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 森ノ宮医療学園附属診療所  院長 田中 邦雄
「漢方の勉強方」

 
最近やっと、国立大学の医学部では富山医科薬科大学、私立大学では東京女子医大で、
正式科目として漢方医学を教えようになった。
それまでの医者、つまり現在日本で漢方治療を実践しておられる医者は全員、現代医学の
医者になってから、なんらかの理由で、あらたに漢方医学を、先輩からマンツーマンで教えて
もらって勉強した医者だという話をしました。

 現実には、みんながみんな大学で勉強できるわけではありませんので、漢方を勉強したい人
は漢方の講習会に参加する、漢方の先輩に頼み込んで弟子入りする、仲間を集めて勉強会
を開くなどの方法をとっています。

 私に最初に漢方を教えてくださったのは、聖光園細野診療所の現院長の細野完爾先生
ですが、この細野先生のお父さんは細野史朗先生(義兄が大灸専門学校付属診療所の
現理事長の坂口弘先生)、この細野史朗先生の師匠が新妻荘五郎先生、その師匠が
浅田宗伯先生と、ここに京都の折衷派の、いわば系統図が出来上がります。

 私のもう一人の師匠である三谷和合先生の方をたどってみますと、三谷先生の師匠は
森田幸門先生、中野康章先生、その師匠がやはり浅田宗伯先生。

 東京の北里東洋医学研究所の先生方の師匠は大塚敬節、その師匠が湯本求真、その
師匠が尾台榕堂となります。

 富山医科薬科大学の東洋医学研究所の寺澤捷年教授の師匠は藤平健、その師匠は
奥田謙蔵先生とつながります。

 ここに名前を挙げた医者は、浅田宗伯、尾台榕堂先生以外は、本来は現代医学の医者です。
つまり現代医学の医師国家試験を受けてから何らかの理由で漢方医学を勉強した方々です。
大体の漢方医は系統図が書けるのです。

 漢方医学の教育講演会などの後、ときどき、漢方医学をどうやって勉強したらいいのかという
質問を受けます。そういう質問の回答になればということで、私の場合、何故漢方薬というもの
に注目しどんな方法で勉強したか、自伝的に書くことにします。


 私の医者としての出発点は精神神経科です。精神神経科の駆け出しの医者として大学病院
に勤務していたときに、精神安定剤(マイナー・トランキライザー)の禁断症状の患者が多発した
ことがありました。
それも精神科で投与したのではなく、他の科で投与され、「おかしくなった」からと精神科に
紹介された患者群です。「あんたが安易に安定剤を投与したから、患者が禁断症状を起こした」
と投与した医者に説明しても蛙の面に小便で、まったく理解・反省が得られませんでした。
そこで、精神安定剤(マイナー・トランキライザー)をできるだけ使わずに治療できる方法がない
ものかと考えるようになりました。これが漢方に注目した理由の一つです。

 さらに、その時、以前読んだ精神科の教科書に「漢方医学の”証”という考えが精神科の
思考法に類似している」という指摘があったことを思い出しました。で、自分の精神科医としての
経験を加味してこの本を読み返し、なるほどと納得しました。

 精神科主要疾患である精神分裂病、躁鬱病、神経症は、採血検査、脳波、CT,MRIなどの
臨床検査は正常というのが大前提です。つまり精神科では現在医学が最も得意とする
臨床検査がまったく役に立たないのです。
医者は患者の感情とか思考とか行動とかを形而上学的に自分の経験をたよりに病態を把握し、
病気を診断し、治療しなければなりません。

 一方漢方医学では気・血・水、或いは三陰三陽、陰陽虚実など患者の病態をを形而上学的
にとらえて”証”を決定し治療します。この精神医学と漢方医学の思考形式に多くの類似点が
あるのではと考えました。

 形而上学的な病態把握は思考の訓練をするしかありません。つまり、漢方医学を学ぶことで
精神科の診断・診療能力がたかまるのではと考えたのがもう一つの理由です。

 では、どうやって勉強したのでしょう。 私の場合、精神科医局の先輩に現聖光園細野
診療所の細野完爾先生の同級生がおられ、漢方を勉強したいのなら細野先生を紹介してやる
(”漢方なんて!”と言わないのが、さすが精神科医と思いますが)ということで、細野先生の
元に勉強に通うことになりました。

 といっても大学に勤務していましたので、週一回、大学の勤務がフリーになる時間に細野診療
所へ通うという方法です。診療所では診察室で細野先生の診察を見学し、脉診、腹診、
それに伴う”証”の決定方法、そこにいくまでの思考過程、処方名などをマン・ツー・マンで
教えていただきました。

 漢方的な考えは、最初に行ったときに、当時細野診療所におられた長瀬千秋先生に一時間
ほどレクチャーをうけただけでしたから何がなんだかわからず、診察の間はとりあえず気付いた
こと、先生の言動、カルテの記載などをメモして、後でいろいろな本をひっくり返して自分で
納得するという状況でした。

その内、細野先生の思考パターンが分かってきました。ああ、こういう訴えのこういう患者なら
こういう薬を出されるなということが、患者を見ただけである程度推測できるようになりました。
私にとって、このような教わり方は、その時に大学で訓練を受けていた精神神経科と教授法と
同じやり方なので、違和感はまったくありませんでした。

 その後、西洋医学の方は、精神科の専門医(昔は精神鑑定医、今は精神衛生指導医と
いいます)になったのを機会に、今度は内科の勉強をしようということで精神科教室を辞し、
同じ大学の内科教室に入局しました。もっとも勤務先は大学ではなく某私立病院です。
こんどは現代医学の内科学を勉強しながら、漢方医学の勉強を細野診療所でし続けることに
なります。細野診療所には都合10年ほど通いました。

 その後、本腰を入れて漢方の勉強をしないかと言われて私立病院(内科医長の了解の元、
ここで漢方外来を開いていたのですが)を辞し、もう一人の師匠になる三谷和合先生の元で
勉強することになります。

 三谷先生の診療を見ていて分かったことは、同じ漢方といっても、細野先生と三谷先生を
比較しますと、その考え、診察法など、両先生の性格の問題もあるとは思いますが、基本は
一緒ですが、表面上はまったく違うということです。

 「漢方は分からない」ということを言う方もおられますが、精神科の医者としての立場から言い
ますと、今の日本にある大学の精神科の中で「分裂病など存在しない」と公然と言っている大学
があるくらいですから、形而上学を基礎においた学問では違いは当たり前で、まったく一緒で
あるのが奇妙ではないかと思います。

 医学は検査などの客観的な結果データを元に診断・治療を組み立てるべきだで、主観的な
ものは排除すべきだという主張の医師は多くおられます。そう言う先生には、「ならば先生は
精神科という、検査などの客観的な結果データがまったく手に入らないでも治療をしている
(せざるをえない)科を認めないおつもりですか」とうかがいたいのです。

 精神科の診断の一致率の調査があります。方法は、何人かの患者に予め決められた質問
をして、その質問時の態度、質問の答え方、答えをビデオテープに収録し、収録したテープを
全国の精神科の医師に送り、テープを見ただけでどのような診断を下すかという調査です。
診断の一致率は70〜80%くらいだったと覚えています。このことは、形而上学的とはいえ、決
められたパターンが分かってば、そのパターンに則して同じ答えを出すことが、人間にはできる
ことを示しています。同じことが漢方医学にも言えるのではないでしょうか。

 もっとも形而上学的に物事を捉えるということが不得意な人、つまり曖昧模糊とした状況をその
まま曖昧模糊としてボンヤリとした状況のままで全体を捉えるという認識ができず、分析して数字
で出てくる事実でしか物を認識できないような人には漢方は向かないかもしれません。

 それはともかく、 結局、その後、漢方診療を中心とする大阪鍼灸専門学校付属診療所の
初代の院長、長瀬千秋先生が退職された後をうけ、当診療所の院長ということになりました。

 院長になって困ったことの一つに、漢方医学を教えて欲しいという方がおられることです。
特に漢方の講演会の依頼です。長瀬先生が引き受けられていた講習会の講師の仕事が私の
方に回ってきたということです。

 教えるといっても、私自身、「こういう病気・病態はこう考え、こういう証をとりなさい、○○湯を
使いなさい」と教えてもらったのです。理論は自分であちこちの本を読んだだけで、系統的に
教えていただいたわけではありません。自然に泳ぎ方が身に付いた者が、泳ぎ方を理論的に
説明・解説せよと言われたようなものです。

 ともかく理論を勉強することにしました。となると、最初に実践を知っているので、漢方医学から
中医学まで色々な理論の中でも奇妙なもの、マカ不思議なもの、臨床の現実にそぐわない
理論は無視することになります。おのずから私の頭の中の漢方理論は、私の経験に裏打ち
されたものという傾向が出てきます。

 人間の記憶は海馬という脳の部分に収められているとされます。古い記憶ほど記憶のツボの
底にあり、無意識に近いものになります。意識はつねに無意識の影響を受けます。新しい物事
に反応するときに自分では意識されないような影響をより古い記憶から受けるとされます。
一つの新しい出来事に純粋に、無意識の影響なく反応するということは人間には出来ないの
です。

 最初に理論から入ると理論が記憶の底になりますから、目の前の出来事を最初から理論と
いう色メガネでみてしまい、真実を見落とす可能性もありますし、融通性もなくなります。
そうなっていないか、自分を常に第三者的に見つめる努力がかかせないと思います。自分自身
を第三者の目でみることができない人は、理論に固執した偏執狂になってしまう危険があります。

 私自身の考えは、治ればいい、患者さんの期待にそって良くなればいいのであって、いくら
論理整然としていても実際の臨床で治せない理論、理解に苦しむ理論は、自分がその理論が
理解できるまでに習熟していないという考えもあるでしょうが、逆に、理解できないのは自分の
せいではなくその理論が間違っている可能性もあるのではないかと思うことにしています。

 漢方医学は非理論的で分からない、その点中医学は理論的だとおっしゃる方が時におられ
ます。弁証弁証で病気を解析する中医学は、検査・検査で病気を解析する現代医学の中で
精神科以外の科と類似しているように思います。つまり、検査・検査の現代医学の病態のとらえ
方に無意識を汚染された医者が中医学の弁証弁証を検査・検査に代替えして、中医学は分
かりやすいというだけではないかと思います。

 私が中医学で分からないのは方剤の決定に際しての方法です。つまり、弁証と実際の治療
(投薬)との関連です。病態を決めるために行う弁証、これはそれなりに、こう考えればこういう
弁証(結論)に行き着くということは分かります。しかし、いくら弁証をして病態(例えば肝火上炎
でも、肝風内動)が決まっても、最終的に治療するに際しては方剤を決めなければなりません。
その弁証にそっての方剤を決める際の方法が理解できません。

 漢方医学は診察して証を決め、「証=方剤」という考えをしています。つまり病態決定
(診断)=○○湯なのです。中医学を考えてみますと病態から弁証し、決定した弁証にはこれ
これの生薬、あるいは○○湯を使うと決まっている、つまり、二枚の方眼紙があり、各々の横を
1、2、3・・・、縦をA、B,C・・・・ とし、まず弁証で病態を一枚目の方眼紙の当てはまる場所、
例えば”一のA”であると決め、二枚目の方眼紙(これには一のAなら○○湯、一のBなら
××散と予め記載してあります)の”一のA”の項を見て、そこに書いてある○○湯の投薬と
決定する。私は中医学はこんなもんではないかと思っています。中医学の弁証の結果(例えば
肝火上炎でも、肝風内動でもなんでもいいのですが)をとってしまえば、漢方となんら変わら
ないのではないでしょうか。中医学は弁証をするだけ(誤解されるのを承知でいうなら)無駄に
言葉遊びをしているのではないかという見方は間違っているのでしょうか。この考えは、当院に
勤務していた中医学を学んだという先生の診察のやり方を観察して得た結論です。

 当院ではここ数年患者さんに、あなたにはどんな薬を投与しているのかを手紙で渡すように
決め、彼にも書いてもらっていました。彼が記載したそれを見ていきますと最初のうちは弁証の
結果、たとえば「肝風内動を治す薬」という書き方だったのですが、その内に煎じ薬の説明が
「○○湯加減」という書き方になりました。
これは、彼の思考パターンは、
  1)弁証をして、
  2)弁証結果と○○湯という方剤を結びつけ、
  3)それから必要に応じて○○湯の加減方にするのだと考えられます。

これが中医学のやりかたなら中医学というのは今までクドクドと述べてきたことになるのではない
かと思います。

 だいたい人間の頭は△△という病態に△△湯というパターンを関連させる認識は得意ですが、
患者さんを目の前にして次々と一人一人の患者さんに生薬を一から構成して方剤を次々と
つくれるような構造にはなっていません。(中国の清の時代の皇帝が毎日どのような薬を飲んだ
のかの処方箋が今も残っています。この処方箋の邦訳もあります。皇帝の主治医のように
毎日一人だけを診れば医者の仕事がことたるというのなら処方を一から構成するのも可能かも
しれませんが・・・)
一番の問題は弁証が正しいかではなく、弁証の結果決めた治療で患者が治るか治らないか
でしょう。

 医学だけでなく科学全体においていえることですが、科学は法則を見つけることを一つの
目標としています。法則とはこの自然の中にある一定の規則です。同じ経験を何回も何回も
積み重ねることにより人間は今までこの自然法則を見つけてきました。その法則とは、ニュートン
の万有引力の法則でも、アインシュタインの相対性理論でも、誰にでもわかる非常に単純なもの
です。難しすぎる法則は間違っている可能性があると思っています。難しすぎる理論は理論の
ための理論になってしまっていて、真実を突き詰める理論になっていないことが多いのではない
でしょうか。

 漢方医学の病気のとらえ方には古方、後世方、折衷派があり、その基礎は陰陽学説、五行
学説があります。これは古方中医学も同様です。

 漢方医学はダメだ、中医学は治らない・・・。色々な意見が巷にあります。 しかし、真実(病態)
は一つで、それをいろいろな角度から見ているだけだと思います。現在医学の検査でも、病態
のある側面を捉えているだけで、事実を丸ごと伝えているわけではありません。同じ病態を古方
ではこう見る、後世方では、折衷派では、中医学では、現代医学では・・・。とメガネを変えて見
ている(診ている)だけではないかと思います。

 どれも病態の本質をとらえているのではなく、漢方医学にしても中医学にしても現代医学に
しても、いわば「盲人の象の観察」の状況だと思います。その中で、どの見方(診方)を採用して
治療するかを決めるのは医者の臨床能力になるのではないでしょうか。そのことがわからず、
私は○○医学を学んだのだからとその○○医学にだけ固執するのは思考が動脈硬化を起こ
しているといえないでしょうか。
漢方医学の歴史の所に述べましたが、曲直瀬道三は患者を治すためなら学んだ伝統医学
(曲直瀬道三ですから田代三喜から学んだ明の医学)だけでなく南蛮医学を学ぶために
カトリックに改宗までしました。後藤艮山、中神琴渓などは効くものなら薬以外にも、温泉、
クマノイなどの民間薬、灸治療など、何でも使いました。このような諸先輩の姿を見習って
もらいたいと思います。

 私の尊敬する人に秋山真好という人がいます。日露戦争の時、日本海海戦で東郷平八郎
長官の元にいた参謀です。日本がバルチック艦隊を全滅させた日本海海戦の戦略を一人で
たててた人です。
その方の言葉に、戦術を立てる際の勉強法として「あらゆる戦術書を詠み、万巻の戦史を読
めば、諸原理、諸原則はおのずからひきだされてくる。みなが個々に自分の戦術をうちたてよ。
戦術は借りものではいざというときに応用がきかない」というのがあります。

 一つの医説に固着するということは頭が化石になること、その医説のコピーマシンになること
でしかありません。医説はあくま”説”であって、抽象的・形而上学的なものです。それを採用
することで望む臨床効果が本当に得られるのか、それを常に第三者的な眼で見なけれんば
ならないと思います。医説を自分の中で取捨選択し、自分の医説を新しく構築するくらいの
目標をもって各個人が努力をするべきです。こういった心構えを持たず、こういった努力を
しない人はマクドナルドの店でマニュアル通りに話し、マニュアル通りの笑顔を振りまく店員と
何等変わるところのないマニュアル人間でしかないと思います。

 現在の日本には現代医学が主流です。漢方医学は残念ながらマイナーな存在です。しかし
現代医学が万能ではありません。同様に漢方医学も万能ではありません。現代医学と漢方医学
はお互いの実力を認め合い、お互いの足らないところを補うことによって、さらに一歩進んだ
医学が構築できるのではないかと思います。したがって、漢方、漢方といっても常に現代医学を
勉強し、取り入れるべきところは取り入れる努力を欠かしてはいけません。ただし現代医学を
取り入れるといっても無批判に取り入れるのではなく、自分の考えを持って取捨選択すべきで
しょう。(例えば、私自身は臓器移植には反対ですし、今の高脂血症の治療の考えには疑問を
持っています)

 少し話がそれたので、元に戻します。
漢方を勉強し始めた時に困ったのは、現代医学の医者としてもなりたてで、専門の精神神経科
の研修をせねばならず、かといって漢方も勉強せねばならずということです。”二兎追う者は
一兎も追えず”にならないように用心しなければなりませんでした。

 そこで漢方の勉強には、当時やっと個人の手で買える値段になったコンピューターを使用する
ことにしました。といっても昭和53年頃です。現在のような高性能のコンピューターはありません。
いまから思えば玩具のような性能です。使えるOSはBASIC、日本語はカタカナが辛うじて使え
るといった程度のものでした。勿論漢字などは使えません。
記憶装置はフロッピーデイスクでなく、カセットテープでした。よく読み取りエラーが出て
データーが吹っ飛んで泣かされました。

そんな、コンピューターでも使おうとしたのは、徐々に集約する漢方医学の情報を検索・分析
しようとしたためです。たとえば、風邪にどのような処方を使うのか、実証用・虚証用の方剤の
分類など。まず、コンピューターで診断するソフトを作って、実際の臨床に使おうと計画しました。
たとえば、「風邪」と入力すると葛根湯、桂枝湯・・・・と風邪に使う処方が出て、その処方の虚実
分類が一目でわかるようにしました。

ところがそのソフトが完成した時、ソフトの内容が全部頭に記憶されていることに気がつきました。
私は記憶するときにはいつもノートを取ることを習慣にしています。どうやらコンピューターに入力
するのもノートを取るのも同じように脳の記憶に繋がるようです。それなら麻黄の入っている方剤
にどのようなものがあるのか、その文献は・・・等などの資料も入力したら良いのではないかと考
え、自分の勉強したり臨床から学んだことをコンピューターというノートに分類して記載し、蓄積
することにしたのです。以後、漢方のデーターはどんどん蓄積されていきました。

 「継続こそ力なり」といいますが。現在の手元にあるデーターベースには、方剤、構成生薬、
その方剤を過去に使用して有効との記載のある疾患、その方剤の出典内容等々(傷寒論、
万病回春、方読弁解、衆方規矩、類聚方広義、薬誤方函口訣・・・・)が検索でき、方剤数で
1453処方が入っています。普段は使いませんが、難しい患者が来たときはこのデーターベース
から疾患別の方剤選択、使いたい生薬構成からの方剤の選択、それらから導き出した方剤に
関する文献参照などを、診察中に一瞬の内にこなして方剤を決めることができます。

 日本漢方の得意技の一つは口訣を参考にする方剤決定ですが、私のコンピューターの方式
は究極の口訣選択方といっていいかと思っています。

 その後、針灸の経穴・経絡、その部位、使用法、適応症などを、日本針灸と中国針灸で少し
違うので、両方とも入力しました。ある病態、たとえば「肩こり」と入力すると、使用する経穴、
併用すべき経穴などが検索できます。

 漢方をするからには生薬の知識も必用です。そこで李治珍の本草綱目、吉益東洞の薬徴、
重校薬徴、古方雑誌・・・・、色々な文献から生薬の説明を入力しました。現在生薬のデータ
ベースには334の生薬が入っています。

 結果として、コンピューターに色々なデーターを自分で入力する(この自分でするということが
重要です。データーを買ってきたり、他人のをもらうようでは何にもなりません)ことで、前述の秋
山真之参謀の「あらゆる戦術書を詠み、万巻の戦史を読めば、諸原理、諸原則はおのずから
ひきだされてくる。みなが個々に自分の戦術をうちたてよ。戦術は借りものではいざというときに
応用がきかない」という教えを実践 したのではないかと思います。
 
 コンピューターがなければ、私は漢方を勉強できなかったともいえます。 これだけのデーター
を見ながら、断片的な知識を頭の中でいじくっていますと自分なりの疾病感、自分なりの医学が
なんとなく仕上がっていくように思います。それを患者に応用することで、ますます自分の医学が
出来上がっていきます。

 これが私個人の今までの、またこれからも続けていく勉強法です。

 最後に最近、漢方薬を使われる先生に対する疑問を述べて終わります。
医学は”学”ではなく”術”であるとよく言われます。 学問としての医学を否定するわけでは
ありませんが、顕微鏡を見たり、試験管を振ったりするのを”学”とするなら、臨床は”術”の要素
が多くあり、実際の臨床には”術”の要素が重要になります。治療者は、個別に全く別な患者を
診ているですから、いままでの知識、目の前の患者、その患者に施行した治療の反応などの
経験は皆別々なはずです。その経験を集大成したのが医”術”で、その医術の説明を助けるの
が医”学”だと思います。

 近年、”学”がクローズアップされ、”術”が軽視されがちですが、治療の場で重要なのは”術”
であり、その”術”を公開して皆の知識として活用する努力が今一番大切なのではないでしょうか。
”学”はマニュアルさえあれば勉強できますが、”術”は目の前のノウハウを吸収しなければなりま
せんし、それを試みてコツを身につけなければなりません。時間がかかります。しかし、それが
できなければ臨床ができません。医師国家試験に受かって医師免許をもらったといっても、
それから何年も臨床の研修を積まなければ臨床医にはなれなせん。論文をいくら書いても、
いくら著書があっても臨床経験に乏しければ、研究機関では偉くなれても臨床医としては使い
者にならないことは誰でもご存じのはずです。いくら内科学の本を読んで知識を持っていても、
臨床の場で百戦錬磨しなければ臨床のできえる内科医にはなれません。内科の医者が、今日
から私は婦人科になると宣言しても誰も相手にしないはずです。
このことは誰でも知っているはずです。

 漢方医学は身体の概念、病気の見方からして現代医学と違います。つまり、現代医学の常識
が詰め込まれた頭をいったん空にして学ばねば頭には入りません。まして、臨床となると実際に
現場をみて、そこで学んだことを患者に施行してみてその結果をフイードバックするということを
繰り返さないと実際のところは分かりません。

 なのに、何故、多くの方が漢方医学の臨床を研修せず、本を読んだだけで漢方医学が分かる
と考えられるのか、私には不思議でなりません。


                 文責     田中 邦雄




 


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