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 森ノ宮医療学園附属診療所  院長 田中 邦雄
「漢方医学の歴史」

 
伝統医学は、どのような社会にもあるものです。現代医学はヨーロッパで主に発達した医学
ですが、そのヨーロッパでさえもハーブ療法と称される、ヨーロッパで採取できる薬草を組み
合わせて煎じて飲むことを主体とした伝統医学が、主に修道院を中心として今でも生きづい
ています。
 
 漢方医学は日本の伝統医学の呼称ですが、そのルーツは昔の中国の医学に求められます。
漢方医学の歴史は中国医学の中から日本に合うもの合わないものを取捨選択し、日本で手
に入れられる生薬による処方の開発などをしながら独自に発展させてきたかの歴史でもあり
ます。

 日本には、縄文時代からでも医学はあったはずです。これを日本古来の経験医学とします。
縄文時代から弥生時代に移り、そののちに大和朝廷が日本を統一して飛鳥・奈良時代になり
ます。このころになりますと日本のお隣、当時の世界の中で最先端の文化を誇った中国から
文化を輸入するようになります。

中国からの文化の影響で701年に作られた大宝律令という法律では、早くも医療制度が法律
化され、典薬寮(てんやくりょう)という医療機関、今で言う国立病院が定められ、この中では
医療にたずさわる者が学ぶべき内容が定められていました。

 何回かの難破のために盲目になる苦労をしてまで日本に渡られ、奈良の都に唐招提寺を
立てられた鑑真和尚(がんじんわじょう)、この方はお坊さんであると同時に医者でもありました。
昔はお坊さんが医者を兼ねるのがあたりまえだったのです。

そんなわけで鑑真和尚は仏教と同時に、当時の最先端の中国の医学を、生薬と倶に日本に
持ってこられました。現在、唐招提寺では僧侶でなく、医師としての鑑真和尚の威徳(いとく)
をしのぼうと、和尚が中国から持ってこられた薬草の植物園を作ろうと計画中です。

そういえば奈良の東大寺に正倉院という聖武天皇・光明皇后の使われた遺品を保存してある
建物がありますが、その遺品の中には漢方薬もいくつか含まれています。太平洋戦争が終
わった直後と、最近の二回にわたって生薬学者の手でこの漢方薬は調査されました。その
おかげで千何百年も前の医学書に書いてある漢方薬と、今私たちが使用している漢方薬が
同じものであることが分かりました。また保存されている薬の中でも大黄という薬などは薬効が
衰えておらず、今でも十分に使用可能だそうです。ずいぶん長持ちするものです。

 このように日本は当時の中国、随・唐から膨大な文化を輸入しました。その中には医学も多数
ありました。しかし天神さん、菅原道真によって遣唐使が廃止され、その後室町時代まで中国の
文化は本でしか日本に入ってこなくなりました。遣唐使の廃止以後の、中国との人的交流の
無くなった平安時代に日本独自の文化が作られてとされています。
 
 医学の面では、遣唐使の廃止にともなって中国からの文化の流入が途絶えた後、それまでに
伝わったていた中国の医学と縄文時代からめんめんと伝えられた日本の経験医学を取捨選択し
、丹波康頼(たんばやすより)という医者が「医心方(いしんぽう)」という医書を書きました。
日本に現存する最古の医書で、中国にはもやは現存しない中国伝統医学の文献も多数載っ
ています。

 中国は焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)の国ですから、今では昔の医学書はほとんど残っていませ
ん。日本は反対に、何でも残すという習性があるようです。この「医心方」だけではく、日本には
現在の中国では消滅した医学書が多数残っています。その結果、現代の中国では、昔の中国
の伝統医学の研究をする学者は誰でも、日本に残っている「医心方」を初めとする医学書を読ま
ねばならないという皮肉な結果になっています。

 遣唐使以後の平安時代・鎌倉時代は中国との人的な交流はなく、もっぱら輸入される本に
よっての交流が続きました。もっとも鎌倉時代には元寇(げんこう)といって中国(元)が日本に
攻めてきたのですから人的交流が無かったのも当然かもしれません。

 日本が鎌倉時代から室町、足利将軍の時代になり、中国では元が滅び明の時代になると、
再び人的交流が盛んになります。京都の金閣寺を建てた足利義満などは室町幕府公認の
朱印船貿易で巨万の富を築き、明の皇帝から日本国王の称号をもらって喜んでいた時代です。

残念ながら唐招提寺の鑑真和尚(がんじんわじょう)のように日本に渡ってきてくれる医者はいま
せんでしたが、反対に日本から中国に留学する者も出てきました。

 そのころの日本の医学は、それまでの医学と、明から輸入される本と、明に留学した者が持っ
て返った知識のかき集めでした。

 室町時代の終わりに田代三喜(たしろさんき)という医者が明に留学し、当時の明の医学を持ち
帰りました。その田代三喜に弟子入りした曲直瀬道三(まなせどうさん)という医者がいました。
曲直瀬道三は、1545年に京都で開業しただけではなく、いまでいう私立医大を設立し、弟子
の育成にあたります。中国の医書を参考にし、今までの自分の経験見識を「啓迪集(けいてき
しゅう)」という医書にまとめあげています。この「啓迪集」という本で日本の医学は、それまでの
経験主義から脱皮し、系統だった医学になったされています。曲直瀬道三は医者としては
太閤さん、豊臣秀吉の主治医だったことで有名ですが、医者だけではなく、話術・書・茶・香道
などに一流の見識を示し、当時ヨーロッパから来日し始めた南蛮人(スペイン人、ポルトガル人)
の医学、いわゆる南蛮医学を修得しようとしてカトリックに改宗したくらい行動力、好奇心の
旺盛な人だったようです。

 彼の医学は後に弟子によって広められ、現在は”後世方医学(ごせいほういがく)”と呼ばれ
ています。後世方医学は江戸時代の中期までは日本の医学に主流になっていました。

 当時は医学部はありません。医学書を一冊手に入れて「今日からおれは医者になった」と
言ったら医者になれた時代です。もっとも、そんな医者に患者が来たかどうかは別ですが・・・。

 江戸文化が発達するにつれ印刷技術の発達から医療に関するノウハウ本が増えて、このよう
な本を読んだだけの医者が増え、その結果、医者の平均的レベルの低下が目立ってきました。
また曲直瀬道三の弟子たちがとなえた後世方医学があまりにも理屈っぽすぎる、卓上空論で
治らない、医者は弁が立っても治療ができないとなどという医療に対する批判が出てきまそた。

 そこで、現在の漢方医学のバイブルとも言われている「傷寒論(しょうかんろん)」「金匱要略
(きんきようりゃく)」という、後漢の時代(西暦3世紀初頭)に呉の国の太守(今で言う県知事)
をしていた張仲景(ちょうちゅうけい)によって書かれたとされる書物が注目されました。

この書物には難しい理論より、実際の病気とその治療法が書かれている本です。それまでの
理論・理論で押し通す後世方医学に比べると、傷寒論に書かれているのは、この病気なら
この薬、この状態ならこの薬という非常に分かりやすい治療法でした。この傷寒論にそっての
医学を押し進めた代表的な医者が、広島出身で、京都で開業していた吉益東洞(よします
とうどう)という医者です。

 この傷寒論・金匱要略の考え治療を基礎とした医学を”古方医学(こほういがく)”と呼びます。
もっともこの吉益先生はかなりの偏屈で、世間では認められず、したがって医者だけではとても
食えず、人形作りをして糊口をしのいでいたのを和田東郭(わだとうかく)という当時の名医に
認められて世に出たとのエピソードをもっています。


 古方医学(こほういがく)の巨頭、吉益東洞(よしますとうどう)先生の後、医学を指導する
立場にあった医者には、後世方医学(ごせいほういがく)も古方医学も学び、両方の医学を
経験に基づいて自らの見識で使い分けるという態度をとる医者が増えてきました。
和田東郭(わだとうかく)、原南陽(はらなんよう)、有持桂里(ありもちけいり)、津田玄仙
(つだげんせん)、中神琴渓(なかがみきんけい)などの医者です。
この考えを、ケース・バイ・ケースで理論を使い分けようとするわけですから、ずるいといえば
ずるいのですが、折衷派医学(せっちゅうはいがく)と呼びます。

 その内、江戸の後期になりますと、蘭学と呼ばれたオランダの学問が入ってきました。オランダ
医学は蘭方医学といいます。よく国語の教科書に出てくる、蘭学事始めに出てきます、苦労
してオランダの初級解剖学書”ターヘルアナトミアを「解体新書」として訳した杉田玄白(すぎた
げんぱく)などはこの代表です。

 その内、漢方医学の医者の中には蘭学と漢方を折衷しようという努力をする医者が現れます。
有吉佐和子の小説「華岡青洲の妻」で有名になった和歌山の華岡青洲はその代表です。
華岡青洲は世界で初めて全身麻酔をした医者として日本より外国で有名で、ドイツのハイデル
ベルグ大学医学部の教室には華岡青洲の肖像画がかかっていましたし、世界中の麻酔科の
教科書の冒頭には必ず彼の名前が出てきます。

 江戸から明治にかけて活躍した医者には古方医学の尾台榕堂(おだいようどう)、折衷派
医学の浅田宗伯(あさだそうはく)がいます。

 明治時代にはいってから各地に医学部や医学専門学校が設置され、国が定めたこれらの
教育機関で西洋医学を修得し、国家試験に受からなければ医者になれない、つまり漢方医学
をいくら勉強しても医者になれないという法律ができました。前述の浅田宗伯先生などが中心
になって全国的に反対運動を展開したのですが、明治28年の第8回帝国会議で、漢方の
存在を求める嘆願書が否決され、漢方医学は、効く効かないという問題ではなく、富国強兵
という時の政府の方針に合わないということから政治的に葬り去られました。

いま幸いにも漢方医学が存続しているのは、つい最近までほそぼそと漢方の火を灯して
こられた我々の諸先輩のおかげということになります。

 ちなみに現代の日本の漢方医学は種々の派があり、漢方の医者はどの派に属するかは、
数も少ないこともあって、一目瞭然です。

例えば:
 古方:
    尾台榕堂 → 湯本求真 → 大塚敬節
    奥田謙蔵 → 藤平健、小倉重成
 折衷派:
    浅田宗伯 → 新妻荘五郎 → 細野史郎 → 中野鴻章  → 森田幸門
 一貫堂 :
    森道伯  → 矢数道明

 漢方医学を教える公的な医療教育機関も、つい最近まではまったくありませんでした。現在の
時点(平成10年)では、国立大学では富山医科薬科大学、私立大学では東京女子医大、
北里医科大学、近畿大学医学部に漢方研究所はあります。最近は慶応大学医学部にもでき
ました。
 しかし医学生に少しでも正式教科として漢方医学を教えている(試験をし、落第もさせる)のは
富山医科薬科大学と東京女子医大だけというのが現状です。

 今の日本で漢方治療を実践しておられるお医者さんは全員、普通の医者になってから、
なんらかの理由で、あらたに漢方医学を勉強した人です。ですからその先生方は、当然
現代医学の知識を頭に入れた上で漢方治療を実践しているのです。

 この点が、中華人民共和国、中華民国、韓国、などのように伝統医学(中国では中医学、
韓国では韓医学といいます)を教育する学校と現代医学を教育するする学校が別にあり、
医者も伝統医学の医者と現代医学の医者が別にあり、両方の治療は同時には受けられない
国と日本の漢方医学との伝統医学事情の違いです。

 最近の日本の伝統医学の情況は、現代の中華人民共和国で行われている伝統医学
(いわゆる中医学、1950年に教科書「中医学概論」完成。古いようで、中医学はつい最近
できた新しい医学です。)が輸入されてきて、種々の考えが交錯するようになる、さらに
ややこしくなってきています。
 
現在の日本の伝統医学(漢方医学)の世界には、古方医学派・折衷派医学派・一貫堂医学が
あり、そこに新たに中医学が入ってきたという形になるようです。
もっとも、中医学は、日本漢方の流派でいえば後世方に最も近いということができます。


                   文責 田中邦雄




 


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