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四谷大木戸(江戸名所図会より)
六章 内藤新宿興亡記 top
1 浅草商人の進出
東京・新宿の伊勢丹付近は追分といい、甲州街道、青梅街道の分岐点である。
江戸時代の新宿は、追分から東へ向かう、現在の新宿御苑沿いの内藤町であり、正式な呼び名を「内藤新宿」といった。
新宿は江戸四宿の一つである。江戸の発展で一番遅れていたのは西北方面で、内藤新宿は、品川、千住、板橋より大分遅れて成立した(元禄11・一六九八)。
徳川家康の江戸入りに功のあった内藤清成が広い地域を拝領し、そこに下屋敷を作ったが、大部分は放置されたままであった。
この後進地域がにわかにその価値を見直されたのは、明暦の大火(一六五七)後である。 |
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この大火以後、江戸市内は大がかりな都市計画が実施された。
密集した江戸城付近に防火目的の空地を設置したため、多数の寺社や町家が山の手に強制移転させられた。
大火の災害を受けなかった内藤氏の拝領地のうち、四谷に新しく旗本や直参の武家地が定められた。
その後江戸の町並がひろがり、整備されていくに従い、内藤氏の拝領地があまり大きすぎるという理由で、名目は「上知」(領地の寄進)という形で、幕府に少しずつ取上げられていった。
追分付近は、古くから南北に鎌倉街道が通じていて、その東側の太宗寺にはいつしか小さな門前町ができた。その町並が宿場のようだったので「内藤宿」と呼ばれていた。
時は元禄、町人の勢力がしだいに伸び、大商人の活躍が盛んになると、江戸市内に隣接した“利用度の高い未開地”を大商人が物色していた。
浅草の名主であり商人である高松喜兵衛ほか四人の者が、この内藤氏の地を幕府から譲り受けて「岡場所」を設置しようと企てた。
その頃江戸の人口は、武家・町人合わせて百万人近くになったという。
その内訳は町方四十六万人、うち男三十万、女十六万。武家のは数はわからないがほとんど男である(元禄六年)。
全国から江戸で働く男が来てできた町だったから圧倒的に男が多い。
その男女比率のアンバランスの結果生まれてきたのが、遊廓のような男の遊び場所だった。
幕府は、それまで遊廓として新吉原しか認めていなかった。
新吉原は江戸から離れた葭(よし)の原の不便な所にあり、また一夜遊ぶのに大変な金がかかった。
そこで非公認の手ごろな遊び所「岡場所」が各所にできる。
その主なものは五街道の第一宿場品川、板橋、千住であった。街道筋で交通に便利で手ごろであった。
妓楼や遊女は「旅籠屋」、「飯盛女」と呼ばれた。このような旅籠屋や飯盛女の数はしだいに増加していった。
こういう状況の中で、浅草商人高松喜兵衛らは「宿場をかねた岡場所」の新設を考えた。
その候補地が内藤氏の地だった。
そこは五街道の一つ甲州道中(街道)の第一宿場である高井戸宿(杉並区)まで、日本橋から十六キロも離れているので、その中間に宿場をつくることが可能である。
その中間にある内藤氏の地は地価が安い。
太宗寺門前町を見ても年ごとに人出が多くなってきていて、繁華街としての将来性もある。
宿場設置ということで運土金を納めれば、幕府から容易に譲り受けられるに違いない――と彼らはさっそく幕府に働きかけた。
2 内藤新宿生まる top
元禄十一年(一六九八)、高松喜兵衛ら四人は、運上金(権利金)五千六百両(時価十数億円)という莫大な金を幕府に納めて宿場設置の許可を得た。幕府は内藤氏から四谷大木戸から東へ三・二ヘクタール(約九干六百坪)を返上させた。
やがて高松らの宿煬づくりが始まった(元禄十一年)。甲州道中を幅約十メートル拡げ、両側に旅籠屋の敷地割をし、本陣(大名たちの宿泊所、高松家屋敷)、脇本陣を設け、四谷大木戸のほうから下町、仲町、上町、追分の四つの宿に分け、以前からあった内藤宿に対して「内藤新宿」と袮した。
機が熟していたのか、たちまち内藤新宿は「宿場のにぎわい」を見せたという。
名主には高松喜兵衛改め喜六がなった。
四、五年たった元禄十五、十六年の継立人馬数は御朱印人足(公用)三十人、馬百五十疋、駄賃人足(民間用)千五百人前後、馬千疋前後という数にのぼったという。 |

内藤新宿(江戸名所図会より)
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街道沿いには旅籠屋が建ち並び、飯盛女が客を招いた。
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しかし、開駅してわずか二十年後、享保三年(一七一八)内藤新宿は突然廃止させられてしまった。
理由は「内藤新宿の儀、甲州計(ばかり)への道筋にして旅人も少なく、新田の義に候間、向後古来の通り宿場相止(あいやむ)」「足洗ひ女とも猥(みだり)に遊客を引入れ」(『五駅便覧』『四谷区史』所収)というためだという。
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しかし現状は旅人が多くいたし、みだりがましいのなら品川や板橋はもっと派手であったろうに、別の理由が巷間に取沙汰された。
それは四谷大番町の侍内藤新五左衛門(内藤清成家とは別)の弟大八が旅籠屋で、他に呼ばれていた遊女を引いたため下男になぐられて帰ってきた。
兄は武士の恥であるといって怒って大八に腹を切らせ、その首級をもって大目付の所へ行き、「私の知行を差上げるから内藤新宿をとりつぶして貰いたい」と願い出て、そのため廃駅にしたという(『江戸砂子補正』明和7)。
当時はそんな理由でも人々に納得されたのかも知れない。
真相はわからないが、奢侈(しゃし)に流れ町人が派手になり、小禄の武士が遊興にひたり、ますます困窮に陥っていく世相に、幕府はしばしば倹約令を出した。
享保七年にも出している。江戸四宿のなかで大名、武士、町人の利用者が圧倒的に多い品川などを廃駅にするのは不可能で、四宿中利用する大名が三家しかいない内藤新宿を、一つだけ見せしめのために廃駅にさせたのかもしれない。
さっそく名主高松喜六、年寄五兵衛らが連名で再開願いを出した。
「御伝馬継合御止めなされたので馴れた家業を離れ、馬持日傭取人足らは申すにおよばず、家持まで困窮におよび生活できません。
どうぞ以前の通り伝馬継合を仰せつけ下さい」。
しかしこれから五十年におよぶ長い歳月、開駅されなかった。この間、旅籠屋がどのように過ごしたかは不明である。
家作を人に貸したり、近くの茅野を切り開いて内藤新宿新田を作った者もあるという。
だがどういう理由か、明和九年(一七七二)五代目名主高松喜六の時、再び開駅が許されることになった。
その間代々の喜六が歎願し続け、五十年も諦めず、家業を変えても家名を保持し、いつでも開駅できる状態を保ち続けてきたようである。
明和三年(一七六六・開駅六年前)、新宿の西隣角筈(つのはず)村(現在の新宿駅付近)の名主らが、甲州、青梅両街道二里半ほどを、三ヵ年三千七百両をかけて道路修復したいと道中奉行所へ願い出ている。それによって通行の馬一疋一銭の通行料をとっていこうという。
両街道とも人馬の通行が大分あり、宿場再開の気運は高まっていた。
開駅の条件は「御年貢は十六両一分、冥加(みょうが)金(営業税)は年百五十五両を永久に上納する。
以前は家(旅籠屋)五十二軒あったが、今回は三十軒にし、残り二十二軒は追々普請してもよい。
ただし華美にならないよう。飯売女は五十人限りにする。
助郷人馬(後述)は三十三ヵ村とする」というものだった。
「旅籠屋御請書之事」(高松家文書『新宿区史』史料編)には、「旅籠屋飲食女は千住、板橋並み(百五十人)にしてよい」と書かれてある。
なぜいっきに元通り再開が許されたのか、ここでも理由がわからない。
明和九年(同安永元年)はちょうど賄賂(わいろ)政治で名高い田沼意次が、側用人から老中筆頭になった年である。
彼は幕府財政打開の道を、もう農民からの年貢に重きをおかず町人に目を向け、専売制、会所制を設け、莫大な「冥加金徴収」の道を計った。
宿場からの冥加金も多額であった。
元禄の奢侈盛んな時に宿場になり、享保の倹約主義の時とりつぶされ、田沼政治の時再開と、宿場町新宿は幕府の政策に翻弄された町といえそうである。
3 はなやかな遊興の町 top

成覚寺の遊女供養塔“旭地蔵” |

追出し鐘の天竜寺“時の鐘” |
再開されると、新宿はまたたく間に以前にも増して繁華になった。
人馬の往来は繁く、特に四谷通りと呼ばれる四宿(追分、上町、仲町、下町)の通りはにぎやかで、旅籠屋五十七軒中、和泉屋、橋本屋、梅本屋、川越屋が目立っていた。
明治の時の下町の住吉屋の間取図を見ると、八百四十六平方メートル(二五六坪)の敷地内いっぱいに建物があり、二階はその半分の広さがある。
部屋数は上下合わせて二十七室のゆったりした間取りで、旗本尾敷もこれにはおよぶまいと思うほどである。
「岡場所遊廓考」(『四谷区史』)には「甲州街道旅籠屋飯盛女あり、明和安永の頃は殊の外盛んなり。美服を着し紅粉の装ひ恰も吉原におとらぬ春花を置たり」と記し、また「四谷新宿」(同書所収)という狂文には「――あら玉川の春ころは 常円寺の花の雲鐘は上野か天竜寺 聞みみたつる暁に若鮎の荷の小うたふしもおかし(略)
ねながら拝む太宗寺の閻魔(えんま)にちかふ仲町もたのもし――」と賞讃している。
客の中には四谷、麹(こうじ)町が近いところから、小禄の直参が多く、上町の天竜寺は彼らが江戸城に登城するのに道が遠いので、朝時刻を早めて時の鐘を打った。
これを天竜寺の「追出し鐘」といった。
内藤新宿で遊ぶ最高の味は、「政田屋の遊女を侍らせ、山崎屋の料理を食べ、国田屋の座敷で遊ぶこと」だという。
三光院稲荷(上町)の祭礼では橋燈籠がかけられ、けが人が出るほどにぎわった。
内藤新宿というと「四谷新宿馬の糞」という俗談があるように、新宿は他の街道筋より荷駄が多かった。
その田舎くささをバカにした川柳やうわさ話が多い。
しかし裏をかえせば、あまりの繁華ぶりから生まれた嫉妬といえるだろう。
主な川柳に次のようなものがある。
吉原は鳳凰(ほうおう) 四谷とんびなり
品川は牛頭 しん宿は馬頭がでる
新宿の台屋うま煮(馬荷)がたんと出る
吉原は蝶 新宿は虻(ひる)が舞ひ
(『江戸岡場所図絵』天明2)
飯盛女は一軒につき二人以内と定められているが、実際には三人以上いた。
彼女らの出身は近在から集まったものでなく、越後からの者が多かったという。
遊女(飯盛女)は栄養不足と過労と乱淫で常人より短命だった。
遊女がよく死んだので、遊廓のそばには必ず投げ込み寺がある。
新宿の投げ込み寺は、橋本屋の菩提寺成覚(じょうかく)寺(仲町・現新宿二丁目)だった。
遊女が死ぬと、着物や髪飾りがはがされ、さらしのじゅばんに腰巻一つで、こもをかけられて運ばれてくる。
拾文女郎と呼ばれる収入の少ない遊女は、腰巻さえはがされ、米俵にくるまれて投げ込まれた。
成覚寺に「子供(遊女)合埋碑」という供養塔が万延元年(一八六〇)に建てられた。
楼主(旅籠屋店主)が供養したものだという。
恨まれて化けて出られては困るのであろう。
もう一つの遊女供養塔は「旭地蔵」と呼ばれて、もと追分の南、玉川上水の北側に建てられていたが、のち成覚寺に移された(『新宿の散歩道』)。
男女二十人ほどが上水へ飛び込んで心中した。
「翻迷信士丿還浄信女 脱愛信−離欲信女 念浄信士−離念信女……」などといい加減な戒名が塔に刻まれてある。
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甲州道中や青梅街道を行く旅人は、新宿の町並に眩惑され、稼いだ金が飛んでしまう。
『江戸岡場所図絵』に次のような挿話が載っている。
「旅商人新宿へ行き女郎を買う。『なんとぬしやいくつになる』
女郎『わっちがかえ? 十八になりやす』。
旅商人甲州へ行き翌年帰りがけにこの女郎を買って遊ぶ『ぬしゃいくつだ』
女郎『わっち十七でございます』。
またこの商人、だんだん元手をなくして国元へ引き込むとき、またこの女郎を買う『ぬしゃアもういくつになる』
女郎『十六でござりやす』これを聞いて旅商人大いに泣く『ぬしの歳とおれが元手と同じで、だんだん減ってくる』」。
甲州、青梅両街道沿いの新宿近在の農家は、四谷の町屋まで馬や大八車を引いて野菜売りによく出かけた。
四谷は「文政町方書上」(『四谷区史』)に、伝馬町、塩町(新宿区)に早くから地借、店借の商い店が多く「――追々渡世繁昌いたし、殊に近在小荷馬、御当地の内、分け四谷は多く、右馬士共往還仕り候――」とある。
しかし、四谷まで往来が盛んといってもそこまで行くのに内藤四宿通りを通らなくてはならない。
行きは野菜を積んだ馬をひき、馬糞を落しながら、肩身の狭い思いで通り抜けるが、帰りは売り金が入って懐ろがあたたかい。
格子戸から招く白い手や紅粉の香にまどわされてつい……となる。
半年一年間、家族じゅう土にまみれて作った野菜の収入が、一晩でなくなってしまう。
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はなやかな遊興の町の周辺は、貧民部落が取り囲んでいる。
四谷通りを皇居に向かって少し行くと右側、坂を下ったくぼ地に四谷鮫河(さめが)橋という有名な江戸三大貧民部落の一つがあった。
現在の赤坂離宮と東宮御所の間のくぼ地である。
彼らの多くは、日雇、くず拾い、大道軽業などで糊口をしのいでいた。
四谷といえば傘張りの内職をする武士や浪人が多かった(注・「四谷怪談」の伊右衛門も四谷で傘張りをやっていた浪人だったという説もある)。
内藤新宿北の大久保村(新宿区)はやはり小禄の武士の町で、彼らはつつじの植木作りに生活の糧を得ていた。
内藤新宿の西隣り、角筈村の享和三年(一八〇三)の宗門改(あらため)帳(『新宿区史』資料編)をみると、ほとんど商(あきない)渡世になっており、それも大方店借で、住人は移動が激しく、住居や生活の不安定な層と見受けられる。
4 近郊農民の新宿観 top
関東農村全域は治安が乱れ、無宿、博徒が横行した。
そこで幕府は関東一帯の幕領、私領に「関東取締出役(でやく)」(文化2・一八〇五)を設置して、治安維持の強化を計った。
文政十年(一八二七)には二十〜三十の村ごとにまとめ、組合村をつくらせ自主警備をさせた。
組合村の中の一ヵ村を「親村」に指定し、総元締の責任を負わせた。
内藤新宿近辺の多摩郡の村々二十一ヵ村の組合村では、内藤新宿が親村に指定された。
ところが柏木、大久保、高円寺、馬橋、阿佐ヶ谷など二十ヵ村はそろって内藤新宿の親村指定に反対した。
二十ヵ村連名で奉行所に出願した願書草稿(『新宿区史』)をみると、前半は内藤新宿への反対理由の文面で、近郊農民の新宿観が如実に出ている。
「――私ども村々は内藤新宿を親村と定められましたが、村々何とも納得できません。
内藤新宿は田畑がなく、百姓兼業の人が営業しているのではなく、もっぱら旅籠屋渡世の者ばかりでございます。
村役人はじめ新宿の者どもは百姓と違い、江戸町風俗所業と少しも変りなく、かつ吉原そのほか繁華な場所から移ってきた者もおり、衣類、人物も同じように派手です。
飯盛女や男女の三味線ひきは旅人の酒の相手をします。
これらの人たちは自然と目立ち、引手茶屋、酒食商いの者まで同じ風俗になっており、農業のみに励んでいる百姓とは雲泥の差でございます。
前々より私共村々の農問稼ぎの小商いの者や百姓の忰や壮年の者が村の公用で新宿へ行き、酒食が使いすぎ、欠落、勘当、帳外になった者も数多くいます。
若い者が行って小唄三味線を聞きおぼえ、流行の衣服を着、芸者のまねをして、村内女子供にまで悪い口まねが移ってしまい、これを止めても行き届きかねています。
右宿場にみだりに立入り、帰宅が遅い者、泊る者などあり、これを厳重に差し止めようと、私ども村々役人一同考えておりました処で、内藤新宿を親村と聞いて甚だ当惑至極に存じております。
助郷人足の取扱いをしている新宿へ人足賃を受取りに行く者が、そのわずかな賃銭でも場所が場所ですので、その金を飲み食いに使ってしまいます。
村の若い者が江戸へ往復するのにそこを通りますし、御用向きで近い所まで行っても心配で、農業でまじめに働いている者は大変嫌がっています。
親村と決すれば新宿への往来も多くなり、争論の取計らいも親村が扱うようになりますが、宿方の者とは百姓は馴じめません。――
新宿を親村に定めますことは、幾重にも御免に相願い申上げます」。 |
長年の恨みつらみが書かれている。幕府はこれを闘き入れ、村々が望む中野村を親村に改めた。
5 町の自治と高松家 top
遊興の町に伴なう犯罪はなかったか。詐欺・恐喝・暴力等、起こって当然な事件の記録が見当らない。
幕府は、町奉行を通して宿場の取締りに積極的だったことは、寛政・天保の改革に真っ先に宿場の手入れに乗り出しているのを見てもわかる。
寛政十一年(一七九九)の取締りの時、新宿の旅籠屋(妓楼)の数は定め通り五十二軒であった。
天保改革の時、鳥居耀蔵(ようぞう)が南町奉行になっており、酷吏として市民生活を極度に圧迫したことは有名であるが、天保十五年(一八四四)の新宿の取調べでは遊女の数はやはり定員通り百五十人であった。
しかし内藤新宿がそれほど模範的な町だったわけではない。
寛政十一年からわずか七年後の文化三年(一八〇六)には、妓楼の数は六十二軒と増えていた。
それは冥加金を増納(賄賂)する条件で、その筋の了解をとったものといわれている。
天保十五年、品川宿に手入れがあったとの情報から、百五十人よりかなり多くの遊女をかかえでいた新宿は、遊女の超過員を、松屋は清右衛門店と又右衛門の土蔵に、辰尾屋は小兵衛宅へ、武蔵屋は八太郎宅へと、二十軒の妓楼がそれぞれ宿場で決めた裏店・土蔵・長屋へすばやく隠した。
「表より不見透(みとおせず)一方口に致、其外は〆切置(しめきりおき)、昼夜銘々主人併(ならび)重立(おもだて)候者之内附添居(つきそえおり)、女子共相慎せ差置――」(『四谷区史』)。
担当の役人には当然お目こぼしの賄賂を与えたものであろう。
「お目こぼしの賄賂」といえばこんな一件もある。
安政三年(一八五六)宿場では、宿場内を流れる玉川上水ベリに桜の木を多く植えて、いっそう客を引寄せようと計った。
表向きは上水の毒消しのためということにして、上水役人・代官の手代に賄賂を贈ってまるめ込み、勘定奉行所へ出願し、近辺の御家人にも賄賂をばらまいて説得させ、実現に成功した。
桜の大木・若木三百余本植え込み、これによって廓内は花の咲く頃はいっそう賑やかで、順風満帆の勢いであったという。
しかしその後、老中阿部伊勢守にとがめられると、また宿場の廃止になっては大変と、いさぎよく伐採した(『新宿遊廓史』)。
植樹といい伐採といい、いずれも機敏に立ち回った。
ここぞと思うところでは惜しげなく賄賂を使って事を進める宿場の豊かさもさることながら、それを運営する宿場の活気に充ちた機動力がうかがえる。
代々名主高松喜六は、宿場内で絶対的な権力者であった。その下に有力な遊廓の楼主、その下に楼主と取引のある酒屋、魚屋の店主、とピラミッド型の組織で、この宿場を自治運営していた。
江戸市内の各町には、治安に備えて町民の自費で運営している「自身番」というのがある。
小さな不祥事は自身番屋で処理され、名主立合の元でなるべく外部に洩らさず「内密に」処理されることが多かった。
内藤新宿には追分と、上・仲町両町境南側と他三ヵ所に自身番屋があった。
遊廓の町として幕府の監視のきびしい新宿の場合は、宿場取りつぶしの苦い経験もあって、内部で起こった犯罪など、絶対的権力のある高松氏の元で、かなり内部でことを納めたかも知れない。
広大な高松邸の中に、お白洲まがいのものまであったのではないか。
自身番の役目も町内治安というより、常に支配方役人の動向キャッチに重点が置かれていたのではないか。
敏捷な宿場機動力もそうした状況下の産物といえよう。
時代が少し下るが、明治二年(一八六九)、社倉制度をめぐって武蔵野新田の農民が大挙、青梅街道から浜町を目指して進行してきた事件があった(御門訴事件。後述)。
事件当日、武蔵野新田村役人から急報を受けた高松喜六は、青梅街道淀橋に地元の鳶職人をいち早く動員して、大八車や梯子でバリケードを作って農民の進行を阻止した。
わずか半日足らずの出来事で、警察機動隊さながらの行動力であった。 かくして、水も洩らさぬ守備体制のもとで、表沙汰になった犯罪事件は一つもなく、幕府の弾圧も受けず、明治末期まで内藤新宿は繁栄した。
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「新宿開設の大恩人高松様のお邸はそれは広いもので、私は学校がひけるとすぐお邸へとんでいっては終日お庭の中を馳けまわっていました。 総領の坊ちゃんは雲の上のような人で学習院へ通っていました。
ご主人は貫禄のある方で、内藤新宿の町長も頭があがりませんでした」(『古老の話あれこれ』要約文)。
開駅から代々名主を世襲してきた高松氏は、子爵になり府会議員にもなったりしたが、中央線・山の手線の鉄道駅のできた明治二十二年頃から角筈村に町の中心が移って、内藤新宿はさびれてしまった。
大正四年、十一代の戸主は先祖の墓を四谷愛染院(あいぜんいん)に残したまま戸塚町(新宿区)に移り、その後の消息はわからない。
高松家は内藤新宿と運命をともにした。 |

内藤新宿の開祖高松喜六の墓・愛染院
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七章 鷹場と助郷 top

尾張徳川家の鷹場跡標柱
(保谷市本町5丁目野口道孝氏邸内) |

古文書・猪鹿退冶願 |
1 御鷹場制度
江戸時代、将軍と大名が鷹狩する所は鷹場といって、それぞれ場所が決まっていた。
寛永五年(一六二八)にそれが制度化され、江戸城から二十キロ四方が将軍の鷹場、二十キロ先から四十キロまでの範囲は徳川御三家の鷹場で、武蔵野は尾州家の鷹場であった。
鷹狩は戦国武将に愛好されていたものだったが、世の中が太平になると自然すたれていった。それが享保期に復活された。
将軍家の鷹場は葛西筋、岩淵筋、戸田筋、中野筋、目黒筋、品川筋の六筋に編成された。
青梅街道でいうと、上石神井(かみしゃくじい)辺(練馬区)までが将軍家、保谷から箱根ヶ崎(瑞穂町)辺までが尾州家の鷹場である。
鷹場の中の農民は、いつ領主が鷹狩に来ても差支えないよう、準備と注意をはらった。
その心がけも強制され義務づけられていた。
享保の復興より、鷹場を管理する御鷹場役所の鳥見役人の、農民への取締りが厳重になってきた。
鳥見役人は常に鷹場内を巡回し、村民に野鳥の状況やら鷹狩で邪魔になるものをとり払わさせ、整備につとめさせた。
厳重な取締りは左記のような「御鷹場法度」(おたかばはっと)と呼ばれるものにそれがよく表われている。
「・鷹場内において殺生をしてはならない。
・鳥を追いたててはならない。
・川殺生(魚とり)は八月から四月までしてはならない。
・かかしを勝手にたててはならない。
・見回り役人が来九時は人馬を滞りなく調達しなければならない。
・新規に水車、家を建てる時は許可を得なければならない。
・いのしし、しか、うさぎ等を勝手に捕えてはならない。」
等々である。
些細なことでも、農民はこの法度でとがめを受けた。
下保谷村の与右衛門という者が江戸から兎を買い、それを殺生したという風聞が鳥見役人の耳に入った。
与右衛門は、その兎は同村の者に譲り、殺生したおぼえはないと弁解したが、それでも組頭を伴って鳥見役人にお許しを乞うた(天保四年『保谷市史料』一)。
かかし一つ、獣を捕える落し穴一つ、三メートルのひさしをおろすのも一々許可を願った。
「 恐れながら書付を以って願上奉り候
一、入間郡左の村々、例年の通り当年も案山子仕りたく存じ奉り候。何とぞ御慈悲をもって御免仰せっけられ候はば有がたき仕合わせに存じ奉り候
寛政十五年十月
入間郡(十二ヵ村名主連印)」 |
「恐れながら口上書を以て願上げ奉り候
一、去る暮より当春にかけて猪鹿おびただしく昼夜かぎらず畑を荒し、百姓難儀におよび候。
落し穴、竹槍で猪鹿を追う事を仰せつけ下され候はば有がたき仕合せに存じ奉り候
享保二十一年二月
中野村名主(以下十一ヵ村名主)」 |
「 恐れながら書付を以て願上奉り候
一、梁間(はりま) 九尺 一、桁行(けたゆき) 弐間
村内百姓茂佐衛門儀。前書の木部家普請したく願上げ候。
何とぞお慈悲を以て御聞済み下され候はば有がたく仕合せに存じ候。
嘉永三年二月
長谷部新田名主清次郎 」
(以上『瑞穂町史』) |
2 農民負担の拘束料 top
天明三年(一七八三)、立川村平九郎方へ泊った鳥見役人の宿泊費は、銭四十七貫七百文、延四百七十七人の人足費は銭六貫七百文かかった。
安政三年(一八五六)、中野筋に名主と農民の家へ分宿二泊した、鳥見役人と家来七人の宿泊費は、金二朱と銭三貫六百十六文、みやげが金一分と銭二百文、賄賂が金二分、合計金三分二朱と銭三貫八百十六文かかった。
御鷹場役所へ出す「許可願」にも村の金がかかった。
「願」は出された順に処理されたのではなく、役人が見回りに行った際、「御樽代」と称する賄賂の額によって、許可が遅れたり、また不許可になることもあった。
「お役人様方月々五、六度お見回りになり、かれこれむずかしいことを仰っしゃいます。
火災もあって小屋一つできない状態ですが、金二百疋三百疋(一疋二五文)の御樽代お取りになり困っています」という苦情があり、「どうぞ御樽代は鐚(びた、銭)弐百文にまけて下さい」という陳情もある。
御樽代は、もちろん村から出されたわけで、鷹場は農民にとって利益を受けることは一つもなく、ただ拘束を受けるだけの存在だった。
その拘束料まで農民が負担した。
鷹場制度は幕末まで二百年以上も続き、その間尾州家鷹場に尾州侯が鷹狩にきたのはたった一回しかなかった。
その間、農民は何ら不平一つ言わず服従した。
なぜこのような制度を置いたのか、理由がはっきりわからない。そのためいろいろな見解がなされている。
「鷹狩にこと寄せて社寺や豪家に立ち寄り、施策の参考にした。また民情の視察を重視した」(『村山町史』)。
「江戸近郊の複雑な領地の入りくみのため、領主支配の弱さを補強する政治的配慮」(『立川市史』)。
関東各地は幕領(御領)・大名領(私領)・旗本領・寺社領などが複雑に入り組んでいて、その支配権がばらばらであった。江戸も後期になると、一揆や打ち殺しや、殺人、博奕など不穏な空気が高まってくるが、犯罪者が他領へ逃げこんだりすると捕縛できない。
文化期、御領、私領を問わず関東一円を支配する「関東取締出役」が置かれたのもその治安のためだった。「それと併行して、すでにできている鷹場制度は、それを補うに格好な制度であった。鳥見役はその名から離れて直接農民を支配しようとした。鳥見でなく人見であった」(『関東近世史研究』8号・大石学)。
だいたい一致した見解は、鷹場制度は「政治体制の弱さを補強する取締制度」ということのようである。
しかしそのほかにも意味がありはしないか。
財政難に苦しむ幕府や領主が、領民から合法的に金を収奪できるものは「年貢」と「運上金」「冥加金」などからであるが、それらの額を引上げるのは領民の抵抗があって至難であるが、領主側にとって最も魅力的なのは「賄賂」である。
鷹場制度では「御樽代」という賄賂が公然ととれる。
低い俸禄であえいでいる家臣を多数抱えている領主は、部下の別途収入を、見て見ぬふりをしていたのではあるまいか。
3 助郷制度 top
御鷹場制度でどんなに厳しい拘束を受けても、農民は従順であった。
しかし江戸中期より後期にわたって厳しさを増してきた賦役としての「助郷(すけごう)制度」には、農民は村じゅうあげて抵抗した。
万治二年(一六五九)、幕府は道中奉行を定めて、街道の交通運輸を司どらせた。
道中奉行は、公用の通行者や荷物の輸送などを円滑に運ばせるため、五街道の各宿に常時人馬を備えさせた。
東海道の各宿は百人百疋、中山道五十人五十疋、甲州・日光・奥州各街道は二十五人二十五疋であった。
交通の発達に伴って公用の通行者、輸送などが多くなってくると、宿場は常備人馬だけでは間に合わず、近辺の村がその援助をした。
はじめ助人馬(すけじんば)といったが、元禄七年(一六九四)「助郷」として制度化した。
助郷は、村高に応じて助郷高というのが決められ、助郷高百石に対し人足二人、馬二疋と定められた。
(しかしのちには高百石に人足五〜六人、馬三〜四疋と増えていった。)
助郷は宿場の近隣の村が定められ、人馬提供の義務を負った。
こういう村を「定(じょう)助郷」といった。
この定助郷でも人馬が不足する時は、さらにその周辺の村から臨時にそれらをかり出した。
こういう村は「加(か)助郷」といった。
将軍の朱印状を持った公用旅行者が使役する人馬(朱印人馬)は無賃であるが、指定の人馬で間に合わない時は公用旅行者がほかから人馬を雇い、道中奉行が定めた「御定(おさだめ)賃銭」が支払われた。
御定賃銭が定められたころは世間相場と同じくらいだったが、だんだん物価が高くなるにつれ、御定賃銭は全く低いものになった。 天保のころ世間相場は人足二百五十文、馬一疋五百文だったが、御定のほうは人足五十文、馬百文で五分の一という安さだった。 助郷村は、たとえ一日の助郷でも、行きに一日、帰りに一日、計三日かかり、往復の費用は自分持ちで、一日分の低賃銭しか貰えない。
その上、助郷に使役される時期は農繁期が多い。
そうでなくても人手不足になりがちな村は、この時期に働き盛りの男手や馬を助郷にとられて、大きな傷手をこうむった。
種まき、刈入れは二、三日遅れても一年間の収穫にひびくため、農民にとって助郷は、年貢より厳しい取立てにさえ思われた。
助郷が農民からどんなに嫌われたか、次の一文によく出ている。
「上保谷の人々は昔テンマ(伝馬)といって名主の命令が下ると中仙道の板橋または川越街道の白子(しらこ)などへ荷かつぎ人夫として出ていった。(略)
板橋へ出るのはジョウスケ(定助)といい、当れば必ず出るのであったが、白子へ出るのはカスケ(加助)といって言い渡しの人数出なくても差支えなかった。
地所持ちが伝馬に徴発されたので、これにでるのがいやな者は地所を他人に譲ってまで勤めを逃れた。
当時保谷分八十三石を田無村へ無理やりゆずって名主はじめ人々は大いに喜びオブスナ(氏神)で一朱の神楽を催し、また一升につき百二十文のお神酒(みき)を買って飲み合ったという。」(『日本常民生活資料叢書』11巻・中村安五郎) |
このようなことで、各村から道中奉行所へ「助郷御免願」が出される。
場合によっては「願」がかなえられる村もあったが、大抵は却下された。
その「願」の一例に下記のようなものがある。
「 品川宿加助郷御免願
一、豊島郡角筈村名主組頭惣百姓申上げます。
五年前当村は品川宿加助郷にされる時、千駄ヶ谷村御焔硝蔵(火薬庫)欠付(かけつけ)人足に決り、昼夜通して勤めてまいりました。
宝暦元年新宮様(後桜町天皇か)江戸へお越しの時は願いが届けられず加助郷を勤めました。
御焔硝蔵欠付人足には一ヵ年延三千人余り勤めています。
この上加助郷仰せつかりましてはとても勤めかねます。何とぞ御赦免下さりませ。 (宝暦4・一七五四)」 |
これは内藤新宿の隣、角筈村の歎願書である。
しかし赦免されなかったので、最後手段として道中奉行所でなく、勘定奉行所へ連判証文を提出した。
その末尾には「私ども残らず相談しました結果、御取上げ下さるまでかわるがわる交替して御訴訟続けてまいります。
もしおとがめ(処罰)を受けましたら、その家族の者を村じゅうで面倒を見ていくっもりです」と捨身でかかっている。
連判であるからほとんど村人全員と思われ、源七、善六、仁蔵、又市、半六、忠八などという庶民的な名が記されている。
宝暦の頃にはもう「小前(こまえ)百姓」と呼ばれる底辺の農民の力が台頭してきているからであろうか。
その結果はわからないが、このような赦免運動はどの村でも起こった。
しかし助郷の悲惨さはもっとその奥にあった。
これら農民の不満を幕府に向けさせず、他へ転化させるのが、江戸幕府の常套手段であった。
密告制度を奨励し、農民同士憎しみ合わせたのもその例であるし、助郷制度もそれに似た手段をとった。
まず「宿場と助郷村とを対立させること」がそれである。
宿場は自分たちの負担を少しでも軽くするため、助郷村に人馬の供給数を多くさせる。
常備人馬の定数をそろえられない宿は、助郷村にそれを補なわせたが、常備数そろっていても、「囲い人馬」といって、それを全部使わないで予備に少し残しておく。
その分だけ助郷村のほうの数が多くなる。宿のほうはなるべく囲い人馬を多くしようとした。
また朱印人馬は無賃なので、宿側はなるべく朱印人馬を助郷村にやらせ、自分たちは賃銭が貰える駄賃人馬のほうをやろうとした。
駄賃人馬は、民間向けの、時の相場(相対賃銭)で稼ぐことができた。
助郷村のほうではこれらに対抗して、定助の時はできないが、加助の時は不参、遅参をして宿をいやがらせた。
このようなことが、宿と助郷村との争いの原因になった。
それからもう一つは「助郷村と助郷村との対立」である。助郷免除願を出して許可された村は休役できる。
しかしその場合、必ず「差村」といって、代りの村を指定しなければならない。
この差村は、あの村は自分の村より景気がいいからこの際、困らせてやれ、という手段にも使われた。
一定の助郷高によって助郷人馬の数が定まっているのであるから、休役した村の分を他の村が肩代りしなければならず、この場合二つの方法がとられる。
休役村の代りに、差村が勤める「代(だい)助郷」と、代助郷の村を決めないで、助郷村全部に休役村の分だけよけい負担させる「餘荷」(よない)とがある。
休役の村ができるとその分だけ他の村が重くなる。
幕府のほうはいっこうに損をしない仕組みになっている。
休役には五年、十年と期限があった。代助郷や餘荷の村が、その期限までは我慢して勤めるが、休役村の期限がくると、あの村は期限がきたから助郷に復帰させてくれ、と代助郷・餘荷の村々が一斉に奉行所に「願」を出す。
そこで休役村と代助郷・餘荷村の間に憎しみが嵩じる。
このようにどこまでも際限なく争いと憎しみが重なっていったのである。
最後に助郷村同士の争いを、中野村とその周辺の村の場合で見てみよう。
4 中野村の奮戦 top
五街道の中できわめて交通量の多いのは東海道と中山道で、東海道の宿場品川、中山道の宿場板橋との中間にある中野村周辺は、助郷の災禍(?)を最も受けやすい地域になっていた。
中野村は青梅街道石灰継立の第一宿駅として発足した村であり、中野村を宿駅として助郷村三十六ヵ村を持っていた。
元禄七年(一六九四)助郷制度が実施されると、三十六ヵ村の助郷村から、田端村(中野区)、成宗村、馬橋村、和田村(以上杉並区)の、たった四ヵ村に減らされてしまった。
さらに寛延元年(一七四八)、田端、成宗の二ヵ村は甲州道中高井戸宿の定助郷になり、中野村は二ヵ村の助郷しかなくなってしまった。
中野村の助郷運動はここから端を発した。
「先年より中野村、馬橋村、成宗村、田端村、和田村五ヵ村組合日々の御伝馬継立を行なってきました。
日光東照宮の御普請にはおびただしい御朱印人馬、御役人を、五ヵ村にて継立てました。
近年田安、一橋様御領知相渡されました時も、その外御旗本様御知行所、御代官様御用も、人馬御用相勤めました。
御焔硝調合場火付火消の重役も御用相勤めました。このたび田端、成宗村を外村より差村に御願いなされた由にて、右二ヵ村、外へ仰せつけられては中野村継立難儀いたします。
御慈悲を以てこの段御願申上げます。
寛延元年 中野村名主卯右衛門 」 |
この「願」は受入れられて、今まで通り四ヵ村を中野村の定助郷に置かれた。
しかし宝暦元年(一七五一)、高井戸宿の定助郷久ヶ山村(世田谷区)が困窮のため十ヵ年の休役を許可され、その代助郷として田端、成宗村が指定され、また中野村は馬橋、和田の二ヵ村になってしまった。
十六年後の明和四年(一七六七)、中野村は「諸手伝普請や宿駅の不時の継立が繁多になり、三ヵ村だけでは間に合わず、外から不足人馬を雇い入れて補充している。
そのため過分の費用がかかって困窮している。久ヶ山村はすでに休役の期限十年が過ぎて復役して、田端、成宗は明吉村となっているから、両村を中野村の定助に戻して貰いたい」旨願い入れ、それが受入れられて同年元通り四ヵ村定助郷になった。
それから三十六年後の享和三年(一八〇三)、今度は板橋宿助郷の高円寺村が休役を願い出て受入れられ、田端、成宗、馬橋、和田の四ヵ村が板橋宿の代助郷に指定された。
その四ヵ村はこぞって道中奉行所に、「高円寺村が私ども四ヵ村を差村にしましたが、私どもは前々より中野宿に勤めており、久ヶ山村の休役のため四ヵ村で御伝馬御用を勤めたため、つぶれ百姓も多く出ました。
私どもの村は人少なく川畑とも人手回らず明き地もでき困窮しています。
この上、高円寺の代助郷になりましては、道のり四里半もあり大変な過役になります。」と願い出た。
しかしこの「願」は受入れられず、この四ヵ村は、翌文化元年(一八〇四)より板橋宿の代助郷を命ぜられた。
そこで四ヵ村は「両宿の助郷では重役になる」といって中野村の助郷を断わり、板橋宿の専勤になった。
怒った中野村は「四ヵ村を自分の宿の定助にもしておいて下さい」と願い出たため、中野村と四ヵ村の争論が起こった。
中野村が勝ち、四ヵ村は屈服して中野村の定助郷も勤めることになった。
しかし、また面倒なことが起った。 |

中野塔(江戸名所図会より)
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約四十年後の天保十三年(一八四二)三月、甲州道中の高井戸宿が、駅伝業務繁多なため困窮したといって、中野村そのほかを差村に指定して奉行所に願い出たことだった。
「宿駅であるのにその宿駅自体を差村にするとは何事か」と中野村はさっそく奉行所に願い出た。「御鷹場役所の御用は、一ヵ年平均三千人を使い、全部村役で、お互いに精々教訓し合いなぐさめ合って、差支えないよう勤めてきました。この上高井戸宿助郷に仰せつかっては難儀至極に存じます」。
しかしこの「願」は受入れられず、年寄伝兵衛、組頭半助は奉行所に呼ばれ、この願書の取下げを説諭された。
中野村と同じく高井戸宿から差村指定を受けた田無村も、差村免除を願い出て、中野村と同様却下されたがあきらめず、代官所に願書再提出の助けを求めた。このことを聞き込んだ中野村も、今度は全く方向をかえで御鷹場役所に再願した。
鷹場役所は助郷についての権限は全く持っておらず、効果はなかった。
村民の悲歎を見るにしのびず、伝兵衛、半助は道中奉行跡部能登守に直接訴えようと、同年三月末日、二人は能登守のお駕籠(かご)に直訴(駕籠訴)した。
しかし奉行所は頑としてこれを受入れず、翌天保十四年一月から、四ヵ村とともに高井戸宿の助郷を勤めるよう命じた。
同年天保十四年は、家康の二百二十八回忌、家光の百八十三回忌に当たり、時の将軍家斉の「日光社参」は華美をきわめ、大がかりな旅行となった。
このため中野村はまた、板橋宿の代助郷をも命ぜられた。
これで中野村は、青梅街道宿駅の役目と、中山、甲州両街道の二つの宿場の助郷になることになる。
この大がかりな日光社参で、多数の村が助郷に動員された状勢もあってか、中野村はあえて反対はしなかったが、「かって明和二年(一七六五)板橋宿へ勤めた時の古い助郷高でお願いしたい」旨願いを出した。
助郷高はだんだん上がって、従って指定人馬の数もそれによって多くなっている。
古い割当てでやって欲しいと願ったのだったが、これも聞入れられなかった。
奉行所から「今は化法も変っている。脇往還の宿駅でも勤められないはずはない」と懇諭された。
中野村はしかたなく新しい助郷高の割当てに従った。
伝馬役引き受けの際、村から差し出す「請書」に「脇往還に候共、勤方に差支え之無く相勤打べき旨仰せ聞かされ、承伏奉り候、此度の儀は御用人馬相勤め候様仕るべく候」と書き記した。
刃折れ矢尽きた観がある。「承伏」の二字に万感の思いをこめたであろう。
徳川十一代将軍家斉の日光社参を上回る、中山道始まって以来最大の道中と語り継がれてきたものに、文久元年(一八六一)の皇女和宮(かずのみや)の降嫁がある。
これに伴って中山道の助郷は、六十六宿の各宿場、定助郷の村、それに宿場から遠い加助郷、代助郷の村など一宿場につき二十〜三十の助郷村があったと仮定して、約二千に近い村々が動員されたことになる。
どの村も困窮の村でないはずはない。中野村の助郷の災禍は、その氷山の一角であった。
八章 石灰村騒動記 top
1 争う組頭たち
石灰生産地は青梅北部の成木(なりき)村、北小曽木(おそき)村の二ヵ村と、のち高麗郡直竹(なおたけ)村(埼玉県)が加わって三ヵ村となった。
成木村は江戸中期、上成木村と下成木村の二つに分れた。下成木村は全く石灰を生産しない。
成木郷は、青梅の町から幾つもの山脈、特に吹上峠という険しい峠にさえぎられていて、青梅の生活圏、経済圏から取残された山村であった。
今でも交通の便は悪く、青梅から上成木へのバスが最近やっと一時間に一本通じるようになった所である。
久道(上成木村)から成木川に沿った道をさかのぼっていくと、平担な土地はほとんどなく、わずかな畑が山すそから中腹にかけて耕されている。 |
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ところどころ山が川まで迫り、江戸時代には人がやっと通れるくらいの道が川縁にあったかと思われる。
東へ流れる成木川に沿った道筋は、今では人家がまばらであるが、江戸時代はいくつもの人家が寄り集まって、不自由な生活をしていたものであろう。
この静かな山村は、江戸時代、実に百二十年の長きにわたって騷動が繰返された不運の村であった。
川口家(青梅市上成木下分)に残る古文書を収録した『青梅市史史科集』15号(滝沢博編)から事件の経緯をたどってみる。
*
最初の騒動は享保十三年(一七二八)に起こる。
名主役をめぐる組頭(村役人の一つ、名主の補助役)同士の争いであった。
石灰生産に絶対的な権力をもっていたのは窯主である。
窯主は、山から石灰岩を切出し、燃料を集め、それを製品にして取継ぎ場へ集めて輸送するまで、延べ三千人以上動員して賃銭を支払い、多額な資金を調達し、配下の農民を差配した。
窯主は政治力、経営能力の備わった人物であったろう。
享保の初め頃、窯主は二十一人いた。彼らは力を持っていたので、村の名主や組頭などを自然と兼任するようになった。
それゆえに上成木村は他村にくらべて組頭の数が多い。
名主は「旧家百姓次右衛門(木崎氏)、村の里正(りせい、名主)なり」(『新編武蔵風土記稿』文政7〜11)というように、草分(くさわけ)窯主三家の一人木崎本家(大蔵野−土成木村の字名)の世襲であった。
しかし享保の初め頃から互角の力を持つようになった他の窯主兼組頭と名主役を一年交替(年番名主)でするようになった。
享保三年(一七一八)、名主木崎次右衛門に川口源兵衛が加わって、名主が二人になった。
ところが享保九年(一七二四)、石代金を横領したかどで、川口源兵衛は農民より訴えられて、名主役も窯も取上げられてしまった。
源兵衛に代る名主は他の組頭の半兵衛、庄兵衛、五郎左衛門、市郎兵衛による年番となった。
名主を迫われたことに恨みを抱いた川口源兵衛は、彼ら名主たちへの報復を考え、四年後の享保十三年(一七二八)、源兵衛は代官所に彼らを訴えた。
これが長い騒動の発端となった。
〔享保十三年の騒動〕
川口源兵衛が訴えた内容は「年貢の上納に不正がある」というものである。
このあたりの年貢は、本途成(ほんどなり、米)の外に小物成として漆、綿などを金に換えて納めていた。
この換金した税額が、村民から集めた額より、代官所へ納めた額のほうが少ない。名主が利ザヤをとったのではないかというのである。
これに対して十人の組頭は、源兵衛のいうことはでたらめである。多くの百姓がみんなそのため迷惑を受けている、と非難した。
両方より訴訟を受けた代官萩原源八郎役所は、源兵衛にもう一度詳しく報告するよう申し付けた。
それまで四年間、名主の行動を執拗に追い続けた源兵衛の報告書には、年貢納入をめぐる不正と思われる点が、二十六条にわたって細々と書き綴られていた。
「一、漆三十ぱい半納めるところを三十一ぱい徴収した。取立帳はいつわっている。
一、綿目は一貫八百八十二匁納めるところ、一貫八百六十九匁だけ納めた。十三匁とりすぎている。
一、本途米は四か年で二石四升二合八才とりすぎている。
一、去年七月洪水後、土砂の取払い料として銭一貫三百十二文集めたが、その土砂の取払いはしていない。
年番名主市郎兵衛と組頭五郎左衛門が着服したのではないか。
一、去年十二月の鹿狩で役人が村ヘー泊した時、村の費用にと米四俵、銭にして十七貫百五文くれたが、困窮者へ支給していない。
市郎兵衛、五郎左衛門、源左衛門を詮議してもらいたい。 (略) 」 |
源兵衛の攻撃の対象は年番名主、組頭たちで、特に市郎兵衛、五郎左衛門に集中攻撃を加えている。
組頭十人(年番名主グループで、名主にならない時は組頭でいる)と、年寄と惣百姓二十五人は、この報告書の項目に対し一つ一つ反論し、源兵衛の報告のほうが計算違いで、源兵衛のほうこそ御吟味願いたいと申し出た。
惣百姓の名が連ねているが、主に市郎兵衛、五郎左衛門が書いたものでろう。
江戸時代の年貢の計算は複雑をきわめた。
物納、金納の二つあり、金納の場合、貨弊の種類が金・銀・銭の三通りあり、両替相場の変動によって、その都度計算が異なる。
また銀以外は十進法でないので、一度銀単位に換算してまた金・銭の数字に戻す。それからいろいろな免除分を差引く。
どんな計算の達人でも間違えたり、他から疑心を抱かれたりすることがあった。
従って年貢計算を攻撃材料にすればいくらでもできたのである。
この争いはその年の暮まで続き、結着がつかないうちに年が明けた。源兵衛の望みは、元の通り名主役に復帰し、窯をとり返すことだった。
翌十四年四月、年老いた源兵衛に代って、息子の弥五郎が代官所に願い出た。
「五年前取上げられた窯を半窯でよいから戻していただきたい、もし願いを叶えて下されば、運上白土を差上げ、御用をきちんと勤めます」。
弥五郎は根気よく同文の歎願書を出し続けたようで、萩原代官所は、仲介者として上成木村上分、北小曽木村の村役人を使わせ、
「弥五郎がたびたび願いを言ってくるので、窯主仲間に入れるよう相談せよ」と組頭たちに命じた。
彼らは「窯主たちはつぶれ窯の分も含めて上納している。
それらの掟を守り、窯主たちに迷惑をかけなければ仲間に入れてやってもよい」ということになり、川口家は六年ぶりで窯主に復帰できた。
〔元文四年(一七三九)の騒動〕
それから八年たち、この時の年番名主は加兵衛であった。
年番名主は一年任期が終ったら、次期名主に年貢関係、村関係の書類を渡さなければならず、それをを加兵衛がしないというのである。
訴えた者は次期年番名主川口弥五郎と、他の組頭十二人であった。村人の手前もあり、加兵衛は不承々々渡したらしい。
それから約十年たった寛延三年(一七五〇)、組頭の次郎兵衛たちが、名主川口弥五郎を訴えた。
「年貢を代官所へ上納するのを引き延し、村入用の処理も翌年までしなかった」というのである。
それから二年後、弥五郎が年番名主になった次郎兵衛へ反駁した。
「納入を引延したというのはウソである。納めた受取書もあり、日付も書かれている。次郎兵衛のほうを御吟味して下さい」という。
〔明和四年(一七六七)の騒動〕
それから十五年後、常に争いの渦中にあった川口弥五郎に決定的な終末が来た。
事件の内容はよくわからないが、ただ「上成木弥五郎儀石灰一件御吟味ニ付当月十三日入牢被仰付候」という。
もちろん誰かが訴えたのであろう。御用白土と呼ばれる石灰であるから、処罰は厳しかったのかもしれない。
ともかく弥五郎は不法行為を犯したがどで入牢させられた。
川口弥五郎を支持する農民藤蔵ほか二十人が奉行所に出牢を歎願した。
しかしこの願いは受入れられず、奉行所から役人が来て、川口弥五郎の田畑屋敷、所持品一切を取上げた。
一家は離散したものか、老母一人だけが残ったため、親類の者が見かねて「老母のために土蔵とかまどだけでもお与え下さい」と代官所へ歎願した。
その後弥五郎は牢死したのか、老母も病死したのか、それからの事件に弥五郎の名はいっさい出てこない。
2 競争石灰の出現 top
上成木村のほぼ中央は、成木川と小曽木川とが合流する地点で、落合と呼ばれている。
上成木村はこの落合を境に、川上と川下の二つに分かれている。
川下の八子谷(やこや)、天ヶ指(あまがさす)、大蔵野、二本竹あたりは川沿いに平地がひろがり、豊富な水に恵まれ、広く田畑が耕された。
後背は小さな丘陵が重なり、薪や材木にこと欠かない。
雨季にたまたま襲う川の氾濫さえなければ、まさしく桃源境を思わせるたたずまいが、今でもひろがっている。
村の名門木崎氏や旧家といわれる家の祖先は、川下の大蔵野あたりに住みつき、古くから農耕を営なんできたものであろう。
江戸期に入ってにわかに石灰生産を命ぜられたこの小さな村は、急速に様相を変えた。 |

青梅市成木・大蔵野の風景
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木崎家は、川上の石採場の近くに窯をしつらえ、大勢の使用人を使い、石灰作りを営なんだ。
それに続いて川下の富裕な農家も、川下に居を構えたまま、川上に窯を作って石灰生産を指令していたものであろう。
石灰の需要がしだいに増えると、石灰の値段は一両につき十四石だったのが、一躍十倍の一両につき一石四斗になった。
そのため寛文期にはついに三十五窯になった。
旧窯主はこれ以上増えるのを怖れて、窯主を十八名に制限してもらいたいと幕府に願い出た。
しかし寛文以後も続々と石灰焼が増えていった。
石灰焼は多数の人夫を必要としたので、窯が増えるたびに人夫の数も増加した。
これら人夫は、石採場および窯場がある川上の滝成、所久保、梅ヶ平あたりに住んだものと思われる。
耕地がほとんどない川上地域は、他村に例を見ない異常な人口密集地となった。
『新編武蔵風土記稿』から現青梅市域にある三十九ヵ村の戸数と石高を調べてみると、平均戸数は一ヵ村七十二・五戸であるが、上成木村は二百三十八戸と最も多く、二位の今井村百五十戸を大きく引離している。
石高のほうは上成木村四百五十九石で五位。同じ石高を持つ下師岡村の戸数はたった四十五戸。これてみても上成木村はいかに高い人口密度だったかがわかる。
しかも上成木村でもこれら人夫たちは川上方面に集中していたから、局部的にはもっと高い密度になっていたわけである。
需要が増え、成木石灰が好景気のうちは、人口が多くても何とか暮せていけたが、元禄期を境にだんだんと振わなくなっていった。
成木石灰が独占していた江戸市場に、新しく競争相手が出現したからである。
最初の強敵は、享保年間に出来た江戸本所深川(江東区)の「蛎殼(かきがら)灰」である。
これは貝がらを焼いて粉末にしたもので、質は石灰とほとんどかわらない。
工程が石灰よりずっと簡単で、佃島(つくだじま)の囚人を使って焼いていたため、人件費はゼロであった。
従って人気は廉価な蛎殼灰に集まっていった。
幕府は成木石灰を保護するために、蛎殼灰に重税をしたが、蛎殼灰の販売勢力に抗しきれず、成木石灰はしだいに押され気味になってきた。
次に現れたのが寛延年間、下野(しもつけ、栃木県)の佐野で焼き出された「野州石灰」である。
そして安永年間には上州(群馬県) 「下仁田の石灰」も出た。
幕府はそのたびに成木の保護策として他の石灰に制限や統制を加えたが、いずれも不徹底に終った。
安永四年(一七七五)、成木、野州、蛎殼の三者による会所(取引所)を設立し、最後の対抗策をうったが、水野忠邦の天保改革で江戸株仲間解散に伴ってギルドが廃止され、ついに成木石灰は幕府の保護下から自由競争の波にあらわれていった。
それに追い打ちをかけるように、常州、江州、濃州の石灰が出現し、成木石灰は衰退の一途をたどった。
一時三十五窯あった成木石灰の窯も、しだいにつぶれていく。
蛎殼灰の出現した享保年間に八窯がつぶれ、寛延年間は「つぶれが窯増加した」という。
それは野州石灰の出現と同じ時期である。
享保十三年に始まる上成木騒動は、これらの時期とぴったり一致する。石灰の売れ行きが悪くなって、窯主相互の利害の対立が表面化したのである。
窯主で組頭であり、最初の年番名主になったのが、落合から少し川上にある久道に住む川口源兵衛家であった。
この一家は、他の組頭よりぬきんでていたものか、成木川、小曽木川の合流地点に近く、石灰継立場という有利な地理的条件に恵まれたためか、木崎その他古参の窯主か多く住んでいる川下の組頭だちから、何かとうとんぜられていたのであろう。
どうしても名主役を川口家に渡したくない気運が、川下の組頭たちにあった。
川口親子排斥が表面化してきたのは、蛎殼灰が仲間結成した年(享保14)の前年であった。
川口一家の欠所(明和4・一七六七)によって、組頭同士の対立は終ったかに見えたが、後半の騒動は成木石灰の衰退に伴なって更に深刻化し、川上の石灰渡世に頼っていた人たちと、石灰に頼らなくても山林、田畑を多く持っている川下の富裕百姓、後半の文書では「田持百姓」と誇り高く自称するグループとの、ぬきさしならない生存権の闘争へと発展していく。
3 田持百姓対食いつめ百姓 top
〔天明六年(一七八六)の騒動〕
大蔵野の下流の成木川はさらに黒沢川と合流し、その付近から大蔵野あたりまで、雨季にしばしば氾濫した。
天明六年七月にも氾濫して被害を受けたので、村は幕府に願って検分して貰い、二十両という多額の「御普請金」を貰った。
これは村民全員に分けるべきものだったが、年番名主源兵衛(前騒動の川口源兵衛とは別人、木崎氏か)、休番名主久兵衛、平兵衛の三人は、三十人(川下グループ)だけに分配し、残金を手元に残した。
これを不服とした川上の小前百姓たちは
「何度も名主らに申入れたが取り合ってくれない。近年不作続きで夫食に差支え困っている。御普請金を貰えば麦を作り、露命をつないでいける」と代官所へ訴えた。
代官所の取調べを受けた名主らは、それに相違ないことを認めた。拝嶋村(昭島市)の村役人が仲に入って三人を説得し、小前百姓九十四人(川上の石灰労働者グループ)へ議定書をしたため、十一月に三人とも退役した。
しかし事件はこれで済んだわけではなかった。
むしろこれが発火点となり、名主らについていた田持百姓三十人側は激怒した。
彼らは、氾濫があったのは川下で、自分たちの持っている川下の田畑が被害を受けたのだ、川上の者とは関係がない。
名主や次期名主がやめさせられて、新しい名主に従うのは耐えがたい、と主張した。
三十人のうち十四人の過激派から、惣助、要助の二人が連名の訴状を持って、萩原源八郎代官へ、駕籠訴の挙に出た。
捕えられた二人は手鎖の刑を受け、三十人側は、普請金残金を九十四人側へ手渡すことになり、しかも
「違乱がましき儀は申すまじく候、名主、組頭退役致され候上は、諸役の儀は九十四人に従い、一同相談つかまつるべく候」と一札証文を書かされ、全面降伏した。
しかしその後三十人側は同仲間の名主源兵衛、組頭久兵衛が退役せず、駕籠訴をした惣助、要助も証文に判を押さず、普請金も九十四人側へ渡さなかった。
彼ら三十人側は寺へ集まって昼夜酒を飲み、餅を食い、あくまで九十四人側と対抗しようと気勢をあげた。
九十四人側はまた訴状を代官所へ出した。
三十人側は再度取調べを受けた上、代官所から「普請金を必ず九十四人へ渡す。その上、事件でかかった費用は一日三百五十文の計算で九十四人に渡す」と命ぜられた。
新名主の選出は、江戸の郷宿(村役人が公用で泊る指定の宿泊所)で再び拝嶋の村役人の立ち合いの元で「入札」(選挙)をし、開票は代官所の役人にやってもらおう、ということになった。
代官所から役人が出向き、開票した結果、札数百二十八枚のうち九十枚が組頭川口弥次郎へ入った。
もちろんこれは九十四人側が入れたものであろう。彼らが数の上では圧倒的に多いのだから当然の結果で、弥次郎が新名主と決まった。
天明八年(一七八八)三月、「一同得心の上、名主役願書連判等も相整い候上は、双方とも申分御座無く村中一統和解の内済仕つり、単(ひと)へに御威光を有難き仕合せに存じ奉り候、然る上は以来右一件につき双方より御願いの筋毛頭御座無く候」という三十人、九十四人の両者が証文をしたためた。
その証文には。源兵衛の息子三悦、久兵衛の息子藤五郎、平兵衛の代理要助、九十四人側も当事者たちの息子が名を連ねた。
しかし、闘魂と怨念はそのまま息子たちに継がれていった。
川口弥次郎が名主着任後、三十人側はいっそう不満をつのらせていった。
〔寛政六年(一七九四)の騒動〕
それから八年後、また田持三十人側の一人、惣助が「弥次郎は最近、村のことをかえり見ず、私利私欲のため諸事取計っている。彼を退役させ、元通り組頭十一人を年番名主にして欲しい」という訴状を出した。
代官所が調べた結果、弥次郎には非がなく、三十人側かまた詫び状を書かなければならなくなった。
〔嘉永三年(一八五〇)の騒動〕
名主には川口弥次郎(二代目)の子、紋三郎がなっていたが、若年という理由で、平七という者と一年交替で勤めることになっていた。
この嘉永三年は平七が名主であった。
平七に反感をもっていた川下の組頭勝三郎は、同年春、
「大蔵野の共有林を平七が勝手に売り払ってしまった」という駆込訴をやった。
勝三郎はこのため組頭をやめさせられたが、今度は川口弥次郎・紋三郎親子と平七の間がうまくいかなくなり、両方から訴訟のやりとりがなされた。
平七は勝五郎と同じ理由で、「弥次郎親子が共有林の雑木を伐って売り払った。久道のつぶれ百姓の跡地を弥次郎が横領した」と訴えた。
同年八月、地頭所から裁許が下った。上成木村は二十年前から旗本知行地になり、代官所に代って地頭所の扱いになったが、昔からのいきさつをよく知らない地頭所の処置は、意外と厳しいものだった。
平七には「弥次郎の横領とかを数々申立てたが証拠がない。とりとめもないことを訴えて地頭所へ迷惑をかけた。不埒につき宿預け」。
弥次郎・紋三郎には「つぶれ百姓跡地を、勝手に名儀を変え、名主勤め中、地頭所へ挨拶にも来ず、不埒につき苗字帯刀残らず取り上げ候」と喧嘩両成敗で一件落着となった。
これでひとまず上成木村騒動は終っている。
*
上成木村の、村の取決めの中で次のような文書がある。
「当村田畑肥之儀(ごえのぎ)秣(まぐさ)山尤候(もっとも)百姓持林下草苅肥(しみくさかりごえ)ニ仕来り申候
秣山之義ハ当林之内字二本竹大蔵野天ヶ指八子屋四ヶ所(川下地域)之百姓ニ而株苅り申候
戌十月廿七日 (名前略) 」 |
山には村の共有林のほかに、個人所有の「百姓持林」がある。
百姓持林は川下の二本竹、大蔵野、天ヶ指、八子谷のものであるから、川上の者は入ってはならぬ、という村の取決めは、川上、川下の経済的地位の格差を表わしている。
石灰の不振で、夫食や山の燃料など、何かにつけて苦情を訴える川上の住民たちへの、川下の住民の排他性が、後半の騒動の基因をなしていたものと思われる。
4 成木石灰の敗退 top
成木石灰が、自由競争の中でなぜ敗退していったか――。安政三年(一八五六)の江戸入津物資量は、蛎殼灰がトップをきって二十八万三千俵、二位野州石灰五万七千俵、八王子石灰(成木石灰)は五位で、一万一千俵しか入っていない(『千代田区史』)。
江戸は急速に発展し、上方からの物資輸送に頼り、人口がどんどん増えた。
大量の物資が大坂から海上輸送で運ばれるようになると、江戸日本橋川、京橋川(中央区)を中心とする河岸地が、海川輸送の集散地となった。
しかし、江戸時代中頃からようやく関東農村の生産が高まり、江戸市場に流入する「地廻り物」(関東の生産物)が増えて、下り物(上方からの輸入品)と対抗するようになる。さらに地廻り物の増加を促進したのが、流通網の発達である。
公用である年貢米の輸送路だった利根川の水運が、元禄期ごろからしだいに整備され、民間輸送も増え始めた。
地廻り物の増加は、利根川水運の発達と深い関係がある。
上州石灰(群馬・下仁田)、野州石灰(栃木・佐野)は、ともに利根川水系の輸送路の拠点にある。
常州石灰(茨城・日立)は那珂湊を出て銚子から利根川を遡流してきたものか。
日本橋川付近の河岸には、それぞれの商品を専問に取扱う問屋が集中した。
商品の販売が独占されてくると、民間向け石灰も特定商人の扱うところとなった。
蛎殼灰は関西出身の商人によって売り込まれたという。
成木石灰は、旧窯主は幕府から拝借金を受けていたが、新窯主にはそれができないので、資金の調達には、江戸河岸地の有力商人の力を借りた。
新窯主の一人、太郎兵衛という者は、馬喰町(中央区)の三川屋勘兵衛、大伝馬町(中央区)の赤塚屋平兵衛という商人を金主にした(元禄七年)。
「御用」として幕府に頼る旧窯主と、商人の経済力に頼る新窯主との対立、旧窯主の新窯主への排他性が、上成木村の前半の「組頭間の争い」の大きな原因になっているのであろう。
青梅街道を継立てによる御用石灰の輸送と販売ルートは、しだいに衰微の一途をたどっていった。
それに代って、成木石灰の中の民間向け石灰は、川越の五河岸から発する新河岸川を通って、日本橋河岸地箱崎町へ直行するルートが使われ出した(元禄期)。
石灰は川越五河岸のうち、扇河岸(または上河岸)の廻漕問屋の扱うところとなった。
川越扇河岸まで石灰を輸送するには、表川村(青梅市)から加治丘陵の麓の通り(根通り)を経て、二十キロも馬で行かなければならない。
朱印人馬の運送は無賃であったが、扇河岸への民間輸送は窯主持ちである。
新河岸川の舟賃は川越から江戸箱崎町まで、天保の頃石灰一俵十二文であるのに対し、陸送は上成木から扇河岸まで一駄(二俵)千百六十文となった(天保期、日当は馬一頭五百文、馬士一百五十文で、所要日数二日とし、馬三頭に馬士一人として計算)。 |
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一部安い川輸送にしても、陸送費は窯主にとって大きな負担となった。
他の地迴り物の石灰に比べて、輸送の不便さ、高い陸送費であったことが、成木石灰の敗退の大きな原因である。
しかしそれよりももっと大きな原因は、村民の団結性を欠いたことにあろう。
*
上成木村は、このような争いを百二十年近くも繰返し続けている間、時代は刻々と変っていった。
最後の騒動のあった嘉永三年は、明治維新から約二十前であり、外国船が日本近海に出没し、その二年後はロシア船が下田港に来ている。
近代に向かって胎動し始めている時期であった。
幾重にもつらなる山並の奥の上成木村の村民たちは、目を外に向けるすべもなく、同じ村民同士が、互いに憎しみ合い、ひっぱり合い、一生のすべてを賭けて子々孫々まで戦い続けたのだった。
*
成木石灰の衰退に伴なって、青梅街道も変貌した。
石灰輸送が少なくなると、箱根ヶ崎から小川村までの街道は、切添新田の中で人家が少なく、自然、廃道になっていった。狭山丘陵南麓の村道であった「清戸道」がそれにとって代り、丘陵東端の奈良橋(東大和市)から南に向かって現在の東大和駅地点へ「山口道」と呼ばれた道(現南街通り)をつなげた新しい青梅街道ができた。
直線の産業道路は、大きく曲折する道となって今日に至っている。
九章 青梅の市(いち)のにぎわい
top
1 青梅の宿
青梅の宿は 長いしゅく 長いとて
物干し竿にゃ なあるまい
武蔵野台地の西のはて、奥多摩の山並が目前に拡がり、多摩川の段丘に細長くびっしり商店が並ぶ青梅の町は、青梅街道で一番古くから開けた所である。
江戸の初めのころ、川沿いの道から山沿いに道が移り、西のはずれに関東代官大久保長安の「森下陣屋」が置かれ、元禄ごろには既に町と呼ばれていた。
御岳山(みたけさん)、日原(にっぱら)一石山への講中、小河内(おごうち)鶴の湯への遊山客、行商人といった人たちが行き交い、宿をとり、月に二、七の六斉市が開かれてにぎわった。
御岳山の一神官の書いた道中記「御岳菅笠」(天保5)には、 |


天保5年御嶽菅笠に描かれた青梅宿
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「新町すぎて法の花淋しき原を唱ふれば 一巻ならぬ六万部薬師如来を伏しおがみ乗願寺をも打ちすぎて 数多の敵に勝沼の休みの茶屋は坂上屋夏冬ともに色替ぬ 青梅の町の泊りやの数ある中をみわたせば 下は伊丸屋蔦(つた)屋とて世に名のしるき青梅縞 中は高田屋北島屋角屋の前をうちすぎて 上は大和屋石川屋……」と幾分宣伝料を貰ったかと思われる文がある。
青梅の宿というのは、現在の国鉄青梅線青梅駅をはさんだ東西約一・五キロの通りで、『新編武蔵風土記稿』(文政7)には、「東西十五町余り南北五町程、村の中央東西への往還一条東西へ貫き、民戸四百二十軒余、大低簷(のき)を並べた左右に連綿し、又は他所にも散在せり」と書かれてある。
一・五キロほどの間に、四百二十軒もあったというから、狐やイタチがいて、昼でも追はぎが出たという青梅街道をたどってくれば、目を見張るほど華やかで賑やかな町であったろう。
三百年たった今日でも、その情景は変らない。
畑を突きぬけた幅広い街道の先に、青梅の町の活気がうずまいている。
現在青梅市と呼ばれる広い市域は、江戸時代は三十九ヵ村に分かれ、それぞれ調布郷、霞郷、吉野郷、三田郷、小曽木郷、成木郷の各ブロックにまとまっていた。
主な特産物は「青梅稿」「青梅材」「石灰」などであるが、特に青梅宿と密接な関係があるのは青梅縞であった。
*
八世紀の初め、関東各地と駿河、甲斐の諸国にいた高麗(こま)の帰化人を集めて武蔵国に移し、高麗郡(埼玉県)を置いた。
その後高麗郡の周辺の秩父郡(埼玉県)や多摩郡に、帰化人が大陸文化の織物をひろめたという。
織った布を清冽な水でさらすに便利な多摩川沿岸は、土地の産物を朝廷に納める「調」としての布を献上したところから「調布」の名がつけられた。
調布郷は現在の千ヶ瀬(ちがせ)、長淵(ながぶち)、駒木野(こまぎの)、日向和田(ひなたわだ)である。
初めの頃は、農閑期に女が自家用の布を織るだけだったが、しだいに多く作られていった。
江戸後期には地廻り物が盛んになり、青梅縞は江戸でもかなり名が知られるようになった。
江戸末期には一段と生産が伸び、青梅市では「御府内又は諸国より入りこみ候ものは、近辺の商人どもの手に渡され、所沢、八王子、川越、江戸表、京都、大坂まで」売り出されたという。
「寛政(一七八九−一八〇〇)の頃、はじめて工夫し製作された。
その頃は地元で木綿を植えつけ、自分で糸に製し、下機あし(いざり機)という機械で織った。
天保(一八三〇〜一八四三)の頃にだんだん進歩し、木綿材料不足になったので、常陸国北条の糸を購入して織った。
その頃は高機あし(腰かけて織る機)という機械が発明され、一般に使われだした。
立糸は北条の糸、横糸は地元の糸で織ったので、昔のものとは異なり、保ち方よく、たびたび洗っても色替ることなく…」と、上長淵村の中村家文書(『青梅市史・史料集』)に書かれている。
青梅の宿で機織れば 若い衆が窓から 小石投げ込む
青梅の宿で機織れば 機織れば若い衆が 文投げる
(『ふるさとの唄』以下の引用唄は同書より)
という青梅機織唄が歌われるようになった。
2 青梅縞市(おうめしまいち)
top
江戸幕府は、寺や市を新しくつくることを禁じていた。
もし必要とあれば、どこかの寺から引寺したり、どこかの市を貰い受けなければならない。
新町を作った吉野織部之助は、新町村の将来に備えて、市ができるよう地割も工夫した。 村から一キロほど北にある藤橋村の七日と十七日の市日を貰った。
織部之助の死後、新町村の市日は、十七日には青梅に市がたつので二十七日に替え、七日、二十七日と四日、十四日、十九日、二十四日が加わって六斉市となった。
新町村から西方二キロ離れた青梅村も六斉市だった。十八世紀後半には、青梅の市はほとんどが縞になっていた。
市日は二日、五日、十二日、十七日、二十二日、二十五日である。
機はまだいざり機で、木綿一反を織るのに四〜五日かかった。 |

昭和37年11月木崎イシ氏が実演した地機
(青梅市郷土博物館提供)
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近在の農家が一軒で、雇人一人加えて四、五日で二反織り、青梅の市に集められて取引される。
本来市は四、五日おきの間隔にうまく合うようになっていた。
しかし二日、五日の間と、二十二日、二十五日の間は三日しかなく、反物が間に合わない。
青梅側の言い分では、元々青梅は二七(にしち)の市で、七日と二十七日が新町にとられてしまったので、止むなく五日、二十五日になってしまったのだという。
市を円滑に運営するために、この両日を新町から返してもらいたい、と青梅の村役人が奉行所へ願い出た。
そこで「藤橋から貰った」という新町と対立したが、奉行所の裁決は、今まで通り、ということになった。
青梅はこれを不服とし、天保三年(一八三二)また歎願書を出した。
「十五日と二十五日の市は反物が間に合わず、機屋や仲買人も品物を持ち出せず、この両日は市が立ちません。
自然と四日の市しか行なわれないようになりました。
この成行では市の利益が減ってしまい、暮し向きにも、御年貢上納にも差支えます」。
これに対して新町も反駁し、代官所へ陳情したので、青梅もまた訴願した。
奉行所、代官所あての請願、訴訟が両方から盛んに出された。代官や配下の役人が現地へ来て調べた結果、
「新町村は明細帳に七、二十七日と書かれてあるが、藤橋から譲り受けたという証拠はない。
五、二十五日に改めるように。訴訟方の青梅町は七、二十七日を認める」ということになった。
この二つの町村には、背後にそれぞれ多数の村々が支援していた。
青梅町のほうは、南小曽木、富岡、下成木、沢井、川井、永川、河内などの二十二ヵ村で、奥多摩方面の山岳地帯である。
新町村のほうは、富士山、栗原の各新田と、羽村、福生など十九ヵ村の平野地帯である。
それぞれの市に出荷し、その市によって収入を得ている村々であった。
こうして新町の市を駆遂して、名実ともに二七の市が開かれた青梅縞市は再発足した(天保2)。
このような在方市同士の争いは、ちょうど地廻り物が出回り出した関東各地に多数起った。
近い所では五日市と伊奈との争いが天保三年に起っている。
またこの天保期は織機の革命期で、従来の下機あしから高機あしが導入され、下機あしでは一人で一反が四〜五日かかったものが、高機あしは、一人で一日一反織れるようになった。
青梅縞の生産量が増えた頃は、江戸の問屋のほうも販売競争が激しくなっていた
。問屋が直接在方市へ赴き、買宿、出店を置き、また地元の仲買人に集荷資金を貸しつけ、仕入れの独占を計った。
江戸の三井の向店(むかいだな、出店)が、青梅で織物を買い集める買役や買宿のことを取り決めた「青梅買方式目」をつくり、産地の買付を強化してきたのが、青梅と新町の市争いの最中、天保元年(一八三〇)であった。
こうして青梅縞市は、江戸と直接結ばれ、江戸の問屋の支配を受けながら、特産物の出荷市となっていった(『江戸地廻り経済の展開』伊藤好一著)。
新町と市争いで青梅が勝訴したのは、このようないきさつがあり、江戸からみて、縞市新町より、特産品出荷市青梅を活かすほうが有利であったことはいうまでもない。
町方の商人も生産地の村々も、相互に規制し合い、叱咤し合い、縞増産ひと筋に向かっていった。
どのくらい織ったか、どのくらいの収入になったか、などの統計的な数字はなかなか見当たらないので、時代や地域をひろげて類推してみる。
時代は大分下るが、明治十年の『皇国地誌』でみると、各村の生産量は、
青梅町 一五・八〇〇反
日向和田村 三・〇〇〇反
干ケ瀬村 二八・〇〇〇反
下長淵村 一〇・六五五反
上長淵村 一四八・六〇〇反
駒木野村 七・二〇〇反
天保期から四十年もたっているとはいえ、生産量は驚くべきものである。上長淵村は青梅町の約十倍である。
江戸末期の各村の生産量の比率も大体このようなものであったろう。
戸数百二戸の上長淵村では、近在の娘をかり集め、フル回転で身を粉にして織り続けたに違いない。 |

文化文政期に織られた青梅縞
(稲葉松三郎氏蔵・青梅市郷土博物館提供)
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日機(ひばた)織れなきゃ 岡部の嫁にゃ しょせんなれない およばない
(日機=一人一日一反織ること)
機織りゃよけれど 月六斉の 市の前の晩が 苦労になる
生産量をあげるために、無理やごまかしもでてきた。
「最近布の丈幅が規定より不足の品が出回って諸国売り先に評判が悪い。
青梅縞丈何寸、太物無地は丈何寸、幅何寸、木綿織物は……の規定を正しく守り、利益のみ追わず実意専一に心がければ、売さばきよろしく商売繁昌は目前である。
充分気をつけ下されよ」と仲買人から村々の織屋へ注意をうながしている。
市の運営は「株仲間」として結束した特定の仲買人が中心であった。
市の取引が盛んになると、仲買人を通さず、直接生産者から買う行商人(直売)が多くなってきた。
直売は年々増加して市をおびやかし始め、仲買人は取締りを強化した。
市の世話人へ支払う手数料は、一人鐚二十四文と決められていたが、この二十四文を払うのが苦しく、二人、三人寄り合って一人分しか払わない者がいる。
もしこのようなごまかしや直売の違反者をみつけたら、「市場油単(ゆたん)台(油紙をかけて商品を載せる台)へ登って、その違反者に一ヵ月の営業停止処分を申しつける」と「仲間三十九人」の名で通達している。
「仲間三十九人」は縞市のみならず、地元の有力者である。
これらの人が油単台へ上がって群衆の前で違反者を制裁する、という宣告は多くの人をふるえあがらせたであろう。
三十九人の顔ぶれは、塩野、三田村、宇津木、原島、斉藤、滝上、稲葉、平岡……といった面々で、明治以後も町長や助役になった子孫がこの中に大分いる。
織った人の手間賃はどのくらいになったか、これも残念ながらわからない。
「機屋との取引は口約束で決める場合が多いので、書き残されたものはないのではないか」(滝沢博談)という。
経済圏が異なるが、寛政二年(一七九〇)川越扇河岸に通ずる街道に面した大塚新田(川越市)の名主家の「諸色値段銘々調帳」(『川越市史』史料編近世V)に、次のような記録がある。
「織木綿白一反 仕入代 六百文、売払代 九百六十四文、内手間 三百文、利徳(純益)六十四文。」
天保の初めころと物価高が同じであった天明七年の、川越市(いち)の木綿一反の売価は五百文であった。
「川越相場」は関東の在方市の基準となるもので、青梅市(いち)でも天保の頃の木綿一反の売価は、やはり五百文であっただろう。
これを大塚新田名主家の内訳額の比率でふりわけると仕入代 三百文、売払代 五百文、利益(手間代込)二百文となる。
仕入代は農家から買った値段で三百文のうち糸代と織賃は大体半々であるから、一反の織賃は百五十文くらいといえる。
仲買人の利益は一反二百文である。
一日の市で、仲買人は大量の反物を取引するが、機織りは日機でも四反くらいしか出荷できない。
そのため仲買人と機織りの収入はかなり開きがでてくる。
水は低きに流れるように、機織りの村はいくら働いても、その割に収入は少なく、それに比べて市のほうは、自然に多額な金が落ちるようになっている。
*
機織り村の人々は、市に出す反物をまとめてふろしきで背負い青梅の宿に運んだ。
宿の北側は加治丘陵の山裾が青梅街道まで接近し、北方の村々は急坂を下って宿へ出た。
“縞の道”と呼ばれるその坂は、青梅上町と森下の境にあり(現・市民会館横)、そこを下ると宿へ直接出られる便利な道であった。
明治の初め頃、反物を銭に替えて帰る村人の唯一の夢は、まぶしいほどにぎわう宿の軒並の中で、ひときわ繁昌している若狭屋の弁当を買うことだった。
若狭(わかさ)屋の弁当は十銭だった。
明治初期の織賃は一反二十銭前後(『所沢織物沿革誌』)だったから、弁当代は半日分の手間賃にあたり、なかなか買えるものではなかった。
おそらく在方の農民が、正月三が日以外は口にしたこともない白い飯に、惣菜には多摩川で獲れる鮎の塩焼か、卵焼きなどが添えられている、ぜいたくなメニューだったのだろう。
「一生のうち一度は若狭屋の弁当を食って死にたい」。それが村人たちのひそかな願望だった。
いつ頃からか、一月の小正月の夜、青梅宿では縞市の立つ町の道端で、大がかりなどんど焼きをするようになった。
三方山に囲まれた宿の寒気はひとしお厳しく、黒いひとだかりを冷気が取り巻いた。
さいの神の行事で、高さ二十六メートル、太さ三・五メートルの御幣をわら縄で巻き、これを三本作って本町、仲町、上町の三ヵ所に立てた。
御幣に火がつくと昼のように明るくなる。
青竹のはぜる音、松葉の燃える匂い、火の粉が四散し、赤らんだ人々の顔は、興奮の息をのんで見上げた。
一瞬火の勢いが盛んになる。
「これでことしも縞が売れる。今年も市が繁昌する」。人々はみんなそう思った。
はしゃいでいた子供の声が一つになって山にこだました。
さいのかみ おんべらぼう おざるにおぜぜが どーっさりさり

文政6年(1823)武蔵名勝図会に描かれた青梅村
3 青梅祭り top
五月二、三日の、青梅市内の住吉神社の祭礼である青梅祭りは、最近ますます盛んである。
近在からはもちろん、ちょうど連休どきで、東京から奥多摩ハイキングに向かう人たちもここで足を止め、街道の人々の流れに加わっていく。
奥多摩の山を背景に、低い軒並の古い格子にちょうちんが飾られ、露店がひしめき合い、人の波にごったがえした青梅街道を、きらびやかな山車がところ狭しとねり歩く。
いなせな男衆と、化粧した稚子たちの派手な祭姿に、郷愁と童心が湧いてくる。
この祭がいつ頃から始まったのか、いつ頃から山車を曳き始めたのか、これも正確にはわからない。
記録もほとんど残っていないという。
祭に関する唯一の研究、石川博氏の「青梅住吉祭礼山車覚書」が雑誌「武蔵野」に紹介されている。
明治六年以前は旧暦で三月二十七日に行なわれた。『玉川泝源(そげん)日記』(天保13・一八四二)に「例年毎年三月二十八日神楽あり、奏楽、操戯場執行あり」。 |

青梅祭りに繰出した人の波
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長淵の中村家文書には「当日(三月二十八日)は青梅住吉祭礼につき参詣の人これあり候につきこの日を三月正月に致し候」と記されており、神楽が出て見せ物あり、参詣の人ありで、祭らしい祭になっていたという。
山車が出始めたのは明治十年代からで、小さい山車が一年おきに出ていた。
明治十七年、青梅本町は東京神田岩本町から、江戸天下祭で使った山車と人形を、五百五十円で買い入れたのが、本格的な山車の始りであった。
他の氏子町もこれと前後して競って東京から山車、人形、水引幕を買入れた。
氏子町は住江町(新宿)、本町(下町)、仲町、上町、森下の五町で、それぞれ山車を持ち、三層高欄上に人形を飾りつけ、五町内を練り歩いた。
山車は二十七日、町内を一巡して両隣りの町の通りを曵く。
二十八日は宮参りで、西端の森下から町境に祭典委員長や長老の挨拶を受け、隣町へ入り、隣町は次の隣町の挨拶を受け、その町に入り……というように最後はそろって住江町に向かい、住江町の挨拶を受けて宮参りをし、ひと休みした後、今度は反対方向に住江町、本町、仲町……の順にゆっくり街道を曳いて行く。
山車一行が森下までいくと、裏宿(うらしゅく)の境で裏宿の役員が出迎えて、ぜひ自分の町に山車を入れてくれるようお願いする。
そこで山車一行は裏宿の半分くらいの所まで曳いて引き返す。森下熊野神社から住吉神社までを、しきたりに従って練り歩き、各山車はそれぞれ自分の町へ帰っていく。
丁度その頃日が暮れる。山車と山車との間隔は大分あるので、戻ってくる山車と、後ろのほうの山車と行き交う時、囃子(はやし)の儀礼打ちをする。 |

山車人形
(武内宿禰・森下町自治会蔵)
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激しい祭ばやしが入り乱れ、曳子や群衆の声援がこだまして、祭りのムードは最高潮に達する。
山車はそれぞれの町の費用で購入、改造、管理される。
住江町の山車は、神田の著名な人形師原舟月の作で、川越から買入れたもので、明治三十年代は二台になった。
本町は一番早く、明治十七年に神田から五百十五円という高額な値段で買ったが、二頭の牛車で青梅まで運んだ運賃、謝礼金、交渉人の雑費を加えると合計五百五十二円にもなった。明治二十五年には二台に増えた。
仲町は明治五年、江戸赤坂山王祭礼で使った静御前の人形のついた山車を買った。
上町は、やはりこれも赤坂山王や神田明神で使われた日本武尊(やまとたけるのみこと)のついた山車を買った(年不明)。
同町は家数が少なく、寄付金の額では山車を買うのが精いっぱいで、上町の名入りの幕代までは買えず、山車と一緒についてきた「福井町」(台東区浅草橋一丁目)の町名をそのまま使った。
そのため上町は、祭の時だけ「福井町」を名乗った。
森下は、神田三河町で使われた武内宿禰のついた山車を買った(明治末年)。
大正期に二輪から三輪、さらに四輪に改造された。
こうして住江町、本町、仲町、上町、森下の五町によって、戦前の青梅祭りが行われてきた。
以上が石川氏の「覚書」の概略である。
青梅縞市を見て、青梅祭りを見ていくと、どうもこの両者は関係があるように思えてくる。
祭りは住民の生活に密着しており、一つの生活のはじめに祭りが登場する。川越祭りは十月十四、十五日、秋の穫入れや農事が一段落した時期であり、
秋蚕(あきご)しもうて麦まき終えて……の秩父夜祭は十二月三日。そして青梅祭りは旧暦三月二十八日。
青梅は新町と市争いの末、二、七の市を勝取ったがそれ以前は長い間五、七、十二、十七、二十二、二十五日であった。
市と市の間が一番長いのは、二十五日から翌月五日までの九日間で、市の住民もその周辺の機織村も、この間が一番休息できる。また機織はかっては冬の農閑期に行なわれ、旧暦四月からは機織をやめて農業に専念する。
三月末は機織と農業生活の転換期である。前記長淵の文書「この日を三月正月に致し候」の文中「正月」とは縞市の“年度替り”であろう。
丁度その時期に住吉祭礼があり、九日間も休みはあるし、自然参詣人が多くなってきたのだろう。
祭には莫大な金がかかる。農業一本でこのような華美な祭ができるわけがない。
農民の生活用品を売る雑市だったころは、青梅坂のある森下と上町が市の中心地であった。
しかし市が縞市になるにつれて、だんだん東の方へ移動していき、縞市の中心は仲町、本町、住江町の三町になった。
山車への金の使いぶりも、この三町が一番派手である。祭の費用は住民の寄付金で賄う。富める町と貧しい町の明暗が、山車の持ち方に反映する。
市からの収入の少ない上町は、自分の町名入りの幕も賈えなかった。
一番哀れなのは裏宿で、ここは宿といっても名の通り森下陣屋の裏の通りである。
「裏宿は傘屋(青梅傘)と馬方ばかりだった」(滝沢博)という。
山車などとても持てず、祭礼の日、町の代表が森下の境で、氏子五町の山車を自分の町へ入れて欲しいとお願いして、ほんの一回だけ町の中ほどまで曵いてもらった。
裏宿の子供は、山車のない自分の町に肩身の狭い思いをしたという。
長い念願がかなって夢が果たせたのは、昭和二十五年からであった。
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赤坂山王、神田明神の山車や人形を購入したのは、長い伝統と文化の水準が伴わない青梅にとって、江戸の使い古しをそっくり金て買いとるのが一番手っ取り早かった。
縞市を通じて江戸との交流があり、なじみもある。
地理的に青梅の宿は、街道沿いの村の中で江戸から一番遠いが、経済的なつながりはどこよりも江戸と密接だった。
江戸の息吹を直接感受しているという誇らしさが、江戸のおさがりでも充分満足させたのであろう。
お江戸に妻はなけれども お江戸から吹きくる風の なつかしや
山国の誇り高い飛騨高山祭の、豪商が作った屋台は、天保期に一台四百四十両かけ、緞帳(どんちょう)を長崎まで買い求めたという(『高山祭』)。
近く川越の祭でも、天保のころ、人形作りの名人原舟月を江戸から川越へ呼び寄せて、人形を作らせたという。
そこへいくと伝統が浅く、まだそこまで誇りと財力のおよばない青梅の、青梅らしい祭だったといえよう。
十章 特権農民・水車稼人 top
1 粉は穀類にあらず
青梅街道に人馬が頻繁に行き交うようになって、内藤新宿が再開される一年前の明和八年(一七七一)、角筈村によって遅(おそ)の井(練馬区)まで、街道の道幅が拡張され整備された。
新宿から一キロ先の淀橋町や、それから二キロ先の中野村宝仙寺あたりは、商店が大分増え、穀屋、炭屋、酒屋、質屋、煮売屋、八百屋などの店が軒を連ねた。
翌明和九年、新宿から二十キロ離れた小川村の名主弥次郎の父東僑(とうはん)は、迎え馬に荷をつけて江戸から帰る途中、中野村を通りかかった時、それが駄賃馬(営業用の荷馬)とみられ、鞍判(営業認可証)がないのに荷物をつけているのは不届きである、と荷を切り落され、馬を伝馬町へ引き連れる、といわれた。
東僑は中野村の問屋に事情を話したところ、やはりそれは規則違反だといわれ、とりなし料として六百文をとられた。 文政八年(一八二五)九月、大沼田新田(小平市)当麻金次郎が、実そば二俵を麹町(千代田区)の嘉兵衛に直売して、地廻米穀問屋仲間に詑書をとられている。
野中新田(小平市)重右衛門は、在方から江戸の穀問屋に粉類を売り込んでいたが、文政十年(一八二七)秋頃から麹町に店を借り、粉類の問屋を始めた。 江戸の問屋仲間は、仲間外の取引である、として奉行所へ訴えた。
天保二年(一八三一)十月、四谷伝馬町の弥兵衛は、入間郡安松村(所沢市)の農民から実そば二俵を直買し、同月市ヶ谷田町(新宿区)の清右衛門は、新座郡白子村(志木市)の忠左衛門から実そば二俵を直買して問題になった。 |

淀橋(江戸名所図会より)
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明和の終り頃から文化文政にかけて、このような事件が江戸の街道口で頻発した。
日本橋伊勢町、堀江町の河岸にあった米問屋は、下り米、奥筋米(東北米)、地廻り米の区別なく扱っていたが、地廻り物かしだいに多くなるにつれて、出荷米の国々によって下り米問屋、関東米穀問屋、江戸地廻り米穀問屋に分けられた(享保の終り)。
これらの問屋は、幕府に冥加金を納めて株仲間という組合を組織し、組合以外の同業を排して利益を独占した。
しかし関東の農村では、余剰農産物を商品として売り出す農間渡世の者が、ますます増えていく一方だった。
そして江戸末期にいたって上方の下り物を完全に駆遂し、雑穀類は下り物が全くなくなっていく。
地廻り米の増加で、地廻り米穀問屋以外の非公認の問屋ができ、江戸市内で数多くのトラブルが生じた。
淀橋町にも非公認の雑穀問屋が五軒あり、江戸側から異議を申し立てられた。
熟談の末、江戸の町年寄奈良屋役所の立合いのもとに、幕府に運上金(権利金)を納め、地廻り米問屋の一部として加入が認められた(安永2・一七七三)。
株仲間の第一の取り決めは、仲間同志の規制と、無株の者の直買売の防止と摘発によって、組合の独占の強固を計ることであった。
非公認だった淀橋雑穀問屋は、ひとたび公認されると、今度は在方の無届けの穀屋を摘発することに力を注いだ。
直接生産者が江戸へ持ってきて直売するほかに、運送だけに従事する駄賃稼ぎの人馬も大分あった。
駄賃稼ぎの馬持ちは、日本橋の大伝馬町、南伝馬町、小伝馬町に助馬の任を負い、鞍判を受け、無判馬での荷送りを禁じられた。
荷物の運送で収入を得ていた宿場では、運賃収入を確保するために、駄賃馬から口銭を取り始めた。
内藤新宿でも、野菜、肥料、薪炭を除いた駄賃馬から、通過するたびに銭二文の口銭をとって新宿と在方の直売争いが起きた(天明2・一七八二)。
たとえ口銭をとられ、雑穀問屋の監視を受けても、江戸の小売商に直売する在方穀屋は跡を絶たない。
むしろこのような争いの中で、直売の意欲はますます高まっていった。
麹町に店を借りて粉類問屋を始めて訴えられた(文政11・一八二八)野中新田重右衛門は、「小麦やそば粉は売っているが、穀類は一粒たりとも売っていない。
穀類は升目(量)で計るが、粉類は貫目(重さ)で計るから、粉は穀類ではない。穀問屋で扱う商品とは違う」と強調した。
十七年間争った末、重右衛門の勝利となり、雑穀、実そばは引受けてはいけないが、粉類は町方と自由に取引してもよいということになった(弘化2・一八四五)。
武蔵野地方の重要な生産物である小麦が、製粉すれば自由に江戸に売り込むことができるようになったことは、江戸商人の独占を破る突破口になった。
しかし重右衛門の抗争中、江戸の麺類の問屋仲間が、武蔵野の在方の者が、そば粉、小麦粉を一手に買占め、その値段をつり上げている、と奉行所へ訴え出た(天保5・一八三四)。
特に「手広に渡世する者」として十八人の名を挙げた。
十八人の内、青梅街道筋の在方穀屋は、連雀(れんじゃく)村(三鷹市)万助、同源次郎、西久保村(武蔵野市)五郎吉、田無村半兵衛らがいる。
淀橋雑穀仲間も麺類仲間に同調し、粉類が高くなったのは在方穀屋が直売するようになったからである。
ぜひ従前通り、問屋の手を経るようにしてもらいたい、と奉行所に訴えた。
これに対して在方穀屋側は、「買占めや占売りを行なったことはない、そば粉、小麦粉が高くなったのは不作のせいである。 淀橋雑穀問屋の訴えは、全く難題を申しかけたものである」と反駁した。
翌天保六年、ついに麺類仲間は自分たちの訴訟をとりさげ、在方穀屋に不正はなかった、と在方総代ヘ一札侘びを入れ内済に終った。
天保十二年(一八四一)、水野忠邦の天保改革によって株仲間が廃止され、株仲間の圧力は表面上なくなったが、在方と淀橋穀問屋の争いはくすぶり続け、内紛は絶え間なく起こった。
廃止されてから十年たった嘉永四年(一八五一)株仲間が再興されるや、仲間による直売の摘発は一段と活発化し、両者の激突が表面化した。
安政三年(一八五六)に起こった事件は、在方穀屋の、穀問屋に対する徹底的な抗争の末、完全勝利となり、在方穀屋の勢力に抗しきれる者はいなくなった。
その事件は――
安政三年四月、野中新田の百姓仲右衛門は、江戸市ヶ谷へ送る小麦粉を馬につけて淀橋町を通り過ぎようとしたところ、問屋利兵衛に見とがめられ、判取帳(商取引証文)を見せろといわれた。
何気なし見せたところ、「これは当方で預っておく」と屈強の男三人に持ち去られた。仲右衛門はさっそくこのことを奉行所へ訴えた。
十一年前「粉は穀類にあらず」と粉の自由販売を認められていたので、彼は強気であった。
仲右衛門は「いくら問屋株を持っているからといって、荷物をさしとめるのは権利をかさにきている。相手利兵衛を召し出して不法行為をいさめてもらいたい」といった。
一方訴えられた問屋利兵衛は、「武州多摩郡砂川村(立川市)七郎右衛門、同郡野中新田仲右衛門と申す者は、手広に雑穀を市中へ直売しているので調べたところ、七郎右衛門は柏木成子町へ地所を買い、成子町万屋国次郎という名で商いをしている。
同町には万屋国次郎という家はなく、もちろん仲間に入っていない。七郎右衛門、仲右衛門の主な取引先である赤坂新町豊吉は実そば百五十俵、竹川町岩吉は百俵、神田明神下喜八は五十俵、天徳寺門前町熊蔵後家たきは粟二俵、それぞれ両人から買受けている」と申し立てた。
この仲右衛門事件は。在方穀屋である水車稼人たちに大きな反響を呼んだ。
各村に散在していた在方穀屋水車稼人は一堂に会して相談し合った。
その結果、山の根(丘陵下)近在並び武蔵野新田村々の水車稼人一同として訴訟を起こすことにした。
「同業の仲右衛門が淀橋の利兵衛と申す者に荷物を差押えられ、判取帳をとられたのは甚だ理不尽である。
利兵衛は問屋仲間加入者として特権をふり回し、在方の直売を勝手に取り締まっているのは納得できない」
この訴状に名を連ねた六十一名は、多摩郡、荏原郡、新座郡の範囲内ほぼ全員の在方穀屋水車稼人と思われる。
水車稼人一同にこのように団結してかかられては、さすがの淀橋問屋仲間も折れるより仕方なかった。
へたをすると穀類一切問屋を通さなくされてしまう。
江戸周辺の農村の直売の怒濤のような勢いに、株仲間が抗しきれず、しだいに勢力が弱まっていった。
淀橋問屋仲間の母胎である地廻り雑穀問屋も、株仲間が再興されても昔日の力を持ち得ず、衰微していた。
結果は直売の水車稼人側の勝利で、「願い通り粉類直売勝手次第」となった。
水車稼人たちが終始旗印に掲げた「粉は穀類にあらず」の理屈が通ったからではなかった。
粉類も荷送りにはかますにつめ、依然として升目で扱っていた。理屈ではなく、“自然趨勢力”の勝利であった。
仲右衛門事件をきっかけに、村々で個々に営業していた水車稼人は団結し、発起人田無村名主下田半兵衛から受け継いだ、上保谷新田名主伊左衛門を中心に、「水車稼人仲間組合」結成へ、と歩を進めていった。
2 分水私用で富築く top

古文書・水車設置願
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江戸商人に独占されてきた江戸の市場への、在方穀屋水車稼人の進出は、近郊農村に、はたしてどれだけ利益をもたらしたか。
農民がどれだけうるおったか、水車稼人とはどういう者であったか――。
前記訴状に名を連ねた六十一名は、名主十五人、組頭三人、年寄四人、神官一人、他百姓三十八人という顔ぶれである。
この中の「百姓」は、村役人に匹敵するほどの有力者であったであろう。
水車を設置するのは村の分水地点で、分水は共同使用であるから、代官所へ設置願を出すほか、村民の諒解、上流、下流の村々の許可が要った。
水車設置に際して村内の者に間口一間(一・八メートル)につき鐚十文払い、流末の村にも謝礼金を出した。
水車稼人は村の有力者であるので、同村の農民との問題は起きなかったが、他の村との間では争いがしばしば起こった。
〔弥市の水車〕
中藤新田(国分寺市)名主佐兵衛は、分水が二手に分かれる重要な地点に大輪五メートルの水車を設置して(天明元・一七八一)、下流の平兵衛新田、高木新田。戸倉新田(いずれも国分寺市)との間で紛争を起こした。
さらに中藤新田名主は弥市の代に、大輪八メートル余の水車に粉臼七、杵五本を設置した(嘉永4・一八五一)。
動く音が昼夜にわたり百メートル四方に響きわたったという。
この大輪のため下流の新田に水が行き渡らず、高木・戸倉両新田村役人は、代官所に取払いの願書を提出した。
代官所の吟味により、水車は天明の時のものに戻すということになったが、水車設置権は正式に認められた。
〔半兵衛水車〕
近在で特に有名な水車は、田無村名主下田半兵衛のもので「半兵衛水車」といわれた。
天明二年(一七八二)十月、この半兵衛水車をめぐって争いが起きた。
田無分水の流末の関村、田中村(練馬区)が下田半兵衛を相手どって訴訟を起こしたのである。
理由は「近来、自分の村の田へ水がおびただしくあふれ、水腐れになり、稲が実らなくなった。
これは上流で半兵衛が水車を仕掛けたためである。手兵衛の水車を止めさせてもらいたい」というものである。
翌天明三年三月には二ヵ村のほかに、上石神井、下石神井村(練馬区)などの六ヵ村も加わった。
これらの村々は、武蔵野台地の東端の樹枝状に刻まれた谷あいで、石神井池や関村の溜池から水を引入れて田も耕作していた。
元々谷戸田の低湿地で湧水も入るので水温が低く、稲の収穫はよくなかった所である。
訴訟の相手は下田半兵衛のほかに、同村年寄太郎右衛門、上保谷仲右衛門、鈴木新田(小平市)仲右衛門、孫市、茂八、野中新田孫右衛門ら六人を槍玉にあげた。
訴訟の内容は、田無村の太郎右衛門は、半兵衛とともに田無分水に「種々巧を以て水引入」水車を仕掛けた。
鈴木新田仲右衛門、孫市は「半兵衛と馴れ合い種々不埒」なことをしている。
野中新田孫右衛門は「飲用田用水を自分屋敷に夥敷(おびただしく)引入」て水車稼ぎをしている、以上の者たちの水車をぜひ止めてもらいたい、というものであった。
訴えられた下田半兵衛は「元々これらの村村は、溜池などの水を田へ引き入れているので、水があふれやすく自然と冷地になっている。
水筋に私の水車を仕掛けたから水腐れになったというのは筋違いである。」と弁明した。
吟味の結果、訴訟方の論拠が十分でなく、「水車持ちへ無理難題を申し掛けたもの」として、関村、谷原村両村名主は入牢を命ぜられた。
天明に入って関東一帯に悪天候が続き、多量の雨が降り、冷気のため作物が育たず大飢饉となった。
練馬の村々の「溢水」(いっすい)「水腐れ」はその天明の飢饉の前触れであり、半兵衛のいうように、水車のためではなかったであろう。
しかし「種々巧を以て水引き入れ」た水車持ちに対する各村々の潜在的な反感を見ることができる。
水車稼人は、水車で小麦やそばをひいたばかりでなく、搗米や、米、大豆、荏ごまを絞って酒、醤油、油の製造販売も行った。 江戸に売りに行った帰りには、農村に必要なぬかや灰を買い、これを農家に売る。
農家の多くは土地を抵当に借金して肥料を買い、春に雑穀で返済し、返済できない者は土地を手離した。
こうして農産物加工販売業者だった水車稼人の多くは、肥料商、酒、油醸造業、質屋、地主などの多角経営者として、農村の中で特殊な地位を確保していく。 安政三年、江戸への粉直売の勝利をかちとった水車稼人は、翌四年その権利を擁護するために「水車稼人仲間」を結成した。
下田半兵衛が中心となり、田無村田丸屋に集まった武蔵野南北水車稼人は、
「仲間に加入した者は得意先を奪い合わぬこと。新規水車設置者は仲間に加入している者の許可を得た者とする。粉ひき奉公人を雇う場合、元主人に問合わせの上でやる」等を決め合った。 |

立川堀の水流を利用した拝島の水車
(大正12年・中島繁治氏提供、多摩のあゆみ13号より)
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江戸の特権商人の独占をうち破った水車稼人たちは、今度は農村の中で取引の自由と独占を計る特権的存在となった。
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大沼田新田(小平市)名主当麻(たいま)家では、明治初期の調査であるが、臼四個、杵四十本を有する水車を持ち、一二一ヘクタールの屋敷内にいろは四十八の倉庫と、巨大な鯱(しゃち)と門の豪壮な家を構えていた。
百人以上の作代(さくだい、譜代小作)を常住させ、四谷、中野、青梅に出店を持ち、製造した穀類を手車でつけ出したというほど手広く穀商を営んでいた。
田無村下田半兵衛家は、代々鷹場見回り役人の休泊所を勤め、諸品納入の仕事を請負ったりして、尾州家と深い関係にあったことを利用して、江戸を通さず直接尾州ぬかの買入を願って許可を得た(安政2・一八五五)。
江戸のぬか問屋を排して、在方でいち早くぬか売買の独占を穫得し、莫大な利益を得た。
また下田家は、出質(元質屋から資金を借り、質物を元質屋へ送って手数料を取る質の仲介業者)五軒をもつ元質屋でもあり、同時に米雑穀を商い、持高百石、下男下女十二人。
日本橋、京橋、淀橋など江戸市中に支店七軒を持ち、醤油造りも行なう近在きっての在方商人であった。
下田半兵衛富永は、農商を兼ねて日々富殖したのは「天の恵みと先祖の陰徳」によるものだ、と子孫に書残している。
村の農民からしぼりとったなどとはみじんも思っていない。
十八世紀末から十九世紀初頭にかけて、このような水車稼人=在方商人という特権的農民が、農村の中に出現してきたのであった。
top
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