高山県知事に水戸藩士梅村速水が任命された。
 梅村は民政安定のため節婦や勧農者の表彰や、貧民のため施薬院を設けたりした。
 しかし一方で、特産品から日用品にいたるすべての商品を専売制にし、各種の商売を許可制として運上金を課した。
 そのため失業者が続出し、県民の間で不満が高まった。
 さらに梅村は旧幕時代から、町や山村の住民に米を安く売払われていた「人別米・山方米」と袮する救済事業を廃止した。
 これが導火点になり、飛騨三郡をゆるがす「梅村騒動」へと発展したのだった。
 維新政府は梅村を免職し、一揆側も処罰した。
 梅村速水も品川県知事古賀一平も、ともに薩長藩閥の強い後ろ盾がない藩士出身者で、県知事就任を機会に官途に望みをかけ、政府の意向を忠実に押し進めようとした。
 地元の実情に疎いまま、二十〜三十代の若さと強気が功を急がせ、県民の心を離反させてしまった点、よく似ている。
 梅村速水は「救恤」と「増税」を、あまりにはっきり使いわけ短兵急に行なったため、強い反撃を受けたが、古賀一平の策は巧妙だった。
 品川県下四百十一ヵ村の社倉米代金は、明治四年七月までに一万六千六百余円となった。
 古賀一平はこれらの金の運用を、左記の四人に委せた。
  北多摩郡下祖師ヶ谷村 福田竹次郎
   同  廻り沢村   島田磯次郎
   同  上布田駅   原 豊穣
   同  喜多見村   小泉重右衛門
 この四人の出身は不明だが、幕末期高利貸、地主などで寤を作った新興成金であろう。
 のち四人で共同経営の肥料販売「培養会所」を品川県の援助で設立する。
 社倉米払下金は同会所の運営資金とし、糠を買入れ、これを各村々へ貸付けて秋の収穫時に代金で回収する。
 古賀一平はこの四人と並々ならぬ関係を持っていたのではないかという(『地方史研究』 一〇六号・伊藤好一)
 一部の商人と結託して利潤をあげ、県の財源に充てようと計画したのであるから、「村々で貯穀したい」という村民の要望など、当然受入れるわけにはいかなかった。
 しかし古賀の構想は続かなかった。
 明治四年十一月、廃藩置県により品川県は廃され、従って社倉制度も打ち切られた。
 古賀一平はやがて中央から遠い、佐賀県の知事などをして、五十一歳でさびしく死んだという。

   3 社倉金返還運動 top

 明治四年十一月、四百十一ヵ村は新しく入間県、東京府、神奈川県の三つに配属された。
 そこで旧県民が心配になってきたのは、社倉積立金の行方である。
 あの金は備荒貯畜として取立てたもので、当然自分たちの金である。
 今後もこのように管轄官庁が変っては困るので、昔のように自分たちが独自で管理したい旨、村々の責任者がそれぞれ所属の府県へ申し出た。
 そして彼らははじめて社倉積立をめぐる培養会所の存在など、内情の数々を知ったのである。
 彼らの受けた衝撃は、激しい執拗な社倉金返還運動の口火となった。
 新田十二ヵ村の減免運動を傍観し、県の言い分に従順であった、旧品川県の中野・杉並・世田谷・品川の各村々は、惨敗して去った新田十二ヵ村の後をひき継いで、返還運動に立ち上がった。
 広範囲におよび、かつ明治五年から十二年の長い歳月をかけて、ねばり強く戦いぬいた。
 『地方史研究』一〇六号「東京府における旧品川県社倉金の返還問題」と題する伊藤好一氏の論文は、あますことなく運動の展開をみせてくれる。
 以下はその概要である。
 明治五年四月、東京府に入った旧品川県民は、返還要求の願書を府に提出した。東京府は二つの案を示した。
 @ 社倉金を各村に返還して、村々で備荒用として貯えておく。
 A 府の管理で三井組へ預け、非常の際の手当とする。
 多くの村は@に賛成したが、東京府は社倉金を培養会所のほかに、烏山貞利、平林九兵衛、原泰輔、小俣金兵衛なる者にも貸付けてあり、すぐには返還できなかった。
 この明治五年八月には「学制」が公布されたが、学校設立はなかなか軌道にのらなかった。
 翌年東京府、神奈川県、埼玉県は各村の戸長あてに督促状を出して設立をうながした。
 学校設置費は村費であったので、財源のない村は窮地に立たされた。
 そこで考え出されたのが、社倉金を学校設置費に回して貰おうという案であった。
 明冶七年、一斉に社倉金返済を出願した村々は、学校設置の費用内訳を具体的に書き添えて出願し、東京府は比較的すみやかに下戻した。
 しかし米価の下落で、実際には米との換算額は、当時の約半額になっていた。
 それに培養会所への貸付金はまだ戻っていなかった。
 明治十年前後の村々の財政は、学校の設立、経営に加えて地租改正の施行のための経費が莫大な額に上り、危機的状態に陥っていた。
 それにつれて残りの分の社倉金返還運動は、一段と高まってきた。
 東京府は残額の一部を下戻したが、それでも当初の社倉積立金の半ばにも達しなかった。
 明治十二年、村々は「残額残らず返還」を要求し、東京府は培養会所にうながしたが、返金されなかったので、村々に二十ヵ年賦返済を是認するよう求めた。
 折も折、埼玉県下に入った旧品川県の村々が裁判所へ訴訟し、全額返還されたことを知った東京府の旧県民は、それに応じないことを示した。
 明冶十二年二月、東多摩・南豊島の二郡が歎願。
 同三月・東多摩・南多摩・北豊島・荏原の四郡がこれに加わり、旧品川県全村がこぞって歎願した。
 東京府はついに残額全部返還せざるを得なくなってきた。
 培養会所の返済とは関係なく、府単独で返還しようとした。
 しかし米価が半分以下に下落して、減額したまま返還しようとしたため、村々はまた猛烈に反対する。
 残額を「追々返還」ではなく「減額のまま」でもなく、どうしても「もとの額」で「一時に返還」して貰いたいと強調した。
 東京府は内務郷の助けを求め、残額を明治三、四年の米相場に換算して全額、大蔵省から下げ戻すことで結着した。
 この年は自由民権運動がピークに達し、政府批判が強く向けられていた年で、あまり強く出られなかったのであろう。
 村側の完全勝利となって長い運動の幕が下ろされた。

 旧品川県の村々が東京府へ最初に返還要求した時、東京府は、府の管理で三井組へ預ける、という案を示したが、県民の反対でとり下げた。
 明治四年成立した神奈川県は、やはり社倉金制度をたてた。 そして県民から徴収した備金は三井八郎右衛門へ預けた。
 東京府も神奈川県もともに「三井組の運用」を示しているのが注目される。 このころ三井組は、小野組とともに「府県為替方」として、各県の貢米の買入れと輸送、販売を取り扱い、莫大な利益を得ていた。
 東京府も神奈川県も三井組が為替方になっている。
 東京府・神奈川県民は、政商三井組がやがて帝国日本の担い手、財閥に成長していくなど、まだ知るよしもなかった。


三井ハウス
日本橋兜町の海運橋畔に5階建堂々の
偉容を誇った(一曜斎国輝画・1872年)

  十四章 街道風物誌 top

  1 堀の内参り


毎月3の日は妙法寺の縁日

堀の内妙法寺(江戸名所図会より)

 時代が激しく変わり、新しい仕事に、生活に、人の心も変貌しつつある時、江戸時代から全く変わらぬ光景が、青梅街道に展開されていた。
 堀の内妙法寺のお祖師(そつ)(杉並区堀の内)への参詣の人々で、ことに正月、二月の節分、八月の千部会、十月のお会式(えしき)には、成子坂(新宿区)から中野の鍋屋横丁まで、青梅街道ところ狭しと華やかにもにぎにぎしく、たくさんの群衆が続いた。
 祀られてある日蓮上人の木像が、上人四十二歳の姿を彫刻したものといい伝えがあり、四十二歳の厄除けから、あらゆる災難除けに霊験があるといわれ、「除厄(やくよけ)祖師」と呼ばれるようになった。
 江戸の住民、近郊の農民の救いの対象であった。
 明和・安永の頃(一七七〇頃)から参詣者が多くなり、「参詣群集すること浅草観音に並べり」
 『武蔵名勝図絵』)という評判で、下町のほうからもやってきた。
 下駄ばきで頭陀(づだ)袋に経本と数珠と弁当を入れ、どんなに遠くから歩いてきても決して疲れることはなかった。
 お祖師様が脚を貸して下さるからだという。
 講中の名を染めた布片をひるがえしながら、花萬燈、うちわ太鼓をはやしたて、中野から鍋屋横丁へ入る。
 楼門までは酒食、団子、のっぺい、焼栗、こがし、水飴を商なう店が軒を並べていた。
 しかし高い商い店のものより。練馬の厚切りのたくあんを農家から買って、手持ち弁当にそえて食べるのが一番うまかったという。

 練馬、保谷方面の人々は、逆に青梅街道を東に向かい、馬橋付近(杉並区)から右へ折れて堀の内へ向かった。
 明治二十二年、甲武鉄道中野駅ができると、中野の殼屋関口兵蔵は、青梅街道沿いにある蚕糸(さんし)試験場(昭和53年閉場・59年撤去)の所に料理店を開業した。
 またその店の前を通って妙法与へ通じる農道を広げて整備し、砂利を敷き、桜並木を植えて参詣客を引入れた。
 さらに中野駅から蚕糸試験場まで直線コースの道を開き「堀之内新道」を造った。
 鍋屋横丁からの参道は三キロだったが。
 堀之内新道は二キロであり、かって青梅街道を歩いてきた大勢の参詣人は、電車に乗って中野駅で降りて、新道を通っていくようになった(『杉並区史探訪』)
 お祖師様はかならずご利益があった。医者にかかれない貧しい人の不治の病も直してくれた。
 天明二年(一七八二)正門が造営され、天保の頃一段と参詣人が増し、明治十二年には鉄門(国宝)が建造、明治四十一年には、日露戦争戦病死者の追悼の碑が建ち、高さ七・六メートルの青銅の大燈籠が建ち、いずれも飢饉や戦争という不幸な時には、一層人々が集まった。
 しかし不幸の時でも、参詣人の表情はみな明かるかったという。
 生活の苦しさは長い歴史の中で馴らされて、庶民にはもう不幸を不幸と感じないのかも知れない。


中野宝仙寺(江戸名所図会より)

 いつごろ出来たかわからないが、有名な「長屋の花見」と同じころか、落語に「堀之内参り」というのがある。
 そそっかしい長屋の住人が、枕元の荷物を腰につけて堀の内へ行き、荷物の弁当を食べようと開けてみたら、女房の腰巻がでてきた、という“ばかばかしいお笑い”に花を咲かせた。
 堀の内参りには、そんな底ぬけの明るさがあった。
 歴史を留める足跡の、ほとんど残っていない現在の青梅街道沿いに、この堀の内界隈は珍しくも、狭い参道通りにみやげ物店が並び、華麗にして豪壮な寺の建物が、その栄華を今日まで伝えている。

 新宿副都心の西側、青梅街道と甲州街道にはさまれた所に十二社(じゅにそう)がある。
 かなり古くから熊野神社を中心に池や滝があって、戦前まで祭礼日はたくさんの人でにぎわった。
 当然のことながら遊廓もでき、いまわしい風俗業が盛んだった。
 内藤新宿が二流なら、十二社は三流といったところか。
 淀槁(新宿区)で育った筆者が子供のころ、父を含めた五・六人の男どもが猥談(?)しているのを耳にしたことがある。
 「新宿と違って十二社は、キセルがないから安心して遊べた」と言っていた。
 「キセルがないから」は、今日に至ってもその謎がとけない。女郎は長いキセルを格子窓の内側から道行く人に差し向ける。


角筈村熊野十二所権現社(江戸名所図会より)

 客がそのキセルの先をさわったら“商談成立”で誘い込める。十二社ではそのような契約儀式がなく、簡単に女郎と交えたのであろう。
 それだけ遊ぶ金も安く上がった――。
 女の筆者の苦しまぎれの推測であるが、金はなくても、昔は上手に遊んだらしい。
 閑話休題。

  2 狭山茶づくり top

 めまぐるしい政変の中で、米価の下落、高騰、物価の高騰、貨幣価値下落など、不安定な景気に揺れ動く中で、豪農も農民も新しい生業と収入の道を求めていた。
 安政五年(一八五八)の横浜開港によって、新しく関東農村に登場してきたのが、貿易の花形である生糸と茶であった。
 茶は文化期(一八一〇頃)から、耕地の少ない狭山丘陵の谷戸の村々の篤農家が、関西地方から栽培法を学び、苗木をとり寄せ、それに改良を重ねて小規模ながら作っていた。
 豪農たちは、いち早くこの茶づくりに目をつけた。宮寺村(狭山丘陵北側、埼玉県入間市)が狭山茶の発祥地であったが、またたくまに狭山一帯と、入間郡・多摩郡・神奈川県へとひろがった。
 起伏の多い宮寺地方は、畑全部を茶園にしたが、南側の平地の箱根ヶ崎のほうは、「畦畔(けいはん)茶」であった。


東大和市芋窪の茶畠風景

 小川村(小平市)や砂川村(立川市)のような新田村は、耕地の面積が広いので、畦畔栽培でも狭山地方をしのぐほどの量が生産された。
 平地は冬の季節風で、畑の土や、蒔いた作物の種が空中に舞い上がり、それが悩みのタネになっていたが、畦に茶木を植えるようになって風害が大分減った。
 東西に一列ずつ二メートル間隔で植えるのが、北風から守るのに理想的だという。
 畑から畑作物のほかに茶の収入もでき、一挙両得だった。
 「明治初年より、十四、五年にかけて貿易に恵まれたる我が狭山地方の茶業は空前の黄金時代を現出したることは其価格貫当り五、六円にして現今の相場に換算する時はおどろくべき金額に取引せられたるによりて、これを想像することを得べし」(『狭山茶業史』)
 明治五年、多摩郡五十一区(瑞穂町・武蔵村山市)の相場は、狭山地方にはおよばないが、上茶(貫当り)四円六十九銭、下茶二円八十銭である。
それにしても農作物にくらべてかなり高価であった。
 明治十五年の全国の茶の輸出量は、一万六干九百トンで、総生産の八十パーセントにのぼったのをみても、茶はいかに輸出向け産業だったかがわかる。狭山茶は八王子商人の手を経て、横浜の外人と取引されて輸出された。

  宇治の銘茶と 狭山の濃荼が 出会いましたよ 横浜で

 この歌は、宇治茶と並んで横浜港から出荷されていくのを誇らしげに歌ったものである。
 ちなみにこの「狭山の濃茶」とは、宇治や静岡のような温暖な地方の茶が、葉が薄く美味であるのに対して、狭山は低温なので葉の肉質が厚く、何度湯をついでも色が濃いことをいったものである。
 だから狭山茶は経済的で、繊細な関西人より、関東の武骨者に適しているという。

    「茶を作る人々」
 茶づくりは五月、六月の二ヵ月間に行なわれる。
 冬の間、機織りで家計を助けていた女たちは、夏は細々と畑仕事を行なっていたが、茶づくりの仕事ができるため喜んで参加した。
 畑仕事より苦しかったが、期間が短いことと、収入が畑仕事より多いことが魅力であった。
 村の多くの農家は、自分の畑に植えた茶を摘んで、青茶のまま茶業者に売った。茶業者は自分の所でも広い茶園を持っており、農家から買った古茶を含めて製造をした。
 茶業者の家では女を集め、広い茶園の茶摘みをやらせた。
 女とあらば老婆も女児もやってきて、夜中の二時か三時に起きて茶園に行き、夜の七時頃まで働くこともあった。
 摘量はたくさん摘んでも軽いので、七・五キロも摘む女もいた。
 摘んだ青茶はせいろで蒸し、それをさましたのち、焙炉(ほいろ)の上で揉みながら水気をとる。
 焙炉というのは、和紙を何枚も張り合わせた畳一畳くらいの大きさのもので、炭火の上に四本の柱で支えた乾燥器である。
 その焙炉にお茶衆と呼ぶ屈強の男が、二十キロほどの茶をのせて十時間揉み続ける。
 初夏とはいえ真夏のような暑い日もあり、かんかんおこっている炭火の上での仕事は、上半身裸になっても、煉獄の責苦だった。
 お茶衆は女にもてたという。お茶衆と茶摘み女の浮いた話を取沙汰することが、仕事の苦しさまぎれになった。

  お茶は終えるし お茶衆は帰る 焙炉眺めて 目になみだ
   
 男らしいといっても、煉獄の仕事は正気では耐えられない。
 茶わん酒をグィ飲みほしてからかかった。それがかえって体にいけない。
 汗が滝となって流れ、特に腹のあたりに炭火の熱が直接あたり、腹の皮が黒ずんでくる(元・茶衆・瑞穂町石畑・鈴木伊三郎談)
 厄年の四十二歳頃大病にかかる者が多く、厄を越えても短命であった。
 茶摘みは、何人か竸争でやるのでつい粗雑になり、茎も一緒にもぎとって量を増やすこともあり、茎の入った茶を揉むと手を痛めるので、茶衆に叱りとばされる女もいる。

  青葉でんぐりゃ こう手の毒よ 揉ませたくない わが夫(つま)
   
 過熱の茶を揉む仕事は、人間のやることではなかった。
 「こう手(で)」とは一種の職業病で、手が硬くはれあがるという。
 焙炉を四、五枚持つ茶業者の所では、茶衆と茶摘み女合わせて七、八人雇い入れた。
 雇われる顔ぶれは自然に決まり、二ヵ月共に過ごして、また来年顔を合わせるのが楽しみだった。
 茶衆の手間賃はどのくらい貰えたものか。
 明治十七年の「神奈川県統計書」には、一日二十五銭で、大工、木挽などの技術や重労働を要する職人と同じ額になっている。
 しかし明治の初め頃は、大工、木挽よりもっと低かったようである。
 箱根ヶ崎村山家の明治二年の「青茶仕入帳」(『瑞穂町史』)では、売上高六十一円三十五銭三毛のうち、生産費五十円九十五銭一厘三毛、生産費のうち人件費三円二十一銭六厘六毛で、生産費の六・三パーセントにすぎない。
 一日働いても酒一升買えなかった。煉獄の労働としてはあまりにわずかなものであったが、家で金にならない農業をやるよりはずっとよかった。
 第一、飯がふんだんに食べられた。
 当時、食事は三段階に分けられていて、第一級は、茶衆用で米ばかりの銀のめし、これに酒と鰊(にしん)がついた。
 第二級は「奥の御飯」(経営者の老父母用)で、米と麦が半々のもの。
 第三級は経営者の家族と茶摘み女用で、米三、麦七の割合のめし。おかずはたくあんと油みそがつく。
 しかし米が僅かでも最高のご馳走だった。酒や米飯に連日ありつけることが何よりの喜びであった。
 茶衆、茶つみ女衆は、茶の季節が待ち遠しかった(武蔵村山市中藤・比留間はつ談)
     *
 このように明治の初め、最も隆盛をきわめた茶製造も、やがて輸出がふるわなくなり、没落の時を迎える。
 茶の製造が大量になってくると、原料の青茶が不足し、年ごとに急騰したため、柳や藤の葉などをまぜた粗悪茶を製造した者が出て信用を失ない、輸出不振となり、茶価が暴落した。
 国際市場は、英国の低廉な機械製紅茶の量産による手ごわい競争相手の出現(明治四年、英国向けの茶の輸出ゼロ)やら、機械製茶への移向による資本や、機械を操作する職人の不足などで、荼業者の多くが廃業した。
 同じ輸出の花形だった生糸は、年一回だけの生産の茶に対して、年三回も生産でき、養蚕技術の向上で景気はよかった。
 明治末年にはそれまで育成した茶木を桑にする「抜茶植桑」に変っていった。
 明治の青梅街道沿いは、点在する農家のわら屋根と、狭山丘陵下から平地に一面にひろがる畑の中に、畦にきちんと茶木が並んで、殺伐な台地のひろがりにうるおいを与えた。 七〜八十センチの小さな背丈の茶の木々は、強風に舞う軽土を押さえる効果があるが、時代の波に飛ばされないよう、大地に小さくしがみついている武蔵野の農民と、どこか風体が似ていたという。

  十五章 街道から鉄道へ top

  1 豪農たちの企業熱


 江戸の中期から末期にかけて、江戸と多摩北部の物産の輸送は、新河岸川の川輸送が中心であった。
 武州一揆でねらわれた扇町屋、所沢などは、新河岸川から陸上げされてくる輸送ルートの一拠点であった。
 肥料商たちはこの地理的有利な所に集中しており、そこで富を築いたともいえる。
 その輸送路からはずれた地域で、ほぞを噛む一連の人たちがいた。
 羽村の指田茂十郎、福生村の田村半士郎、砂川村の砂川源五右衛門等である。
 彼らは、自分たちの在住地からも新しい川輸送ルートを作りたい、とかねてから考えていた。
 その第一案は、玉川上水を利用した輪送路である。
 玉川上水はちょうど彼らの村々に沿って流れている。
 指田茂十郎は、羽村の堰を一手てに管理してきた家柄で、水番人の立場を利用して、企業的な能力が育くまれたといわれる。
 慶応三年(一八六七)、幕府にあてた砂川源五右衛門の玉川上水の通船計画は、「船の大きさは幅四尺(一・二メートル)、長さ五間半(十メートル)、上り下りとも荷物十駄積み、人足下り三人、上り九人、日数三日、船の数は百艘で一ヵ月上り下り六回ずつ」で、この運上金千八百両を納める、という具体的に研究されたものだった。
 それだけ運上金を払っても、通船は経費の上からも能率の上からも、陸運にくらべてはるかに安い。
 水運にすると、羽村から内藤新宿まで六十六キロの運賃は、内藤新宿から府内四キロの陸上の運賃の半分もかからない計算になるという。
 通船出願は。江戸中期ころからたびたび出されていたが、玉川上水は飮用水であり、通船で汚染されては困るという理由で、幕府は許可しなかった。
 ところが明治三年四月に許可がおりた。まだ地方事情に疎い維新政府は財政難にあえいでいたので、運上金が入ることが魅力だったのであろう。
 通船事業は、船たまり場を六ヵ所作り、船百艘で、沿岸村々の有力者たちが船主となった。
 その持ち船はほとんどが一人二艘であったが、羽村名主島田源兵衛十四艘、福生村名主田村半十郎十八艘、砂川村名主砂川源五右衛門二十二艘がとびぬけて多い(『稿本青梅市史』)
 しかし開始されてまもなく上水が汚れたため、東京府は通船を禁正してしまった。
 僅か二年一ヵ月であった。
 通船業者たちは、それでは玉川上水に沿って新しく用水路を開削し、通船事業を継続しようと運動したが、東京府はそれも許可しなかった。
 その後も指田、田村らは再願や新水路計画書を出して、ひるまず運動を続けた。
 彼らが武蔵野の一隅で水運事業の再現に躍起となっている時、世の中はすでに水運から鉄道輸送へと、一大変革が実現しつつあった。
    *
 明治二年(一八六九)、イギリス公使パークスは、政府に近代国家としていかに鉄道が必要であるかを説諭した。
 外務省も同意して、次のごとく上申している。
 「鉄道の布設第一目標は、東京、京都、大阪間、それから東京から陸羽。その間を物産融通すれば価格の変動を防ぎ、広漠不毛の開拓に役立ち、また必要な時は用兵を迅速に動かせる」。
 しかし鉄道には莫大な資金がいり、東京−京都間の幹線を敷く前に、まずその支線となる東京−横浜間を敷設しようということになった。

 それでも資金は莫大で、費用の一部百万ポンドはイギリスで起債した。
 明治五年(一八七二)東京−横浜間、七年(一八七四)大阪−神戸間、十年(一八七七)京都−大阪間。
 堰を切ったように、各地で蒸気機関鉄道が開通された。
 明治二十二年(一八八九)東京−神戸間が開通するにおよんで、その収入は営業費に比べて年ごとに安定した額になっていった。
 松方財政(明治14〜18)によって貨幣価格が回復し貿易も輸出が好転してくると、株式に人気が集まり、株式投機が盛んになってきた。
 都市の資産家の間で企業熱が起こり、しぜん鉄道事業に関心が集まった。
 明治十四年(一八八一)、日本最初の民間鉄道会社である「日本鉄道会社」が生まれた。


品川海岸を走る“岡蒸気”(四代広重画・明治5年)

  2 甲武鉄道 top

 日本鉄道会社に刺戟されて、東京および近在の資産家たちによる鉄道計画が続々と出された。
 多摩方面では、内藤新宿から羽村まで、玉川上水の築堤に、馬車鉄道を敷設する計画があったが(明治6)、これは許可されなかった。
 そこで内藤新宿の服部九一と、横浜商人出身の実業家岩田作兵衛が、青梅地方の石灰石を搬出する目的で、東京−羽村間、羽村−青梅間の馬車鉄道の計画をたてた。
 その願書提出には、地元有力者の参加が必要とされたので、話は自然と羽村の指田茂十郎、福生の田村半十郎に持ちかけられた。
 指田、田村は夢をかけていた通船事業が不可能になり腐心していたので、一も二もなくこれに同意した。
 計画は少し変更されて、東京−八王子間ということになり、その第一期工事として、東京から羽村までの線にして、資本金三十万円で「甲武馬車鉄道」として発足しようとした。
 しかし世を見渡せば、京都、札幌、熊谷、宇都宮、堺などに、続々と蒸気機関車が走り、馬車鉄道は実現前から時代遅れとなっていた。
 そこでやむなく資本金六十万円として、同線を汽車鉄道に改めて再願した。

 三十万円の資金集めにも苦慮していたので、六十万円の資本金には、メンバーを大きく変えなければならなかった。
 横浜商人原善三郎ほか十二名は、多摩および甲州方面の生糸織物を横浜へ運んで輸出しようと計り、川崎から八王子への鉄道設置を願い出た。
 川崎からは幹線東京−横浜間が通じている。
 しかしこれは内務大臣山懸有朋の反対意見によって、神奈川県知事より不許可になった。
 その間、鉄道出願者同士競い合ったりして、明治二十一年(一八八八)「甲武鉄道」が発足することになった。
 二十二年(一八八九)四月、新宿−立川間が開通した。資本金は九十万円に増額されていた。
 こうして多摩に蒸気機関鉄道が敷かれたのである。
 郷土きっての豪農トリオ指田茂十郎、田村半十郎、砂川源五右衛門が、玉川上水通船事業に乗り出した時とはあまりにも大きな隔りであった。
 輸送は明治二十年代からすでに蒸気機関鉄道が主流となり、中央の大政治家、大企業家、華族組合員らが参加した。
 鉄道事業はもはや地元の豪農の資本力、政治力をもってしても、太刀打ちできる相手ではなかった。
 甲武鉄道の株主の顔ぶれは、私鉄王と呼ばれた雨宮敬二郎を筆頭に、安田善次郎(安田財閥の祖)、田中平八郎などの甲越系の資本家たち、久松、伊達の大名華族たちがおり、株主百三十八人中、多摩在住者は僅か三十三人で、田村の五百株を含めて持株総数二千株たらず、雨宮一人の二千株にも及ばなかったという。


左より田村半十郎、指田茂十郎、砂川源五衛門(甲武鉄道創立時代)(高山常子氏提供)

 莫大な資本金のいる鉄道は、客、貨物を増やすために、常に輸送路を延ばさなくてはならないし、他の鉄道との連結も計らなければならない。
 同年八月、立川−八王子間開通。市内では新宿−飯田橋間開通。二十九年(一八九六)八王子−甲府間開通。
 もはや甲武鉄道は一地方のローカル線ではなく、国内の準幹線鉄道の性格を持つに至ったのである。


明治27年当時の青梅停車場
(青梅市郷土博物館提供・多摩のあゆみ2号より)


青梅鉄道日向和田駅(現宮の平駅)構内の電車、
後方に石灰岩の山がみえる
 (青木正太郎氏提供・昭和3年頃・多摩のあゆみ11号より)

 甲武鉄道で片隅に追いやられた指田、田村、砂川の豪農トリオは、なお鉄道事業の夢やまず、青梅日向和田の石灰(江戸末期から発掘)輸送を目的として、日向和田から立川で甲武鉄道に連結する青梅鉄道を計画した。
 資本金は僅か十万円であったが、やはり中央の有力資本家の参加を余儀なくされた。
 平沼専蔵(飯能町出身・横浜商人)、浅野総一郎(浅野セメント)、奈良原繁(甲武鉄道)を卜ップメンバーとし、そのほかに指田ら三人と、小沢太平(沢井村)、平岡久左衛門、滝上悦蔵(青梅町、ともに縞仲間出身か)、下田伊左衛門(青梅町)の地元有力者でかためた。
 軌道は本来の三フィート六インチに比して二フィート六インチの狭いものであったが、許可が得られた。
 青梅鉄道のほかに、周辺では川越より甲武鉄道国分寺停車場に連絡する川越鉄道が、明治二十八年(一八九五)開通したが、やはり岩田、平沼の鉄道コンビが先頭に立ち、地元有力者が協力するという形になった。
 郷土の豪農達は、巨大な鉄道事業は、中央の大企業家たちに席を譲らざるを得なくなり、かろうじて支線の株主に留まった。

  〔鉄道と地元民〕 
 地元の庶民にとっては、だれが鉄道の主導権を握ろうと、自分たちとは関係のない出来事であったが、鉄道の施設をめぐって様々な話題が取沙汰された。
 風聞の一つに、甲州街道に沿って鉄道が敷かれるという噂があって、府中、調布の宿場町が反対した。
 理由は、鉄道のために宿場が栄えなくなることと、また煙を吐く汽車だから火の粉が飛び、わら屋根に燃え移る。
 また桑が石炭灰をかぶってだめになってしまう、等であったという。
 しかし鉄道は、宿場や街道を通る必要はなかった。
 土地買収も莫大な費用がかかるので、町地や宅地に鉄道を敷設するより、山林、畑のほうがずっと安くてすむ。
 それに地理的条件が許せば、曲線より直線にして最短距離にしたい。幸い武蔵野台地は何の障害物もない。
 山林、畑の中を定規でひいたような一直線が立川まで敷けた。
 立川での買収地は、建物がたった十四軒かかっただけで、それも居宅が八軒で、あとは土蔵のひさし、物置、蚕小屋、雪隠(せっちん=トイレ)、肥溜(こえだめ)といったものであった。
 それでも移転料は、居宅が坪当り五円五十銭、土蔵が二十円、物置四円五十銭、当時の米価が一石五円前後であったので、高い補償金という印象を与えた。
 吉祥寺村(三鷹市)の場合、当時畑地は反当り十二円六十四銭、山林はわずか一円三十銭という安さだったが、甲武鉄道の買上げは、畑が反当り九十五円、山林六十五円で、十倍以上も高く買いとった(『多摩の百年』)
 新宿から立川までの停車場は、境、国分寺の二つだけだったが、停車場や線路にあたった村は羨望の的であったろう。
 地元の一般庶民が、鉄道を直接利用することはなかった。
 旅客運賃は非常に高く、新宿−立川間は上等六十六銭、中等四十四銭、下等二十二銭で下等でも現在の金額に換算すれば千七〜八百円くらいになる。
 とても農民が利用できるものではない。また農民が自分の村を離れて、汽車で他地域へ移動するという生活方式がまだ生まれていなかった。
 地元民に与えた恩恵は間接的なもので、乗降客相手の商売や、貨物取扱いに関した仕事が多様にできたことである。
 立川村の総代であった鈴木平九郎は。停車場開業と同時に、貨物取扱業同盟社をつくり、砂川、村山方面からの生糸、桑苗、薪炭などを積下しする貨物を扱った。
 立川本村の次、三男や小金を持った野望家が、乗降客相手に、泉屋、伏見屋、中村亭などという屋号の運送屋、材木屋、飲食店などをつくった。
 農業の片手間の商売であったが、一日四往復する列車の乗降は、けっこう商売になったという。
 全くの畑、山林だった立川停車場北口地域は、東京に直結した新しい集落になっていった。
 立川停車場北口付近(南口はまだない)は、明治二十年にはゼロであった家数が、明治三十年三十戸、三十四年八十〜九十戸に急増した。
 新しく集まってきた者たちを、地元民は“てんしゃば組”(停車場組)と呼んだ(『立川市史』)
 境停車場は、鉄道の開通日を明治二十二年(一八八九)四月十一日の桜満開期を選んだのを見てもわかるように、小金井の桜見物客をあてにしたものであった。
 停車場付近には、たちまち花見客相手の茶店や売店が軒を並べていった。
 新宿停車場は、内藤新宿から一キロ離れた隣の純農村だった角筈(つのはず)にできた。
 新宿停車場は明治十八年(一八八五)三月、日本鉄道会社の山手線の一駅になったものの、最初の乗客は一人もなく、停車場付近には薪炭を商う者を入れて僅か数戸だったが、明治二十二年(一八八九)四月、甲武鉄道の停車場が併置されてからは、乗客、貨物量が増加し、商店、民家が急増した。
 三十九年(一九〇六)国有化されたころは、内藤新宿に代って角筈の停車場付近が、完全に新宿の中心地になった。
 青梅鉄道は、石灰採掘事業が目的で開通されたもので、江戸末期から新しく石灰採取場になった日向和田村(青梅市)付近に、特に鉄道の影響が大きかった。
 日向和田村は戸数七十戸の山間の小村であったが、採掘に従事する技術者や工夫の移住によって、人口が一挙に二倍に増え、青梅町の商店、料亭がもうかったという(『稿本青梅市史』4号)
 宿場町府中は、山林地帯としてかえりみられなかった北方のはけの上(武蔵野台地)を甲武鉄道が通り、山林の中にてきた国分寺停車場が、川越鉄道に連結していっきに町ができると、その羨望やるかたなく、「わが町に鉄道を」と絶え間ない鉄道誘致運動を町を挙げて行ない始めた。
 大正五年(一九一六)、やっと京王電軌(京王帝都)が新宿−府中間にできた頃は、各地でも私鉄が網の目のように張りめぐらされ、寒村だったいたるところに停車場ができていて、府中は大きく遅れをとってしまっていた(『府中市史』)
     *
 青梅街道沿いの村々は、新宿、青梅以外は甲武鉄道や川越鉄道も離れており、鉄道による直接の影響はなかったが、それぞれ間接的な影響をこうむって変化し始めた。
 杉並・練馬あたりの地域は、東京郊外の人口増加、淀橋・中野の人口密集地化が進むにつれ、青物市場や東京の商店、町家を目指して野菜や芋などを売りに行く農家が次第に多くなり、商品農産物としての野菜栽培地になっていく。
 新宿とも青梅とも離れた中間にある村山地方(瑞穂・武蔵村山・東大和)は、ひだの折り目のようなエア・ポケット地帯となり、かえってそれが地方色を濃くした織物(村山大島)生産に歩ませる動機となった。

  3 軍色化する鉄道 top

 鉄道事業は、地元住民の生活をうるおすためにできたわけではなかった。
 明治十九年 (一八八六)頃、横浜商人を中心とした発起人が、川崎−八王子間の鉄道を申請した時、内務大臣山県有朋(やまがたありとも)は、
 「東京横浜の中間にある川崎において既成の官線を結び、京浜両地の便になるとはいうものの、各地に関係を有する場所に敷設する鉄道は、必ず先ず首府を以て基点とし、各要所に連結するを原則とすべし。
 青梅、飯能、所沢なとがら八王子に赴くよりも、東行して東京に至り既成路線に連結するほうが鉄道利用の効果大である」との反対意見で取止めとなった。
 明治二十三年(一八九〇)五月、「線路を砲兵工廠に達すれば軍事上有利なるべし」との大山陸軍大臣の意見で、新宿より神田三崎町まで複線で延長した。
 明治十三年(一八八〇)、陸軍省から分れて参謀本部ができたときに、統帥権独立の基礎ができた。
 それは同時に“軍部”の基礎確立であった。
 この改革にあたったのが、山懸有朋である。
 八王子鉄道の反対意見を出した山懸の腹の底は、「鉄道の存在は軍部成長のため」という信念があったのであろう。
 参謀本部の鉄道関与は、明治二千年頃からはっきり打ち出されている。
 明治二十年(一八八七)参謀本部長は、鉄道改正建議案をたて、鉄道局長官と協議した。
 その目的は、「国家の安危は兵備の整否に従ひ、兵備の整否は鉄道の得失に従ふ。鉄道は軍国に要用である」(『日本鉄道史』上巻)という。
 同年三月、参謀本部が「鉄道改良の議」を天皇に上奏したその中で、
 「其経始及び車輌の幅員軌鉄の大小間隔等を陸軍官憲即ち参謀本部に於て審査規定し、私設の者と雖、之に干渉し会社と討議を尽し、其材料に至る迄参謀本部陸軍部と討議の後、布設構造せられんことを国家の為希望に堪えざるなり」(『明治軍事史』上・陸軍省編)と私鉄にいたるまで、その建設を陸軍の支配下に治めることを述べている。
 日清・日露戦争を通して、鉄道の果たした役割は大きかった。
 兵士、軍事物資の大量輸送と迅速な速力。鉄道なくして近代戦争はあり得ない。
 日露戦争の翌三十九年、鉄道の国有化が進み、甲武鉄道はいち早く国有鉄道となり、名も「中央線」と改めた。
 甲武鉄道敷設によって、一つの要塞となった立川村は、多摩の中心地的存在となった。
 東京市内に次いで府立第二中学校や、市街地域ができ、とみに繁栄していった。
 その反面鉄道敷設は、多摩が東京に従属する性格を深めた結果になった。

 鉄道の出現によって、多摩は歴史の様相を一変する。
 「一地方一地域多摩」は「東京の従属地域多摩」となる。多摩を支配した豪農は、この時代を境に主導権から離れ、新しく中央の政治家、軍人、企業家が多摩を支配していくようになる。
 日露戦争を経た後の東京は、次第に軍都化し、軍部に必要な供給源を多摩に求めるようになっていく。
 多摩のいたる所に軍部のおびただしい施設が計画され、広大な土地が強制収用されることになった。
 鉄道はそのつながりを一層強力なものにしていった(後述)
 軍都東京の怒濤を、立川はもろにかぶることになる。航空本部と飛行場ができてから、戦後米軍に接収され、「基地の町たちかわ」となっていき、長い多難の道を歩き始める。鉄道敷設に遅れた府中は、皮肉にもその難から免かれた。
 そこにいたる運命を、明治の立川住民も府中住民もまだ知らない。


青梅街道がどこを通っているのか、よくわかる

 明治から大正にいたるまで、鉄道の“平和な側面”で、庶民は新しい時代の恩恵(?)を嬉々として感受し、機を織り、野菜車を走らせ、たくましく生業に専念していた。

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