フォーレ:衒学者としての物言い

作成日:2001-03-05
最終更新日:

1. 衒学的とは

フォーレの話をしている掲示板に、 「最近のフォーレの話は衒学的になりすぎていませんか」という 問いかけがあった。 私のページなど、その際たるものかもしれない。 衒学的とはどういうことか。辞書を見てみる。 「学問のあることをひけらかし、自慢すること」とある。 私のページにあることは学問と呼べるシロモノではないが、 ひけらかし自慢していることには間違いない。 スノッブということばも似ているかもしれない。俗物根性、紳士気取り、これらもあてはまる。

でも、どうして、こんなことまで書きたがるのだろう。
ことばによる以外の表現が私にはできないからだ。私のピアノの師匠、K 氏はこういった。 「演奏で受けた印象は、演奏で表現せよ。」私には、それができない。 昔は意識せずにやっていた。今でもしたいと思うが、もうできない。意志はあるが、 技術は伴わない。少なくとも、ピアノの演奏としてはできない。 だから、心を動かされたことを刻み付けるために、他愛もない言葉を書き連ねている。 それができなければ、「この曲はすばらしい」「この演奏には感動した」で終わってしまう。 それでも私の言動は、許されないのだろうか。

2. 語彙の問題

衒学的であることを私は自覚しているつもりであるが、一方で自分のことを衒学的とまで いうことなどできないのではないかとも思う。 というのは、ことばに対する感度がまるでないからだ。 一つには語彙の問題がある。新しい語彙を開発するのは私のような若造には早すぎる。 吉田秀和ならば、もうこれは確固たる実績があるのだから「未聞の密度をもって続いていく」と 書ける。しかし、これはもう吉田秀和の特許であり、使えない。 では、自分が使わないことばを見つけないといけないのか。これは必要だろう。 そしてもう一つ、ことばそのものはごくふつうに使われるものを使いながら、 あることばと別のことばの関係をくずすことによって 新たな意味を浮かび上がらせることは私にはできないからだ。

後者についていえば、筒井康隆のある短編に、そのような「へんな言葉遣い」が載っている。 彼の作品で下手な作家が書いたという場面であった。 手許にその本がないが一つだけ覚えている表現があった。 それは「度胆が抜けた」というものであった。

音楽を語るにあたって「フォーレの音楽とだれそれの 演奏がすばらしかったので度胆が抜けた」ということはできないだろう。 これは明らかに破格であり、破格によって得られる効果は何もないからだ。

フォーレの音楽は多少なりとも破格な点を持っている。しかし、 彼は、調性という枠を注意深く守り、また調性のもたらす効果を信じていた。 私も彼の音楽にならって、読むものを驚かせつつ、読み通してみて安心する文章を書きたい。

3. 演奏評について

私はあまり演奏評を書いていない。自分の耳が悪いことを恐れているからだ。 ただ、実演があってそれを聞きに行った時は書いている。 同じ場所で時間と空間をともにしたということが貴重だから、その証をはっきりさせておきたい、 という理由からである。

けれども、くり返して言うが、自分の耳を信じていないし、 まして評を書くことはおこがましいと思っている。 にもかかわらず、このごろは実演だけでなく、 録音でも評をぼちぼち書いている。なぜ録音でも同じことをしようとしたかというと、 最近とみに物忘れが激しくなったからだ。 すなわち、今までフォーレの CD を数十枚所有しているが、 そのうち 2 枚は既に所有しているものを買ってしまっている。物忘れに対抗するために、 自分が確実にその演奏を聴いたという証拠を作ればよいということだ。そして、 その確実さを保証するために、評を公開することにした。 つまり、読者の方々を巻き添えにしたのだ。

私が恐れているのは、読者からの抗議もさることながら、 自分が硬直してしまうのではないかという不安である。 つまり、ひとたびこのように聴いたという、その聴き方が将来に渡って続き、 その聴き方に私自身が捉われてしまうのではないかという怖れである。 この不安と怖れについての対策は、月並みではあるが、不断にページを更新することと、 そのための気力を持つことである。

4. フォーレのどこを楽しむか

最近、余裕のない生活が続いている。決して暇がない、という状況ではない。 しかし、生活を楽しむことができない。 これではいけない。どうしたらいいだろうか。 こんなときこそフォーレを聞いてみるのがいいのではないか。 そこで、衒学的にならずに、フォーレのここを楽しむ、という視点で思うことを列ねてみたい。 ここでは、オーリッジの成書"Gabriel Fauré"を参考にした。

4.1 旋律

フォーレの旋律、メロディーといえば、みなさんはどんな曲を思い浮かべるだろうか。 私ならまっさきに「夢のあとに」だろうか。ほかにも歌曲を中心に、 それぞれ思い入れがあるメロディーが見つかる。それがフォーレのいいところだ。 シューマンとは違い、歌えるように曲が作られている。歌曲が歌えるのは当たり前だが、 ピアノ曲もオーケストラ曲も、室内楽曲、難易はあるけれど歌える。

なぜ「夢のあとに」がよく知られているのだろうか。その解決の手がかりは、あるテレビ番組で得られた。 NHKで「名曲探偵アマデウス」という番組がある。 ある回で、サラサーテの「ツィゴネルワイゼン」の人気の秘密を解き明かしていたのだが、 冒頭の「ミラシドー」の進行がその人気の理由という。(実際にはハ短調だから G C D Es だ) ミは属音、ラは主音で重要な音がここでそろい、経過音シの次に、和声を決めるミがこの順番で出る。 ここに心を震わせる秘密があるのだという。

こじつけめいた説明ではあるけれど、面白い。このミラシドで始まる有名な曲に、 ベートーヴェンのピアノソナタ「悲愴」の第3楽章がある。 それから、ショパンのピアノ協奏曲第1番のピアノの冒頭もそうだ。移動ドでは 「ミドーレミー・ラーシードー」である。 同じように、都はるみが歌う「北の宿から」も「ミドレ・ミラシード」 ここで、われらがフォーレに戻ると、夢のあとにも「ミーラーシードーー」ではないか。 今までこんなことになぜ30年気が付かなかったのだろう。 「ミラシド」で始まる曲を書き込むスレ(music-0.log.thebbs.jp)も参照。 なお、ここのスレに出てない「ミラシド」に、美川憲一が歌う「さそり座の女」がある。 (2009-06-02) そんなことを気になってしまったので、 自分でついにソドレミ・ミラシドで始まる曲の一覧を作ってしまった。 (2012-06-03)

フォーレのメロディーには、あまりこねくりまわすところがない。順次進行が多数を占める。 つまり、かなりの確率でドの次はレ、レの次はミが来るようにできている。 しかし、いくつかのメロディーはかなりまがりくねったり、 跳躍したりする。それでも、そのまがりくねりや跳躍は、順次進行あってのことである。

跳躍と順次進行の組み合わせでメロディーを作るとき、 フォーレにはかなりの好みがあったようだ。これは、作品を追うと明らかになる。

たとえば、3度から5度の下降跳躍のあと、順次進行による上昇というパターンがある。 このパターンが使われているのは、たとえば、組曲「シャイロック」から「夜想曲」、 歌曲の「夕暮」、同じく歌曲集「閉ざされた庭」から「聞きとどけ」の系列がある。 ピアノ五重奏曲第1番第1楽章冒頭のヴァイオリンのテーマも、この仲間と見ている。 これは、「叙情的な旋律」というページを別に設けたので参照されたい。

吉田秀和の指摘のように、ピアノ四重奏曲第1番第1楽章の第2主題と、 弦楽四重奏曲の第2楽章第2主題も、相似である。この2つは、順次進行の典型である。

その他指摘されるのは、歌曲集「優しい歌」の全9曲にあらわれる、各種の動機である。 その中には、初期の名作「リディア」に出てくる動機から 「リディアのテーマ」と呼ばれるものもある。こちらも順次進行である。

このような順次進行を主とするテーマの他に、オクターブの跳躍に重きを置くテーマもある。 歌劇「ペネロペ」の「ユリッセのテーマ」の冒頭は、 7度、8度、9度の跳躍が特徴的である。 これに似た例は、ヴァイオリンソナタ第2番第3楽章の第2主題に見られる。

このような相似形は、まだまだフォーレに多くみられるはずである。 フォーレのいろいろな曲を聞き込んでいくと、わかるのではないか。

そしてその一方で、フォーレの他の曲にほとんど似ていない「夢のあとに」や、 似ているようで似ていない「パヴァーヌ」、その他、 自分の好みのメロディーを見つけることができるのも、 またフォーレの魅力である。

ちなみに私が好きなのは、「マドリガル」(特に中間部)、「あけぼの」、 レクイエムの「アニュス・デイ」の伴奏である。

4.2 和声(ハーモニー)

フォーレの和声は、私にとって永遠の謎である。フォーレは機能和声を前提とした作曲であるから、 主和音、属和音、下属和音という3種類の組み合わせで骨格は形作られるはずである。そして、 属和音から主和音へ解決する、という流れで説明できる。しかし、そこに旋法の問題がからむと話がややこしくなる。

単純な3種類の和音でさえ、代理和音が多く登場する。それだけでなく、 進行が複雑だから、ある調の流れでは解決しているはずなのに、別の調の流れでは解決していない、 という場面が起こる。よくわからない。(2009-06-07)

4.3 リズム

フォーレの曲に見られるリズムには、革新的と呼ばれるものはない。 しかし、後打を頻繁に使ったり、ヘミオラをちりばめたりするところでは、 リズムに気をつけなければならない。また、曲によっては、 リズムの反復で曲の聞かせどころを作っているものもある (たとえばチェロソナタ第1番第1楽章の再現部)。 (2009-06-07)

4.4 対位法

バッハを源流とする対位法は、フォーレの曲ではそれほど見られない。 特に、フーガはほとんど登場しない。登場するのは、カノンである。 それも横の流れを強調するものであり、縦の線はあまり重視されない。 しかし、曲によっては、2声から4声で厳密にかかれたものもあり、 生かすべき声部をよく考えねばならない。(2009-06-07)

4.5 綾

英語ではテクスチャーとかテクスチュアなどと呼ばれる。日本語にしにくいが、 生地との類推で、綾(あや)とか肌理(きめ)とか風合とか、そんな言葉にしておこう。 ここでは綾という言葉で、和声の旋律としての時間的な表現方法、という意味とする。

フォーレに限らず、和声の表現方法は、一度に打ち鳴らすか、分散和音にするかである。 その中間にいろいろな表現方法がある。 フォーレは、両極端だった。一度に打ち鳴らす和音を延々続ける方法と、 分散和音を多用する方法のどちらかに属する曲が多い。ただ、 他にも分類はできるだろうし、だいたい分類をして意味があるかどうかすら、わからない。(2009-06-07)

4.6 管弦楽法

フォーレの弱点に、管弦楽法(オーケストレーション、管弦楽配置ともいう)がある。 管弦楽曲のメロディーや和声で、どの楽器を割り当てるかという問題に対して、 フォーレは作業を楽しんでこそいたものの、これに割く時間は少なかった。 結果として、フォーレの管弦楽法は軽視されている。私もあまり考えてはいなかった。 しかし、思いがけない発見があるかもしれない。(2009-06-07)

4.7 形式

フォーレは、形式については無頓着だったのではないか、というのが私の仮説である。 形式を作っておけば、あとはそれに従えば曲が完成する、と考えたに違いない。 音楽における形式とは、たとえばソナタ形式だったり、三部形式だったり、 変奏曲だったり、ロンド形式だったりする。歌ならば有節歌曲である。 また、歌劇ならば示準動機がある。 しかし、徐々に自身の曲想が膨らむと、形式をはみ出してしまう。 フォーレは、形式に対してどのように向かい合っていたのだろうか。 (2009-06-07)

5. フォーレという人物

今まで音楽の面からフォーレを眺めてみたが、 案外人物の面からもフォーレという個性はおもしろいのかもしれない。 サロンの作曲家としてのフォーレは昔から認識されているし、 事実でもある。 しかし、経営者としてのフォーレはどうであったかとか、 人間関係に悩むフォーレはどう対処したかなどの観点もあるだろう。

フォーレは、出身校ではないコンセルヴァトワールの院長に就任して人員刷新や制度改革を行い、 有能な弟子を多く育てた。この理由が解明できれば、 サラリーマンの処世本のネタになるかもしれない。

サロンでモテモテのフォーレは、多くの女性から嫉妬を受けただろう。 フォーレの妻もそうだろうし、マルグリート・ロンもフォーレに嫉妬していたとされる。 おまけに、ドビュッシーをライヴァル視する一方で、 ドビュッシーの妻であるエンマと不義の子を産むということまでした。 ドビュッシーがそれを知っていたか否かについてはわかっていないのだが、 ともかく女性関係を追っていけばそれだけで一篇の小説になるではないだろうか。 (2012-06-03)

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MARUYAMA Satosi