立山室堂から薬師岳、黒部五郎岳を経て双六小屋より新穂高温泉

 日本のツアーコースの中でも特に長大で、アルペンムード満点の本コースは、いろんな山の表情に出会った思い出深い山行であった。記憶は曖昧になっているが、覚えているだけのことを書き留めておく。少し長いので4つのPartに分けた。


日時  平成2年4月28日 〜 5月3日

行先  立山室堂から薬師岳、黒部五郎岳を経て双六小屋より新穂高温泉


Part1


4月29日 立山室堂 〜 一の越

 室堂にバスが着いたとき、そこは吹雪の中だった。逡巡していた僕達に、会津から来た一人の山慣れた登山者が同行することになった。深い霧の中をとりあえず途中まで雪面に立てられた竹竿に沿って一の越を目指したが、ほどなくそれを見失ってしまった。仕方なしにコンパスと高度計を頼りの計器歩行となり、黙々と高度を稼ぐ。しかし変だ。すでに一の越の高度を越えているのに雪面は更に斜度を増して上へ続いており、コルに着く気配がない。おかしいなと脚の動きが鈍ったその時、一瞬ガスが流れて右下に小屋が覗いた。どうやらやや左寄りに方向を間違えていて、このままだと雄山に登って行くところだったのだ。再びガスに巻かれて真っ白になった中を慎重にトラバースして何とか一の越の小屋に到着した。

 まだ昼前だったが、僕達はここで今日の行動を打ち切り、停滞を決め込んだ。暖かい小屋の中で、僕は鱒の寿司の箱に用いられた竹を使って箸を造り、また、ガソリンストーブでさくら飯を炊いた。夕方6時頃天候は回復し、外へ出てみるが、その寒気ときたら、鼻や頬がもげるくらい厳しかった。


4月30日 一の越 〜 越中沢岳

 6時に小屋を出発する。昨日の同行者と一緒だ。天気はまずまず。御山谷は昨日降った雪が積もっており、快適な滑りだった。龍王岳の下部をトラバースし、鬼岳に登る。しかしここで僕達に先行していた単独行者が引き返してきたのに出会った。鬼岳と獅子岳の鞍部に遭難者が死亡していたのを発見し、それに怖じ気付いて登山を続ける意欲を失ったというのだ。彼は小屋に連絡して下山すると言って一の越の方に下っていった。

 とりあえず鬼岳の山頂から鞍部をのぞき込んでみると、広い雪面にポツンと小さな緑色のツェルトがはためき、そのすぐ側に紅いヤッケの登山者らしき姿が横たわっているのが見える。僕達はトランシーバーを持っていたので、現場まで降りて状況を確認してから、富山平野に向かって非常通信をしようと考えた。ここまで一緒だった会津の登山者は小屋への連絡のために引き返すことにした。

 鬼岳の下りは非常に急で、雪壁が崩れないか心配だったが、ツボ脚で慎重に一歩一歩下る。この頃にはかなり陽も高くなり、風に舞い上がる雪煙がキラキラ光って美しかった。そんな中で目の当たりにした遭難者の静かな死に顔は余りにもあっけらかんとしており、その事実の厳粛さと、まるでその事に無関心であるかのような雪原の明るさとの間には大きなギャップがあった。

 遭難者の死亡を確認するため脈を取った。まだ氷ほどには冷たくない手首には命あることを示す弾力は既になかった。後で新聞で知ったことだが、彼は大学生で、僕達が一の越の小屋で天候の回復を待っていた昨夕6時頃に亡くなっていたようだ。吹きっ晒しのコルではあの強烈な寒気に耐えられなかったのだろう。張られたツェルトにはあまり中に入っていた形跡はなかった。チョコレートなどの食料もいくらか散乱し、それが何の救いにもならなかったことを示していた。

 僕達の非常通信は非番だった消防署員の方が受けて下さった。警察への通報をお願いしてしばらく待ったが、僕達は晴れ間の時間が惜しかったので先に進むことにした。小一時間ほどしてヘリコプターが飛来してきたのを獅子岳の頂上で見た。しかしヘリは現場が確認できないのか降りる場所がないのか、しばらくホバリングしていたがすぐに飛び去ってしまった。それから新聞社のものだろうか数機のヘリを見たが、その後のことは見届けていない。

 ザラ峠は快適な滑降を楽しめた。五色が原の気持ちのよい雪原をたどり、鳶岳を越える。スキーの機動力は素晴らしい。鞍部から登り返して、越中沢岳山頂付近に幕営地を見つけた。


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