狂牛病 その2 (安全・安心のイメージ #04)


先日、とある外食産業の、チェーン店の焼肉屋さんに行った。非常に混雑しており、大盛況。半年前にこの店に来た時は閑古鳥が鳴いていたのに、この盛況ぶりは何だと言うくらいに賑わっていた。一般の消費者が肉を食べることに関しての抵抗感は薄れているようである。
狂牛病に関する報道から日本全国が大騒動になったのは、昨年の9月の事。約一年という時間が経過して、肉離れというものは多少は人々の意識から薄れかけているように感じられる一コマであった。

ハム業界最大手のメーカーの不祥事がここ最近、大きく報道されている。
決して悪事は許されるものではない。悪い事は悪いと認め、そして社会的な責任を負う事は最低限必要な事であると俺も思う。

そのメーカーの作った商品の品質に何ら問題がある訳でもないのに、イメージが悪いからという理由だけで、販売を辞めてしまう企業に対して、俺は怒りを感じている。
イメージが悪くなって売れなくなった商品を、都合良く返品したいだけじゃないのか。自分たちが悪の片棒を担いでいると思われたくないが為の、逃げの行為なのではないか。
商品を、買うか買わないかを決めるのは最終的には消費者であって、それを販売する小売店ではない。小売店は消費者にお買いあげ頂ける商品を一時的にお預かりしているだけに過ぎない、と俺は考えている。
安心安全なものを吟味するのは、小売店の責務であり、最も重要な課程の1つだと考えられるが、イメージだけ先行して、逃げの行為に走ってしまうのはいかがなものか。

繰り返して、俺は「消費者」という言葉をあえて使ってはいるが、メーカーだって、小売店だって、何だって、人で動いているのである。人、つまり誰もが消費者なのである。
信用は短期間で得る事は決して出来ない、かけがえのないものである。そして一度失ってしまった信用というものはなかなか元の通りには戻らないものである。だからこそ、メーカーも小売店も今まで築いてきた信用を守ろうと、大切にするのであり、巻き添えにされないように過剰な反応を示したりもするのである。
しかし、安心安全というものはイメージではない。
イメージだけ先行して、逃げに回った結果が、銀行の取り付け騒ぎにも似た、社会不安を必要以上に煽る行為であり、結局は自分で自分の首を絞める行為に繋がっていくのである。

先述の焼肉屋さんはお客さんが来ない時も、店を閉めることなく、営業を続けるという行為で頑張った。
何事も辞めてしまう事は非常に簡単な事なのである。しかし、やり続ける事はなかなか難しい事も事実である。
更に言うと、正しい事、支持される事を見極めてやり続けていくと言う事は非常に困難な事である。販売自粛だとか、なんとか理由を付けて、ほとぼりが冷めた頃にまた再会なんて言う考えは甘すぎる。

先日、小売り方法の悪質な偽装問題をスクープする報道番組をテレビで見た。各種の悪質な偽装の手法を取材し、良い小売店と悪い小売店の見分け方の例などを具体的に示しながら問題提言したその番組の締めくくりの言葉はこうだった。「我々はスーパーを自分で選ばなくてはならない時代になってしまったのか!?」

小売店にて従事する者の代表として、俺は声を大にしてここで言う。「我々は消費者に選ばれる為に日夜努力を積み重ねているのだ。」
この番組の、締めくくりの言葉の馬鹿さ加減は、まさにイメージだけで何となくその場しのぎの行動を繰り返しているだけの馬鹿者達の最も代表的な台詞である。
自分の身の潔白だけを主張し、やっている事と言えば、逃げの行為だけ。
作り出す事、産み出す事の難しさ、やり続ける事の尊さをもっともっと深く考えるべきであるし、考えないのは既に逃げの行為と一緒。

イメージだけで行動を決めるのは本当にもう辞めにしよう。
なぜニュースになっているのか、なぜ安心安全なはずの物が支持されなくなってしまうのか、そしてなぜほとぼりが冷めた頃にまた支持されるようになってるのか、いろんななぜがあるが、逃げずに少しだけ考えてみて欲しいと思う。

2002.8.11.
2012.3.25. (タイトルを修正)


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