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 森ノ宮医療学園附属診療所 院長 田中邦雄
神経症、心身症治療のはしり

紹瑾(じょうきん)という禅宗のお坊さんがおられました。鎌倉時代の後期に活躍されたお坊さんです。福井県に永平寺を建立された日本曹洞宗の太祖道元から数えて四世の法孫、号は螢山(けいざん)といい、一般には螢山禅師と呼ばれるお坊さんです。

八歳の時に越前の永平寺に入り、十三歳で得度、以後十八歳より諸国を行脚し、二十九歳の時に永平寺に戻り、後の諸嶽山総持寺を開創。その後永平寺に戻り、正中2年に示寂(死亡)されました。

 紹瑾の著書は多いのですが、そのなかでも坐禅のやりかた・心構え・考え方について書かれた『坐禅用心記』は、坐禅のノウハウを懇切丁寧に書いた本として有名です。
その『坐禅用心記』のなかに下記の文章があります。
    
  三祖大師(サン ソダイシ)且(シバラ)く名づけて心(シン)となし、
 竜樹尊者仮(リュウジュウソンジャカリ)に名づけて身と為す。

 仏性(ブッショウ)の相を現(ゲン)じ、諸仏の体を表(ヒョウ)す。
 此の円月(エンゲツ)の相は欠くること無く、余ること無し。
 即ち此心(コノシン)は便ち是れ仏なり。
 自己の光明古(イニシエ)に騰(ノボ)り、今輝き、竜樹の変相(ジョウ)を得、諸仏の三昧を成す。
 心本二相無(シンモト ニ ソウ ナ)く、身更に想像に異なり、唯心(ユイシン)と唯身(ユイシン)と異と同(ドウ)とを 説(ト)かず。心変じて身と成り、身露(アラワ)れて相分(ソウワカ)る。

平井富雄先生の訳によると、

 「中国禅の系譜を伝えた三祖大師は、それを総称的に「心」と呼び、インドの宗教哲学者、竜樹尊者は仮に「身」と名づけている。両者の説くところからは、ここにおける心とからだに合わせることができる。ともに仏陀に象徴される仏に信者は仏の心を感じ、仏の像を坐禅の本質としてみた。
すなわち諸仏の相、諸仏の身といい、異なるところはない。
それらは丸い月の形のように欠けたところがないし、余計な影もない。それが「仏」なのである。諸仏が円満にして、大虚の自由性をもつ「境地」の体験を得たのだから、「心」といい「身」といっても其の本質は同じであろう。
この心をならう人は仏になるのであり、この心はいきている仏陀と一体になるのは、坐禅を行ずることによって可能となるのであるから、たんなる想像ではなく現実なのだ。それらはともに仏性で、そこでは心は身であり、この身が体を表すとき仏性となるのである。」

となります。 

三祖大師はインドから中国に渡ってきた禅仏教の開祖、達磨から数えて、三代目にあたる三祖鑑智を指しています。西暦6世紀、唐で達磨の衣鉢を継ぎ、禅を中国に広めた二代目慧可の直弟子です。

当時の唐の国では戦乱が相次ぎ、人心の安定する状態ではありませんでした。
そういう世相に対応するかのように、心と身体の不調に悩む人々、今で言う神経症・心身症・自律神経失調症などが多かったと当時の医学書には記載されています。

この心とからだの悩みに関して、当時の東洋医学だけでは身体の変調を治せなかったようで、禅修行に病める人々の関心が集まっていました。
鑑智も当初はそのような病人の一人だったようで、自分の病気を治そうと、慧可のもとで熱心な修行を行い、修行から病身を克服し、慧可はそのことを認め、鑑智に三祖大師を継がせといいます。

 ちょうどその頃インドから、病苦を免れる秘薬として竜樹、いまでいう印度蛇木のエキスが伝えられてきました。これを飲むと、病身の人はたちまち快適になり、心の平静を保たれたといいます。

このエキスは現代の薬理学でレセルピンという薬物であるということはわかっています。
レセルピンは血圧を下げる薬であるとどうじに精神安定作用があり、現在使われているような精神安定剤が開発されるまえには精神安定剤の作用の薬はこれしかありませんでした。
いわば精神安定剤の祖先ともいえます。
 竜樹尊者がだれかは不明です。

印度蛇木のエキスを伝え、使用した不特定多数の人々の総称だという意見が有力です。
病めるからだが印度蛇木のエキスという薬で愈されうるという、現代の身体医学的の萌芽がここに認められるようです。 唐代という昔でも、インドから伝わってきた禅という精神安定方と竜樹(印度蛇木のエキス)という安定剤と使って、現在と似た方法で神経症を治していたというのは興味深いことです。      

                  
文責 大阪鍼灸学校附属診療所院長 田中邦雄






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