INUYAMA EXPRESS



2001年10月14日に更新し、複線に戻った犬山橋の様子のページをUPしました。IMUYAMAEXPRESSは、白帝城と呼ばれる国宝犬山城と、名鉄パノラマカーが路面を走る鉄道道路併用橋だった犬山橋を、写真や文でご紹介します。



犬山城と犬山橋
日本ライン木曽川のほとりに聳える国宝犬山城。その麓の木曽川にかかる犬山橋。
ここからは、何の変哲もない鉄橋にしか見えません。ちょうど渡っているのは名鉄8800系パノラマデラックスですね。




天守閣から
では、国宝犬山城の天守閣に登って見ましょう。はるか眼下に先程の犬山橋が見えます。
名鉄1000系パノラマスーパーが渡っていくようです。




近寄ってみると
なんだこりゃ!さっきのパノラマスーパーがクルマといっしょに走っている!




1000系展望室から
パノラマスーパーご自慢の展望室から見ると。うーん!これは只事ではない!




列車とトラックのすれ違い
列車とトラックがすれ違いましたなんて、国語のテストなら「バツ」ではないか?




止まってしまいました
でも、「列車がトラックを追い越しました。」はありません。幅が狭くて追い越せないので1000系が止まってしまいました。このあとどうやって切り抜けたのでしょう?




あぶない!
この橋は、いわゆる「併用軌道」ではありません。しいていえば「長い踏切」です。踏切の中に信号を作るわけにもいかず、遮断機で列車を止めるのもへんですので、結局双方の良識に頼る運転です。
しかも、犬山遊園側はご丁寧にも五差路!ですからこんな危ないシーンも、決して珍しくありません。




堂々6連!
犬山橋を渡り終えた6000系6連。でも、ラッシュ時は1000系4連×2の最大8連までやってきます。




列車のすれ違いも禁止
橋の上は上下線の間隔が狭いのですれ違い禁止。どちらかが橋のたもとで待ちます。でもぶつかるわけではないので、単線閉塞ではなく対向列車を白色点滅灯で確認しての交互通行です。




北アルプス号
JR高山線乗り入れのキハ8500系「北アルプス」も制限時速25キロでそろりそろりと通過します。




やれやれ
難所無事通過!いざ高山ヘ向かうキハ8500系「北アルプス」。




もうすぐお別れ
特急運用から撤退したものの、まだまだ急行で活躍をする名鉄パノラマカー7000系が通過します。
でも、この光景も2000年3月で終わりです。パノラマカーはまだ残りますが、西側に作っている「新犬山橋−愛称はツインブリッジ」が3月28日に開通すると、クルマはそっちを渡るようになるからです。




ファンも総出
いよいよ残り少なくなった3月20日の春分の日、犬山遊園から新鵜沼に向かう7500系パノラマカーの展望席からの光景です。
カメラマンが危険と判断されて、電車の方が止まってしまいました。






名残惜しむ人々
同じ7500系からみた新鵜沼側の第2の撮影ポイントのファンの方々です。運用が少なくなったパノラマカーというわけで、皆さん待ち構えていたようです。






この地図も変わる
犬山遊園駅東口にある案内地図です。ガラスの反射で見にくいですが、犬山橋併用橋の様子が分かります。(東口壁面なので西が上です)
この地図も3月28日を過ぎると、いずれ取り替えになるでしょう。







2000年3月28日犬山橋専用化

犬山橋が2000年3月28日についに鉄道専用となりました。その28日の様子をお伝えします。
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犬山橋専用化から1年

犬山橋が専用化されて1年後の様子をお伝えします。
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複線に戻った犬山橋

犬山橋が複線に戻りました。2001年9月29日の様子をお伝えします。
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犬山城御家騒動記



国宝「犬山城」は、濃尾地震後の再建を条件に旧城主成瀬家(隼人正−尾張藩筆頭家老−慶応4年(明治初年)に独立藩主(3万5千石)になる)に払い下げられたため、国宝の城で唯一の個人所有の天守閣です。
現在の持ち主は成瀬正俊氏で、実際の管理は契約により犬山市が行ってきました。成瀬家へは、1964年以降、市から登閣料の40%か最低保証の2千万円が支払われてきましたが、ピークに年間62万人あった入場者が、1999年には21万人に落ち込み、犬山市が契約見直しを求め、「江戸」在住の城主と国家老のときならぬお家騒動になりました。
しかも新契約がまとまらず、2000年4月から犬山市は文化財保護法の管理団体指定を楯に一方的に管理を続け、成瀬家は管理区域は天守閣に限るはずと主張して対抗、江戸時代というより戦国時代並の「下克上お城乗っ取り」状態になっていました。

しかし、2001年3月1日に、犬山市と成瀬家との和解成立が発表され、11ヶ月ぶりに御家騒動が決着しました。
和解内容は、ほぼ市の主張に沿ったもので、最低保証の2千万円などは撤廃され、拝観料から管理維持費を引いた実利益が、成瀬家から書画などの所蔵品の提供を受けて公開する対価として、支払われるというものです。
同時に、市の管理区域も、周辺敷地、山林、関連施設も含むこととなるなど、領地拡大にも成功。「幕府」の文化庁を味方につけた「国家老派」の全面勝利となりました。